竹 (松型駆逐艦)
竹 | |
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基本情報 | |
建造所 | 横須賀海軍工廠 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
級名 | 松型駆逐艦 |
艦歴 | |
発注 | 1942年戦時建造補充(改マル5)追加計画 |
起工 | 1943年10月15日 |
進水 | 1944年3月28日 |
竣工 | 1944年6月16日 |
除籍 | 1945年10月25日 |
その後 |
1945年12月1日特別輸送艦指定 その後イギリスに賠償艦として引き渡し解体 |
要目 | |
基準排水量 | 1,262t |
公試排水量 | 1,530t |
全長 | 100.00m |
最大幅 | 9.35m |
吃水 | 3.30m |
ボイラー | ロ号艦本式缶2基 |
主機 | 艦本式タービン2基2軸 19,000hp |
速力 | 27.8kt |
燃料 | 重油370t |
航続距離 | 18ktで3,500浬 |
乗員 | 211名/248名[1](後日、323名)[2] |
兵装 |
40口径12.7cm単装高角砲 1基 40口径12.7cm連装高角砲 1基 25mm連装機銃 4基 25mm単装機銃 12基 61cm4連装九二式魚雷発射管 1基4門(予備魚雷なし) 九四式爆雷投射機 2基、爆雷投下軌条×2、(二式爆雷 36発) |
概要
一等駆逐艦竹(たけ)は[4]、日本海軍が大東亜戦争中に横須賀海軍工廠で建造した駆逐艦[5]。戦時量産型駆逐艦である松型駆逐艦(丁型駆逐艦)の2番艦であり[6]、日本海軍の艦名としては樅型駆逐艦の「竹」に続いて2代目である[7]。戦時量産型のため「雑木林」と渾名され[8][9]、速力や火力などの諸性能は限定されていたが、生存性(被害極限性)は従来の日本海軍駆逐艦に比べて格段に向上していた[10]。
1944年(昭和19年)6月16日に竣工後[11]、「竹」は訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属して訓練や南西諸島への輸送任務[12]に従事した[13]。 7月15日、新編された第43駆逐隊に所属[14]。8月からは台湾・マニラ・パラオ諸島方面での輸送や船団護衛任務に従事した[5]。8月20日、新編の第三十一戦隊に編入される[15]。同月中旬には、軽巡洋艦「名取」や[注釈 1]や駆逐艦「五月雨」の救難に従事した[注釈 2]。
10月下旬より実施されたレイテ島増援輸送作戦(多号作戦)では[21]、第三次/第四次、第五次、第七次作戦に参加した[22]。「竹」は幾度か損傷しながら生還した[23]。 特に12月3日のオルモック湾における夜戦では、姉妹艦「桑」と共に米軍大型駆逐艦3隻と交戦[24]、「竹」は魚雷攻撃で駆逐艦「クーパー」を撃沈した[25](第七次多号作戦)[26]。 内地帰投後の「竹」は、瀬戸内海にあって終戦まで生き残る[27]。戦後は復員輸送艦としての任務にあたった[28]。
戦歴
レイテ島の戦いまで
仮称艦名第5482号艦として、横須賀海軍工廠で建造される[4]。1943年(昭和18年)10月15日、起工[29]。 1944年(昭和19年)1月25日、「竹」と命名される[3]。 同日付で松型駆逐艦(一等駆逐艦)に類別[30]。 3月28日、進水[29]。本籍を横須賀鎮守府に定められる[31]。 4月15日、日本海軍は田中弘国少佐(海兵60期)を[32]、竹艤装員長に任命する[33][注釈 3]。 4月20日、横須賀海軍工廠に竹艤装員事務所を設置し、事務を開始した[38]。 5月6日、可兒祥男大尉(当時、戦艦山城分隊長)が竹艤装員として着任[39]。吹雪型駆逐艦天霧沈没後[注釈 4]、5月16日付で横須賀鎮守府付となった天霧水雷長志賀博大尉(旧姓保坂)も[41]、5月20日付で竹艤装員に補職される[42]。当時の松型2隻(松、竹)は横須賀海軍工廠のポンツーンで艤装工事中であり、元天霧艦長の吉永源少佐は「松」に、元天霧水雷長の志賀は隣の「竹」に着任したという[43]。「松」が出撃したあとは、浮桟橋に松型3番艦「桐」が係留されることになった[43]。
6月16日、「竹」は竣工した[29]。同日付で艤装員事務所を撤去する[44]。田中少佐は制式に竹駆逐艦長となる[45]。主要初代幹部は、航海長高井義助中尉、砲術長可兒祥男大尉、水雷長志賀博大尉(先任将校)、機関長桜井達也中尉、主計長小林義治主計少尉、軍医長湯川真治軍医少尉など[45][46]。
竣工後の「竹」は、訓練部隊の第十一水雷戦隊[47](司令官高間完少将・海軍兵学校41期。当時の旗艦は「長良」)に編入される[48]。6月中は横須賀から動かなかった[49]。7月初旬に横須賀から瀬戸内海へ移動し、秋月型駆逐艦「冬月」や夕雲型駆逐艦「清霜」および松型姉妹艦と訓練をおこなう[50]。7月中旬、門司で物資を搭載、南大東島への輸送作戦に参加する[51](詳細後述)。 7月15日付で、秋月型駆逐艦2隻(霜月、冬月)により第41駆逐隊が、松型駆逐艦4隻(梅、竹、松、桃)により第43駆逐隊(駆逐隊司令菅間良吉中佐)[52] が、それぞれ編制される[14][53]。
7月8日、大本営海軍部は大海指第421号により、連合艦隊に対し陸軍兵力の南西諸島方面輸送を命じた[54]。これを「呂号輸送」(ろ号作戦輸送)と呼称する[55]。輸送部隊指揮官は、第十一水雷戦隊司令官であった[56]。 7月16日、軽巡洋艦「長良」(第十一水雷戦隊旗艦)、重巡洋艦「摩耶」、練習巡洋艦「鹿島」[57]、駆逐艦5隻[注釈 5]は中津沖を出撃する[59][60]。輸送部隊は、第一輸送隊(長良、鹿島、冬月、清霜、竹)、第二輸送隊(摩耶、朝雲、浦風)[61]、沖縄~大東島輸送の第三輸送隊(冬月、清霜、竹)にわかれていた[62]。
7月17日、呂号作戦部隊は沖縄中城湾に到着した[63][64]。 宮古島に向かった第二輸送隊は内地に帰投せず[62]、そのままマニラ経由でリンガ泊地へ向かった[60]。 冬月駆逐艦長指揮下の第三輸送隊は南大東島への緊急輸送任務を行う[62][65]。 その後、第二輸送隊を除く各艦は予定の輸送任務を終えて19日午前1時に中城湾を出港し[62]、20日-21日に呉へ帰投した[66]。 任務を完遂し、「ロ」号作戦輸送部隊は解散した[67]
8月1日、連合艦隊は第五艦隊(第二十一戦隊、第一水雷戦隊)と第十一水雷戦隊等により第二遊撃部隊(指揮官は第五艦隊司令長官志摩清英中将)を新編し、機動部隊に編入した[68]。 沖縄方面輸送を終えた「竹」と夕雲型駆逐艦「清霜」に対し、パラオ方面緊急輸送の任務が与えられる[69]。 8月10日、駆逐艦2隻(清霜、竹)は柱島泊地を出港し[70]、馬公市を経由してフィリピンに進出する[71]。8月16日にマニラに到着[72]。8月17日からの本艦は「清霜」の指揮を受けてパラオ方面への輸送作戦とセブへの引揚者輸送任務に就く[73]。 翌18日午前3時頃、パラオ方面輸送作戦従事中の軽巡洋艦「名取」が[74]、ミンダナオ島ダバオ北東で[75]、アメリカ潜水艦ハードヘッド (USS Hardhead, SS-365) の雷撃で大破[76]、避退中に沈没した[17]。本艦を含む5隻(清霜、竹[77]、鬼怒、時雨、浦波)が名取救援を命じられて現場にむかった[17]。名取捜索隊は遭難者を発見できず、セブ島に帰投した[18]。 「清霜」はパラオにむかい[71]、「竹」は南西方面艦隊の指揮下で船団護衛任務に従事する[78]。
