長崎県立長崎西高等学校
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長崎県立長崎西高等学校 | |
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北緯32度45分58秒 東経129度51分33.8秒 / 北緯32.76611度 東経129.859389度座標: 北緯32度45分58秒 東経129度51分33.8秒 / 北緯32.76611度 東経129.859389度 | |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 長崎県 |
併合学校 |
長崎県立長崎高等学校 長崎県立長崎女子高等学校 長崎県立瓊浦高等学校 長崎市立女子高等学校 |
校訓 | 自律 |
設立年月日 | 1948年11月1日 |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制課程 |
設置学科 | 普通科 |
学科内専門コース | 理系コース |
学期 | 3学期制 |
学校コード | D142210000024 |
高校コード | 42102C |
所在地 | 〒852-8014 |
長崎県長崎市竹の久保町12-9 | |
外部リンク | 公式ウェブサイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
長崎県立長崎西高等学校(ながさきけんりつ ながさきにしこうとうがっこう, 英: Nagasaki Prefectural Nagasaki Nishi High School)は、長崎県長崎市竹の久保町に所在する県立高等学校。通称は西高、長崎西。
概要
[編集]- かつて総合選抜制度を行っていた長崎五校の一つ。
- ほとんどの生徒が四年制大学をはじめとする上級学校への進学を目指す。
- 長崎市内の多くの県立高等学校は高台に建っているが、長崎西高は比較的低地にあり、バス(長崎バス、長崎県営バス)に加え、電車でのアクセスがしやすい学校である。JR九州の浦上駅、長崎電気軌道の浦上駅前電停が近くにあり、そこからは歩道橋[1]を通って学校の近くまで行くことができる。
校訓
[編集]- 「自律」
- 創立30周年の1978年(昭和53年)に制定。
キャッチフレーズ
[編集]- 「志高く夢かなう長崎西」
校章
[編集]- 1949年(昭和24年)4月に制定。
マスコットキャラクター
[編集]- 柏君(かしわくん)
- 校章に用いられている柏の葉をモチーフに作られたマスコットキャラクター。えんじ色の服をまとい、右手に万年筆を掲げている。柏君神輿などがある。
校歌
[編集]- タイトル - 「眉秀でたる若人よ」
設置課程・学科
[編集]沿革
[編集]長崎西高等学校は、長崎東高等学校と源流を同じくしている。また、長崎東高とともに、創立年数は1948年(昭和23年)を基準に数えている。
前身
[編集]- 旧制中学校(男子校)
- 長崎県立長崎中学校
- 1858年(安政5年) - 長崎奉行支配組頭の永持亨次郎によって江戸幕府直轄の「英語伝習所」を創立。
- 場所 - 官邸の岩原屋敷(現在の長崎歴史文化博物館がある場所)
- その後、「英語所」、「語学所」、「洋学所」と改称。
- 1865年(慶応元年) - 新町に校舎を新築し、「済美館」と改称。
- 1868年(明治元年) - 明治政府直轄となり、「広運館」と改称。
- 1872年(明治5年) - 学制が公布され、官立(国立)の「第六大学区第一番中学校」と改称。
- その後、「第五大学区第一番中学校」、「広運学校」、「長崎外国語学校」、「長崎英語学校」と改称、移転が続く。
- 1878年(明治11年) - 願い出により長崎県へ移管され、「長崎県立長崎中学校」と改称。
- 1882年(明治15年)7月 - 欧化政策の影響により、邦学部を廃止し、再び「長崎外国語学校」と改称。
- 1884年(明治17年)
- 1913年(大正2年)7月 - 長崎市鳴滝に長崎県立長崎中学校校舎を新築し、移転。設計は山田七五郎による。
- 1917年(大正6年)夏 - 第3回全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園)に出場。
- 1945年(昭和20年)8月9日 - 長崎市への原子爆弾投下により、34名が死亡。
