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足利成氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
足利永寿王丸から転送)
 
足利成氏
時代 室町時代 - 戦国時代
生誕 永享10年(1438年)/永享6年(1434年
死没 明応6年9月30日1497年10月25日
改名 幼名:永寿王丸(永寿丸)または万寿王丸
→成氏
戒名 乾享院殿久山道昌
墓所 栃木県野木町 西光山乾亨院満福寺
官位 従五位下左馬頭従四位下左兵衛督
幕府 室町幕府 第5代鎌倉公方→同初代古河公方
主君 足利義政義尚義稙
氏族 足利氏
父母 父:足利持氏、母:大井氏[1]
兄弟 義久春王丸安王丸成氏成潤尊敒、ほか
政氏義綱(上杉顕実)(孫とも)、貞岩昌永(孫とも)[注釈 1]
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足利 成氏(あしかが しげうじ)は、室町時代から戦国時代武将。第5代鎌倉公方1449年 - 1455年)、初代古河公方[2](1455年 - 1497年)。父は永享の乱で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏。鎌倉公方就任時期は文安4年(1447年)とする説も有力。

父持氏と同様、鎌倉公方の補佐役である関東管領及び室町幕府と対立したが、持氏と異なり、約30年間の享徳の乱を最後まで戦い抜き、関東における戦国時代の幕を開ける役割を担った。

生涯

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幼少期

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幼少期には曖昧な点が多い。幼名は永寿王丸(永寿丸)とする解説[注釈 2]が多いが、万寿王丸とする百瀬今朝雄の説[3]が近年は支持されている[注釈 3][4][5]

生年に関しても、永享6年(1434年)あるいは永享10年(1438年)とする解説が混在する[注釈 4]。現在広く用いられている解説を整理すると、主に次の2つになる。

一つ目の説では、嘉吉元年(1441年)の結城合戦にて、安王丸春王丸の他にも持氏遺児の4歳の童が捕えられたが、京都への連行中に第6代将軍足利義教暗殺された(嘉吉の乱)ため、処分が実行されず、幸運にも生き延びた(『建内記』)。この4歳の童を成氏とみなす。逆算すると生年は永享10年となる。その後、宝徳元年(1449年)8月に、京都の土岐持益邸にいた持氏の遺児が鎌倉に向け出立(『草根集』)し、鎌倉公方となったとする[注釈 5]

百瀬今朝雄は以上の通説を再検証し、宝徳元年8月に京都から鎌倉に向けて発った人は、成氏ではなく弟の尊敒であるとした[8]佐藤博信も、尊敒を定尊と見直しているが、成氏の弟とする点では同様の見解である[9]。佐藤の見解は研究者の一定の支持を得ており、嘉吉の乱によって義教の息子(次男の義永と推測)を次期公方にする構想が白紙に戻った後、少なくても文安2年(1445年)頃までは定尊を次の公方に擁立する幕府の方針であったとみられている[10][注釈 6]。成氏本人は京都ではなく信濃から、文安2年(1445年)あるいは3年(1446年)に鎌倉に還御して鎌倉公方となり、宝徳元年6月から8月に元服したとする[8]。佐藤はさらに、鎌倉公方就任を文安4年(1447年)3月[11]、鎌倉帰還を同年8月27日[12]と特定した。

百瀬以降の研究成果に従えば、幼年期の経歴は次の通り。成氏は第4代鎌倉公方足利持氏の男子として、永享6年頃に生まれた[注釈 7]。成氏がまだ幼い永享11年(1439年)に、父持氏は関東管領上杉憲実・6代将軍足利義教と対立した結果、兄の義久と共に敗死(永享の乱)し、鎌倉公方は廃止された。その後、成氏は信濃佐久郡大井持光の元で養われる[13]

同12年(1440年)3月に結城合戦が始まり、嘉吉元年4月に下総結城城が陥落した時に、持氏遺児の安王丸・春王丸・成氏の弟の3人が捕えられたが、成氏本人は戦場にはいなかった。この時、兄の安王丸・春王丸は殺された。やがて、成氏は文安4年3月に鎌倉公方となり、8月に信濃から鎌倉に帰還した。後に宝徳元年に元服、すなわち、6月頃に8代将軍足利義成(後の義政)の偏諱(「成」の一字)を与えられて「成氏」という名が決まり[14]、8月27日に左馬頭に任じられ、同時に従五位下に叙された[15]。なお、足利義成の諱は文安3年段階で決定されていたが、文安6年4月の元服までは公的な場所では使えなかったために下位の者に偏諱として与えることが出来なかった。こうした事情から成氏の元服は義成の元服後と決定されたと推定される(ただし、成氏の元服を行われた日については文安6年8月27日以前ということしか判明していない)[16]

