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紀元二千六百年記念行事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
皇紀2600年から転送)
1940年(昭和15年)11月11日
紀元二千六百年記念式典会場

紀元二千六百年記念行事(きげんにせんろっぴゃくねんきねんぎょうじ)とは、1940年昭和15年)に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った一連の行事を指す。本項目では記念行事に記念事業も加えて記述する。

概要

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1940年(昭和15年)が神武天皇即位してから2600年に当たることから、日本政府1935年(昭和10年)10月1日に当時の内閣総理大臣岡田啓介岡田内閣)を会長とする「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ[1][2]橿原神宮陵墓の整備などの記念行事を計画・推進した。この準備委員会は、のちに阪谷芳郎を委員長とする「紀元二千六百年祝典評議委員会」が設置されると廃止された[3][4]。また、内閣に設けられた「内閣紀元二千六百年祝典事務局」の局長には飯沼一省[5]、のちに歌田千勝が就いた[6]

1937年(昭和12年)4月24日、内閣総理大臣官邸において「紀元二千六百年奉祝会」創立委員会が開催され、紀元二千六百年奉祝会会則を決定[7][8]。同年7月1日に「紀元二千六百年奉祝會設立及監督規程」(昭和12年閣令第3号)が公布され[9]、同年7月7日に財団法人「紀元二千六百年奉祝会」(総裁:秩父宮雍仁親王、総裁代理:高松宮宣仁親王、副総裁:内閣総理大臣近衛文麿、会長:徳川宗家第16代当主徳川家達)が設立された[8]

1940年(昭和15年)には、年初の橿原神宮の初詣ラジオ中継に始まり、紀元節2月11日、現在の建国記念の日)には全国11万もの神社において大祭が行われ、展覧会体育大会など様々な記念行事が外地を含む全国各地で催された。橿原神宮の整備には全国の修学旅行生を含め121万人が勤労奉仕し、外地神社である北京神社、南洋神社パラオ)、建国神廟満洲国)などの海外神社もこの年に建立され、神道の海外進出が促進された[10]。また、同年11月9日に内務省神社局が昇格して神祇院が設置されたほか[11]、研究・教育機関では神宮皇學館旧制専門学校から旧制大学に昇格した[12]

1940年(昭和15年)11月10日宮城前広場において昭和天皇香淳皇后出御の下、内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催された。11月14日まで関連行事が繰り広げられて国民の祝賀ムードは最高潮に達した。また、式典に合わせて「皇紀2600年奉祝曲」が作曲された。

長引く戦争による物資不足を反映して、参加者への接待も簡素化され、また行事終了後に一斉に貼られた大政翼賛会ポスターに書かれた「祝ひ 終つた さあ働かう!」(祝い 終わった さあ働こう!)の標語の如く、これを境に再び引き締めに転じ、その後戦時下の国民生活はさらに厳しさを増していくことになる。

紀元二千六百年式典

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江戸東京たてもの園ビジターセンター(旧光華殿)
2007年(平成19年)8月12日

内閣主催の「紀元二千六百年式典」が1940年(昭和15年)11月10日に、昭和天皇香淳皇后出御の下、宮城外苑で挙行された。式典のために寝殿造の会場(光華殿[注 1])が設営された。式次第は下記の通り。

紀元二千六百年式典ニ方リ賜ハリタル勅語(昭和15年11月10日)
茲ニ紀元二千六百年ニ膺リ百僚衆庶相會シ之レカ慶祝󠄀ノ典ヲ擧ケ以テ肇󠄁國ノ精󠄀神󠄀ヲ昂揚セントスルハ朕󠄂深ク焉レヲ嘉尙ス
今ヤ世局ノ激變ハ實ニ國運󠄁隆󠄁替ノ由リテ以テ判󠄁カルル所󠄁ナリ
爾臣民其レ克ク嚮ニ降󠄁タシヽ宣諭󠄀ノ趣旨ヲ體シ我カ惟神󠄀ノ大道󠄁ヲ中外ニ顯揚シ以テ人類󠄀ノ福󠄁祉󠄁ト萬邦󠄁ノ協和トニ寄與スルアランコトヲ期セヨ

