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藤原雄友

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原雄友
時代 奈良時代末期-平安時代初期
生誕 天平勝宝5年(753年
死没 弘仁2年4月23日811年5月18日
官位 正三位大納言
主君 光仁天皇桓武天皇平城天皇嵯峨天皇
氏族 藤原南家
父母 父:藤原是公、母:橘麻通我橘佐為の娘)
兄弟 弟友真友雄友友人吉子
石上宅嗣の娘、石川垣守の娘
真川広河文山秋常弟河弟男数子
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藤原 雄友(ふじわら の おとも)は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての公卿藤原南家右大臣藤原是公の次男[1]官位正三位大納言

経歴

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延暦2年(783年従五位下美作守に叙任する。延暦4年(785年)従五位上・兵部少輔左衛士権督、延暦5年(786年正五位上・兵部大輔兼左衛士督、延暦6年(787年従四位下と、当時地方官を務めていた10歳以上年長の兄・真友を越えて延暦年間の前半に急速に昇進する。延暦8年(789年)父の右大臣藤原是公が没するが、翌延暦9年(790年)38歳にして参議に任ぜられ公卿に列す。議政官として大蔵卿中衛大将大宰帥と要職を歴任し、延暦17年(798年従三位中納言、延暦23年(804年正三位に至る。

延暦25年(806年平城天皇即位後、4月になって桓武朝で競うように昇進していた藤原北家藤原内麻呂とともに大納言に昇進すると、まもなく右大臣神王が没したことから雄友と内麻呂が平城朝初期の重臣として並び立つ。内麻呂は従三位であったことから、4月中は桓武天皇崩御の後を奉る際に後誄人を率いたり[2]太政官符の上卿となるなど[3]、一時的に雄友は太政官の首班に立つ。早くも5月中旬には藤原内麻呂は正三位右大臣に叙任されたために、雄友はその後塵を拝すことになる。雄友ではなく内麻呂が抜擢されたことについては、平城天皇との関係が微妙となっていた伊予親王(雄友の妹・吉子の子)の外伯父であった雄友を意図的に抑えたことが背景にあったと考えられている[4]

大同2年(806年)伊予親王に対して藤原宗成謀反を勧めているという情報を得たことから、雄友は右大臣・藤原内麻呂に報告するが[5]、内麻呂は動かなかった。その後、宗成が伊予親王自身が謀叛の張本人であるとの証言を行ったことから、激高した平城天皇によって吉子・伊予親王母子は逮捕幽閉され、まもなく自殺してしまう。雄友も連座して伊予国への流罪となった(伊予親王の変)。

嵯峨朝に入り、薬子の変発生中の弘仁元年(810年)9月10日に罪を赦されて本位(正三位)に復され、弾正尹に任ぜられる。翌弘仁2年(811年)4月に宮内卿に任官するが、同月23日に薨去享年59。最終官位は宮内卿正三位。即日大納言の官職を贈られた。

人物

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性格は温和でみだりに喜怒を表に出すことはなかった。また、容姿や振る舞いに見るべきものがあった。発声も清々しくはっきりしており、賀正の儀における宣命の読み上げに際しては、推されて師匠役となったという。[1]

官歴

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注記のないものは『六国史』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ a b 日本後紀』弘仁2年4月23日条
  2. ^ 『日本後紀』大同元年4月1日条
  3. ^ 『類聚三代格』巻2,「応令十五 大寺毎年安居奉講仁王般若経事」条
  4. ^ 瀧浪[2017: 73]
  5. ^ 『日本後紀』大同2年10月28日条
  6. ^ a b c d 『尊卑分脈』

参考文献

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