なお近年、長塚孝は『簗田家譜』に簗田助良(満助)の姪として登場する「養寿(よす)」という女性が成氏の母であったとする説を提示している。また、簗田一族の簗田景助が安王丸の代官を務めている事実も指摘して、『古河公方系図』が記載している春王丸の母を簗田河内守の娘とする記述を誤記であるとして、河内守=助良(満助)の姪が安王丸と成氏の母であり、逸名の持氏正妻の実子・義久の自害後、奉公衆簗田氏が生んだ安王丸が結城合戦の主将に擁立され(春王丸の実際の母親は奉公衆以下の家格出身の中臈もしくは下臈と推測)、安王丸が春王丸と共に殺害されると残された持氏の子でもっとも母親の出自が高かった成氏が持氏の後継者として擁立されたと推測している[17][18]

鎌倉府再興(第5代鎌倉公方)

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永享の乱の際に鎌倉府は滅亡したが、嘉吉元年に将軍足利義教が暗殺された(嘉吉の乱)後、鎌倉府再興の運動が開始された。越後守護上杉房朝や関東諸士から室町幕府への働きかけ(『鎌倉大草紙』)、あるいは上杉氏一門、家老から幕府への働きかけ(『永享記』)、幕府管領畠山持国の支持[注釈 8]などの結果、文安6年(または宝徳元年)に鎌倉府再興が承認される。持氏の遺児の成氏は信濃の大井持光(または京都の土岐持益)の元から、新たな鎌倉公方として鎌倉に帰還した。

嘉吉の乱の後、すぐに次期鎌倉公方に対する方針が定まらなかった背景として、幕府の意向は成氏の弟(定尊)を立てる考えであったが、鎌倉府再興の運動(後述)を主導した東国諸士が成氏を再興の旗頭にしたためにどちらに継がせるかで意見の一致を見なかったこと、幕府が上杉憲実の関東管領復帰を諦めきれずに説得を続けていたこと(最終的に断念に至る)、何よりも幕府内部の政治的混乱で決定の先送りがされたことがあったとみられている[10]

まだ年若い成氏は、鎌倉府再興のために運動した持氏旧臣や持氏方諸豪族、及び結果的には持氏を殺した上杉氏など、利害が相反する人々の間に置かれることになった[注釈 9]

新しい鎌倉府では、鎌倉公方に成氏、その補佐役の関東管領に山内上杉家上杉憲忠(上杉憲実の嫡男)が就任した。

江の島合戦

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鎌倉府再興後も、成氏の元に集まった旧持氏方の武将・豪族等と、山内・扇谷上杉家の両上杉氏との緊張関係は改善されなかった。宝徳2年(1450年)4月には、山内上杉家家宰長尾景仲及び景仲の婿で扇谷上杉家家宰の太田資清が成氏を襲撃する事件(江の島合戦)が発生する。成氏は鎌倉から江の島に避難し、小山持政千葉胤将小田持家宇都宮等綱らの活躍により、長尾・太田連合軍を退けた。なお、この時上杉方の一部も成氏に加勢している[22]。従って、この襲撃は長尾・太田両氏が主導したが、上杉氏の本意ではなかったと考えられる[8]

難を逃れた成氏は、上杉憲実の弟である重方(道悦)の調停により、合戦に参加した扇谷上杉持朝らを宥免したが、長尾景仲・太田資清との対決姿勢は崩さず、両者の処分を幕府に訴えた。幕府管領畠山持国は成氏の求めに応じて、上杉憲実・憲忠に対して、鎌倉帰参を命じ、関東諸士及び山内上杉家分国の武蔵上野の中小武士に対して成氏への忠節を命じた。また、江の島合戦の成氏側戦功者への感状を取り計らうなどしたが、長尾・太田両氏への処罰はあいまいにされた。結局、成氏自身は8月4日に鎌倉へ戻り(『喜連川判鑑』)、上杉憲忠は10月頃に関東管領として鎌倉に帰参した(『鎌倉大草紙』)[8]

鎌倉公方の動揺

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同じ宝徳2年、成氏は鎌倉に戻った後に代始めの徳政を行った。例えば、9月と10月に鶴岡八幡宮寺少別当が売却した土地を返却させている。関東諸国に向けて、新しい鎌倉公方の権威を誇示する目的であったと考えられる[注釈 10]

宝徳3年(1451年)、成氏は従四位下左兵衛督に昇進した(『喜連川判鑑』など)[8]

享徳元年(1452年)、室町幕府の管領が畠山持国から細川勝元に替わった。勝元は鎌倉公方に対して厳しい姿勢をとり、関東管領の取次がない書状は受け取らないと言い渡した[24]。関東管領を通じて、再び幕府が関東を直接統治する意思を示したものである[8]

