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野里 (姫路市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
睦町 (姫路市)から転送)
野里 (姫路市)
地域名
姫路市野里地区の航空写真(2010年)に「姫路城下絵図」(1806年)と町名・主要施設名を重ねたもの。マゼンダ線の内側が野里(町丁)。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
姫路市野里地区の航空写真(2010年)に「姫路城下絵図」(1806年)と町名・主要施設名を重ねたもの。マゼンダ線の内側が野里(町丁)。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
日本の旗 日本
都道府県 兵庫県
市町村 姫路市
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
市外局番 079[1]
ナンバープレート 姫路

野里(のざと)は兵庫県姫路市の地域名、および現行の町名。

  1. 播磨国風土記』に記される大野里(おおののさと、のち大野郷とも)の後身である、市川西部の地域名。
  2. 1.のうち、17世紀初頭の姫路城改修までに町場化した区域。1889年(明治22年)の市制施行時から姫路市に含まれる町丁のうち、姫路城の北側に伸びる野里街道沿いの各町(以下、野里(町場))。外曲輪内の内町、西の船場、東の神谷(南の飾磨津口を含む場合もある)と併せて姫路町と称した。
  3. 1.のうち、2.に含まれなかった野里村(のざとむら、埜里村とも)。1889年(明治22年)~1934年(昭和9年)まで水上村野里、以後は姫路市野里。
  4. 3.のうち、一部の区域を1995年(平成7年)に分離した後の現行町名である野里(以下、野里 (町丁))。一部を除き姫路市立水上小学校の校区。
  5. 姫路市立野里小学校の校区。2.と野里(町丁)から分離した町、および内町北東部の町とで構成される(以下、野里校区)。
  6. 播但線野里駅。ただし所在地は姫路市西中島(元水上村)。

歴史

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『播磨国風土記』においては大野は荒れ野の意であるという。「大野里」に付して「砥堀」とあることから、現在の砥堀まで含んでいたとみられる[2]。(志貴)嶋宮御宇天皇(欽明天皇)の頃、村上足島の上祖・恵多というものがこの地を欲したので里名としたとある[3][2]。『和名抄』には飾磨郡14郷の一つであるとされる。この大野郷の人が移住し開墾したのが近世の大野村、現在の上大野とされる[3]

中世の大野郷は江戸期の大野村・平野村(現・北平野)も含んでいたとみられる[3]。船場川は当時は二股川といい、現・梅ヶ枝町の日吉神社付近で東に分流してその流れを藍染川あるいは青見川と、さらに下流を長畝川と呼んだ[4]

中世の野里は日吉神社から大日町[注釈 1]にかけてを指していた。また橋之町・金屋町の付近は「白井の宿」という宿場町でもあった。野里は鋳物師集団の根拠地で、代々の芥田五郎右衛門が「播磨国中鋳物師惣管職」を称して鋳物師棟梁を務めていた[5]。各地の梵鐘に「野里」「芥田」「五郎右衛門」の銘が見られ、特に大坂の役の遠因となった鐘銘で知られる京都方広寺の梵鐘鋳造においては142人を引き連れて棟梁として参加している[6]。同寺に芥田氏は武士・豪族としての側面も持っていた[6]

野里西部は天正頃には但馬道沿いの鍛冶町・野里寺町・大野町・威徳寺町が商店街として発展している(野里(町場))。江戸時代においては全域が姫路藩領で[7]、野里村の南部は姫路城の外堀内に組み入れられて城下町を形成した[5]。この際に市川の付け替え、すなわち大日付近で締め切って以前の小川の方向へ付け替えたという説(姫路城史)があるが、後に姫路市史14巻[8]では付け替えを否定して元より市川は現在の流路であったとする説を提示している[7]。野里村の石高は「天保郷帳」では1058石余り、「旧高旧領取締帳」では埜里村として同高[5]、うち慶雲寺領66石余り[7]

1876年(明治9年)には野里村内に生野鉱山寮馬車道[7]、1894年(明治27年)には播但鉄道(現・播但線)が[9]開通する。1889年(明治22年)の姫路市制施行時には野里街道沿いの各町およびその北端に隣接する野里字梅ヶ坪の一部(現・梅ヶ枝町)が姫路市に属し、それ以外の野里村は白国・保城・西中島と共に水上村に属した[10]。野里(野里村)にある字名は、阿保殿・梅ヶ坪・鍛冶屋村・河田・北河原・大日河原・長塚・八反田・東河原・古邨(ふるやしき)・町裏・南河原・六反田である[11][注釈 2]

1944年(昭和19年)6月から1945年(昭和20年)11月に掛けて、現在の野里東同心町・野里新町・野里中町・野里東町・野里月丘町において住宅営団を施工者とする土地区画整理事業がおこなわれている[12]