- 1947年(昭和22年)4月 - 学制改革により、新制の併設中学校(鳴滝中学校)を設置し、旧制中学の2・3年生を収容。旧制中学の募集を停止。
- 1948年(昭和23年)4月 - 学制改革により、「長崎県立長崎高等学校」(新制高等学校、男子校)となる。 通信教育部を設置。
- 1858年(安政5年) - 長崎奉行支配組頭の永持亨次郎によって江戸幕府直轄の「英語伝習所」を創立。
- 長崎県立瓊浦中学校
- 高等女学校
- 長崎県立長崎高等女学校
- 長崎市立高等女学校
開校
[編集]- 1948年(昭和23年)11月1日
- GHQより派遣のニブロ教育官の勧告を受け、上記4校(長崎高・長崎女子高・瓊浦高・市立女子高)を統合の上、中島川・大浦川を境に、長崎県立長崎東高等学校と長崎県立長崎西高等学校に分割。[10]
- 長崎県立長崎西高等学校
- 校舎 - 長崎市鳴滝(県立長崎高等学校校舎/現長崎県立鳴滝高等学校)
- 創立年数はこの年(1948年(昭和23年))を基準に数えられている。
- 通信教育部を設置(旧・長崎県立長崎高等学校から継承)。
- 併設中学校は統合により「長崎県立長崎東西高等学校併設中学校」として桜馬場校舎(長崎市立桜馬場中学校)に集約される。
- 1949年(昭和24年)
- 1950年(昭和25年)
- 1951年(昭和26年)
- 12月 - 校歌「眉秀でたる若人よ」を制定。
- 4月 - 式見分校(定時制普通科)を開校。
- 1958年(昭和33年)
- 3月 - 各校独自の方法で生徒募集をしたいという要望から、長崎東高と長崎西高の総合選抜制を一旦廃止。[12]
- 11月 - 創立10周年記念式典を挙行。
- 1960年(昭和35年)- 高島分校が分離・独立し、長崎県立高島高等学校となる[13]。
- 1961年(昭和36年)
- 1968年(昭和43年)
- 4月 - 長崎県立西彼農業高等学校から村松教室が移管され、琴海分校とする。
- 11月 - 創立20周年記念式典を挙行。
- 1969年(昭和44年)4月 - 式見分校を長崎県立長崎北高等学校へ移管[14]。
- 1971年(昭和46年)8月8日 - 旧制瓊浦中学校の「報国隊犠牲者の碑」が正門横に完成し、入魂式を挙行。
- 1974年(昭和49年)4月1日 - 琴海分校が長崎県立琴海高等学校として分離・独立。
- 1978年(昭和53年)11月 - 創立30周年記念式典を挙行。「自律」を校訓に制定。記念事業として「自律の像」を建立、「柏の森」を造園。
- 1979年(昭和54年)3月 - 長崎北陽台高等学校の開校に伴い、長与分校が30年の歴史に幕を下ろす。
- 1995年(平成7年)3月 - 総合選抜制度の一部改正。[15]
- 文系総合コース・理系総合コースをそれぞれ1クラス設置し、一部ではあるが受験生が直接長崎西高校を選べるようにした。
- 推薦入試を開始。
- 1998年(平成10年)11月 - 創立50周年記念式典を挙行。記念事業として「自律の鐘」と「自律の碑」[16]が設置。10年前に設置された「自律の像」とあわせ、「自律三林」と命名。
- 2000年(平成12年)- 通信制課程が長崎県立鳴滝高等学校に移管・統合。
- 2002年(平成14年)3月 - この時の入試をもって、長崎五校の総合選抜は廃止。最後の総合選抜試験となった。
- 2003年(平成15年)
- 3月 - 総合選抜の廃止に伴い、単独選抜を開始。一般入試での面接試験を開始。文系総合コースを文系コース(1学級)に、理系総合コースを理系コース(2学級)に改称。
- 2004年(平成16年)3月 - 一般入試の2教科(数学・英語)[17]で独自問題を作成し、実施。[18]
- 2005年(平成17年)- 文部科学省よりスーパーサイエンスハイスクール(SSH)に指定。
- 2006年(平成18年)
- 3月 - 一般入試2教科(数学・英語)における独自問題作成を廃止し、長崎県教育委員会が長崎県立高校入試の数学・英語の2教科に関して、難易度別にA問題・B問題を導入・実施。各高等学校の実情に合わせ、どちらを実施するかは各高校にゆだねられた。
- 2008年(平成20年)11月 - 創立60周年記念式典を挙行。
- 2010年(平成22年)4月 - スーパーサイエンスハイスクール(SSH)に再指定。文系コースを廃止。
- 2011年(平成23年)6月 - 県内高校で唯一だった長崎西高の水球部が長崎工業高等学校の水球部創部に伴い、県高総体で初めて水球競技が開催され、出場。[19]
- 2012年(平成24年)1月25日 - 旧制長崎県立長崎中学校創立125周年記念および同窓会解散記念植樹を実施[20]。