享徳の乱勃発(成氏の攻勢)

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享徳3年12月27日(1455年1月15日)に、成氏は関東管領上杉憲忠を御所に呼び寄せて謀殺した。京都では東国から事件の報せが届いた時、父を死に追いやった上杉氏への恨みが原因とみなされた(『康富記』)が、実際には鎌倉府内部の対立が大きな要因と考えられる[25][8][26]。この憲忠謀殺をきっかけとして、以後約30年間に及ぶ享徳の乱が勃発する。

翌享徳4年正月に、成氏は上杉勢の長尾景仲・太田資清を追って鎌倉を進発した[27]。正月廿一日(21日)・廿二日(22日)の武蔵分倍河原の戦いでは、上杉憲秋・扇谷上杉顕房を戦死させた[28]。3月3日には、成氏は下総古河に到着しており[29]、さらに各地を転戦する。敗れた上杉勢が常陸小栗城に立て籠もると、成氏はさらに攻め立てて、閏4月に小栗城を陥落させた(『鎌倉大草紙』)[8][26]

上杉勢反攻と古河移座(初代古河公方)

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山内上杉家は、憲忠の弟・房顕を憲忠の後継とし、体制の立て直しを図った。室町幕府は上杉氏支援を決定し、享徳4年4月に後花園天皇から成氏追討の綸旨と御旗を得たために、成氏は朝敵となる。房顕は上野平井城に入り、越後上杉氏の援軍と小栗城の敗残兵が、下野天命(佐野市)・只木山に布陣した。成氏は6月24日に、天命・只木山の西にある現在の足利市に布陣して対抗したが、7月には小山に移動している。一方、駿河守護今川範忠は、上杉氏の援軍として4月3日に京都を発ち(『康富記』)、6月16日には鎌倉を制圧した(『鎌倉大草紙』)[8][26]

その後、成氏は鎌倉を放棄し、下総古河を本拠地としたので、これを古河公方と呼ぶ。享徳4年6月に古河鴻巣に屋形(古河公方館)を設け、長禄元年(1457年)10月には修復が終わった古河城に移った(『鎌倉大草紙』)。古河を新たな本拠とした理由は、下河辺荘等の広大な鎌倉公方御料所の拠点であり、経済的基盤となっていたこと、水上交通の要衝であったこと、古河公方を支持した武家・豪族の拠点に近かったことなどが挙げられている。古河公方側の武家・豪族の中でも、特に小山持政は成氏が後に兄と呼ぶ(兄弟の契盟[30])ほど強く信頼しており、同様に強固な支持基盤となった結城氏の存在とあわせて、近接する古河を本拠とする動機の1つになったと考えられる[31][26]。今川軍の出発から鎌倉陥落まで3か月かかっていることから、成氏軍の抵抗も激しかったと想定されるが、鎌倉陥落後は積極的に奪還する動きは見せていないため、上杉軍や幕府軍に対抗するために古河に本拠地を移す構想が早くから存在していたとする説[32]がある[33]

更に成氏の兄弟で勝長寿院門主であった成潤も自らが別当を兼務する日光山に対抗する姿勢を見せている[注釈 11]

一方で、成氏の弟で以前に鎌倉公方の候補にも挙げられていた雪下殿定尊は、鶴岡八幡宮の社僧らを率いて鎌倉から古河に近い下河辺荘高柳に逃れて、成氏を支援している[35]。恐らく応仁年間に定尊が亡くなると、もう一人の弟である尊敒がその立場を引き継いで成氏のために活動している[36]

成氏は幕府に対して、これは上杉氏との抗争であり、幕府には反意がないことを主張した[37]が、回答は得られなかった。京都では享徳4年7月に康正、康正3年9月には長禄と立て続けに改元されたものの、成氏は「享徳」を使用し続けて、幕府に抵抗する意思を示す[注釈 12][8][26][39]

成氏勢と上杉勢の対峙

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上杉勢は、康正元年12月に下野天命・只木山の陣が崩壊し[40]、康正2年(1456年)9月の武蔵岡部原合戦[41]でも敗退したが、長禄3年(1459年)頃に五十子陣を整備し、さらに河越城(川越城)・岩付城(岩槻城)・江戸城などの攻守網を完成させた。

一方、成氏も古河城を中心として、直臣の簗田氏関宿城野田氏栗橋城一色氏幸手城佐々木氏菖蒲城に置くなど攻守網を形成し、両者が拮抗するようになった。

長禄元年(1457年)12月、室町幕府は成氏に対抗するため、将軍義政の異母兄・政知を新たな鎌倉公方として、東下させた[42][43]。だが、政知は鎌倉に入れず、伊豆堀越にとどまり、ここに御所をおいたので、堀越公方と呼ばれる。政知が伊豆に到着したのは、長禄2年(1458年)5月25日以降から8月13日までの間と考えられている[43]

