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1941年の日本競馬

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1941年の日本競馬(1941ねんのにほんけいば)では、1941年昭和16年)の日本競馬界についてまとめる。 馬齢は旧表記で統一する。

1940年の日本競馬 - 1941年の日本競馬 - 1942年の日本競馬

概要

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京都農林省賞典四歳呼馬でのセントライト

公認競馬ではセントライトが、史上初の牡馬クラシック三冠馬となった。1939年の牡馬クラシック三冠の創設から3年目で三冠馬誕生となった[1]

できごと

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1月 - 3月

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  • 1月20日日本競馬会が2月10日までの22日間にわたって、東京競馬場で馬政局職員の監視員17名、ほか種馬牧場、種馬育成所などの協力を得て、競走馬20頭に対して興奮剤の検査を行った。2月13日から22日までの間には、東京競馬場および馬事公苑でも同様の検査を行い、その後2月27日に「非投与馬においても検査の誤謬や汚染、飼料等により陽性を示す疑念はあり、以後も研究が必要」と発表される[2]
  • 2月28日、日本競馬会の安田伊左衛門理事長は、東条英機陸相に対して一般入場者の観覧用に軍馬の派遣を要請。東条はこの要請に応じ、3月7日に小倉・阪神・東京・京都・新潟の各競馬場に派遣することを通牒した[3]

4月 - 6月

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  • 4月7日、この年の「愛馬の日」は昭和天皇の臨席のもと、東京代々木練兵場で行われ、「興亜馬事大会」の挙行、ほか各種の演技披露、馬事功労者の表彰、および日本競馬会が選定した全国優良競走馬の展示などが行われた[4]
  • 5月1日、日本競馬会の機関誌優駿』が創刊された[5]。政府の情報統制のため、競馬雑誌もまた廃刊になるものが多く、これにより新たな情報源として創刊された[4]
  • 5月30日、日本競馬会を含む4つの馬事団体が会合し、馬事団体の統廃合に際しての中央団体の設立について初めて話し合われた。翌年に日本馬事会が発足する契機となる[4]

7月 - 9月

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  • 7月12日、陸軍の大規模動員計画の実施につき、競馬関係者にも召集令状が届くようになる。安田理事長は関係者に対して、召集に応じたものはその都度入隊月日、部隊名などを報告するように指示した[6]
  • 7月上旬、東京競馬場の使役馬がすべて軍馬として徴発される。9月15日には中山競馬場の乗用馬4頭も徴発され、馬事公苑、宇都宮牧場などから徴発された馬は計54頭に上った。このため8月12日、理事会において代わりの馬の購入を決定、費用として48,600円が計上された[6]

10月 - 12月

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  • 10月2日金属類回収令により、日本競馬会の各競馬場から4,380キログラム1,398キログラムが供出される。撤去費用は20,874円、代替工事費用は300,404円であった[6]
  • 10月26日、セントライトが京都農林省賞典四歳呼馬を優勝し牡馬クラシック三冠を達成[1]
  • 12月27日大東亜戦争(太平洋戦争)の勃発と、それに関して議会において敵産管理法が通過・公布されると、日本競馬会は敵性外国人の競馬関与を拒否することを決定、その旨各競馬場に通達した。12月30日には中山競馬場においてステーツ・アイザックスとC・H・モース2名の資格喪失が決議され、東京競馬場もこれに続いて翌年1月10日に両名の資格喪失を決議、横浜競馬場においては翌年1月15日に55名が除名されている[7]

その他

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  • 戦時下の物資不足の影響から、帝室御賞典の優勝賞品が純銀製の花盛器から木製の楯に変更された[5]

競走成績

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公認競馬の主な競走

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障害競走

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リーディング

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誕生

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この年に生まれた競走馬は1944年のクラシック世代となる。

競走馬

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人物

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死去

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競走馬

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人物

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脚注

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参考文献

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  • 競馬歴史新聞編集委員会『新版競馬歴史新聞』日本文芸社、2004年。ISBN 4-537-25205-7 
  • 一般社団法人 中央競馬振興会『日本近代競馬総合年表』中央競馬ピーアール・センター、2018年。 

注釈

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出典

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  1. ^ a b 『新版競馬歴史新聞』 p.26
  2. ^ 『総合年表』p.108
  3. ^ 『総合年表』p.109
  4. ^ a b c 『総合年表』p.110
  5. ^ a b c 『新版競馬歴史新聞』 p.27
  6. ^ a b c 『総合年表』p.111
  7. ^ 『総合年表』p.112