真野文二
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人物情報 | |
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別名 | 蜂声(号) |
生誕 |
1861年12月15日(文久元年11月14日) 武蔵国江戸本郷弓町(現・東京都文京区) |
死没 | 1946年10月17日(84歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 工部大学校 |
配偶者 | 咲子(井深梶之助妹) |
子供 | 正雄(長男) |
学問 | |
研究分野 | 工学(機械工学) |
研究機関 |
工部大学校 帝国大学工科大学→東京帝国大学工科大学 |
学位 | 工学博士(日本・1891年) |
称号 |
東京帝国大学名誉教授(1914年) 九州帝国大学名誉教授(1926年) |
学会 |
英国機械技術者協会 機械学会 日本工学会 |
真野 文二 | |
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所属政党 | 同和会 |
在任期間 | 1939年8月26日 - 1946年10月17日 |
選挙区 | (勅選議員) |
在任期間 | 1927年4月18日 - 1939年8月28日 |
真野 文二(まの ぶんじ、1861年12月15日(文久元年11月14日)[1] - 1946年(昭和21年)10月17日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の機械工学者。号は蜂声。
文部省実業学務局長、九州帝国大学(九州大学の前身)総長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。
経歴
[編集]江戸幕府の幕臣の子として江戸に生まれる。カロザースの築地大学校で学んだ後[2]、明治14年(1881年)に工部大学校機械工学科を卒業して同校助教授に任ぜられる。明治19年(1886年)にイギリスのグラスゴー大学へ留学して優秀な成績を修め、英国機械学会会員に推挙される。明治22年(1889年)に帰国後、帝国大学工科大学教授となり、翌年には特許局審査官を兼ねた。明治34年(1901年)東京帝国大学教授兼務のまま文部省実業学務局長に任ぜられる。大正2年(1913年)5月9日に九州帝国大学総長に任ぜられ[3]、同15年(1926年)まで務めた。昭和2年(1927年)4月18日に貴族院勅選議員に任ぜられ[4]、昭和14年(1939年)からは枢密顧問官を務める。死別した妻は井深宅右衛門の娘で、井深梶之助の妹サク[5]。
没後の平成19年(2007年)に東京帝国大学時代の講義ノートが「機械遺産」とされた。
栄典
[編集]- 位階
- 1885年(明治18年)2月25日 - 正八位[6]
- 1891年(明治24年)12月21日 - 正七位[6][7]
- 1894年(明治27年)2月28日 - 従六位[6]
- 1896年(明治29年)3月30日 - 正六位[6]
- 1898年(明治31年)
- 1904年(明治37年)2月10日 - 従四位[6][9]
- 1909年(明治42年)3月20日 - 正四位[6][10]
- 1914年(大正3年)4月10日 - 従三位[6][11]
- 1921年(大正10年)6月10日 - 正三位[6][12]
- 1939年(昭和14年)12月1日 - 従二位[13][14]
- 1946年(昭和21年)10月17日 - 正二位[13]
- 勲章等
- 1890年(明治23年)11月1日 - 藍綬褒章[13]
- 1896年(明治29年)3月26日 - 藍綬褒章飾版[13]
- 1899年(明治32年)12月27日 - 勲四等瑞宝章[6][15]
- 1903年(明治36年)
- 1906年(明治39年)4月1日 - 旭日中綬章[6][18]
- 1910年(明治43年)12月26日 - 勲二等瑞宝章[6][19]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[6][20]
- 1919年(大正8年)5月24日 - 旭日重光章[21]
- 1920年(大正9年)12月25日 - 勲一等瑞宝章[6]
- 1922年(大正11年)11月30日 - 御紋付銀杯一個・学制頒布五十年記念金牌[6]
- 1928年(昭和3年)11月10日 - 大礼記念章(昭和)・金杯一個[6]
- 1931年(昭和6年)5月1日 - 帝都復興記念章[6]
- 1932年(昭和7年)10月1日 - 朝鮮昭和五年国勢調査記念章[6]
- 1934年(昭和9年)4月29日 - 昭和六年乃至九年事変従軍記章・金杯一個[6]
- 1940年(昭和15年)
- 外国勲章佩用允許
- 1934年(昭和9年)3月1日 - 満州帝国:大満洲国建国功労章[6]
- 1935年(昭和10年)9月21日 - 満州帝国:満州帝国皇帝訪日記念章[6]
- 1941年(昭和16年)12月9日 - 満州帝国:建国神廟創建記念章[13]
著作
[編集]- 『蜂声集』 真野文二、1941年5月