以後、おもに下野・常陸・下総・上総安房を勢力範囲とした古河公方・伝統的豪族勢力と、おもに上野・武蔵・相模・伊豆を勢力範囲とした幕府・堀越公方・関東管領山内上杉家・扇谷上杉家勢力とが、関東を東西に二分して戦い続ける。武蔵北部の太田荘周辺と、上野東部が主な戦場であった[26][39]

成氏追討を命じた足利義政御内書、宛先は白河顕朝(東京国立博物館蔵[44]

この間、幕府は五十子へ諸大名に命じて征討軍を派遣しようとしたが、斯波義敏は命令違反で追放され(長禄合戦)、結城直朝のいる奥羽では国人達が抗争を繰り返しており、今川範忠の駿河帰還等もあって編成は思う様に進まなかった。堀越公方の軍事力強化を図り、政知の執事・渋川義鏡の子・義廉斯波氏を相続させるも、義鏡が扇谷上杉家と対立、失脚してしまいこちらも失敗した。

寛正6年(1465年)、幕府は今川義忠武田信昌に関東出陣を命じたが、両者がこれに従ったかは不明。

やがて、京都では度重なるお家騒動を発端として諸大名が二派に分かれて戦い、応仁の乱が勃発、幕府は関東に軍勢を送れなくなってしまった。

成氏はこの状況を見て京都との和睦を図るが、東軍を率いる細川勝元との対立の経緯から西軍の勝利に期待して、足利義視をトップとする所謂「西幕府」を交渉相手に定めることになる。しかし、戦況が東軍優勢で進んだことでこの和睦構想は破綻し、却って東軍を支持した足利義政の怒りを買うことになった[45][46]

享徳の乱終結

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文明3年(1471年)3月、成氏は小山氏・結城氏の軍勢と共に遠征して、伊豆の堀越公方を攻めたが、敗れて古河城に撤退した(『鎌倉大草紙』[47])。この遠征失敗の影響は大きかった[注釈 13]。幕府の帰順命令に、小山氏・小田氏等の有力豪族が応じるようになった[48]ため、古河城も安全ではなくなり、5月に上杉勢の長尾景信が古河に向けた総攻撃を開始すると、千葉[注釈 14]千葉孝胤の元に退避した(『鎌倉大草紙』)。しかし上杉勢も古河城に入るだけの力がなく、文明4年には千葉孝胤、結城氏広那須資実や弟の雪下殿尊敒の支援により、成氏は古河城に帰還し、後に小山氏も再び成氏方に戻った[26][39]

一方、文明8年(1476年)、山内上杉家では家宰の後継争いが原因となり、長尾景春の乱が発生した。文明9年(1477年)正月、長尾景春は武蔵鉢形城を拠点として上杉勢の五十子陣を攻撃し、これを破壊したため、対古河公方攻守網が崩れる。最終的に景春の反乱は扇谷上杉家家宰の太田道灌の活躍によって鎮圧されるが、上杉氏の動揺は大きかった。古河公方勢との戦いだけではなく、上杉家内部の対立や山内・扇谷両上杉氏間の対立が大きな問題となったのである。

文明10年(1478年)正月に成氏と上杉氏との和睦が成立(『松陰私語』)すると、長年難航していた幕府との和睦交渉も、前年に応仁の乱が終結したこと[注釈 15]や越後守護上杉房定が幕府管領細川政元との仲介に立つことで進展し、文明14年11月27日1483年1月6日)に古河公方と幕府の和睦が成立した[51]。これを都鄙和睦(または都鄙合体)と呼ぶ。この結果、堀越公方の足利政知は伊豆一国のみを支配することとなり、政治的には成氏の鎌倉公方の地位があらためて幕府に承認されたと考えられる[26][39][52]。その一方で、成氏が鎌倉を放棄することも正式に決定したのである[53]

なお、都鄙和睦に対しては、長尾景春と千葉孝胤が強硬な反対論を唱えている。成氏にとって景春は自らを頼ってきた存在であり、孝胤は出頭として知られた存在であったが[注釈 16]、和睦推進のために両者を切る判断を下し、文明10年に扇谷上杉家と連携し、太田道灌は7月に景春を、12月に孝胤を討伐している。その後も和睦反対論が成氏陣営内部では根強く、最終手続と言える成氏から房定への和睦への謝意の書状が送られたのは、文明15年6月になってからであった[54]

