諫早茂喬
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諫早茂喬肖像 | |
時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 文政6年4月1日(1823年5月11日) |
死没 | 嘉永元年2月25日(1848年3月17日) |
改名 | 益千代(幼名)、茂喬 |
別名 | 勇太郎、石見 |
墓所 | 長崎県諫早市西小路町天祐寺 |
主君 | 鍋島斉正 |
藩 | 肥前佐賀藩 |
氏族 | 諫早鍋島家(諫早氏) |
父母 | 諫早茂洪、鍋島直宜三女・澄 |
兄弟 | 茂喬、鍋島利卿、茂孫、一学、郁 |
妻 | 鍋島斉直娘・於民 |
子 | 武春 |
諫早 茂喬(いさはや しげたか)は、江戸時代後期の武士。肥前国佐賀藩士。諫早鍋島家(諫早氏)13代当主。
出自
[編集]諫早家は龍造寺隆信の又従兄弟家晴の子孫。藩主鍋島氏の旧主君龍造寺氏の一族で、鍋島氏を憚って諫早氏を称す。家紋は「上り藤」。代々藩主の偏諱を受け「茂」の字を拝領している。藩内の家格は親類同格。龍造寺氏一族として、藩内で大名並みの知行二万六千石と強い影響力を持つ。
略歴
[編集]文政6年(1823年)4月1日、諫早邑主12代・諫早茂洪の子として誕生。幼名は益千代。正室は鍋島斉直娘・於民。
弘化2年(1845年)9月29日家督相続。10月に通称を石見と改める。12月に藩主・鍋島斉正の妹於民と結婚。
弘化3年(1846年)6月7日、フランスのセシル提督率いる軍艦3隻(クレオパトル、サビヌ、ヴィクトリューズ)が長崎に来航して交易を求めた際に、兵を率いて長崎に急行して港の警備に当たった。弘化4年(1847年)11月、佐賀諫早家屋敷で病に伏せる茂喬を診察するため、藩医伊東玄朴が使わされた。
嘉永元年(1848年)2月25日死去。享年26。菩提寺の天祐寺に葬られた。家督は嫡子益千代(武春)が幼いため、弟孫九郎(茂孫)が相続した。
参考文献
[編集]- 長崎叢書「長崎畧史 下巻」