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諫早一学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
諫早一学
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政10年9月1日1827年10月21日
死没 明治28年(1895年12月17日
官位 従五位
主君 鍋島茂実(直大)明治天皇
肥前佐賀藩
氏族 諫早鍋島家諫早氏
父母 諫早茂洪
兄弟 茂喬鍋島利卿茂孫一学
鍋島直与長女・婉
家崇
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諫早一学
いさはや いちがく
生年月日 1827年10月21日
没年月日 (1895-12-17) 1895年12月17日(68歳没)
称号 従五位
配偶者 諌早婉
子女 養子・諫早家崇
親族 義弟・鍋島直彬(貴族院議員)

在任期間 1890年9月29日 - 1892年10月7日
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諫早 一学(いさはや いちがく、1827年10月21日文政10年9月1日〉 - 1895年明治28年〉12月19日[1])は、江戸時代後期の武士肥前国佐賀藩の家老。諫早鍋島家諫早氏)16代当主。後に貴族院議員

略歴

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12代諫早邑主・諫早茂洪の四男として誕生。室は鍋島直与長女・婉(明照院)。

1862年文久2年)、甥で15代邑主・諫早武春が16歳で没したため邑主となった。代々邑主は佐賀藩家老にあたり、尊王運動に加わった。明治維新後、士族の反乱として佐賀の乱西南戦争が勃発するが、旧佐賀藩士を率いて政府軍を援護する働きをした。1884年(明治17年)、諫早銀行設立に中心人物として携わる[2]1890年(明治23年)9月29日、貴族院多額納税者議員となり[3]1892年(明治25年)10月7日に辞職した[4]

1895年(明治28年)、死去。享年69。士族の反乱を抑えた功績により、養嗣子・家崇(諫早茂孫の長男)は1897年(明治30年)に男爵に叙爵された。

栄典

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脚注

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  1. ^ 議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑 102コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  2. ^ 長崎県史近代編p76
  3. ^ 『官報』第2179号、明治23年10月2日。
  4. ^ 『官報』第2786号、明治25年10月8日。
  5. ^ 『官報』第1390号「彙報」1888年2月21日。
  6. ^ 『官報』第3741号「叙任及辞令」1895年12月16日。

参考文献

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  • 日本史大辞典(講談社)
  • 長崎県史近代編(長崎県史編集委員会 吉川弘文館 1976年)