つづいて「竹」は、別艦の救援任務に従事する。パラオ諸島北部のガルワングル環礁で座礁中して行動不能になった白露型駆逐艦「五月雨」の救援を命じられた[注釈 6]。8月26日夜、ガルワングル環礁に到着した「竹」は「五月雨」より生存者を収容した[81]。大熊安之助少佐(五月雨駆逐艦長)と田中少佐(竹駆逐艦長)は海兵同期であり、田中の説得により大熊も退艦して「竹」に移乗した[82]
輸送作戦中の8月20日、日本海軍は第三水雷戦隊の残余と松型駆逐艦を基幹として[15]、第三十一戦隊(司令官江戸兵太郎少将[83]、海兵40期)を新編した[84]。第43駆逐隊も第三十一戦隊に編入される[85]。「竹」は燃料補給と「五月雨」乗組員を降ろすためセブ島に立ち寄り、その後パラオに向った[86]。
8月30日からは南西方面艦隊(司令長官三川軍一中将・海兵38期。第三南遣艦隊司令長官兼務)の指揮下に入り、マニラと各地との間で船団護衛に従事した[87][88]。 10月4日、「竹」はミリ行きのマミ11船団を護衛してマニラを出港したが、翌5日にミンドロ海峡でアメリカ潜水艦コッド (USS Cod, SS-224) の雷撃により「辰城丸」[89](辰馬汽船、6,886トン)を失った[90]。14日ミリに到着して[91] マニラに帰投後、10月20日深夜23時40分には高雄行きのマタ30船団の護衛でマニラを出港した[92]。この船団部隊は指揮官が座乗する神風型駆逐艦「春風」[93]の名前を取って別名「春風船団」と呼称されていた[94]。 10月23日夕方[95]、マタ30船団はルソン島ボヘヤドール岬北西沖で元特設水上機母艦「君川丸」(川崎汽船、6,863トン)がアメリカ潜水艦ソーフィッシュ (USS Sawfish, SS-276) の雷撃で沈没したのを手始めに、船団加入船12隻のうち9隻が潜水艦の波状攻撃により沈没する惨敗を喫した。このうち「阿里山丸」には捕虜1500名が乗船していたが[96]、米潜水艦に撃沈されてしまった[97][98]。「竹」は残存船舶を誘導して損害を食い止め[99]、また遭難者の救助に従事した[100]。「春風」はアメリカ潜水艦シャーク (USS Shark, SS-314) を撃沈して一矢報いた[101]。「竹」水雷科の茂呂(水兵長)によれば、「春風」より輸送船(艦名不詳)曳航の命令があったが、曳航作業前に対象の輸送船を見失い、単艦で高雄へ向ったとしている[102]。また高雄到着後もバシー海峡に出動し、遭難者約400-500名を救助してルソン島サンフェルナンドに送り届けたと回想している[103]。
多号作戦
第三次・第五次多号作戦
最前線にいた「竹」は10月18日夕刻発動の捷一号作戦[104]と20日から始まったレイテ島地上戦[105]に関わる事となり[106]、三度にわたってレイテ島西岸オルモックへの陸軍兵力輸送作戦(多号作戦)に参加することとなった[107]。 作戦直前、田中少佐(竹駆逐艦長)が病気で退艦、マニラ海軍病院へ入院した[注釈 7]。11月3日、飯村忠彦少佐(海兵65期)が竹臨時艦長に任命される[109][110]。飯村少佐は、レイテ島輸送作戦で沈没した軽巡洋艦「鬼怒」[111][112]の航海長であった[113][114]。 一方、田中少佐(竹駆逐艦長)は呉鎮守府付となる[115]。 日本海軍は、宇那木勁少佐(海兵64期)[32]を「竹」駆逐艦長に任命した[115][注釈 8]。宇那木少佐は軽巡「五十鈴」や松型3番艦「梅」を乗り継いで内地からマニラへ移動しており、実際の着任は遅れた[118]。このため「竹」は飯村駆逐艦長の指揮下で多号作戦に従事する[113]。
飯村新艦長を迎えた翌日以降[119]、米軍機動部隊艦上機のマニラ湾空襲により第二遊撃部隊(第五艦隊)旗艦の重巡「那智」が沈没した[120][注釈 9]。 11月9日午前3時、「竹」は第三次多号作戦部隊に加わってマニラを出撃する[124][125]。 第三次多号作戦部隊の指揮官は[126]、第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将(海兵44期)であった[127]。 駆逐艦4隻(島風[注釈 10]、初春[注釈 11]、浜波[注釈 12]、竹 )、第46号駆潜艇および第30号掃海艇と共に輸送船5隻[注釈 13]を護衛してマニラを出港した[132]。
翌10日午前10時、南西方面艦隊司令長官は「初春」と「竹」の所属部隊を入れ替えるよう下令した[注釈 14]。 同日午後、レイテ島からマニラへ帰投中の第四次多号作戦部隊[注釈 15]から駆逐艦3隻(長波、朝霜、若月)を分離、第三次多号作戦部隊の駆逐艦2隻(竹、初春)と入れ替えることになった[139][140]。 11日午前5時ごろ、「初春」と「竹」は第四次多号作戦部隊と合同した[133]。7隻(霞、潮、秋霜、初春、竹、沖縄、金華丸)は18時30分、「せれべす丸」や輸送艦救援に従事した2隻(占守、第13号)は同日深夜[141]、それぞれマニラに帰投した[142][143]。 なお「竹」と「初春」が当初参加していた第三次輸送船団は、オルモック湾での対空戦闘で壊滅する[144]。 駆逐艦「朝霜」を残して全滅した[145][146][注釈 16]。
11月12日、マニラに到着していた隼鷹輸送隊は[注釈 17]、同行していた軽巡洋艦「木曾」を分離する[149][150]。かわりに駆逐艦「時雨」[151]を編入し、内地へ帰投する[152]。「木曾」と「霜月」は多号作戦部隊第一警戒部隊に編入された[153]。 11月13日、マニラ湾は再び空襲をうける[154][155]。 水雷戦隊だけでも5隻(木曾、曙、沖波、秋霜、初春[156])が沈没もしくは大破着底状態となる[157][158]。竹乗組員達は「マニラに帰投して大空襲に出くわした。島風と一緒にレイテに行けば良かった。本艦は運が悪い」と自嘲したが、第三次多号船団部隊が「朝霜」を除いて全滅した事を知り、逆に「竹は強運の艦だ」という印象が広まった[159]。
マニラ大空襲をうけて、第五艦隊司令長官志摩清英司令長官は残存艦艇の退避を南西方面艦隊(司令長官大川内伝七中将)に進言した[160][161]。 同13日深夜、第一水雷戦隊司令官が指揮する残存艦艇(霞、初霜[注釈 18]、朝霜、潮、竹 )[164]はマニラを脱出した[165][注釈 19]。 「竹」はマニラからブルネイに移動する第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将・海兵41期、旗艦「霞」)および「潮」と共に南沙諸島長島に向かい、同地で南方に進出途上の第四航空戦隊(日向、伊勢)や護衛艦(霜月、梅、桐)などと会合[162]、燃料を補給してもらう[注釈 20]。同地で飯村(臨時「竹」艦長)が退艦し、宇那木少佐は便乗中の戦艦「日向」から「竹」に移乗、新任駆逐艦長となる[170][171][注釈 21]。
宇那木艦長を迎えた「竹」は、リンガ泊地へむかう第五艦隊とわかれた[163]。 コレヒドール島沖合でアメリカ潜水艦ヘイク (USS Hake, SS-256) の雷撃で損傷した第三十一戦隊旗艦の軽巡「五十鈴」と途中ですれ違いつつ[173]、マニラに引き返した[174]