晩年

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都鄙和睦によって、成氏は朝敵の汚名から解放され、嫡男の政氏の名前も前将軍・義政から一字を拝領した[注釈 17]。成氏が用いた「享徳」年号も、享徳27年(文明10年)以降の記録はない。しかし、その後も古河公方と堀越公方の並立、山内・扇谷両上杉氏間の抗争(長享の乱)勃発など不安定な状態が続き、成氏が鎌倉に戻ることはなかった。

長享3年(1489年)の文書に政氏の証判が見られることから、この頃には家督を譲っていたとも考えられている[26][55]

成氏と連携していた太田道灌の殺害という事情があるにもかかわらず、成氏父子は長享の乱では扇谷上杉家を支援している。ところが、明応3年(1494年)7月頃に対立してきた山内上杉家との連携に踏み切っている。

明応5年(1496年)、上杉顕定の要請を受けて扇谷上杉家の河越城を攻撃しているが、その最中に体調を崩して、翌明応6年(1497年)の正月には古河に引き上げている[56]

明応6年9月晦日(30日)、成氏は死去した。64歳であったとされる。法名は「乾享院殿久山道昌」(『古河公方系図(続群書類従)』)。臨終の際、成氏は嫡子の政氏を呼び、「再び鎌倉に環住し、関八州を取り戻すことが孝行である。何にも勝る弔いになる。」と言い残したとされる(『鎌倉公方九代記』)。

関連作品

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文学

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江戸時代の曲亭馬琴(滝沢馬琴)による読本南総里見八犬伝に、滸河公方足利成氏(なりうじ)として登場する。八犬士たちの主君・里見義実は、もと結城合戦の落武者で、八犬士の一人犬塚信乃の父・犬塚番作は、結城落城ののち、足利春王、安王が京へ護送される際、美濃垂井の金蓮寺で討たれた際にそれを救おうとして果たさず、足利家に伝わる宝刀・村雨丸を預かり、のち信乃はこれを足利成氏に献上するべく古河(『八犬伝』では滸我)へ赴くが、ニセ刀とすり返られており、管領扇谷定正の密偵と疑われて逃れる。のち成氏は、両上杉と連合して里見軍と戦い敗れて捕えられ、信乃は成氏を滸我まで送っていき、途中で村雨丸を返し、成氏は信乃に謝罪する。

偏諱を与えた人物

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(*前述の通り、「成」の字は将軍足利義成(のちの義政)から賜ったものであり、「しげ」と読む。)

史跡めぐり

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  • 茨城県古河市とその周辺:
    • 古河公方館跡: 享徳4年(1455年)6月、鎌倉から移座した成氏により築かれ、長禄元年(1457年)10月に古河城の改修が終わるまで使用された。跡地は古河総合公園内。詳細は「古河公方館」参照。
    • 古河城跡: 成氏以降、歴代古河公方の御所。明治末に大規模な渡良瀬川の河川改修が始まり、現在は跡地の大半が堤防と河川敷に変わった。三国橋新三国橋の中間付近・堤防上に「古河城本丸跡」と書かれた標柱が設置されている。渡良瀬川に面した立地条件は現在も当時のままである。詳細は「古河城」参照。
    • 永仙院跡: もとは「乾享院」と称し、成氏開基の菩提寺であったが、のちに第4代古河公方足利晴氏の菩提寺になり改称されたと考えられている。現在は、市内桜町にある跡地が市文化財(史跡)として整備され、歴代住持の墓や、公方家侍医・田代三喜の供養碑などがある。詳細は「永仙院」参照。
    • 長谷寺(長谷観音): 成氏が古河城(御所)の鬼門除けとして、明応2年(1493年)、鎌倉から長谷観音を勧請したことが起源。現在は市内長谷町にある。詳細は「長谷寺」参照。ちなみに古河歴史博物館もここから近い。
    • 雀神社: 成氏ら歴代古河公方から崇敬された神社。長禄元年(1457年)に成氏が参拝し、「天下泰平国土安穏」を祈願したと伝えられている。現在は市内宮前町の渡良瀬川堤防隣に立地。詳細は「雀神社」参照。
    • 満福寺: 成氏により開かれた寺院。成氏の墓所がある。現在は野木町野渡にある。詳細は「満福寺」参照。
    • その他: 市内本町にある尊勝院、市内横山町にある神宮寺、市内牧野地にある鳳桐寺は、成氏に従って鎌倉から移転した。古河城から渡良瀬川対岸の加須市向古河にあった真光寺は、成氏が帰陣の際に休憩所としたことがあり、現在は跡地が残されている。市内本町(八幡町)の八幡神社、同じ市内本町(北新町)の八幡神社は、成氏が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したものである。詳細は各項目の記事を参照。