この模様は日本放送協会(現在のNHKラジオ第1放送)によりラジオで実況中継された[注 2]が、天皇が勅語を読み上げる箇所は放送が中断された。これは、ラジオの聴取者がどのような姿勢・体勢で放送を聴いているかが分からないため、不敬とされる状況が生じるのを避ける不敬罪で取り締まる事も出来ない)ための措置であった。天皇の玉音(肉声)が正式なプログラムとして初めてラジオで放送され、国民が天皇の肉声を聞くのは5年後の1945年(昭和20年)8月15日ポツダム宣言受諾を伝える玉音放送である。

紀元二千六百年奉祝会
1940年(昭和15年)11月11日

なお、翌日11日には同会場で式典同様、昭和天皇・香淳皇后出御の下に紀元二千六百年奉祝会が行なわれ、高松宮宣仁親王(奉祝会総裁代理)とジョセフ・グルー(第13代駐日アメリカ合衆国大使)による奉祝詞奏上、奈良朝風の奉祝舞楽「悠久」の演舞、高松宮による聖寿万歳三唱などが行なわれた。参列者にはお祝いの食事(食饌)が用意されたが、日本酒のほかはパン果物など簡素なものにとどめられた。

また、紀元二千六百年祝典記念章が制定され(昭和15年7月27日勅令第488号「紀元二千六百年祝典記念章令」第1条)、紀元節又は紀元二千六百年式典に招かれた者(同第3条1号2号)及び式典の事務並びに要務に関与した者(同3号)に授与された(同第3条)。

紀元二千六百年祝典記念章
表面
裏面

祝電

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紀元二千六百年祝典挙行に際し、タイ国皇帝ルーマニア国皇帝ユーゴスラビア国摂政ポール公イタリア国皇帝ドイツ国宰相から祝電が寄せられ、これに対して昭和天皇から答電が発送された[13][注 3]

その他記念行事・事業等

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海軍省発行『紀元二千六百年特別觀艦式記念』絵葉書

オリンピックと万博の同時開催計画

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また、国威高揚の機会と、国力の対外的誇示の機会でもある国際的イベントもこの年に合わせて開催しようと日本政府により計画されていた。それは「オリンピック」や「万国博覧会」を日本に誘致し開催しようというもので、実際に大規模なイベントの開催が正式に決定していた。

だがこれらは、1937年(昭和12年)に始まった日中戦争の長期化に伴い、五輪は開催権を返上、万博は延期されることになった[15]。しかし、東亜競技大会や東京の勝鬨橋のように、この一大イベントに合わせて開催された大会や造られた建造物もいくつか存在する。

神宮参拝の推奨

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富士山頂富士山本宮浅間大社奥宮の石燈籠に刻まれた讃紀元二千六百年歌。近衛文麿書。

当時は資源不足の統制下において軍事輸送を最優先する観点から、「ぜいたくは敵だ」・「遊楽旅行廃止」・「行楽輸送で大事な輸送を妨げるな」といったスローガンが駅に張られるなど、観光旅行の自粛を政府は国民に呼びかけていたが、皇室に関係する神社の明治神宮・橿原神宮・伊勢神宮などへの参拝は例外とされ、むしろ割引乗車券を販売するなど参拝を推奨していた。

国民は長く旅行を遠慮していたこともあって、大手を振ってこれらの神社へ出かけ、1940年(昭和15年)の橿原神宮参拝者は約1000万人、伊勢神宮は約800万人を数えた。また、伊勢神宮・橿原神宮を沿線にもっていた大阪電気軌道・参宮急行電鉄・関西急行電鉄(大軌・参急・関急電、現在の近畿日本鉄道(近鉄)の前身)や大阪鉄道(大鉄、現在の近鉄南大阪線など)・奈良電気鉄道(奈良電、現在の近鉄京都線)といった私鉄会社は、この輸送に対処すべく臨時列車を多く設定し、国鉄も同様に旅客輸送に努めた。