- 2018年(平成30年)11月 - 創立70周年記念式典を挙行。
学校行事
[編集]1学期
[編集]- 4月 - 始業式、入学式、We-Start Camp(新入生宿泊合宿)、歓迎遠足(稲佐山)
- 5月 - 中間考査、前期生徒会選挙
- 6月 - 高総体
- 7月 - 終業式
- 8月前半 - 高2海外研修旅行(オーストラリア)、平和学習(9日 長崎原爆の日)、夏季補習、学習合宿(3年)
2学期
[編集]- 8月後半 - 始業式、西高祭(文化祭)
- 9月 - 運動会
- 10月 - 中間考査、後期生徒会役員選挙
- 11月 - 同窓会講演会
- 12月 - 期末考査、修学旅行(2年)、イルミネーション点灯式(3年入試激励会)、終業式、冬季補習
3学期
[編集]- 1月 - 始業式、大学入試センター試験(3年)、長距離走大会(1・2年)
- 2月 - 学年末考査、同窓会入会式(3年)
- 3月 - 卒業式、校内球技大会(1・2年)、終業式(修了式)
部活動
[編集]体育部
[編集]- 球技
-
- 選抜高等学校野球大会(春のセンバツ)
- 1951年(昭和26年)- 第23回大会(初出場)
- 全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)
文化部
[編集]- 放送部 - NHK杯全国高校放送コンテストに複数回出場経験あり。過去に全国高等学校野球選手権大会・選抜高等学校野球大会の開閉会式の司会を務めた者もいる。
- 文芸部
- 図書部 - 図書委員の生徒は必ず図書部に所属しなければならない。
- 美術部
- 書道部
- 写真部
- 演劇部
- ギター部
- 吹奏楽部
- 音楽部 - いわゆる合唱部で、全日本合唱コンクールの九州大会常連。全国大会にも九州代表として過去3度出場(2007-09年)、金賞1回、銀賞2回。
- ギター部・音楽部・吹奏楽部は合同で定期演奏会を行っている。
- 語学部- 廃部
- 化学部
- 物理部
- 生物部
- 地学部
- 数学同好会
- 被服手芸部
- 調理部
- 茶道部
- 華道部- 廃部
- 社会研究部- 廃部
制服
[編集]- 男子 - 冬服は学生服(学ラン)、夏服は白無地の開襟シャツ。
- 女子 - 冬服は紺無地のセーラー服、夏服は白無地のセーラー服。
- ジャージの色は海老茶色。
- 衣替えは無く、その日の気温などから生徒たちが自分で判断して着る服を選んで良い。
著名な卒業生
[編集]旧制県立長崎中学校の出身者・卒業生は長崎県立長崎中学校を参照。
旧制県立瓊浦中学校の出身者・卒業生は長崎県立瓊浦中学校を参照。
各項目で50音順
政治
[編集]官界
[編集]経済
[編集]教育・研究
[編集]芸術・文化・芸能
[編集]- 麻生祐未 - 女優[22]
- 岡本一宣 - アートディレクター[22]
- 小田一生 - 映画監督[22]
- 岡崎律子 - シンガーソングライター
- 柴田亜美 - 漫画家[22]
- 青来有一 - 芥川賞作家、長崎市職員[22]
- 高瀬千図 - 作家
- 長濱ねる - タレント
- 林田洋平(ザ・マミィ)- お笑い芸人
- 東由多加 - 演出家[22]
- 峯のぼる - タレント
- 山口和彦 - 映画監督[22]
- 長門芳郎 - 音楽プロデューサー
放送
[編集]- 草野仁 - フリーアナウンサー(元NHKアナウンサー)、司会者、タレント[22]
- 荒生暁子 - フリーアナウンサー
- 大嶋真由子 - 長崎文化放送アナウンサー
- 柿野賢治 - 鹿児島放送アナウンサー
- 上枝一樹 - 鹿児島テレビアナウンサー
- 岸竜之介 - 長崎放送アナウンサー
- 小濱幹子 - フリーアナウンサー(元エフエム福岡アナウンサー)
- 坂田周大 - RKB毎日放送アナウンサー
- 田崎日加理 - フリーアナウンサー(元九州朝日放送アナウンサー)
- 外村倫子 - フリーアナウンサー(元長崎国際テレビ、NHK長崎放送局契約アナウンサー)
- 東島衣里 - ニッポン放送アナウンサー
- 平仙浩教 - テレビ長崎アナウンサー
- 本田舞 - テレビ長崎アナウンサー
- 村山仁志 - 長崎放送アナウンサー
スポーツ
[編集]- 岩本洋 - 元バレーボール選手、元小田急ジュノー監督
- 奥野俊一 - 元全日本バスケットボール男子チームコーチ[22]
- 片山菜々 - バスケットボール選手
- 川上聖子 - 元バスケットボール選手