11月20日付で第一水雷戦隊は解隊され[175]、一水戦司令官木村昌福少将は第二水雷戦隊司令官に補職される[176]。同20日付で第三十一戦隊は第五艦隊に編入された[177][178]。11月21日、マニラの日本陸海軍は、レイテ島への輸送に第三十一戦隊と高速輸送艦を活用することで一致した[179][注釈 22]。
11月24日、「竹」は第一輸送戦隊(司令官曾爾章少将・海兵44期)の指揮下に入り[注釈 23][182]、第五次多号作戦に参加する[183]。第一梯団[注釈 24]と 第二梯団(竹、第6号輸送艦、第9号輸送艦、第10号輸送艦)としてマニラを出撃した[185][注釈 25]。 ところが先発した第一梯団はマスバテ島南東部カタイガンに避泊中で空襲をうけ[187]、全滅した[188][189][注釈 26]。
翌25日昼[190]、「米機動部隊が接近中」との情報で輸送部隊はタヤバス湾に浮かぶマリンドケ島北西部のバラナカン湾に避泊した[191][192]。 間もなく空襲を受けて第6号輸送艦と第10号輸送艦が沈没する[184][193]。第9号輸送艦も損傷(航海長袴田徳男大尉戦死、砲術長負傷、荷役装置故障)[194][195]。「竹」も至近弾と機銃掃射で損傷し戦死者15名[196]・負傷者60名余を出した他[197][198]、ジャイロコンパスが吹き飛ばされて使用不能となった[199][200]。レイテ島オルモック湾への突入を命じられていたため「竹」幹部は協議をおこなう[200]。先任将校(志賀)は任務遂行を進言、高井義助航海長は「方位磁針を駆使してオルモック湾に向かう覚悟がある」と具申した[201]。機関長は燃料流出を懸念したが「命令なら突入する」と進言、砲術長は反対した[200]。 しかし、第9号輸送艦(艦長赤木毅予備少佐)より「砲術長戦死、航海長負傷、大発動艇卸用ワイヤ切断」との報告を受け[202]、再挙を期してマニラに引き返すことにした[203]。沈没艦の生存者を収容し、11月26日マニラに帰投した[204][205]。 こうして第五次多号作戦は失敗した[206][207][注釈 27]。 宇那木艦長は南西方面艦隊司令部(参謀長有馬馨少将、先任参謀高間正義大佐)に出頭して詫びを入れた[209][210]。「竹」は昼夜兼行で応急修理を行って次期作戦に備えたが、ジャイロコンパスは復旧されずじまいだった[209][注釈 28]。
第七次多号作戦・クーパー撃沈
第六次多号作戦が予想以上の成功をおさめたので[212]、日本軍は第七次多号作戦を実施した[213][214][注釈 29]。
第七次多号作戦部隊は[注釈 30]、 第一梯団[222]、第二梯団、第三梯団と第四梯団にわかれていた[26][223]。 本艦は第七次多号作戦において松型駆逐艦5番艦「桑」(駆逐艦長山下正倫中佐、海兵53期)の指揮下に入った[224]。 12月1日午後6時[219]、駆逐艦2隻(桑、竹)、第9号輸送艦、第140号輸送艦、第159号輸送艦という第三梯団/第四梯団でマニラを出撃した[225][226]。「竹」には方面軍作戦参謀田中光祐少佐他数名の陸軍将校が乗艦していたという[227][228]。マニラ湾口で船団部隊は陸軍潜水艦(マルゆ)と遭遇した[229][230]。
12月2日昼間、敵小数機に触接されたが、空襲はなかった[231]。 航行中、酸素魚雷点検および訓練時の事故により魚雷1本を投棄、「竹」の残魚雷は3本となった[232]。 この頃になると、アメリカ軍は妨害のためにレイテから魚雷艇隊をはるばるオルモック方面に派遣するようになっており、11月28日夜半のオルモック襲撃に成功するなど戦果を挙げていた[233]。第7艦隊司令官トーマス・C・キンケイド中将は、続いてオルモック方面に駆逐艦と掃海艇を派遣することとし[233]、これも過去二度の作戦で日本軍潜水艦と小型貨物船を破壊する戦果を挙げていた[233]。そして、三度目の作戦[233] としてアレン・M・サムナー (USS Allen M. Sumner, DD-692)、モール (USS Moale, DD-693) そしてクーパー (USS Cooper, DD-695) がオルモック湾に差し向けられる事となったのである[234]。 アレン・M・サムナー、モールおよびクーパーの第120駆逐群(ジョン・C・ザーム大佐)[235] は18時30分にレイテ湾を出撃し[235]、オルモック湾に急行した[236]。出撃して間もなく、セブから飛来してきた戦闘八〇四飛行隊の月光や第一四一航空隊の瑞雲(水上爆撃機)に付きまとわれ[237]、爆撃と機銃掃射によりモールは2名の戦死者と22名の負傷者を出した[238][注釈 31]。また、アレン・M・サムナーおよびモールの船体にも若干の損傷が生じた[236]。
12月2日夜、船団はオルモック湾に到着して揚陸を開始した[219]。大発が輸送艦と陸上を往復して物資を揚陸させている頃、「竹」には第三次多号作戦で沈没した「島風」の上井宏艦長(海兵51期)や機関長上村嵐大尉、第二水雷戦隊の松原瀧三郎先任参謀(海兵52期)などが収容されていた[236][240]。その後、「竹」は南西方向の、「桑」は南方の哨戒を開始した[241][242]。「桑」が担当していた南方の海上では第120駆逐群がオルモック湾に入りつつあり、ザーム大佐は日本側の雷撃を警戒して、艦を横に広がらせた横陣の隊形で湾内に入っていった[243]。オルモック湾に入った第120駆逐群は11,000メートル先の目標を狙い、まずクーパーが砲撃を開始した[244]。この時までに「桑」も第120駆逐群を発見し、発光信号で敵艦発見を「竹」に知らせた[245][246]。「桑」側は敵戦力を軽巡洋艦3隻と判断、照射砲撃と魚雷戦を開始した[247]。 12月3日午前0時30分頃より交戦がはじまる[219]。最初の交戦はおよそ9分で決着がつき[248]、駆逐艦主砲弾多数を被弾した「桑」は沈没した[249]。第120駆逐群は次の目標を「竹」と定め、モール、アレン・M・サムナー、クーパーの順番で砲撃を開始した[248]。「竹」は12.7cm 高角砲、25mm 機銃、酸素魚雷で「敵巡洋艦(駆逐艦の誤認)」に反撃を行った[250]。オルモック湾内を24ノットで航行・機動するため、座礁を懸念しながら戦闘をおこなった[251][252]。
最初の雷撃態勢は、宇那木艦長が砲撃による閃光で目がくらみ[246]、また電気機器の故障により発射の機会を逃した[252]。二度目の機会を得て魚雷2本を発射する[252]。四番連管は起動弁の故障で発射できなかった[253]。「竹」の水雷長志賀博大尉(海兵68期)が双眼鏡で第120駆逐群を観測していたが、やがて視界内の左端にいた駆逐艦が大きな火柱を吹き上げるのを目撃した[252][254]。魚雷はクーパーの右舷に命中し、船体をV字に折られたクーパーは1分以内に沈没した[255]。この後、「竹」は修理が終わった四番連管から魚雷1本を単独発射したが、こちらは命中しなかった[252][256]。 一方、モールは「竹」の前部機械室に命中弾を与えた(負傷者1名)[257]。不発だったが浸水のため右舷1軸運転となり[258]、「竹」は最大で左舷に30度も傾いた[259][260]。しかし、「竹」もモールに高角砲弾を複数発命中させた[254]。クーパー轟沈を「潜水艦からの雷撃」と錯覚していた米駆逐艦2隻[252](モール、サムナー)は戦場から避退した[注釈 32][注釈 33]。これ以上の戦闘は行われなかった。
