藤原真友
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時代 | 奈良時代後期 - 平安時代初期 |
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生誕 | 天平14年(742年) |
死没 | 延暦16年6月25日(797年7月23日) |
官位 | 従四位上、参議 |
主君 | 光仁天皇→桓武天皇 |
氏族 | 藤原南家乙麻呂流 |
父母 | 父:藤原是公、母:真都我(橘佐為の四女) |
兄弟 | 真友、雄友、弟友、友人、吉子 |
妻 | 藤原蔵下麻呂の娘 |
子 | 朝嗣、道長、藤原弟河室、藤原文山室 |
藤原 真友(ふじわら の まとも)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての貴族。藤原南家乙麻呂流、右大臣・藤原是公の長男[1]。官位は従四位上・参議。
経歴
[編集]光仁朝末の宝亀11年(780年)従五位下・少納言に叙任される。
桓武朝初頭の天応2年(782年)氷上川継の乱が発生すると衛門佐に任ぜられる。延暦3年(784年)越前介、延暦4年(785年)従五位上・下総守に叙任されるなど、しばらく地方官を務める。延暦6年(787年)正五位下・右大舎人頭に叙任されて京官に遷ると、中務大輔・右京大夫と一転して京官を務め、延暦10年(791年)に従四位下に叙せられている。またこの間、延暦8年12月(790年1月)の皇太后・高野新笠崩御、および翌延暦9年(790年)の皇后・藤原乙牟漏崩御の際に、いずれも山作司を務めている。
延暦13年(794年)に参議に任ぜられて公卿に列し、延暦15年(796年)従四位上と昇進するが、翌延暦16年(797年)6月25日卒去。享年56。最終官位は参議従四位上兼大蔵卿。
官歴
[編集]注記のないものは『六国史』による。
- 時期不詳:正六位上
- 宝亀11年(780年) 正月7日:従五位下。3月17日:少納言
- 天応2年(782年) 閏正月11日:衛門佐
- 延暦3年(784年) 4月7日:越前介
- 延暦4年(785年) 正月7日:従五位上。10月12日:下総守
- 延暦6年(787年) 正月7日:正五位下。3月22日:右大舎人頭
- 延暦7年(788年) 2月28日:中務大輔
- 延暦8年(789年) 12月29日:山作司(皇太后・高野新笠崩御)
- 延暦9年(790年) 閏3月11日:山作司(皇后・藤原乙牟漏崩御)
- 延暦10年(791年) 正月7日:従四位下
- 延暦11年(792年) 4月:兼右京大夫[1]
- 延暦13年(794年) 10月27日:参議、右京大夫中務大輔如元[1]
- 延暦15年(796年) 正月7日:従四位上[1]
- 延暦16年(797年) 2月9日:兼大蔵卿。6月25日:卒去(参議従四位上兼大蔵卿)
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。