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山形県立米沢興譲館高等学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
私立米沢中学校から転送)
山形県立米沢興譲館高等学校
正門
地図北緯37度53分7.6秒 東経140度6分30.2秒 / 北緯37.885444度 東経140.108389度 / 37.885444; 140.108389座標: 北緯37度53分7.6秒 東経140度6分30.2秒 / 北緯37.885444度 東経140.108389度 / 37.885444; 140.108389
過去の名称 米沢藩学館
興譲館
私立米沢中学校
米沢尋常中学興譲館
山形県米沢中学校
山形県立米沢中学校
山形県立米沢興譲館中学校
山形県立米沢第一高等学校
山形県立米沢西高等学校
国公私立の別 公立学校
設置者 山形県の旗 山形県
学区 山形県南
設立年月日 1618年7月(創基)
1697年6月15日藩校
1886年9月19日(私立米沢中学校)
創立記念日 9月19日
共学・別学 男女共学
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
探究科
学期 3学期制
学校コード D106220250015 ウィキデータを編集
高校コード 06127B
所在地 992-1443
山形県米沢市大字笹野1101番地
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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山形県立米沢興譲館高等学校(やまがたけんりつ よねざわこうじょうかんこうとうがっこう(: Yamagata Prefectural Yonezawa Kojokan High School)は、山形県米沢市大字笹野に所在する公立高等学校

公立の高等学校としては日本最古である。

偏差値は65〜66(2023年度・Benesse)である。

概要

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歴史
1886年明治19年)創立の「私立米沢中学校」(旧制中学校)を前身とする。1948年昭和23年)の学制改革により新制高等学校となった。現校名となったのは1956年(昭和31年)。2011年平成23年)に創立125周年を迎えた。
なお1776年安永5年)創立の藩校興譲館」の流れを継承しているとされ、高校の創立年数とは別に創立年数が設定されており、節目に創立記念式典が行われている。2011年(平成23年)に創立235周年を迎えた。創基となる最初の学問所は1618年(元和4年)に開設されており、この時から数えて2024年で創立406年を数える。
校名の由来
興譲館」という校名は、「大学」の一節「一家仁一国興仁、一家譲一国興譲」から採られた。興譲とは、譲を興す(おこす)と読み、「恭遜(きょうそん)の道を繁昌(はんじょう)さすること也」(細井平洲、建学大意)。
設置課程・学科
全日制課程 2学科
2006年度(平成18年度)から、科ごとの募集を取り止め、一括募集としている。生徒は2年次から普通科・理数科を選択する。上記の変化に合わせ、同じく2006年度入試からは定員が240人から200人に削減、1クラス減となった。
また、2019年度(平成31年度)から、科ごとの募集を再開し、一年次から、探究科・普通科に分かれる。2年次から探究科は理数探究科・国際探究科を選択する。定員は今まで通りの200人である。
校歌
現校歌は創立70周年を記念して、現校名に改称した1956年(昭和31年)に制定された。作詞は浜田広介、作曲は細谷一郎による。歌詞は3番まであり、各番に校名の「興譲」が登場する。
同窓会
「米沢興譲館同窓会」と称している。