脚注

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注釈

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  1. ^ 甘棠院開山(貞巌昌永とも、一説には政氏の子)。『戦国人名辞典』(吉川弘文館)、『戦国人名事典』(新人物往来社)の項目「貞巖昌永」参照。
  2. ^ 例えば、元禄9年(1696年)に写された二階堂貞政(主殿)所蔵本の写しで、彰考館に所蔵されていた『喜連川判鑑』や『古河公方系図』、『古河御所之傳』、浅羽氏家蔵の『足利系図』(ともに『続群書類従』所収)
  3. ^ 某年(嘉吉元年と推定)12月29日付けで万寿王丸名義で石川中務大輔に充てられた書状(『石川文書』所収)が存在していたが、長い間「万寿王丸」という実在しない人物名義の偽文書とみられてきた。しかし、百瀬説は「永寿王丸」こそ江戸時代よりも以前の史料に見られない名前であることを指摘して、この書状を当時の文書であると判断した上で同時代史料に記された「万寿王丸」が正しい名前である事を論証した。
  4. ^ 例えば、『山川日本史小辞典』の項目「足利成氏」では1434? とする。その一方で、例えば『角川新版日本史辞典』では1438? とする。『国史大辞典』でも、生年を永享10年とする。更に『古河市史』に所収されている「足利家通系図」(資料中世編1542号)には成氏の誕生日を「永享三年辛亥四月二日生」と記されている。なお、安王丸が万寿王丸(成氏)の同母兄の可能性を指摘する長塚孝は永享3年は安王丸の生年とされているので、「足利家通系図」は誤って安王丸の誕生日を記載したとする説を採る[6][7]
  5. ^ 例えば、『国史大辞典』の項目「足利成氏」(杉山博の執筆)。また、本解説では、永享6年を生年とするのは、『結城戦場記』にもとづく旧説であり、1438年の方が有力であるとする。
  6. ^ 成氏の幼少の事績について2説ある背景として、幕府が一旦は次の公方に内定して京都から送られた定尊の事績と実際に公方に擁立された成氏の事績が混同されてしまった可能性もある。
  7. ^ 1434年以外では、『戦国人名事典』の項目「足利成氏」(佐藤博信の執筆)の永享3年(1431年)とする例もあり、現在は1434年を中心に1431~1436年の範囲で議論されていると総括される。ちなみに、1434年とする考えは、明応六年(1497年)に64歳で没したとする史料とも矛盾しない。例えば、『古河公方系図(続群書類従)』によれば、「持氏戦死時年僅五歳、明応六年九月晦日卒、年六十四」。『(下野喜連川)足利家譜』(東京大学史料編纂所蔵)によれば、「明応六年九月晦日卒、年六十四」。ただし一方で、『足利家通系図』によれば、「永享三年四月二日生、明応六年九月晦日卒、六十七歳」。(以上は『古河市史資料中世編』No.1540~1543にも収録)
  8. ^ 畠山持国は、かつて反持氏派に属した 細川持之勝元父子と対抗するために、成氏を支持したと推定される[19]
  9. ^ 北関東を中心とした伝統的豪族層(小山・結城・宇都宮・千葉・那須・小田等)は、永享の乱・結城合戦の結果、強大となった上杉氏に脅威を感じ、あるいは上杉氏に奪われた所領を取り戻すために、鎌倉公方復活による持氏時代への回帰を期待した。その一方で上杉氏は、長年にわたる主従関係を背景に、鎌倉公方が諸豪族の不満を抑えることを期待した。この矛盾が解決できなかったことが、後に享徳の乱につながったと考えられている[20][21]
  10. ^ 佐藤博信は徳政令の意義を見直し、成氏側と上杉側との権力争いの一環であり、上杉側に所領を奪われた寺社の困窮対策であったとの解釈を示している[23]
  11. ^ 戸谷穂高は従来「偽文書」の疑いを持たれていた宝徳4年の白河直朝宛源義氏書状2通(「國學院大學所蔵白河結城文書」(『白河市史』第5巻所収531・532号)の差出人を成潤であると推定し、成氏に代わる鎌倉公方になるべく還俗して「足利義氏」と名乗ったが五十子にて早世した(『源家御所家系図』『喜連川判鑑』)ために、上杉氏ら反成氏陣営は義氏(成潤)に代わり得る人材を求めた結果として、足利政知の下向に至ったとする[34]
  12. ^ 峰岸純夫は、成氏の公元号不使用の理由について、通説とやや異なる見解を示している。成氏は氏満・持氏と異なり、反乱軍と認定されたため改元詔書が届かず、その意思に関わらず、新元号を使用できる状況になかったとした[38]
  13. ^ 成氏方の伊豆遠征の記事は他の史料にはみられず、史実ではない可能性がある。また、『鎌倉大草紙』には同じ頃に成氏が五十子陣に攻撃を加えたとする記事があるため、伊豆と五十子が混同されている可能性がある[46]
  14. ^ 佐藤博信は本佐倉城のことを指すとし、和氣俊行は(下総)平山城のことを指すとしている。ただし、千葉孝胤が本佐倉城を本拠とするのはもっと後(『千学集』に従えば、文明16年のこと)[49]であるため、千葉郊外の平山城とする和氣説の方が正しいとする指摘もある[50]
  15. ^ 勝利した東軍は西軍諸将の責任を追及せずに赦免と幕府への復帰を認めた。成氏としては和睦交渉の相手を失った形となったが、幕府側も上杉氏の内紛によってこれ以上の成氏討伐の継続が困難になったことで、過去の成氏と西幕府との交渉については不問として、改めて成氏との和睦交渉に応じる姿勢に傾いたと考えられる[45]
  16. ^ 室町幕府及び関東管領上杉氏は千葉自胤を千葉氏当主と認定していたため。
  17. ^ 本来なら義政の後継将軍・足利義尚から一字を譲り受けるところだが、政氏を名乗る直前の長享3年(1489年)3月に義尚は亡くなっていた。