- 坂上洋子 - 元柔道選手、バルセロナオリンピック・柔道女子72キロ超級・銅メダリスト[22]
- 末結希 - 女子ラグビー選手
- 田中大貴 - プロバスケットボール選手
- 塚原千恵子 - 元オリンピック女子体操選手、朝日生命体操クラブ女子監督[22]
その他
[編集]- 正門までの坂道は、戦前の旧制長崎県立瓊浦中学校の時代から「遅刻坂」と呼ばれている。
アクセス
[編集]- 最寄りの国道・県道・その他の道路
-
- 国道206号
- 長崎県道112号長崎式見港線
- 都市計画道路浦上川線[23]
周辺
[編集]- 駅
-
- 浦上駅
- その他
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 浦上歩道橋歩行者専用道路。1986年(昭和61年)12月19日に開通。2016年(平成28年)10月に浦上駅付近高架化工事のため撤去され、代替として地下通路が設置されている。
- ^ 柏の葉は、旧制第一高等学校(現 東京大学教養学部等の前身)の校章で使われていたこともあり、高い目標を持って学業に励んでほしいという願いをこめ、校章に用いる学校は全国に少なくない。長崎県内では諫早高等学校、佐世保南高等学校も校章に柏の葉を使っている。
- ^ 鶴は長崎の象徴として用いられることが多い。それは長崎港の形状が鶴に似ており、別名「鶴の港」と呼ばれていたことから、長崎市内の学校の校名や校章で「鶴」が使われている。校名であれば、長崎鶴洋高等学校(旧長崎水産高等学校)や鶴南特別支援学校、旧鶴鳴女子高等学校(現長崎女子高等学校)がある。校章であれば、長崎東高等学校、長崎南高等学校、長崎工業高等学校、長崎市立桜町小学校などが鶴を用いている。
- ^ 市制百年長崎年表(1989年(平成元年)4月1日 長崎市役所)によると瓊浦中学校の開校は翌年1923年(大正12年)4月1日と記されている。
- ^ 読みは「けいほ」。「瓊浦」は「長崎」の古名「瓊ノ浦」に由来。瓊浦中学校は現在の長崎県立長崎西高等学校の場所にあった。
- ^ 瓊浦中学校 - 平和研究所ウェブサイト
- ^ 市制百年長崎年表(1989年(平成元年)4月1日 長崎市役所)によると、市立高等女学校の開校は1922年(大正11年)4月8日と記されている。
- ^ 1938年(昭和13年)7月に移転するまで、現在の長崎市立上長崎小学校(長崎市下西山町)の場所にあった。1923年(大正12年)に建てられた鉄筋コンクリート3階建ての校舎は一部が現在でも上長崎小学校校舎となっており、長崎市で現存する最古の校舎であると言われている。上長崎小学校〜市内に現存する最古の校舎を参考。
- ^ 沿革 - 長崎市立桜馬場中学校ウェブサイト
- ^ 長崎市内の新制公立普通科高校は、旧制中学校の伝統は引き継がなかった。旧制中学校(旧制長崎県立長崎中学校、旧制長崎県立長崎高等女学校、旧制長崎県立瓊浦中学校、旧制長崎市立高等女学校)と長崎県立長崎東高等学校、長崎県立長崎西高等学校との合同同窓会は、過去一度も開催されていない。また、創立行事も同時に開催されたことがない。
- ^ ふるさとのブログ
- ^ a b c 高等学校再編の現代的様相 - 九州大学ウェブサイト
- ^ 高島高校は1989年(平成元年)3月に閉校。
- ^ その後式見分校は長崎式見高等学校となり、2008年(平成21年)3月に閉校。
- ^ 総合選抜制度の「行きたい学校を直接選べない」というデメリットを少しでも解消するために、県内の総合選抜高(長崎五校、佐世保三校、諫早二校)で実施。
- ^ 揮毫は津金孝邦(書家、日展評議員・審査員)によるもの。
- ^ 他の国語・理科・社会に関しては、長崎県公立高校入試問題と同じ。
- ^ この時、独自問題を作成した高等学校は、長崎北高等学校・長崎西高等学校・長崎東高等学校の3校であった。
- ^ 県高体連歴史 - 長崎県高等学校体育連盟ウェブサイト
- ^ 県立長崎中学校創立125周年 植樹式 - 長崎県立長崎西高等学校ウェブサイト
- ^ この時の大会では、名古屋電気高校(当時)の工藤公康(現 福岡ソフトバンク監督)にノーヒットノーランを記録されている。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 「名門高校の校風と人脈111 長崎西高校(長崎県立・長崎市)「学校は鍛える場所」と指導 企業トップ、銃弾に倒れた市長」『エコノミスト』、毎日新聞社、2014年9月、64-65頁。
- ^ 浦上川線 - 長崎県ウェブサイト