やがて第9号輸送艦から揚陸完了の報告を受け、缶に使用する真水の在庫が底を尽こうとしていた「竹」は30度傾いた状態のまま、第9号輸送艦から真水の供給を受けた[266][267]。同時に二水戦参謀が第9号輸送艦に移乗した[268][269]。 夜明けまで残2時間となった時、第140号輸送艦および第159号輸送艦からも揚陸完了の報告を受けた「竹」は、第140号輸送艦および第159号輸送艦を先発させる[269]。宇那木艦長はオルモックの陸上部隊に「桑」の生存者救助を要請した[269]。 12月3日3時に第9号輸送艦を率いてオルモック湾を出発[270]。「桑」の生存者救助は、「竹」が中破して片舷航行の上、サーチライトを使わずに作業する事の難しさや、日が昇ってからの空襲を避けることを考慮して断念された[266]。海面の桑生存者は通り過ぎる「竹」に救助を要請したが、竹側は「大発動艇がくるから頑張れ」と返答して過ぎ去った[271]。すると最後尾の輸送艦[注釈 34]が反転し、桑生存者8名を収容した[273]。また生存者の一部はカッターボートで上陸、現地の海軍陸戦隊に合流した[274]。
途中で傾斜を回復させた「竹」は12月4日午後、マニラに帰投した[275][276]。マニラでは松型姉妹艦3隻(梅、桃、杉)が第八次多号作戦の出撃準備をおこなっており、「杉」では満身創痍の「竹」をみて作戦の困難さを悟ったという[277]。 マニラ港では、曾爾少将(輸送戦隊司令官)が桟橋まで出迎え、宇那木艦長と握手を交わした[268]。続いて宇那木艦長は南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将(海兵37期)から賞詞を受け、さらに差し向かいで夕食を馳走になった[268][278]。宇那木艦長は後に、クーパー撃沈の戦いを「オルモック夜戦」と呼ぶ事を提唱した[278]。また、宇那木艦長が、収容した便乗者の中に「島風」や第二水雷戦隊の関係者の名前があることを知ったのは、1968年(昭和43年)のことだった[242]。なお、クーパー撃沈は日本駆逐艦が雷撃によって敵艦を撃沈した最後となった[279]。 12月5日から14日まで応急修理を行ったが[280]、機関が修復できなかったために船速が上がらず、このことから作戦への再投入を免れて佐世保での回航修理が命ぜられた[281]。
終戦まで
12月14日以降、米軍機動部隊はルソン島各地に空襲をおこなった[282] 本格的な修理を受けるため「竹」も12月15日にマニラを出港する[283][284]。この時猛烈な台風(コブラ台風)に遭遇した[285][注釈 35]。 18日に高雄に寄港し、次いで21日に基隆に寄港する[287][288]。同日夜、「竹」は同地からの「辰春丸」(辰馬汽船、6,344トン)他2隻の輸送船団(タモ船団)を護衛して基隆を出港した[289][290]。中国大陸沿岸部や朝鮮半島南岸部の島々の間を縫って北上し、1945年(昭和20年)1月1日に門司港外に到着した[291]。 翌1月2日、「竹」は呉海軍工廠に移動する[291]。当初の予定では1月末から2月初頭[292]、次いで2月16日に修理完了となって10日程度で出撃準備が整う事になっていたが[293]、予定は延びて3月15日まで修理を行った[294][注釈 36]。
「竹」が修理中の1月中旬、第三十一戦隊司令部(司令官鶴岡信道少将)はマニラから台湾高雄に移転していた[295]。 2月5日付で第五艦隊が解隊されて第十方面艦隊が新編され[296]、第一輸送戦隊と第三十一戦隊は連合艦隊付属となった[295][297]。第43駆逐隊司令も菅間良吉大佐から吉田正義大佐[298]を経て作間英邇大佐に交代していた[299]。第三十一戦隊司令部も内地にもどった。 3月15日、第三十一戦隊は第二艦隊に編入された[300]。 その間、「竹」は2月28日から3月18日まで臨時に第三十一戦隊の旗艦を務めた[301]。これ以降、第三十一戦隊旗艦は秋月型駆逐艦「花月」となった[302]。 3月19日の呉軍港空襲で、「竹」は10名余の負傷者を出した[303]。4月16日から26日にかけての修理工事では、三式探信儀などが装備された[304]。
4月20日、第二艦隊と第二水雷戦隊が解隊され、第三十一戦隊は連合艦隊付属にもどった[305]。 4月29日から「楓」とともに回天との訓練に参加した後[306][307]、「竹」は後甲板に回天の発射台を設置する工事を行った[308][注釈 37]。5月上旬、B-29の水平爆撃を受ける[309]。 5月20日、連合艦隊は第三十一戦隊と軽巡洋艦「北上」(人間魚雷「回天」母艦)を基幹として海上挺進部隊を新編、第43駆逐隊も同部隊に所属した[310]。戦況悪化によって温存策が取られる事となり、「竹」は第43駆逐隊各艦(榧、槇)等とともに屋代島日見海岸に偽装係留し、最後の出撃の時まで待機することとなった[311][312]。屋代島柳井側には僚艦(花月、桐、蔦)も艤装繋留されていた[311]。 樹木と網で偽装した3隻(竹、槇、榧)はついに攻撃される事なく[311][313]、8月15日の終戦時には航行可能な状態で残存した[314]。「竹」は僚艦とともに呉に回航されてアメリカ海軍に接収された後[315][316]、10月25日に除籍[13][注釈 38]。
戦後
戦後の「竹」は1945年(昭和20年)12月1日、横須賀地方復員局所管の特別輸送艦に定められ[318]、行動可能な他の艦船と同様復員輸送に従事し、第1回から第4回の輸送ではポンペイ島(ポナペ島)と浦賀間を二度往復し[319][注釈 39]、次いでパラオと浦賀間を一往復[319]、サイパン島から同島在住の沖縄県民を沖縄本島まで輸送した[322]。第5回輸送からは上海および葫芦島と日本の間を往復し、中国大陸および旧満州国方面からの復員輸送に従事した[323]。葫芦島からの輸送の際、艦内にコレラ患者が出て病死する引揚者が出たため、防疫のため1ヵ月間隔離された事もあった[324]。1946年に復員輸送を終え同年7月26日に特別保管艦に指定[325] され、横須賀地方復員局特別保管艦艇第三保管群に属して横須賀に繋留[326] された。1947年(昭和22年)7月16日には特別輸送艦の定めを解かれ[327]、イギリスに賠償艦として引き渡され解体された。
歴代艦長
- 艤装員長
- 駆逐艦長/艦長
- 田中弘國 少佐:1944年6月16日[45] - 1944年11月1日[115](マニラ海軍病院入院)
- (臨時)飯村忠彦 少佐:1944年11月3日(着任4日)[113] - 1944年11月14日(11月15日付で鬼怒航海長免職)[172]
- 宇那木勁 少佐/第二復員官:1944年11月1日任命[115] - 艦長 1945年12月20日[328] - 退任年月日不明[329]
- 伊東謹之助[330] 復員事務官:就任年月日不明[329] - 1946年10月30日[331]
- 市來崎秀丸 復員事務官:1946年10月30日[331] - 1947年2月20日[332]
- 南部伸清 復員事務官:1947年2月20日[332] - 1947年3月10日[333]
- 福島榮吉 復員事務官:1947年3月10日[333] - 1947年7月16日[334]
脚注
注釈
