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甘薄荷 (会話 | 投稿記録)
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[[Category:1872年生]]
[[Category:1872年生]]
[[Category:1956年没]]
[[Category:1956年没]]

== [[Wikipedia:削除依頼/八木繁一、ツバキカンザクラ]]について ==

このまま記事を書き溜めたい考えですので一旦削除されることを希望します。--[[利用者:甘薄荷|甘薄荷]]([[利用者‐会話:甘薄荷|会話]]) 2016年10月29日 (土) 14:20 (UTC)

2016年10月29日 (土) 14:20時点における版

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甘薄荷さんがウィキペディアにおいて実り多き執筆・活動をなされることを楽しみにしております。--Trgbot会話2016年5月11日 (水) 00:36 (UTC)[返信]
ありがとうございます。よろしくお願いします。--甘薄荷会話2016年5月11日 (水) 14:53 (UTC)[返信]

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甘薄荷ブロック記録現在有効なブロックグローバルブロック自動ブロック投稿記録削除された投稿記録編集フィルター記録アカウント作成記録ブロック設定変更解除


ブロック解除の理由:

先日、sockpuppet: LTA:SHINJUまたは模倣行為という理由で無期限ブロック(アカウント作成も禁止、自分の会話ページも編集禁止)されました。ブロックされた管理者の方にウィキメールを送ってもIRCで投稿しても返信がなくて困っていたのですが、別の方にメールで相談したらチェックユーザーの方に相談したほうがいいと言われたのでチェックユーザーの方にメールしました。
その中の一人の方から返信があったので、その方とやりとりをしました。クリーンスタートを勧められましたが、これからもオキチモズクの関係の記事を編集したいと言ったところ
*半年間は、賞レース関連に投票しない
*賞レースの集計・編集を行う場合は事前にノートページで打診する
*今後も新記事賞エントリークラスの新規記事の執筆を続ける
の条件で会話ページを開放されることになりました。
その方にも詳細は説明できないと言われたので何が何だかわからなかったのですが、その方とのやりとりで賞レース系が問題だったとわかりました。それまで賞レースの審査に参加したことはありませんでしたが、以前選んでいただいたことがあって新記事投票所に感謝していました。そこにYassie様が更新作業ができなくなったというのを見たので恩返しと思って更新作業をしてみました。けっこう難しくてミスをしてFMmice様に手間をかけてしまったので、それでブロックされたとわかりました。
これからは約束した条件を守りますのでブロック解除依頼を申請します。ブロック解除をお願いします。--甘薄荷会話2016年8月28日 (日) 14:23 (UTC)[返信]

注意:

  • 実際にはブロックされていない、またはすでにブロック期間が終了している場合があります。ブロックログを確認してください。ブロックの記録がない、もしくは直近のブロックがすでに終了していれば、荒らし対策の自動システムにより自動ブロックに巻き込まれています。この場合は、このテンプレートではなく{{Unblock-auto}}をご利用ください。Wikipedia:自動ブロックもご参照ください。
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八木繁一

八木 繁一
生誕 1893年明治26年)1月15日
日本の旗 日本愛媛県野間郡波方村
(現今治市波方町)
死没 1980年昭和55年)6月9日
日本の旗 日本愛媛県松山市
研究分野 植物学
主な業績 オキチモズクツバキカンザクラ等の発見
影響を
受けた人物
牧野富太郎
プロジェクト:人物伝
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八木 繁一(やぎ しげいち、1893年明治26年)1月15日 - 1980年昭和55年)6月9日)は、日本教育者植物研究家である[1][2][3][4]教員として愛媛県師範学校に長年勤務し、多くの優秀な理科教員を輩出するとともに、愛媛県理科教育研究会の会長として愛媛県理科教育に貢献した[1][3][4][5]。また、教員としての勤務のかたわら、牧野富太郎に師事して地元の植物研究に打ち込み、オキチモズクツバキカンザクラなどを発見したことでも知られている[2][3][4][6]

生涯

生い立ち

1893年明治26年)1月15日愛媛県野間郡波方村樋口(現今治市波方町樋口)に生まれた[1][2][7][8]農家の父・鶴吉と母・ハルの間の11人兄弟の10人目であった[7][8]1908年明治41年)に波方尋常高等小学校(現今治市立波方小学校高等科を卒業すると、越智郡岩城村岩城尋常高等小学校(現上島町立岩城小学校)に代用教員として勤務しながら愛媛県師範学校を目指し、1910年明治43年)に同校に合格、入学した[7][9]