出典

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  1. ^ 簗瀬大輔『小田原北条氏と越後上杉氏』吉川弘文館、2022年。
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 29頁。
  3. ^ 百瀬今朝雄「足利成氏の幼名」『日本歴史』414号、1982年。
  4. ^ 内山俊身「鳥名木文書に見る室町期東国の政治状況―永享の乱・結城合戦時の霞ヶ浦周辺と足利万寿王丸の鎌倉公方復権運動について」『茨城県立歴史館報』31号、2004年。/所収:長塚 2022, p. 105
  5. ^ 長塚 2022, p. 28.
  6. ^ 長塚 2022, p. 9.
  7. ^ 長塚 2022, p. 36.
  8. ^ a b c d e f g h i j 『神奈川県史通史編1』、889-960頁(第三編第三章第四節 鎌倉府の没落)
  9. ^ 佐藤 1989, pp. 46–49.
  10. ^ a b 黒田 2018, pp. 30–37, 石橋一展「足利持氏没後の争乱と鎌倉公方足利成氏の成立」
  11. ^ 佐藤 1989, p. 95.
  12. ^ 佐藤 1989, p. 91.
  13. ^ 『喜連川判鑑』、『永享記』、『鎌倉九代後記』など。なお、『喜連川判鑑』では文安2年に関東諸家が成氏が信濃の大井氏の下にいることを京都に申告したとしている。
  14. ^ 『康富記』文安六年(1449)7月3日条
  15. ^ 『喜連川判鑑』、後花園天皇口宣案(『戦国遺文古河公方編』No.2,3 収録)など。
  16. ^ 長塚 2022, p. 13.
  17. ^ 長塚孝「鎌倉府奉公衆の一過程―簗田氏の動向を素材として―」『葦のみち』15号、2003年。
  18. ^ 長塚 2022, pp. 9–12.
  19. ^ 『神奈川県史通史編1』、898頁
  20. ^ 佐藤 1989, pp. 54–62.
  21. ^ 『古河市史通史編』、163-165頁
  22. ^ 足利成氏書状写(管領畠山持国宛)(鎌倉大草紙所収) 『古河市史資料中世編』No.80、あるいは『戦国遺文古河公方編』No.4 収録。
  23. ^ 佐藤 1996, pp. 17–33.
  24. ^ 3月21日付細川勝元書状(『神奈川県史資料編3古代・中世3下』No.6158収録)
  25. ^ 佐藤 1989, p. 61.
  26. ^ a b c d e f g h i 『古河市史通史編』、163-178頁(第二編第三章第一節 古河公方足利氏の成立)
  27. ^ 『烏森神社文書』足利成氏願文(『古河市史資料中世編』No.98、あるいは『戦国遺文古河公方編』No.20 収録)
  28. ^ 足利成氏書状写(武家事紀所収) (『古河市史資料中世編』No.212、あるいは『戦国遺文古河公方編』No.116 収録)、『喜連川判鑑』など。
  29. ^ 『赤堀文書』足利成氏感状(『古河市史資料中世編』No.204 収録)
  30. ^ 『小山文書』(文明九年閏正月11日付の小山持政宛文書)(『古河市史資料中世編』No.283 収録)
  31. ^ 小山市史通史編1、617頁
  32. ^ 黒田基樹「享徳の乱と古河公方の成立」黒田 編『足利成氏とその時代』戎光祥出版、2018年。
  33. ^ 長塚 2022, pp. 17–18.
  34. ^ 戸谷穂高 著「享徳の乱前後における貴種足利氏の分立」、佐藤博信 編『関東足利氏と東国社会』岩田書院〈中世東国論 5〉、2012年。ISBN 978-4-87294-740-3 
  35. ^ 黒田 2017, pp. 338–339, 谷口雄太「足利持氏の妻と子女」.
  36. ^ 黒田 2017, pp. 339–340, 谷口雄太「足利持氏の妻と子女」.
  37. ^ 康正2年(1456年)4月4日付の細川勝元宛書状(『古河市史資料中世編』No.213 収録)・三条実雅宛書状(『古河市史資料中世編』No.212 収録)
  38. ^ 峰岸純夫 著「封建時代の年号と天皇」、東京歴史科学研究会 編『転換期の歴史学』合同出版、1979年。 /所収:峰岸 2001, pp. 96–99
  39. ^ a b c d 佐藤 1989, pp. 54–86, 「足利成氏とその時代」
  40. ^ 『正木文書』足利成氏書状写(康正元年12月13日付の岩松持国宛文書)(『古河市史資料中世編』No.188 収録、あるいは『戦国遺文古河公方編』No.92 収録)
  41. ^ 『和田中條文書』室町将軍家御教書(康正2年11月27日付の和田定資宛文書)(『古河市史資料中世編』No.226 収録)
  42. ^ 『神奈川県史通史編1』、927頁
  43. ^ a b 石田 2008, p. 145.
  44. ^ ColBase”. colbase.nich.go.jp. 2023年8月2日閲覧。
  45. ^ a b 家永遵嗣「応仁二年の「都鄙御合体」について」『日本史研究』581号、2011年。/所収:長塚 2022, pp. 89–211
  46. ^ a b 長塚 2022, p. 20.
  47. ^ 大日本史料(大日本史料総合データベース)”. 東京大学史料編纂所. 2017年7月30日閲覧。
  48. ^ 足利義政御内書写(『古河市史資料中世編』No.266収録)
  49. ^ 黒田基樹「千葉氏の本佐倉城移転とその背景」『風媒花』23号、2010年。/所収:黒田基樹『戦国期関東動乱と大名国衆』戎光祥出版、2021年、18頁。ISBN 978-4-86403-366-4
  50. ^ 黒田 2018, p. 98, 「享徳の乱と古河公方の成立」.
  51. ^ 『喜連川文書』足利義政御内書(『古河市史資料中世編』No.303、No.305収録)
  52. ^ 阿部 2006, pp. 36–59, 「享徳の乱と関東公方権力の変質」.
  53. ^ 長塚 2022, pp. 22–28.
  54. ^ 長塚 2022, pp. 22–25.
  55. ^ 『戦国人名辞典』の項目「足利成氏」・「足利政氏」
  56. ^ 長塚 2022, pp. 25–26.