- 『総長訓示式辞 : 自明治四十四年四月至昭和二十年八月』 九州大学大学史料室編、九州大学大学史料室、1998年3月
家族
[編集]- 真野正雄 - 長男。電気技術者。
脚注
[編集]- ^ 『貴族院議員名簿』 1937年7月、34頁。
- ^ 明治学院大学 2017年度アジア神学セミナー 『「宣教師と日本の初期キリスト者たちの関係」旧日本基督教会を事例として』 中島耕二,秋学期第9回,2017年12月4日
- ^ 『官報』第232号、大正2年5月10日。
- ^ 『官報』第89号、昭和2年4月19日。
- ^ 『大衆人事録 東京篇(第13版)』「井深梶之助」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 「〔履歴書(2件)〕」 アジア歴史資料センター Ref.A06050366800
- ^ 『官報』第2545号「叙任及辞令」1891年12月22日。
- ^ 『官報』第4636号「叙任及辞令」1898年12月12日。
- ^ 『官報』第6181号「叙任及辞令」1904年2月12日。
- ^ 『官報』第7718号「叙任及辞令」1909年3月22日。
- ^ 『官報』第508号「叙任及辞令」1914年4月11日。
- ^ 『官報』第658号「叙任及辞令」1921年6月11日。
- ^ a b c d e f g 「真野文二」 アジア歴史資料センター Ref.A06051184300
- ^ 『官報』第3972号「叙任及辞令」1940年4月5日。
- ^ 『官報』第4949号「叙任及辞令」1899年12月28日。
- ^ 『官報』第6138号「叙任及辞令」1903年12月16日。
- ^ 『官報』第6148号「叙任及辞令」1903年12月28日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
- ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第2041号「叙任及辞令」1919年5月26日。
- ^ 『官報』第4008号「叙任及辞令」1940年5月20日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
[編集]- 「〔履歴書(2件)〕」(国立公文書館所蔵 「枢密院文書・雑件・昭和十一年〜昭和十四年・四」)
- 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年。
- 富田仁『海を越えた日本人名事典』(新訂増補)日外アソシエーツ, 紀伊國屋書店 (発売)、2005年。ISBN 4816919333。全国書誌番号:20965044 。(項目執筆者:楠家重敏)
- 『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年。
関連文献
[編集]- 「工学博士真野文二君」(花房吉太郎、山本源太編輯 『日本博士全伝』 博文館、1892年8月)
- 花房吉太郎、山本源太著 『日本博士全伝』 日本図書センター〈日本人物誌叢書〉、1990年9月、ISBN 4820540300
- 「工学博士 真野文二」(井関九郎監修 『大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 発展社出版部、1930年9月)
- 『真野博士長寿祝賀会事業報告』 真野博士長寿祝賀会事務所、1941年3月
- 「真野文二」(国立公文書館所蔵 「枢密院文書・高等官転免履歴書三・昭和十一年〜昭和二十二年」) - アジア歴史資料センター Ref.A06051184300
- 『国立公文書館所蔵 枢密院高等官履歴 第7巻』 東京大学出版会、1997年3月、ISBN 4130987178
- 武藤茂春 「機械学会の創立者 真野文二」(前田清志編 『日本の機械工学を創った人々』 オーム社〈テクノライフ選書〉、1994年5月、ISBN 4274022587)
- 「真野文二」(三好信浩著 『日本工業教育発達史の研究』 風間書房、2005年12月、ISBN 4759915419)
- 九州大学百年の宝物刊行委員会「第6章 97.歴代総長の肖像」『九州大学百年の宝物』丸善プラネット, 丸善出版 (発売)、2011年、210頁。hdl:2324/1526202。ISBN 9784863450738 。
外部リンク
[編集]- 帝国議会会議録検索システム - 国立国会図書館
- 百周年の窓 100年を支えた22人のトップたち - 九州大学。肖像画が閲覧できる。
- Bunji Mano - The University of Glasgow Story
- 写真目録九州帝国大学時代 - 九州大学大学文書館
公職 | ||
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先代 辰野金吾 |
震災予防調査会長 1903年 - 1913年 |
次代 菊池大麓 |
学職 | ||
先代 古市公威 |
日本工学会理事長 1934年 - 1938年 |
次代 俵国一 |
先代 井口在屋 (新設) |
機械学会幹事長 1902年 - 1903年 1897年 - 1898年 |
次代 中原淳蔵 井口在屋 |