教育者として

愛媛師範学校では植物を中心に動物・鉱物なども学び[10]1914年大正3年)に卒業[1][2][3]上浮穴郡田渡村田渡小学校(現内子町立田渡小学校)の教員となった[11]。その後久万尋常高等小学校(現久万高原町立久万小学校)に移り[12]1919年大正8年)には27歳で柳谷第二高等尋常小学校(現久万高原町立柳谷小学校)の校長となった[3]。さらに、愛媛県師範学校の代用附属小学校となっていた余土尋常高等小学校(現松山市立余土小学校)の教員を経て[1][13]1922年大正11年)に母校愛媛県師範学校の博物科教諭として迎えられ[1][2][3]1941年昭和16年)まで約20年勤めた[1][2][3]

その後は、旧制愛媛県立松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)を経て、第二次世界大戦後の1947年昭和22年)には、新設の新制温泉郡余土村余土中学校(現松山市立余土中学校)の校長に就任[3]。さらに、旧制松山高等学校などを経て、愛媛県立保育専門学校を85歳で退職するまで、70年にわたって愛媛県の学校教育に携わった[14]

研究者として

八木は、教員としての勤務のかたわら、愛媛県内はもとより日本全国、さらに台湾にも出向いて動植物の研究を続けた[15]。自ら動植物や鉱物の採集会を開催したり、実験講習会に招かれて理科教員を指導することも多かった[16]1930年昭和5年)には、東京帝国大学理学部講師理学博士牧野富太郎を招いて植物採集会を開催している[3]

1950年昭和25年)の昭和天皇の来愛時には、興居島での動物採集の案内役を任された[2][3][6]。以降、昭和天皇をはじめ皇族の来愛時にはたびたび説明役を務めている[17]

後半生

1956年昭和31年)以降、八木は博物館の必要性を訴え、実現のために尽力した[1][2][3]1959年昭和34年)に愛媛県立図書館付属博物館が設立され、1961年昭和36年)には愛媛県立博物館として独立。1975年昭和50年)に新築された建物に移転・開館したが、これに向けて1966年昭和41年)に愛媛県知事久松定武から開館に向けた計画立案と準備を一任された[18]。久松知事からは館長就任も打診されたが、これは高齢を理由に辞退している[18]。また、教え子や在野の同好者などに呼び掛けて、小中学生や県民が自然に親しみ自然を愛する心を涵養するための自然科学教室を1959年昭和34年)から開催している[3][19]

緑化や自然保護にも努め、愛媛縣護國神社の御霊を慰めるための「郷土植物園」造営にあたっては、植物の選定から採集・植え付けまで中心となって担った[18]。現在は、万葉植物園となっている[18]1975年昭和50年)3月には、伊予つばき同好会(現伊予つばき協会)を設立し、会長となっている[19]。また、30年以上に渡って文化財保護にも携わり[20]、愛媛県文化財保護委員長も務めた[18]

1980年昭和55年)6月9日[3][7][21]松山赤十字病院で死去[22]。87歳だった[3][21]

業績と評価

ツバキカンザクラ
ミョウショウジ

愛媛県師範学校教諭を約20年にわたって務め、多くの教員を育てた[1][3]。特に理科教育において優秀な教員を養成するとともに、愛媛県理科教育研究会長として愛媛県の理科教育に大きく貢献した[1][3]

研究者としては、植物分類学に関して多くの研究成果を発表し[1]愛媛県における植物分類学の基礎を築いたと評価されている[21]。特に海藻学の分野では日本国外にまでその名が知られている[20]。特に国指定天然記念物オキチモズクを発見者として有名であるが[2][3]、この他にも多くの海藻類の新種やツバキカンザクラミョウショウジといったサクラの品種を発見している[2][3][20]。主な著書に『伊予の海藻目録』『愛媛県植物誌』『愛媛県動物誌』『伊予の椿図譜』『伊予の桜図譜』『伊予の花ごよみ』『伊予の万葉植物』などがある[1][2][14]

愛媛県生物学権威として30年以上に渡って文化財保護にも携わり[20]、愛媛県文化財保護委員長も務めた[18]愛媛県内で国や県の指定を受けている天然記念物のほとんどは、八木が調査をおこなって指定に努めたものである[20]。こうした功績が評価されて、1960年昭和35年)に文部省文化財保護委員会賞を受賞している[18]

また、愛媛県における植物研究と理科教育に対する長年の貢献に対して、1952年昭和27年)10月には愛媛県教育文化賞[21]1974年昭和49年)には愛媛県功労賞を受賞している[7]

人物

八木は、小学校の頃から剣道を始め[23]1913年大正2年)には愛媛県師範学校の代表の一人として全国大会に出場した[24]。7人の団体戦に大将として出場した八木は[25]、6連勝した相手の先鋒を倒すとそのまま7連勝して逆転、愛媛県師範学校に勝利をもたらした[26]