参考文献

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  • 主な参考文献
    • 阿部能久『戦国期関東公方の研究』思文閣出版、2006年。 
    • 神奈川県県民部県民史編集室『神奈川県史 通史編1』神奈川県、1981年。
    • 古河市史編さん委員会編『古河市史 資料中世編』古河市、1981年。
    • 古河市史編さん委員会編『古河市史 通史編』古河市、1988年。
    • 佐藤博信『古河公方足利氏の研究』校倉書房、1989年。 
    • 戦国人名辞典編集委員会編『戦国人名辞典』吉川弘文館、2006年。
    • 黒田基樹 『図説 享徳の乱』 戎光祥出版、2021年。
    • 長塚孝 編『足利成氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第三三巻〉、2022年。ISBN 978-4-86403-421-0 
      • 長塚孝「総論 足利成氏論」(8-42頁)
  • その他の参考文献
    • 朝尾直弘宇野俊一田中琢編『角川新版日本史辞典』角川書店、2006年(初版1997年)。
    • 小山市史編さん委員会編『小山市史 通史編1』小山市、1984年。
    • 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』吉川弘文館、1996年。
    • 佐藤博信『続中世東国の支配構造』思文閣、1996年。 
    • 佐藤博信『戦国遺文 古河公方編』東京堂出版、2006年。
    • 田辺久子『関東公方足利氏四代』吉川弘文館、2002年。
    • 日本史広辞典編集委員会編『山川日本史小辞典』山川出版社、2001年。
    • 峰岸純夫『中世災害・戦乱の社会史』吉川弘文館、2001年。 
    • 黒田基樹 編『足利持氏とその時代』戎光祥出版〈関東足利氏の歴史 第4巻〉、2017年。 
    • 黒田基樹 編『足利成氏とその時代』戎光祥出版〈関東足利氏の歴史 第5巻〉、2018年。 
    • 石田晴男『応仁・文明の乱』吉川弘文館〈戦争の日本史9〉、2008年。 

関連項目

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