1945年(昭和20年)7月3日深夜からの姫路空襲では坊主町・梅ヶ枝町・大日町が被災している[13]。坊主町の野里小学校(当時は国民学校)はほぼ全焼して校区内の寺院で分散授業をおこない、後に本町68番地へ仮校舎を設けていた時期に昭和天皇の行幸を受けている[14]。一方で野里街道沿いの他の地域は被災を免れ[13]、多数の町屋が現存している[15]

広義の野里に含まれる町丁

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凡例・補足:

  • 町名リンク先も参照。
  • 野里(市制当初より姫路市に含まれる区域)について:
    • 分類は橋本政次『姫路市町名字考』p.10-12を元に現在の町名に対応させた。
    • 江戸時代の分類は特記無き場合は町人地。
    • 明治初期から市制施行まで各町名に「姫路」を冠している。
  • 校区欄の校名は「姫路市立○○小学校/中学校/小中学校」を省略表記。
  • 野里より分割された町丁(睦町を除く)は住居表示実施済[16]
1889年(明治22年)に市制施行の当初より姫路市に含まれている野里の町丁
 町名     読み[17]  郵便番号[18] 世帯数[17] 人口[17] 主な施設・備考/概要 校区[19]
河間町 こばさまちょう 670-0001 146 257 野里小城乾中
姫路城野里門跡のすぐ北側にある。中世以前に二股川(現在の船場川)と支流の藍染川(青見川)の間に位置したことによる[20]。戦後はスーパーやアーケードのある商店街として発達した[21]。北部は殿町(とのまち)と称して、身分の比較的高い人たちが住んでいたという[22]
坊主町 ぼうずまち 670-0011 146 311
河間町の西側にある元武家地。姫路城中堀と船場川の間へΓの字状に伸びる。坊主とは茶坊主などを指す[25][22]
鍵町 かぎまち 670-0009 67 132 旧野里街道

野里商店街[注釈 7]

姫路城中堀の東を北上してきた野里街道が鍵の字に屈曲することから[26][27]。野里門郵便局の西側の町域は本町68番地と一体化しているが、本来は野里門の外側にあたる[28]。以下の町は南から北の順。
鍛冶町 かじまち 670-0002 69 129
野里村の鋳物師集団が金屋町から大野町にかけて居住して、その中心にあたることから。姫路城改修以前に既に存在したとみられる[29][30]
野里寺町 のざとてらまち 670-0867 102 172
江戸時代は単に寺町とも。上寺町・下寺町[注釈 8]に対応する町名[31][27]。かつて増位山随願寺の末寺・曼荼羅寺があったが、のち河間町へ移り雲松寺となる[27]。野里を冠しているが、後に述べる野里より分離した町丁とは命名経緯が異なる。
大野町 おおのまち 670-0868 141 228
  • 姫路大野町郵便局
天正時代に大野市右衛門という人物が住んでいたことに、あるいは大野郷に由来する町名。芥田五郎右衛門が後の五郎右衛門邸附近より移転した当初は鋳物師町とも[注釈 9][32][27]
威徳寺町 いとくじまち 670-0816 104 198
過去に存在した威徳寺に由来。威徳寺は随願寺の末寺で元亀元年(1570年)地元住民との争いの末に黒田職隆の裁定に従わなかったために退去させられた[33][27]。梅ヶ枝町成立までは町場の野里の北端だった[34]
梅ヶ枝町 うめがえちょう 670-0817 125 172
  • 日吉神社(敷地の一部)
天正の頃は野里新町とも。1889年に野里より字梅ヶ坪が分割されて姫路市に属した部分[35][27]。明治から昭和戦後すぐにかけては遊郭が置かれていた[注釈 10][36][37]。1889年~1912年は姫路市の大字名「野里」[38]
以下の町は姫路城の外堀内側に含まれる野里の町。内町 (姫路市)も参照。
橋之町 はしのまち 670-0008 21 40
  • 旧野里街道
かつてこの地に流れていた藍染川(青見川)を渡る街道の橋があったという[39][40][27]
福本町 ふくもとまち 670-0004 20 47
当初「比丘尼町」と称したものを好字で改めたものか[41][42][43]
米屋町 こめやまち 670-0003 17 47
当初は小物衆屋敷、のち町人地。町割り以前は芥田氏の畑地だった[44][42][30]
五郎右衛門邸 ごろうえもんてい 670-0857 99 202
元武家地(足軽町)。野里の鋳物師棟梁・芥田五郎右衛門に由来する[45][42][43]
旧野里村:現在の野里および野里より分割された町
  町名     読み[17] 郵便番号[18] 世帯数[17] 人口[17] 主な施設・備考/概要 校区[19]
野里 のざと 670-0811 1756 3298