沿革

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( )内の日付は旧暦を表す。

藩校

  • 1697年元禄10年)
    • (6月15日) - 米沢藩第4代藩主上杉綱憲が「学問所」を建立。
    • (11月29日) - 元細工町(現・中央)の矢尾板三印に命じ、その邸内の聖堂を改造して『感麟殿』と命名。そばに学問所を建設し、孔子像の遷座式を挙行。
  • 綱憲の没後、藩財政の逼迫と共に衰微
  • 1724年享保9年) - 聖堂の祭祀、孔子を祀る釈奠が中止となる。
  • 1771年明和8年5月2日) - 第9代藩主上杉治憲(鷹山)が「学問所」を再興し、招聘した細井平洲(紀徳民)を馬場御殿の松桜館に迎え学生に講授(以後10か月間)。
  • 1776年安永5年)
    • (5月19日) - 学館が完成し、細井平洲により藩校「興譲館」と命名される。
    • (9月12日) - 細井平洲が再び米沢に入り、学則(先生施教弟子是則……)を揮毫
    • (9月19日) - 細井平洲により学館で初めて書経が講じられる(授業を開始)。また釈奠が再興される。
  • 1785年天明5年) - 聖堂の扁額を『先聖殿』に改称。
  • 1793年寛政5年11月14日) - 屋代町(現・丸の内)御国産所内に医学堂「好生堂」が設立される。薬草園と共に医学書オランダ製の外科器械類を整備。
  • 1796年(寛政8年)
    • (9月6日) - 細井平洲が三たび米沢入り、上杉鷹山が関根の普門院まで出迎える。
    • (12月14日) - 通学生のために友于堂を建築。
  • 1799年(寛政11年) - 服部正相(豊山)が学科試験を開始。
  • 1807年文化4年)3月 - 好生堂を興譲館構内に移転。上杉治憲は藩医を杉田玄白らの元に派遣し蘭学・医学を学ばせる。
  • 1864年元治元年)
    • (4月15日) - 西割出町(現・金池)から出火し、興譲館が類焼。
    • (11月6日) - 門東町講武所内に興譲館を再建。
  • 1867年(慶応3年12月29日) - 徳川慶喜からの大坂(阪)出陣の要請を受け、上杉斉憲は各頭・諸役員・興譲館諸生から意見を聴取。
  • 1869年(明治2年1月) - 兵士の屯所や仮病院に充てられていた学館の修復が完了し、興譲館の授業を再開。
  • 1871年(明治4年)
    • (1月24日) - 興譲館好生堂内に洋学舎を創設し、慶應義塾出身の木村道之助ら3名を招聘し英語を教授。
    • (7月) - 廃藩置県により、米沢藩が廃止され、米沢県となる。これに伴い、藩学から県学となる。
    • (9月) - 米沢県、学校革新大旨を布達。興譲館は「四民一途人材教育の制度」を立て、皇学・洋学・医学・筆学・数学の5科を設置。
    • (11月2日) - 第1次府県統合により米沢県が廃止され、置賜県が発足。
  • 1872年(明治5年10月17日) - 文部省布達(「従前の諸学校の儀一旦悉く可相廃止候」)により、県学としての興譲館は廃止される。学館は縮小して継続。

旧制中学校

  • 1874年(明治7年)- 興譲館を旧・米沢藩士協立の「私立米沢中学校」と改称。上杉家寄贈資金の利子と授業料で経営。洋学科を外国語学校と改称。
  • 1881年(明治14年)12月 - 屋代町上ノ丁(現・門東町)の元置賜県庁舎に移転。ともに外国語学校も屋代町に移転し統合。
    • 修業年限を4年とする。以後徴兵猶予の恩典と上級学校進学の資格が得られない状況が1893年(明治26年)まで続く。
  • 1886年(明治19年)9月19日 - 中学校令勅令15号)の施行により、変則中学校から正則中学校となる。この日を創立記念日とする。(創立年
    • 修業年限を5年(現在の中1から高2に相当)とする。
