トーマス・ウィン
トーマス・クレイ・ウィン Thomas Clay Winn | |
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個人情報 | |
出生 |
1851年6月29日 アメリカ合衆国ジョージア州フレミントン |
死去 |
1931年2月8日(79歳没) 日本石川県金沢市大手町金沢教会内 |
国籍 | アメリカ合衆国 |
両親 | 父:ジョン・ウィン |
配偶者 |
イライザー(前妻) フローレンス(後妻) |
職業 | 牧師・宣教師・教育者 |
出身校 | アマースト大学、マコーミック神学校、ユニオン神学校 |
トーマス・クレイ・ウィン(英: Thomas Clay Winn,1851年6月29日-1931年2月8日)は、明治時代の日本で活躍したアメリカ合衆国の宣教師。
生涯
[編集]アメリカのジョージア州フレミントンのジョン・ウィン牧師の第3子として生まれる。祖母のフェーベ・ブラウン(Phebe H. Brown)と伯父のサミュエル・ブラウンの影響を受けて海外宣教の夢を持っていた。
アマースト大学とシカゴのマコーミック神学校を卒業する。1877年、ユニオン神学校を卒業した後、イライザーと結婚して、1877年(明治10年)12月に横浜に入港、横浜のジェームズ・バラの塾を助ける。
1879年(明治12年)にヘボンの推薦で石川県中学師範学校の英語教師になるために、妻のイライザ、教育宣教師のM・T・トゥルー、伝道師の林清吉、出口清子らと共に金沢に赴任する。県令千阪高雅の許可を得て、キリスト教の講義所を作り、10月5日北陸最初の礼拝を行う。1881年(明治14年)には大手町の講義所で日本基督一致教会金沢教会(現、日本基督教団金沢教会)を設立した。1882年(明治15年)には私立愛真学校(北陸英学校)を設立する[1]。
1883年(明治16年)には中田久吉[2]や長尾巻、長尾八之門、狩谷芳斎らに洗礼を授ける。
師範学校の契約の終了後も金沢に留まり活動して、1884年(明治17年)には北陸学院の前身である、女子塾(私立金沢女学校)を開いて教育と伝道を行った他、当時流行っていた自転車の修理を石野義延氏(後に石野自転車商会を創業)に教える等、金沢の発展にも貢献。ウィン夫妻は、19年間金沢で活動した。その後、大阪で伝道する。1906年(明治39年)には日本基督教会の会員の陸軍軍人の日匹信亮の求めで、満州に渡り伝道をする。1912年(大正元年)妻イライザーが60歳で急死する。1917年下関で、フローレンスと再婚する[3]。
1923年(大正12年)まで満州で伝道を続けて、この年宣教師としての伝道生活を引退する。帰国して下関で1年過ごしたのち、1924年(大正13年)米国に帰国する。その後、妻が北陸学院教授に招聘されたので、1930年(昭和5年)には金沢に戻り、金沢教会と殿町(金沢元町)教会[4]の両教会の奉仕をする。1931年(昭和6年)2月8日金沢教会の礼拝中に急逝する。
死後
[編集]- 後に、中沢正七が「日本の使徒トマス・ウィン伝」という伝記を表した。
- ウィン一家が住んだ家は、旧ウィン館として金沢市の文化財として保存されている。
- 軽井沢に建てた別荘は、のちに歌人の片山広子が所有し、堀辰雄、芥川龍之介、室生犀星などが集った。個人所有で現存している。なおウィンの娘ジュリア(Julia Katrina Winn)は、1899年に軽井沢ユニオンチャーチで結婚式を挙げている[5]。
- 次男ジョージ・ウィンは朝鮮伝道に従事した。
- 3男マール・ウィンは金沢伝道に生涯を捧げた。
- 次男ジョージ・ウィンの息子のマール・ウィンは同志社大学教授になった。
脚注
[編集]- ^ 守部喜雅(2009年)p.78-79
- ^ 中田後に、日本メソジスト教会の牧師として活躍する。日本ホーリネス教会の創設者中田重治の実兄
- ^ 『日本キリスト教歴史大事典』p.158-159
- ^ 金沢教会より分離独立した教会。守部喜雅(2009年)p.79
- ^ Princeton Alumni Weekly Volume.VIII, p.95, Princeton University Press, 1907.
参考文献
[編集]- 米田勇『中田重治伝』1953年
- 最上光宏「ウィン」『日本キリスト教歴史大事典』、教文館、1988年
- 守部喜雅『日本宣教の夜明け』いのちのことば社、2009年 ISBN 978-4-264-02638-9