荒木徳三郎
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荒木 徳三郎[1](あらき とくさぶろう、1846年4月18日(弘化3年3月23日)[2] - 没年不明)は、日本の商人(荒木屋、肥料・綿・米穀商)[3]、鳥取県の大地主[4][5]、実業家、政治家。鳥取県西伯郡境町会議員[2]。
経歴
[編集]鳥取県西伯郡境町(現・境港市)の人で、生家は代々醤油醸造業を営む[5]。
海運業を営み、主に地方の物産を蒐集し、これを北国中国等に輸送し帰港には肥料を積載して年数回往復航行する[4]。危難や損失がなかったため収利は夥しく頓に資財を増殖し声望が大いに起り、地位は益々高まる[4]。「境の荒木」といえば地方遠近にその偉名を伝えられる[4]。
1902年、境製糸社員の荒木久九郎、渡辺広太郎、里見五平は各々その出資額全部を共に社員の荒木徳三郎へ譲渡し退社し、荒木徳三郎はこれを譲り受けてその出資額を金3400円と変更する[6]。
人物
[編集]荒木合名会社社員である(社員の出資の種類及び価格は荒木徳三郎が金3000円、荒木平三郞が金2500円、荒木久九郎が金500円)[8][注 1]。
伯耆国地価1万円以上所有者であり[4]、大地主としても知られる[5]。また境電気や境貿易の大株主である[10]。住所は鳥取県西伯郡境町栄町[11]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 『大日本紳士鑑』鳥取県会見郡776頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年3月18日閲覧。
- ^ a b 『境港沿革史』76頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年3月18日閲覧。
- ^ 『日本全国商工人名録 明治25年版』鳥取県伯耆国(境町)1121頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年3月18日閲覧。
- ^ a b c d e 『国民日用便覧 明治43年刊』伯耆国地価一万円以上所有者人名 西伯郡之部1頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年3月18日閲覧。
- ^ a b c d 『島根鳥取名士列伝 下』210 - 212頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年3月18日閲覧。
- ^ 『官報 1902年05月20日』官報 第5660号付録 5頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年3月18日閲覧。
- ^ 『人事興信録 第8版』ア118頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年3月18日閲覧。
- ^ 『官報 1902年05月01日』官報 第5644号 21頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年3月18日閲覧。
- ^ 『境港誌』7頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年3月18日閲覧。
- ^ 『帝国銀行会社要録 附・職員録 大正元年(初版)』鳥取県7頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年3月18日閲覧。
- ^ 『境港市史 資料編』109頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年11月11日閲覧。
参考文献
[編集]- 『日本全国商工人名録 明治25年版』日本全国商工人名録発行所、1892年。
- 妹尾久造編『大日本紳士鑑』経済会、1895年。
- 深田豊市編『島根鳥取名士列伝 下』博進館、1903 - 1906年。
- 大蔵省印刷局編『官報 1902年05月01日』日本マイクロ写真、1902年。
- 大蔵省印刷局編『官報 1902年05月20日』日本マイクロ写真、1902年。
- 多納佐三郎編『国民日用便覧 明治43年刊』報光社、1910、1911年。
- 帝国興信所編『帝国銀行会社要録 附・職員録 大正元年(初版)』帝国興信所、1912年。
- 柴田文次郎『境港誌』村尾日進堂、1914年。
- 小泉憲貞編『境港沿革史』小泉憲貞、1915年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 『境港市史 資料編』境港市、1989年。