    • 北堀端片町(現・丸の内)に新校舎が完成し移転を完了。
    • 学校管理者(初代校長)に士族会会長の池田成章が就任。
  • 1893年(明治26年)5月25日 - 県費補助を受けるため、山形県知事に移管の上、「米沢尋常中学校」に改称。県立同等の資格に認定される。
  • 1895年(明治28年)5月2日 - 「米沢尋常中学校興譲館」と改称。
  • 1900年(明治33年)4月1日 - 山形県に移管され、「山形県米沢中学校」と改称。 校友会(生徒会)として「興譲会」が発足。
  • 1901年(明治34年)
    • 4月1日 - 「山形県立米沢中学校」と改称。
    • 9月19日 - 校舎を関東町(現・西大通)に新築移転。
  • 1904年(明治37年)9月 - 戦時(日露戦争)記念林創設。舘山に植林事業を開始。
  • 1909年(明治42年)
    • 6月13日 - 5年生43名が仙台方面修学旅行の帰途、赤岩駅付近で列車転覆事故に遭遇し7名負傷。この時、生徒が負傷者救護に従事。
    • 後日 - 負傷者救護の件で逓信大臣が来校の上、謝意を表明。
  • 1925年(大正14年)4月24日 - 軍事教練のため軍事教官(将校)が配属される。
  • 1926年(大正15年)5月1日 - 私立米沢中学校夜学校を併設。
  • 1927年(昭和2年)6月14日 - 校歌を制定。作詞は五十嵐力、作曲は弘田龍太郎による。
  • 1928年(昭和3年)- 後援会が発足。
  • 1929年(昭和4年)1月29日 -「山形県立米沢興譲館中学校」と改称。
  • 1936年(昭和11年)
    • 1月18日 - 積雪の重みにより講堂が倒壊。負傷者なし。
    • 9月18日 - 新講堂が完成。
  • 1938年(昭和13年)6月9日 - 勤労奉仕活動が開始。翌1939年度以降、全生徒が近郊農村や報国農場(鬼面川河畔)への勤労奉仕に出動。
  • 1940年(昭和15年)4月1日 - 併設の夜学校が山形県に移管され、山形県立米沢夜間中学校となる。
  • 1943年(昭和18年)4月1日 - 中等学校令の施行により、この時の入学生から修業年限が4年となる。併設の夜間中学校を統合し、夜間課程とする。
  • 1944年(昭和19年)9月 - 学徒動員で4・5年生が群馬県太田町の中島飛行機製作所へ出動。
  • 1945年(昭和20年)
    • 3月 - 教育ニ関スル戦時非常措置方策の修業年限4年施行前倒しにより、5年生と4年生の合同卒業式を挙行。
      • 本来、中等学校令の施行された1943年(昭和18年)に入学した生徒が4年を修了する1947年(昭和22年)3月に修業年限4年が施行される予定であったが、戦況の悪化により、中等学校令の施行される前(1941年(昭和16年)・1942年(昭和17年))に入学した生徒にも修業年限4年が適用されることとなった。この時、1940年(昭和15年)入学の5年生と1941年(昭和16年)入学の4年生の合同卒業式が行われた。
    • 4月 - 学校での授業を停止。ただし勤労動員は継続。
    • 8月 - 終戦。
    • 9月 - 授業を再開。
  • 1946年(昭和21年)4月1日 - 修業年限が5年に戻る(ただし4年修了時点で卒業することもできた)。
  • 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)が行われる。
    • 旧制中学校の募集を停止。
    • 新制中学校を併設し(以下・併設中学校)、旧制中学校1・2年修了者を新制中学校2・3年生として収容。
    • 併設中学校は経過措置としてあくまで暫定的に設置されたため、新たに生徒募集は行われず、在校生が2・3年生のみの中学校であった。
    • 旧制中学校3・4年修了者はそのまま在籍し、4・5年生となった(ただし4年修了時点で卒業することもできた)。