「大日町」[注釈 1]

大日河原

「二本松町」[注釈 1]

  • 姫路二本松郵便局

「北野町」[注釈 1]

  • 日吉神社(山王神社)[49]
大半:水上小増位中

南端部:東小東光中

ごく一部(字町裏[注釈 5]):野里小/城乾中

広義の野里のうち、戦後まで農地だった区域。明治初期に士族授産の一環として、大日河原に一時期製糸場が置かれたことがある[50]。1973年(昭和48年)に南端西部が睦町の一部として分離[5][51]、1995年(平成9年)に西部の以下の町丁が分離[52][53]
野里東同心町 のざとひがしどうしんまち 670-0863 64 148 野里小/城乾中
内町の同心町から外堀をはさんで東隣にあることから[54][30]。以下の町は概ね南から北の順。
野里新町 のざとしんまち 670-0862 86 143
戦前の川西航空機の社宅が北川西町と呼ばれ、民間に払い下げられて宅地化した[55]
野里中町 のざとなかまち 670-0864 72 128
野里新町同様の新興住宅地[55]
野里堀留町 のざとほりどめちょう 670-0866 172 329
  • 野里ひろば(元姫路市立野里幼稚園)
姫路城外堀の北端に位置することから[56][22]
野里東町 のざとひがしまち 670-0861 96 176
元は県営住宅がありその東部に当たることから[55]
野里月丘町 のざとつきおかちょう 670-0865 85 171
月の岡という地名は北条時頼の廻国伝説に関わり、月を詠んだことによるという[57]。戦前は川西航空機の社宅があった[54][22]
野里慶雲寺前町 のざとけいうんじまえちょう 670-0813 187 360
野里村の字鍛冶屋村(北側)と字阿保殿(南側)にあたる[22]
野里大和町 のざとやまとちょう 670-0815 53 86
かつて大和郡山より移住してきた人が住んだという[55]
野里上野町1丁目 のざとうえのちょう 670-0814 156 320
野里上野町2丁目 116 273
古くは大野郷の上野の里と称した。他に寛延2年(1749年)酒井忠恭の姫路移封時に上野前橋より移住した人が住んだとも[注釈 14][55]、野里の上にあるという事からの通称地名が正式な町名となったとも[54]
睦町 むつみちょう 670-0812 265 378
  • 県営城東団地
城東小/東光中
1973年(昭和48年)に南端西部が城東町の一部と合併した際に、野里・城東両地区が仲睦まじくあるようにとの意図を込めて命名[5][51]

ゆかりの人物

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脚注

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注釈

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  1. ^ a b c d 通称地名。同名の自治会が置かれている(東地区連合自治会に「二本松町自治会」、水上地区連合自治会に「野里町自治会」「北野町自治会」「大日自治会」「野里団地自治会」)(姫路市連合自治会(2001), pp.60, 78)。
  2. ^ 姫路市連合自治会(2001)p.79(水上地区連合自治会の概要)には「白国、保城、西中島、北野、野里、大日が合併して水上村となり」とあるが、角川地名(1988)に現・姫路市の地名として大日の記載はなく、北野は飾東町北野の記載のみである。
  3. ^ 後に野里小学校の児童が世話する「野里の花園」という広場になっていた時期がある。
  4. ^ a b 姫路城周辺にわずかに現存する江戸期の住宅。(坊主町・五郎右衛門邸の双方共に個人宅、非公開。2020年時点)。
  5. ^ a b 野里字町裏は威徳寺町の裏手にある野里(町丁)の字。八代字町裏は坊主町の北にある八代の字。
  6. ^ 播磨守だった石川君子に贈られた2首の歌碑。日本城郭研究センター姫路市立城内図書館前。姫路城#名称の由来と別名も参照。
  7. ^ 北端に「野里北野町」という自治会に属する野里(町丁)の地区(日吉神社周辺)も含める場合がある。
  8. ^ 厳密には現下寺町ではなく旧下寺町
  9. ^ 外京口門東の神谷に有った鋳物師町が成立した頃に改名か。
  10. ^ 当初西魚町(現・魚町)へ設置予定だったものが地元の反対によって梅ヶ枝町へ変更となった。
  11. ^ 山号・大日山、真言宗。法道仙人開基、北条時頼再興という伝承が残る。市川河原刑場の刑死者の供養塔などがある。
  12. ^ 最明寺同様に北条時頼廻国伝説に関わる。江戸時代は景雲寺の鎮守だった。
  13. ^ 姫路藩家老河合道臣(寸翁)による殖産興業の一環として、ハゼ蝋をろうそくへ加工するために植えられたものが大日河原の堤防沿いに残っている。
  14. ^ ただしこの上野は「こうずけ」。