- ^ パラオ方面輸送任務従事中の「名取」は[16]、8月18日に潜水艦の雷撃で沈没した[17]。「竹」を含む名取捜索隊は遭難者を発見できず、20日にセブ島へ帰投した[18]。
- ^ 輸送作戦中の「五月雨」は8月18日未明にパラオ諸島で座礁した[17]。その後、米潜水艦の雷撃で破壊される[19]。26日、「竹」は放棄された「五月雨」から乗組員を収容した[20]。
- ^ 田中少佐(竹艤装員長)は[33]、重巡洋艦衣笠水雷長(昭和17年4月[34]~第三次ソロモン海戦での沈没時)[35]、駆逐艦呉竹艦長[36][37] 等を歴任していた。
- ^ 駆逐艦天霧は南西方面で輸送任務中の4月23日、機雷によって沈没した[40]。
- ^ 浦風型駆逐艦[58](浦風、朝雲、清霜)、十一水戦(冬月、竹)。
- ^ パラオの邦人引き揚げ任務についていた5隻(重巡青葉、軽巡鬼怒、駆逐艦浦波、時雨、五月雨)のうち3隻(鬼怒、時雨、五月雨)で別動中[79]、8月18日未明にガルワングル環礁で「五月雨」が座礁した[80]。離礁作業に手間取るうちにアメリカ潜水艦バットフィッシュ[19] (USS Batfish, SS-310) の雷撃で船体が断裂した[20]。
- ^ 肺結核もしくは肋膜炎であったという[108]。
- ^ 宇那木は、駆逐艦旗風航海長[116]、吹雪型駆逐艦2隻(磯波、浦波)の水雷長[116][117]等を歴任していた。当時は松型駆逐艦椿艤装員長であった[115]。
- ^ 那智救援中の駆逐艦「曙」(第7駆逐隊)が大破した[121][122]。駆逐艦「沖波」も損傷して作戦から外された[123]。
- ^ 第二水雷戦隊旗艦。
- ^ 初春駆逐艦長は大熊安之助少佐[128]、8月26日に竹が救助した五月雨艦長である。
- ^ 第32駆逐隊司令大島一太郎大佐座乗[129]。
- ^ 内訳:せれべす丸、泰山丸、西豊丸、天照丸、三笠丸[130]。第26師団将兵約2,000名と軍需品を輸送する[131]。
- ^ 11月10日1009(南西方面部隊)NSB電令作第740号 初春、竹、十日一四〇〇第三次輸送部隊ヨリ分離 以後「マニラ」帰還迄第四次輸送部隊ニ編入ス[133]。
- ^ 指揮官は第一水雷戦隊司令官木村昌福少将:駆逐艦(霞〈一水戦旗艦〉、秋霜〈中破、艦首切断〉[134]、潮、朝霜、長波、若月)[135]、第四護衛船団司令官松山光治少将が指揮する海防艦(占守、沖縄、第13号海防艦)など[136]。オルモック湾での対空戦闘で、輸送船2隻と第11号海防艦が沈没していた[137][138]。
- ^ 島風沈没時に早川幹夫第二水雷戦隊司令官も戦死した[147]。「朝霜」は12日マニラに帰投した[148]。
- ^ 空母隼鷹、重巡利根(ブルネイから同行)、軽巡木曾、第30駆逐隊(卯月、夕月)[149]。
- ^ 志摩長官以下、第五艦隊司令部は初霜に乗艦した[162]。初霜と朝霜はブルネイに直行し[162]、同地で第五艦隊旗艦は重巡「足柄」となった[163]。
- ^ 第四次多号作戦に参加した海防艦達も14日午前2時にマニラを出発[166]、ボルネオ島北西のラブアンにむかった[167]。
- ^ (昭和19年11月17日)[168]〔 2YB電令により支援部隊5F(足柄)4Sf 榛名 大淀×4はリンガに回航の事となる。31S(五十鈴、槇、桑、杉、桃)マニラに向ふ。4Sf、霜月、梅、桐は長島錨地に向ふ。1600入泊。1sd、霞、潮、竹、同地にあり各艦に燃料を補給す。〕[169]
- ^ 飯村少佐は15日付で鬼怒航海長の職務を解かれた[172]。
- ^ 〔 差当リ目標ヲ「ブラウエン」ノ地上制圧態勢ヲ占ムルコトニ置キ第三十一戦隊ノ一部、SB、SS等ヲ骨幹トシ 海上「トラック」以下ヲ加ヘタル確実ナル輸送力ヲ以テ現「レイテ」部隊ノ戦力増強竝ニ第六十八旅団ノ投入ヲ行ヒ 之ト密接ナル航空作戦ヲ遂行 遅クトモ十二月初頭迄ニ其ノ目的ヲ達成シ 此ノ間敵ヲ爆撃制圧ノ成果ヲ利用シ大型船ニ依ル輸送力一段ノ増強ヲ行ヒ「ブラウエン」制圧効果ト相俟ッテ益々航空威力ヲ発揮シ「レイテ」ノ敵主力撃滅ニ必要ナル兵力輸送ニ転ス 〕[180]。
- ^ ただし、本来「竹」に乗艦する予定であった曾爾章少将は後の船の段取りを取るためマニラに残り、代わりに宇那木勁艦長が指揮官を任されている[181]。
- ^ 第一梯団は二等輸送艦3隻(111号、141号、160号)と第46号駆潜艇で編成されていた[184]。
- ^ 輸送物件は、第三次多号作戦で座礁した「せれべす丸」等の陸軍部隊や、軍需品であった[186]。
- ^ マニラへ帰投中の第46号駆潜艇も、翌25日に空襲で沈没した[184]。
- ^ この時期、僅かながらレイテ島輸送に成功したのは陸軍潜水艦「マルゆ」のみであった[208]。
- ^ 第九号輸送艦では、マニラ空襲で沈没した駆逐艦沖波の航海長だった佐々木幸康大尉が新航海長に任命され[211]、作戦準備を整えた[195]。
- ^ ただし第六次多号作戦部隊は揚陸地点および帰路に魚雷艇と空襲により全滅した[215]。
- ^ 第一梯団:陸軍SB艇3隻(5号、11号、12号)、第20号駆潜艇[216]。11月29日マニラ発、5号がマスバテ島に座礁したが[217]、他はセブ島を経由して30日レイテ島オルモック南方4kmのイピル着、揚陸成功[218](第20号駆潜艇は駆逐艦長波生存者72名を収容)[219]
第二梯団:陸軍SB艇2隻(10号、14号)、11月30日マニラ発、12月1日レイテ島パロンポン北方のシラド湾着[220]。
第三梯団:海軍輸送艦2隻(140号、159号)
第四梯団:第9号輸送艦、駆逐艦2隻(桑、竹)[221]。 - ^ 『南海の死闘』151-155頁、第十一章「オルモック夜戦の戦訓と戦果」宇那木勁(「竹」艦長)[239]。
- ^ オルモック対岸のセブ島には第33特別根拠地隊[261](司令官原田覚少将)[262]があり、特殊潜航艇甲標的による作戦を実施していた[263][264]。
- ^ 11月27日未明には、レイテ島近海でフレッチャー級駆逐艦4隻が「マルゆ2号艇」と交戦、撃沈している[265]。
- ^ 『地獄のレイテ輸送作戦』98ページでは140号輸送艦が救助と記述する[272]。
- ^ 付近ではウィリアム・ハルゼー提督率いる第3艦隊 (アメリカ軍)が嵐に翻弄され、駆逐艦3隻が転覆するなど大損害を受けている[286]。
- ^ 田村、134頁。ただし、『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 6-9、53-56頁 では3月15日の時点で修理は終わらず、4月28日まで継続されている書き方となっており、『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 65頁 にも「修理ヲ続行中」とある。
- ^ 田村、134頁。136頁では、その期間を5月から6月25日までの間と推定している。
- ^ 本艦竣工時より竹水雷長だった志賀博(旧姓保坂)大尉は[45]、敷設艇「巨済」艦長に転じた[317]。
- ^ 第一回:10月25日に呉出発、グアムで燃料補給し、11月6日ポナペ島着、11月8日発、グアム経由、11月16日浦賀着[320]。第二回:12月4日浦賀発、グアム経由、12月12日着(浦賀着日時不明)[321]。
出典
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- ^ 戦史叢書17 1968, p. 49b.
