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諫早家崇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
諫早家崇
いさはや いえたか
生年月日 1854年5月16日
出生地 日本の旗 日本 肥前国高来郡諫早
(現・長崎県諫早市
没年月日 (1912-01-24) 1912年1月24日(57歳没)
所属政党無所属→)
木曜会→)
(清交会→)
茶話会
称号 従四位
勲四等
配偶者 諌早神代子
子女 諫早不二雄

在任期間 1893年10月10日 - 1898年8月4日
1904年7月10日 - 1912年1月24日
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諫早 家崇(いさはや いえたか、1854年5月16日嘉永7年4月20日[注釈 1]〉 - 1912年明治45年〉1月24日[2])は、明治時代の華族男爵)。14代諫早邑主諫早茂孫の長男。叔父諫早一学(茂孫の次々代邑主)の養子。千吉郎。勲等は勲四等[2]

経歴

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肥前国高来郡諫早に生まれる。1871年(明治4年)にドイツに留学し、1880年(明治13年)より外務省、太政官参事院等に勤務する。

1893年(明治26年)10月10日に貴族院多額納税者議員として、選出された[3]1898年(明治31年)8月4日、貴族院議員を辞任した[4]。この時は、会派には所属せず、無所属だった[5]

1897年(明治30年)には養父の功により男爵に叙爵された。1904年(明治37年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、再び貴族院議員となった[6]。1912年(明治45年)に59歳で没するまで在任した[2][7]。会派は当選直後は木曜会に所属し、清交会を経て、最後は茶話会に所属した[8][9][10]。墓所は諫早氏代々の墓がある諫早市天祐寺。

栄典

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親族

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室は鍋島直彬の娘神代子。子に諫早家興諫早不二雄

脚注

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注釈

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  1. ^ 人事興信録 初版(明36.4刊)には安政元年と書かれているが、嘉永7年は安政元年に改元された[1]

出典

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  1. ^ 人事興信録 初版(明36.4刊) 86コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  2. ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』63頁。
  3. ^ 貴族院会派一覧 : 1890-1919 (日本近代史料叢書 ; C-2) 17コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  4. ^ 貴族院会派一覧 : 1890-1919 (日本近代史料叢書 ; C-2) 40コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  5. ^ 貴族院会派一覧 : 1890-1919 (日本近代史料叢書 ; C-2) 20コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  6. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、14頁。
  7. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、21頁。
  8. ^ 貴族院会派一覧 : 1890-1919 (日本近代史料叢書 ; C-2) 68コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  9. ^ 貴族院会派一覧 : 1890-1919 (日本近代史料叢書 ; C-2) 89コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  10. ^ 貴族院会派一覧 : 1890-1919 (日本近代史料叢書 ; C-2) 94コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  11. ^ 官報 1897年11月11日 3コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  12. ^ 官報 1903年12月12日 2コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  13. ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。

参考文献

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  • 日本史大辞典(講談社)
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。


日本の爵位
先代
叙爵
男爵
諫早家初代
1897年 - 1912年
次代
諫早家興