記念切手

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逓信省(現在の日本郵政)は紀元二千六百年を記念する記念切手を発行している。紀元節の2月11日に2銭と10銭、式典が開催された11月10日に4銭と20銭の各額面の記念切手が発売された。いずれの図案も日本書紀に関する題材で、2銭は金鵄、4銭は高千穂、10銭は鮎と厳瓶(あゆといつべ)、20銭は橿原神宮である。また満洲国も「日本紀元二千六百年紀念」の慶祝郵便切手2種を1940年(康徳7年)9月18日に発行している[16]

記念出版

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記念映画

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  • 『天業奉頌』 日本映画社、1941年(昭和16年)製作、60分
    • DVD「続 戦時下のスクリーン 発掘された国策映画」に収録(販売元:コニービデオ、2007年)

脚注

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注釈

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  1. ^ 光華殿は式典後の1946年(昭和21年)8月に小金井大緑地に移築され、その後、武蔵野郷土館となり、現在は江戸東京たてもの園ビジターセンターとなっている。
  2. ^ 当時、日本のラジオには事実上の国営放送であるNHKラジオ第1放送しかなかった。民間放送が開始するのは敗戦後の1950年代
  3. ^ 当時は独立国の君主号を一律に「皇帝」と表記した。

出典

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  1. ^ 内閣ニ紀元二千六百年祝典準備委員会ヲ設置ス」 アジア歴史資料センター Ref.A14100443700 
  2. ^ 彙報 紀元二千六百年祝典準備委員會設置」『官報』第2626号、1935年10月2日、80-81頁、doi:10.11501/2959105 
  3. ^ 紀元二千六百年祝典準備委員会ヲ廃止ス」 アジア歴史資料センター Ref.A14100483900 
  4. ^ 彙報 紀元二千六百年祝典準備委員會廢止」『官報』第2848号、1936年7月1日、22頁、doi:10.11501/2959329 
  5. ^ 敍任及辭令」『官報』第2849号、1936年7月2日、64頁、doi:10.11501/2959330 
  6. ^ 敍任及辭令」『官報』第3135号、1937年6月17日、504頁、doi:10.11501/2959618 
  7. ^ 紀元二千六百年奉祝會の創立」『内務時報』第2巻第5号、内務大臣官房・帝國地方行政學會、1937年5月15日、31-32頁、doi:10.11501/1489398 
  8. ^ a b 紀元二千六百年奉祝會設立經過」『紀元二千六百年』第1巻第1号、紀元二千六百年奉祝會、1938年2月11日、30-32頁、doi:10.11501/1387582 
  9. ^ 紀元二千六百年奉祝會設立及監督規程」『官報』第3147号、1937年7月1日、2頁、doi:10.11501/2959630 
  10. ^ 神道、海を渡る 神職會改め「大日本神祇會」大阪朝日新聞、1941年5月24日、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
  11. ^ 神祇院官制」『官報』第4154号、1940年11月9日、1頁、doi:10.11501/2960652 
  12. ^ 神宮皇學館大學官制」『官報』第3988号、1940年4月24日、1093頁、doi:10.11501/2960486 
  13. ^ 御祝電竝御答電」『官報』第4157号、1940年11月13日、459頁、doi:10.11501/2960655 
  14. ^ 秋山紀夫『吹奏楽「昭和の資料集」~吹奏楽の歩み:初期から成熟期にかけて~』(初)ロケットミュージック、2022年1月、14-15頁。ISBN 978-4-86679-882-0 
  15. ^ 指南役 『幻の1940年計画 太平洋戦争の前夜、“奇跡の都市”が誕生した』 アスペクト、2009年
  16. ^ 日本紀元二千六百年慶祝郵便切手發行ニ關スル件(交通部佈告第175号)」『政府公報』第1915号、満洲国国務院総務庁、1940年9月10日、136-137頁。 

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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