- ^ 戦史叢書37 1970, p. 387a「摩耶」等
- ^ #S1904呉鎮日誌(4) p.50〔 一一(天候略)鹿島ハGF指揮下ニ入リ「ロ」號作戰輸送部隊ニ編入セラル 〕
- ^ #ろ号作戦 p.26〔 (イ)艦艇ノ搭載量標準ニ関シ 艦艇ヲ以テスル作戰輸送時ニ於ケル搭載量ノ決定ハ中々至難ニシテ特ニ陸軍ノ場合圓滑ナル作戰實施ノ一障害ヲナスヲ以テ速ニ現艦艇ノ搭載量標準ヲ規定スルノ要アリ 之ニ関聯シ今回實施セル作戰輸送時當司令部ニテ決定セル各艦ノ搭載標準ハ左表ノ通ニシテ作戰輸送トシテノ各艦ノ畧限度ナリト認ム 〕〔 摩耶|人員(数)一〇〇〇|物件(噸)一七〇/長良|六〇〇|三〇/鹿島|七〇〇|一〇〇/浦風型|二〇〇|四〇/冬月|二五〇|五〇/竹|/|三〇 〕
- ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 37頁、#S1804呉防戦(7) p.27〔 一六(天候略)引續キ各隊対潜警戒及掃蕩実施「ロ」號作戰輸送部隊出撃 〕
- ^ a b #S1907十戦隊日誌(1) p.5〔 (2)朝雲 月頭ヨリ呉ニ於テ整備補給ニ従事中ノ所四日附属部隊ニ編入十日附第十駆逐隊解隊ニ伴ヒ第四駆逐隊ニ編入十四日浦風ト共ニ同地発即日門司着「ロ」號作戰輸送部隊第二輸送隊トシテ陸軍部隊竝ニ物件搭載ノ上同地発中津沖及中城湾ヲ経テ十八日宮古島着陸軍部隊竝ニ物件ノ揚陸ヲ終了「ロ」號作戰輸送部隊ノ編制ヲ解カレ即日同地発二十日「マニラ」着補給ノ上二十三日同地発二十六日「リンガ」着… 〕、同部隊戦時日誌 p.37〔 一八(天候略)〇七二一朝雲〇九五二浦風宮古着/〇八四五雪風因島船渠出渠/〇九二五朝雲一〇三〇浦風摩耶護衛「マニラ」ニ向ケ宮古発 〕
- ^ 戦史叢書37 1970, p. 387b.
- ^ a b c d 戦史叢書17 1968, p. 50.
- ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 38頁
- ^ 日本軽巡戦史 1989, pp. 539–540ロ号輸送の鹿島(八月)
- ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 39頁
- ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 39,45頁、#S1907十戦隊日誌(1) p.8〔 (2)冬月 十五日附霜月ト共ニ第四十一駆逐隊ニ編入南西諸島方面陸軍部隊輸送ニ従事中ノ所二十一日右任務終了内地着二十二日司令駆逐艦トナリ爾後月末迄内海西部ニ於テ諸訓練ニ従事ス 〕
- ^ #S1904呉鎮日誌(4) p.39〔 十九日一八一四GF|十九日二二五〇鹿島 11sd(呉鎮)(外)|GF電令作第三一八號 「ロ」號作戰輸送部隊ノ内海西部着以後同部隊ノ編制ヲ解ク 11sdハ内海西部ニ於テ訓練整備ニ從事シ鹿島ハ原隊ニ復歸スベシ 〕、#S1812呉練習戦隊(2) p.15〔 (二)鹿島七月九日附一時聯合艦隊司令長官ノ指揮下ニ入レラレタルニ依リ旗艦ヲ出雲ニ變更實務練習ノ爲鹿島ニ配乗スベキ海軍豫備學生出身海軍少尉(實習員)ヲ出雲 磐手 八雲ニ分乗セシム、七月二十日鹿島任務解除ニ依リ同艦ニ復皈セシメタルノ外實務練習教育ハ順調ニ行ハレツツアリ 〕
- ^ 戦史叢書37 1970, p. 370第二遊撃部隊(第五艦隊)/編成
- ^ 南海の死闘 1994, pp. 87–95パラオ島緊急輸送と不測の事態
- ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 16、20頁
- ^ a b 海軍兵科将校 1985, pp. 144–145.
- ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 25頁
- ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 26頁
- ^ 戦史叢書37 1970, p. 80.
- ^ #S1907十六戦隊日誌(1) p.28〔 十八日〇三三〇名取艦長(宛略)名取機密第一八〇三三〇番電 雷撃ヲ受ク一本命中〇二四〇 12°15′N129°21′E損害大今ノ處沈没ノ虞ナシ航行不能 〕
- ^ 軽巡海戦史 2017, pp. 124–126▽名取
- ^ 南海の死闘 1994, p. 88.
- ^ 海軍兵科将校 1985, pp. 144–146.
- ^ 日本軽巡戦史 1989, pp. 543–545.
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- ^ 秋月型(潮書房) 2015, pp. 266–267.
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- ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 27頁
- ^ 海軍兵科将校 1985, pp. 146–147.
- ^ 雨倉、95頁
- ^ 南海の死闘 1994, pp. 91–93.
- ^ #S1910経過(護衛対潜) p.2(昭和19年10月)〔 5|1430|辰城丸(B6900t 部隊350t fk|マニラ西南方ニ於テ被雷沈没 マニラ→ミリ接岸南下中 〕
- ^ 『第一海上護衛隊戦時日誌』、67頁、駒宮『戦時輸送船団史』、273頁
- ^ 『第一海上護衛隊戦時日誌』、67頁
- ^ 『第一海上護衛隊戦時日誌』、60頁;駒宮『戦時輸送船団史』、279頁
- ^ 南海の死闘 1994, pp. 94–97悲惨、痛恨の「マタ」船団
- ^ 木俣『敵潜水艦攻撃』、130頁
- ^ #S1910経過(護衛対潜) p.6(昭和19年10月)〔 23|1730|君川丸(B貨6900t)ルソン海峡西部ニテ(潜水艦)(魚雷)|沈「マニラ」→高雄 〕
- ^ 南海の死闘 1994, pp. 97–98遭難捕虜の心情は…
- ^ 海軍兵科将校 1985, pp. 147–149無念の歯がみ
- ^ 志賀、ネービーブルー 1989, pp. 97–98(志賀によれば船体に緑十字が描かれていた)
- ^ 木俣『日本水雷戦史』、581頁
- ^ 志賀、ネービーブルー 1989, p. 99.
- ^ 木俣、駆逐艦入門 2006, pp. 294–295.
- ^ 南海の死闘 1994, pp. 98–100遭難船を曳航せよ!!
- ^ 南海の死闘 1994, pp. 100–102またしても遭難船救助命令
- ^ 戦史叢書56 1972, pp. 33–36大本營、比島方面決戦実施を指示
- ^ 戦史叢書56 1972, pp. 39–43レイテ島への本格的上陸
- ^ 戦史叢書56 1972, pp. 519–521新実施計画(第三次~第七次)
- ^ 南海の死闘 1994, pp. 102–103多号作戦発令「竹」参戦せよ!!
- ^ 海軍兵科将校 1985, pp. 154–156.
- ^ 佐藤、艦長続篇 1995, p. 187.
- ^ 南海の死闘 1994, pp. 104a-105田中艦長退艦?飯村少佐臨時艦長?
- ^ 日本軽巡戦史 1989, pp. 585–587鬼怒、沈没(十月二十六日)
- ^ #S1910経過(護衛対潜) p.8(昭和19年10月、レイテ沖海戦)〔 16S|日没后/25 カガヤンニテ陸兵搭載/AM/26 オルモック突入2ヶ大隊揚陸成功/1055/26 パネイ島NE端ニテ敵(飛行機)約40ノ空襲ヲ受ク 鬼怒1730 浦波1224沈没 〕
- ^ a b c 軽巡海戦史 2017, p. 66.
- ^ 岸見勇美 2010, p. 28.
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- ^ 佐藤、艦長続篇 1995, p. 186.
- ^ 岸見勇美 2010, p. 38.
- ^ 南海の死闘 1994, pp. 105–106多号作戦準備急げ!!
