西森源兵衛 (1866年生の実業家)
西森 源兵衛(にしもり げんべえ、1866年8月19日(慶応2年7月10日)[1] - 1931年(昭和6年)10月12日[2])は、日本の商人(皮革商[3]、皮革貿易商[4])、政治家、実業家。西浜土地建物取締役[2]。族籍は大阪府平民[3]。旧姓・岡島、幼名・豊次郎[1]。
経歴
[編集]兵庫県津名郡志筑町(現・淡路市)出身[1]。岡島文吉の四男[1]あるいは弟[3]。1882年、来阪して親戚の皮革商・西森源兵衛の店員となる[1]。1887年、西森源兵衛の養嗣子となる[1]。1917年、養父源兵衛の逝去により家督を相続して先代を襲名する[1]。
日清の国交がまさに破れようとする兆しがあるのを見ると、この機に乗じ製革原皮の大量輸入を開始し、有事にそなえようとしたが、幾許もなく戦闘が開かれ皮革の需要が激増し、軍需品として納入するほか、一般市場の供給に応じ、平和克服まで3年間ほとんど西森の一手により供給される[1]。
また北清、日露近く欧州大戦の各役における軍需用並びに一般市場において皮革原皮の大半はほとんど西森によって供給され、非常に好成果を収める[1]。1913年、大阪皮革同業組合評議員に挙げられる[1]。
1917年、補欠選挙により西浜南通3丁目外9ケ町区会議員に当選する[1]。1919年、西浜南通3丁目外9ケ町区会議員改選に当り当選、同年西浜南通3丁目外9ケ町区会議長に当選する[1]。
1925年、西浜南通3丁目外14ケ町区会議員改選に当り当選、同年西浜南通3丁目外14ケ町区会議長に当選する[1]。
人物
[編集]西森源兵衛について、『商工資産信用録 第22回』には「職業・皮革、調査年月・1921年7月、正身身代・未詳、信用程度・A」とある[5]。
寺田勇吉の著書『部落の人豪』によると「西森源兵衛は西浜部落の富豪・巨商で、平素書画に趣味を有する」という[6]。
住所は大阪市浪速区西浜南通2丁目[3][4](現・浪速西[7])。
家族・親族
[編集]- 西森家
- 養父・源兵衛(1839年 - 1917年、皮革商、西浜町長、大阪府会議員、大阪市会議員)
- 長男・源兵衛(1894年 - ?、前名・豊一[3]、皮革貿易商、西森源兵衛商店[8])
- 養子・英一(1896年 - ?、大阪、荒木栄蔵の長男、長女コユキの夫)[3]
- 孫[3][4]
- 親戚
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m 『大阪商工組合大鑑 大礼紀念』238 - 239頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年11月6日閲覧。
- ^ a b 『官報 1931年12月19日』官報 第1493号 4頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年11月6日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第7版』に45 - 46頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年11月6日閲覧。
- ^ a b c d 『人事興信録 第9版』ニ49頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年11月6日閲覧。
- ^ 『商工資産信用録 第22回』大阪府に之部37頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年5月23日閲覧。
- ^ 『部落の人豪』115頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年11月6日閲覧。
- ^ 『摂津役人村文書』24頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年12月10日閲覧。
- ^ 『大阪府市名誉職大鑑 第2編』122頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年5月23日閲覧。
参考文献
[編集]- 蘇人寺田勇吉『部落の人豪』藤屋商店出版部、1920年。
- 商業興信所編『商工資産信用録 第22回』商業興信所、1921 - 1926年。
- 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
- 実業社編『大阪商工組合大鑑 大礼紀念』実業社、1929年。
- 交詢社編『日本紳士録 第33版』交詢社、1929年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 大蔵省印刷局編『官報 1931年12月19日』日本マイクロ写真、1931年。
- 自治名誉職協会編『大阪府市名誉職大鑑 第2編』自治名誉職協会、1935年。
- 編集解説者 盛田嘉徳『摂津役人村文書』大阪市浪速同和教育推進協議会、1970年。