出典

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  1. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2023年10月7日閲覧。
  2. ^ a b 浅田 1981, p. 115,118.
  3. ^ a b c 角川地名 1988, p. 306-307「大野〈姫路市〉」.
  4. ^ 野里校区の今昔 2012, p. 2.
  5. ^ a b c d e 角川地名 1988, p. 1163-1164「野里〈姫路市〉」.
  6. ^ a b 野里校区の今昔 2012, p. 3.
  7. ^ a b c d 平凡社歴史地名 1999, p. 489-490.
  8. ^ 姫路市史14巻 1988, p. 47.
  9. ^ 角川地名 1944, p. 1225「播但線」.
  10. ^ 角川地名 1988, p. 1414-1415.
  11. ^ 田中 1994, p. 8.
  12. ^ 土地区画整理誌 2017, p. 8-11.
  13. ^ a b 戦災概況図姫路 1945.
  14. ^ 野里小学校 2003, p. 26-28.
  15. ^ 姫路・町屋再生塾 2021.
  16. ^ 住居表示実施町名一覧表”. 姫路市. 2024年8月19日閲覧。
  17. ^ a b c d e f 町別人口・年齢別人口-令和6年(2024年)3月末-”. 姫路市役所 デジタル戦略本部 デジタル戦略室 統計解析室. 2024年5月1日閲覧。
  18. ^ a b 郵便番号検索 兵庫県 > 姫路市の郵便番号一覧”. 日本郵便. 2024年5月1日閲覧。
  19. ^ a b 市立小学校・中学校・義務教育学校への入学・転校など”. 姫路市役所教育委員会事務局学校教育部学校指導課 (2024年1月22日). 2024年5月1日閲覧。
  20. ^ 新・姫路の町名 2006, p. 107.
  21. ^ 角川地名 1988, p. 628.
  22. ^ a b c d e 野里校区の今昔 2014, p. 12.
  23. ^ a b c 国登録有形文化財(建造物)”. 姫路市. 2024年8月12日閲覧。
  24. ^ a b c 姫路・町屋再生塾 2021, p. 4.
  25. ^ 角川地名 1988, p. 1357.
  26. ^ 角川地名 1988, p. 370.
  27. ^ a b c d e f g 野里校区の今昔 2014, p. 11.
  28. ^ 新・姫路の町名 2006, p. 93.
  29. ^ 角川地名 1988, p. 384.
  30. ^ a b c 野里校区の今昔 2014, p. 10.
  31. ^ 角川地名 1988, p. 1164.
  32. ^ 角川地名 1988, p. 307-308.
  33. ^ 新・姫路の町名 2006, p. 87.
  34. ^ 角川地名 1988, p. 185.
  35. ^ 新・姫路の町名 2006, p. 90.
  36. ^ ふるさと城南ものがたり 1983, p. 91.
  37. ^ 角川地名 1988, p. 252.
  38. ^ 角川地名 1988, p. 1164「〔近代〕野里(2)」.
  39. ^ 角川地名 1988, p. 1185.
  40. ^ 平凡社歴史地名 1999, p. 479.
  41. ^ 角川地名 1988, p. 1321.
  42. ^ a b c 平凡社歴史地名 1999, p. 480.
  43. ^ a b 野里校区の今昔 2014, p. 9.
  44. ^ 角川地名 1988, p. 636-637.
  45. ^ 角川地名 1988, p. 643.
  46. ^ 増位校区地域夢プラン 2006, p. 37.
  47. ^ 増位校区地域夢プラン 2006, p. 39.
  48. ^ 増位校区地域夢プラン 2006, p. 36.
  49. ^ 増位校区地域夢プラン 2006, p. 35.
  50. ^ 姫路市史 第5巻上 本編 近現代1. 姫路市. (2000). p. 338-339 
  51. ^ a b 角川地名 1988, p. 1467「睦町」.
  52. ^ 新・姫路の町名 2007, p. 153-154.
  53. ^ 町別人口・年齢別人口-平成9年(1997年)9月末-”. 姫路市. 2024年8月19日閲覧。
  54. ^ a b c 新・姫路の町名 2007, p. 154-155.
  55. ^ a b c d e 野里校区の今昔 2014, p. 13.
  56. ^ 新・姫路の町名 2007, p. 157.
  57. ^ 角川地名 1988, p. 1163.
  58. ^ 野里校区の今昔 2014, p. 26.
  59. ^ a b 野里校区の今昔 2014, p. 25.
  60. ^ 野里校区の今昔 2014, p. 29.
  61. ^ a b c 創立100周年記念誌 2003, p. 72-75.
  62. ^ 野里校区の今昔 2014, p. 27.

参考文献

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外部リンク

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