- ^ 撃沈戦記 2013, pp. 163–166マニラ湾燃ゆ
- ^ 戦史叢書56 1972, pp. 521–524米機動部隊のルソン来襲
- ^ #S士官の手記 pp.22-23〔 5/11 多號作戰待機中ノ1sd 2sdノ主力「マニラ」港内ニ集結船團モ多數碇泊セルモ敵機ハ主目標ヲ「ニコラス」飛行場及防波堤外ノ艦船ニ向ケ防波堤内ノ艦船ニハ攻撃ヲ殆ド加ヘズ堤外ニテ之ノ敵ヲ砲撃セシモノ那智、沖波他ニ驅潜艇一商船一、〇七三〇頃六〇機來襲、一〇〇〇百機來襲、一二〇〇 四〇機、一四三〇 八〇機來襲此ノ日ノ戰闘ハ快晴ナレドモ雲低ク敵機ハ之ヲ利用シ急降下ス、激烈ヲ極メシ戰闘ヲ續ケ沖波機銃員ノ被害漸大、被爆ノ爲電灯消ユ、機械一時停止主砲人力等最後ノ空襲ニ依リ艦長重傷一六〇〇那智救助ニ向ヒ間モナク來着セル病院船ト協力、全部救助、沖波戰死十籔名、重輕傷多數、艦長入院、翌日ノ被攻撃ヲ避ケ出港、戰果撃墜二機 〕
- ^ 戦史叢書56 1972, p. 536.
- ^ 南海の死闘 1994, pp. 107–109「竹」多号作戦初出撃
- ^ 戦史叢書56 1972, pp. 535–541第三次輸送部隊の行動、船団全滅す
- ^ #S1911経過(護衛対潜) p.3(昭和19年11月)〔 9| |多号作戰部隊第三次輸送部隊(司令官/2Sd 島風 浜波 w×1 ch×1 低速船5隻)0500マニラ発 1200/11オルモック突入ノ予定 GF右作戰ニ策應1YBノ大部ヲ以テスル―海又ハミンダナオ海方面ニ進出輸送船団ノ間接護ヱニ任ゼシム 〕
- ^ 「昭和19年10月6日(発令10月1日付)海軍辞令公報(甲)第1612号 p.29」 アジア歴史資料センター Ref.C13072101400
- ^ 戦史叢書56 1972, p. 539.
- ^ 戦史叢書41 1970, p. 413(第三次多号船一覧)
- ^ 戦史叢書41 1970, pp. 429–430第四次、第三次多号経過概要
- ^ 岸見勇美 2010, pp. 43–46壮絶、第三次輸送部隊
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- ^ 戦史叢書56 1972, p. 534.
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- ^ 日本海防艦戦史 1994, p. 106.
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- ^ 岸見勇美 2010, p. 44.
- ^ 第13号海防艦戦記 2014, p. 19.
- ^ 戦史叢書56 1972, pp. 541–542第四次、第三次部隊のマニラ帰投
- ^ 『多号作戦戦闘詳報第二号』、16、17頁、38頁
- ^ #S1911経過(護衛対潜) p.4(昭和19年11月)〔 11|1130頃|(多号作戰部隊第三次輸送部隊)敵艦上機約120キノ攻撃ヲ受ク 低速T×4(軍需品ヲ主トシ人員約400名搭載) 島風、浜波、長波、若月、w3? }沈没 朝霜 避退ニ成功 ビサヤン海ヲ西航マニラニ向ケ帰投 〕
- ^ 岸見勇美 2010, pp. 47–50漂流と彷徨
- ^ 戦史叢書56 1972, pp. 538–539二水戦司令官戦死、第二船団全滅
- ^ 戦史叢書93 1973, pp. 62–64軍需品搭載船団の全滅
- ^ 戦史叢書56 1972, p. 542.
- ^ a b 戦史叢書56 1972, p. 544.
- ^ 日本軽巡戦史 1989, pp. 603–605木曽、マニラに死す(十一月)
- ^ #S1910経過(護衛対潜) p.8〔 1YB 時雨(1YB第三部隊)唯一ノ生還艦コロンニ向ケ帰投 〕
- ^ #S1906第30駆日誌(3) p.13〔 12日/1100時雨ト共ニ隼鷹筑摩護衛「マニラ」出港 〕(註:重巡筑摩は既に沈没している)
- ^ #S1909一水戦日誌(2) pp.42-43〔 十日一一〇九(長官)NSB|十日一五四〇捷號作戰部隊桑霜月(司令官)4sf(司令官)31S(六海一部及GF)|機密第一〇一一〇九番電 南西方面部隊電令作第七四一號 一.マニラ着後第四航空戰隊(日向伊勢)ヲ多號作戰部隊支援部隊ニ木曽霜月ヲ第一警戒部隊ニ第三十一戰隊(五十鈴梅桃桐)桑杉ヲ護衛部隊ニ編入/二.沖波曙早霜ヲ多號作戰部隊警戒部隊ヨリ除キ支援部隊ニ編入 以下略 〕
- ^ 岸見勇美 2010, pp. 50–54マニラ湾の地獄
- ^ 戦史叢書93 1973, pp. 65–66マニラ在泊艦船の被害甚大
- ^ 秋月型(潮書房) 2015, pp. 267–269炎の海にのまれた初春
- ^ 戦史叢書56 1972, pp. 543–546十一月十三日の空襲、「木曾」、駆逐艦等の沈没
- ^ #霞詳報(マニラ空襲) p.7〔 木曾沈没着底、沖波沈没着底 〕、#捷1号作戦2YB作戦経過概要 pp.32-33〔 11・13|0730敵KdBノ艦上機「マニラ」船舶空襲三次ニ亘リ来襲、沖波初春被弾大火災沈没、潮擱座、木曾沈没「カビテ」曙秋霜大破 商船殆ド全部火災トナル 〕、#S1909一水戦日誌(2) p.11〔 (4)…翌13日朝来敵艦上機群及反復来襲「マニラ」港及「キャビテ」港在泊艦船ヲ攻撃所在麾下艦艇全砲火ヲ以テ之ニ對セルモ及バズ初春曙大破潮中破〔外ニ秋霜中破木曾大破〕ノ被害アリ… 〕
- ^ 南海の死闘 1994, pp. 110–111間一髪の幸運
- ^ 戦史叢書56 1972, pp. 548a-549第二遊撃部隊のマニラ撤退/ブルネイに避退す
- ^ 戦史叢書93 1973, p. 67a第二遊撃部隊のマニラ撤退と第一遊撃部隊の内地回航
- ^ a b c 戦史叢書56 1972, pp. 548b-549.
- ^ a b #S1911経過(護衛対潜) p.6(昭和19年11月)〔 16| |(長官)5F旗艦足柄ニ変更 支援部隊(足柄 1Sd《霞 潮 初霜》 5S《羽黒》4Sf《伊勢日向》榛名 大淀 朝霜 霜月)ヲ率イ新南群島出港リンガ回航 〕
- ^ 戦史叢書54 1972, pp. 451–452.
- ^ #S1909一水戦日誌(2) p.11〔 敵情尚翌14日来襲ノ算アリタルヲ以テ急遽「ブルネー」ニ回航待機スルコトトナリ第一警戒部隊[霞(将旗)、七駆(潮)《応急修復左舷一軸航行可能》二十一駆(初霜)《第五艦隊司令部移乗》三十一駆(朝霜)及竹ヲ率ヰ13日2330「マニラ」ヲ出撃セリ 〕
- ^ 第13号海防艦戦記 2014, p. 20.
- ^ 占守電探室異状なし 2012, pp. 61–62.
- ^ 日向、追憶 1977, p. 92.
- ^ 野村、10頁;宇那木、6頁
- ^ 南海の死闘 1994, pp. 111–113艦長宇那木少佐着任
- ^ 海軍兵科将校 1985, pp. 157–158.
- ^ a b 「昭和19年11月18日(発令11月15日付)海軍辞令公報(甲)第1646号 p.10」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102000
- ^ 宇那木、6頁;木俣『日本水雷戦史』586頁、#S1911経過(護衛対潜) p.7(昭和19年11月)〔 19|0330|五十鈴コレヒドール西方55′ニ於テ(魚雷)1本舟尾ニ命中舟尾舵共ニ切断| |現在16K航行可能 〕
- ^ 南海の死闘 1994, pp. 113–114.
- ^ 戦場の将器 1997, p. 254.