新制高等学校

  • 1948年(昭和23年)
    • 4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施)により旧制中学校が廃止され、新制高等学校山形県立米沢第一高等学校」(男子校)が発足。
      • 通常制普通課程(修業年限3年)と定時制普通課程(修業年限4年)を設置。
      • 旧制中学校卒業者(5年修了者)を新制高校3年生、旧制中学校4年修了者を新制高校2年生、併設中学校卒業者(3年修了者)を新制高校1年生として収容。
      • 併設中学校を継承(名称:山形県立米沢第一高等学校併設中学校)し、在校生が1946年(昭和21年)に旧制中学校へ最後に入学した3年生のみとなる。
      • 後援会が改組され、教育振興会が設立される。
    • 5月 - 興譲会を「自治会」に改称。
  • 1949年(昭和24年)
    • 2月 - 自治会歌を制定。作詞は星篤志、作曲は滝沢美恵子による。
    • 3月31日 - 併設中学校を廃止。
    • この年 - 米沢興譲館同窓会が復活。
  • 1950年(昭和25年)
    • 4月1日 - 高校三原則に基づき、県内の公立高等学校の再編が行われる。
      • 山形県立米沢第四高等学校(女子校)と統合され、 総合制の「山形県立米沢高等学校」が発足。男女共学を開始。
      • 旧第一高等学校(旧制中学校)校舎を「西校舎」、旧第四高等学校(高等女学校)校舎を「東校舎」として使用を継続。
    • 5月25日 - 全校吾妻登山を開始。
    • 9月19日 - 高湯マラソン(本校 - 高橋間約16km、白布温泉1泊)を開始。
    • 10月1日 - 校章(帽章・襟章)を制定。
  • 1952年(昭和27年)
    • 3月31日 - 定時制三沢東部分校を廃止。
    • 4月1日 - 統合が解消され、西校舎は「山形県立米沢西高等学校」となる。 東校舎は山形県立米沢東高等学校として分離独立。
  • 1956年(昭和31年)
    • 3月15日 - 雑誌『興譲』第1号を発行。
    • 4月1日 - 「山形県立米沢興譲館高等学校」(現校名)と改称。
    • 9月19日 - 創立70周年を記念して新たに校旗と校歌を制定。校歌の作詞は浜田広介、作曲は細谷一郎による。
  • 1957年(昭和32年)9月19日 - 体育後援会が発足。
  • 1961年(昭和36年)3月31日 - 定時制広井郷分校を廃止。
  • 1963年(昭和38年)
    • 3月31日 - 定時制窪田分校を廃止。
    • 4月1日 - 通常制普通課程を全日制課程普通科、定時制普通課程を定時制課程普通科に改称。
  • 1964年(昭和39年)6月16日 - 新潟地震が発生。
  • 1966年(昭和41年)
    • 8月 - 我妻栄寄付の奨学基金を基に、財団法人自頼奨学財団を設立。
    • 9月19日 - 全日制と定時制の同窓会を統合。
  • 1967年(昭和42年)
    • 8月29日 - 羽越水害が発生。
    • 10月 - 全校生徒で羽越水害の被災地小松地区の稲刈り勤労奉仕に出動。
  • 1968年(昭和43年)4月1日 - 全日制課程に理数科(1学級)を設置。
  • 1981年(昭和56年)3月31日 - 定時制課程を廃止。
  • 1986年(昭和61年)
    • 8月31日 - 現在地に体育館と剣道場が完成。
    • 9月19日 - 創立100周年(藩校興譲館創立210年)記念式典を挙行。
  • 1987年(昭和62年)
    • 7月31日 - 現在地に新校舎が全面完成。
    • 10月20日 - 新校舎に移転を完了。
  • 1988年(昭和63年)
  • 1989年(平成元年)
  • 1991年(平成3年)4月 - 体育後援会を「体育文化後援会」と改称
  • 1996年(平成8年)1月15日 - 北通り-新大橋線(学園ロード)が開通。
  • 1997年(平成9年)9月10日 - 思索の森を造成。
  • 2008年(平成19年)8月 - 新部室棟が完成。
  • 2000年(平成12年)
    • 3月 - 東屋(あずまや)の建設と樹木45本の植栽により思索の森の整備が完了。
    • 7月 - 上杉鷹山生誕250年を契機に宮崎県立高鍋高等学校を親善訪問。以後、隔年で相互訪問交流。
    • 9月 - 藩学創設300年記念講堂が完成。
  • 2002年平成14年)4月 - 文部科学省スーパーサイエンスハイスクール」研究指定校。(2004年度(平成16年度)末まで)。
    • 研究開発課題:「生涯にわたって科学的に思考し、創意工夫する力を育むための教育課程及び教育方法の研究開発」
  • 2008年(平成20年)4月1日 - 普通科と理数科のくくり募集を開始。
  • 2011年(平成23年)
  • 2012年平成24年)4月 - 文部科学省「スーパーサイエンスハイスクール」研究指定校。(2016年度(平成28年度)末まで)。
    • 研究開発課題:「科学好きの裾野を広げ、科学技術系人材を育て、わが国の将来を担うサイエンス イノベーターの育成を目指す教育プログラムの研究開発。
  • 2019年(平成31年)
    • 探究科の設置。

特色

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  • いわゆる生徒会にあたる、自治会という組織が活動を行っている。オープンスクールなどさまざまな行事が生徒主導で進められている。

学校施設

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  • セミナーハウスと呼ばれる宿泊施設があり、部活の合宿などに利用されている。
  • 2000年に藩学創設300年を記念した講堂が建てられた。合唱祭やコンサート、講演会の際に使用される。

部活動

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運動部

  • 野球
  • ソフトテニス(男・女)
  • フェンシング
  • 弓道
  • 陸上競技
  • 柔道
  • 剣道
  • ホッケー
  • バレーボール
  • バドミントン
  • バスケットボール
  • サッカー
  • 山岳
  • スキー
  • 卓球
  • 水泳

文化部

  • CSSC(コアスーパーサイエンスクラブ)
  • 調理科学
  • 美術
  • 音楽
  • 吹奏楽研究クラブ
  • 新聞・文芸
  • ESS

交通

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山形県立米沢興譲館高等学校の位置(山形県内)
山形県立米沢興譲館高等学校

著名な出身者

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卒業生

参考文献

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  • 松野良寅編『興譲館世紀』(山形県立米沢興譲館高等学校創立百年記念事業実行委員会、1986年)
  • 松野良寅編『興譲館小史 人あまたあと継ぎて』(米沢興譲館出版会、1988年)
  • 今泉亨吉『上杉鷹山公小伝』(御堀端史蹟保存会、1982年第7版)
  • 米沢児童文化協会 編『郷土に光をかかげた人々』(米沢児童文化協会、1989年改訂2版)

関連項目

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外部リンク

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