- ^ 戦史叢書93 1973, pp. 67b-69第一水雷戦隊の解隊と第三十一戦隊の第五艦隊編入
- ^ 戦史叢書54 1972, p. 453.
- ^ 戦史叢書93 1973, p. 68.
- ^ 戦史叢書56 1972, p. 552ブラウエン攻略の企図と軍需品勇戦輸送の要/作戦方針の既定
- ^ 戦史叢書41 1970, pp. 492–494義号、和号、テ号計画の決定
- ^ 岸見勇美 2010, pp. 61–63第五次輸送第一梯団全滅
- ^ #戦隊行動調書p.48『第一輸送戰隊』
- ^ 戦史叢書56 1972, p. 554a第五次多号作戦
- ^ a b c 戦史叢書56 1972, p. 554b.
- ^ 南海の死闘 1994, p. 115再度レイテ島への出撃
- ^ 戦史叢書41 1970, pp. 494–497航空攻撃再興、多号第五次進発
- ^ 回想レイテ作戦 2005, pp. 162–164.
- ^ 戦史叢書41 1970, p. 499a多号第五次の挫折と二十五日の艦載機
- ^ #S1911経過(護衛対潜) p.8(昭和19年11月)〔 24| |多号作戰第五次輸送 輸111.141.160.ch46 }マスバテ島カタインガン湾避泊中1400以后敵(飛行機)20余ノ攻ヲ受ク|T111.141.直撃彈火災炎上 T160.至近彈炎上擱坐夕刻鎮火離礁ノ見込ナシ 人員物件ノ大部仝島ニ揚陸 ch46マニラニ引返ス 〕
- ^ 南海の死闘 1994, pp. 116–117運命のバラナカン避泊
- ^ 岸見勇美 2010, p. 62第5図、マリンドーケ島バナラカン湾避泊図
- ^ #S1911経過(護衛対潜) p.9(昭和19年11月)〔 25| |多号作戰第五次第三梯団(竹.T6.T9.T10)タヤバス湾南方マリンドケ島ノパラナカン湾ニ於テ被空襲|T6…沈 T10…沈 竹 T9}若干ノ被害 〕
- ^ 岸見勇美 2010, pp. 64–66猛爆受けた第二梯団
- ^ 志賀、ネービーブルー 1989, pp. 18–19(飯田博通航海士談。戦後、巨済通信士)
- ^ a b 三号輸送艦帰投せず 1986, pp. 118–119.
- ^ 南海の死闘 1994, pp. 124–127艦長、苦悩の決断(バラナカン対空戦闘戦死者氏名一覧)
- ^ 南海の死闘 1994, p. 129.
- ^ 海軍兵科将校 1985, pp. 159–162.
- ^ 宇那木、10頁
- ^ a b c 佐藤、艦長続篇 1995, pp. 193–195.
- ^ 海軍兵科将校 1985, pp. 162–166良識ある判断
- ^ 志賀、ネービーブルー 1989, p. 32.
- ^ #S1911経過(護衛対潜) p.9(昭和19年11月)〔 26| |多号作戰第五次第三梯団 25日タヤバス湾南方「マリンドケ」島ニ於テ被爆損傷セル竹及輸9ハ極力オルモック突入ヲ続行セントセルモ舩体被害甚大ニシテ成功ノ見込ナク命ニ依リ断念マニラニ向ケ帰投中 〕
- ^ 南海の死闘 1994, pp. 127–130再度「マニラ」帰港
- ^ 海軍兵科将校 1985, pp. 166a-169不退転の決意
- ^ 戦史叢書41 1970, p. 486.
- ^ 戦史叢書93 1973, pp. 76–77第五次~第七次多号作戦
- ^ 戦史叢書41 1970, pp. 501–502「マルゆ」初成功
- ^ a b 海軍兵科将校 1985, pp. 166b-169.
- ^ 岸見勇美 2010, pp. 67–72命令違反
- ^ #S士官の手記 p.2(沖波准士官以上名簿)
- ^ 戦史叢書41 1970, pp. 488–489.
- ^ 戦史叢書41 1970, pp. 510–512成功の報到り上下ともに積極化
- ^ 戦史叢書41 1970, p. 514a多号第七、第八次
- ^ 戦史叢書56 1972, p. 555a第六次多号作戦
- ^ #S1910-12経過概要 p.13(昭和19年11月)〔 三十日|第七次多號作戰(SS×3 ch20)敵ノ攻撃ヲ排除シ「イビール」ニ突入成功 〕
- ^ #S1911経過(護衛対潜) p.10(昭和19年11月)〔 29| |多号第七次輸送船団第一梯団(Ch20 陸軍SS艇×3)1350マスバテ到着 1515同地発 セブ島東岸ソコド湾ニ向ヒツツアリ 第5号SS艇マスバテ湾口座礁/引曳シ不成功同地ニ残留 〕
- ^ #S1912経過(護衛対潜) p.1(昭和19年11月)〔 30| |多号第七次輸送船団第一梯団(SS×3 Ch20)(内SS-5マスバテ坐礁中)1100~1600セブ島東岸ソコド湾ニ於テ敵f中f小×約30ト交戰 ch20若干被害アリ舩団被害ナシ/2300イピール(オルモック南方)ニ突入 0140/1揚陸完了帰途ニ就ク/1430~1600 foc×6セブ発進右船団上空直ヱ1530ヨリ約20m間敵fc×24ト交戰|墜×5(内不確実×1)未帰還×1 〕
- ^ a b c d 戦史叢書56 1972, p. 555c.
- ^ 戦史叢書41 1970, p. 514b多号第七次
- ^ 戦史叢書56 1972, pp. 555b-556第七次多号作戦
- ^ #S1910-12経過概要 p.13(昭和19年11月)〔 三十日|第七次多號作戰(SS×3 ch20)敵ノ攻撃ヲ排除シ「イビール」ニ突入成功 〕
- ^ #S1910-12経過概要 p.14(昭和19年12月)〔 二日|第七次多號(桑、竹、9、140、159輸)ハ「オルモック」突入ニ成功セルモ揚搭作業中敵水上部隊ト交戰(桑沈没、竹片舷航行)
- ^ 岸見勇美 2010, pp. 75–77悲壮!第七次輸送作戦
- ^ 佐藤、艦長続篇 1995, p. 198.
- ^ 南海の死闘 1994, pp. 131–133レイテ島へ最後の出撃
- ^ 海軍兵科将校 1985, pp. 169–171柔軟なる思考
- ^ 岸見勇美 2010, pp. 78–80別れの杯酌み交わし
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- 第三十一戦隊司令部『自昭和十九年十二月二十二日至昭和二十年一月三十一日 第三十一戦隊戦時日誌』(昭和19年12月22日〜昭和20年4月30日 第31戦隊戦時日誌(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030074800
- 第三十一戦隊司令部『自昭和二十年二月一日至昭和二十年三月三十一日 第三十一戦隊戦時日誌』『自昭和二十年四月一日至昭和二十年四月三十日 第三十一戦隊戦時日誌』(昭和19年12月22日〜昭和20年4月30日 第31戦隊戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030074900
- 『S士官の手記 史実調査部/沖波戦闘行動関係』。Ref.C14061106300。
- 『昭和19.1~昭和20.2大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2(防衛省防衛研究所)/昭和19年8月』。Ref.C16120659900。
- 『昭和19.1~昭和20.2大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2(防衛省防衛研究所)/昭和19年9月』。Ref.C16120660000。
- 『昭和19.1~昭和20.2大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2(防衛省防衛研究所)/昭和19年10月』。Ref.C16120660100。
- 『昭和19.1~昭和20.2大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2(防衛省防衛研究所)/昭和19年11月』。Ref.C16120660200。
- 『昭和19.1~昭和20.2大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2(防衛省防衛研究所)/昭和19年12月』。Ref.C16120660300。
- 『第2次世界大戦略歴大東亜戦争経過概要(防衛省防衛研究所)昭和19年10月経過概要~昭和19年12月経過概要』。Ref.C16120725100。
関連項目