愛媛師範学校卒業後に赴任した田渡小学校(現内子町立田渡小学校)の時から八木の熱心な授業は評判となり[12]上浮穴郡の中心的な小学校であった久万尋常高等小学校(現久万高原町立久万小学校[12]柳谷第二高等尋常小学校(現久万高原町立柳谷小学校校長[13]愛媛県師範学校代用附属小学校の余土尋常高等小学校(現松山市立余土小学校[13]、さらに母校愛媛県師範学校の博物科教諭へと迎えられた[27]高等師範学校を出ていない八木には師範学校の教諭となる資格がなかったが、これまでの各校での実績を認めた山路一遊校長のたっての希望であった[28]。そのため愛媛県師範学校に勤めながら猛勉強をして難関の文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験を受験し、愛媛県師範学校の教諭となった1922年大正11年)のうちに「植物」に合格[28]1925年大正14年)には「動物」の免許も取得している[15]

愛媛県における植物学の第一人者と認められていた八木の自宅には、多くの訪問者があった[29]植物学牧野富太郎中井武之進本田正次海藻学岡村金太郎山田幸男などの高名な学者も、来愛の際には必ずと言っていいほど八木家を訪れている[30]

教え子には「人間は一生勉強を続けなければならない。勉強をやめれば、その人は死んだと同じようなものだ。」と常々語っていた[22]。その言葉通り、八木が亡くなった病院のベットのふとんの下には、きちんと整理された多くの植物の標本があったという[31]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 愛媛県史編さん委員会編 『愛媛県史 人物』 愛媛県1989年、p. 642
  2. ^ a b c d e f g h i j k 愛媛新聞社愛媛県百科大事典編集委員室編集 『愛媛県百科大事典 下巻』 愛媛新聞社1985年、p. 586
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 八木繁一(1893~1980) 愛媛の偉人・賢人の紹介 - 愛媛県生涯学習センター
  4. ^ a b c 八木繁一(1893~1980) データベース『えひめの記憶』 - 愛媛県生涯学習センター
  5. ^ 小谷正和・千葉昇「特集 愛媛自然科学教室」『全科協ニュース』第25巻第1号、全国科学博物館協議会、1995年、p. 2
  6. ^ a b 日外アソシエーツ編 『20世紀日本人名事典 そ~わ』 日外アソシエーツ2004年、p. 2569
  7. ^ a b c d e 大内三郎「八木繁一」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p. 80。
  8. ^ a b 大内三郎「八木繁一」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p. 81。
  9. ^ 大内三郎「八木繁一」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p. 97。
  10. ^ 大内三郎「八木繁一」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p. 110。
  11. ^ 大内三郎「八木繁一」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p. 111。
  12. ^ a b c 大内三郎「八木繁一」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p. 112。
  13. ^ a b c 大内三郎「八木繁一」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p. 113。
  14. ^ a b 大内三郎「八木繁一」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p. 139。
  15. ^ a b 大内三郎「八木繁一」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p. 118。
  16. ^ 大内三郎「八木繁一」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p. 123。
  17. ^ 大内三郎「八木繁一」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p. 137。
  18. ^ a b c d e f g 大内三郎「八木繁一」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p. 141。
  19. ^ a b 大内三郎「八木繁一」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p. 142。
  20. ^ a b c d e 大内三郎「八木繁一」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p. 140。
  21. ^ a b c d 愛媛県史編さん委員会編 『愛媛県史 人物』 愛媛県1989年、p. 643
  22. ^ a b 大内三郎「八木繁一」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p. 143。
  23. ^ 大内三郎「八木繁一」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p. 105。
  24. ^ 大内三郎「八木繁一」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p. 106。
  25. ^ 大内三郎「八木繁一」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p. 107。
  26. ^ 大内三郎「八木繁一」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p. 108。
  27. ^ 大内三郎「八木繁一」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p. 115。
  28. ^ a b 大内三郎「八木繁一」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p. 114。
  29. ^ 大内三郎「八木繁一」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p. 124。
  30. ^ 大内三郎「八木繁一」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p. 130。
  31. ^ 大内三郎「八木繁一」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p. 144。

参考文献

関連項目

外部リンク


Category:日本の植物学者 Category:分類学 Category:愛媛県出身の人物 Category:1893年生 Category:1980年没

ツバキカンザクラ

ツバキカンザクラ
画像キャプション
分類
: 植物界 Plantae
: 被子植物門 Magnoliophyta
: 双子葉植物綱 Magnoliopsida
亜綱 : バラ亜綱 Rosidae
: バラ目 Rosales
: バラ科 Rosaceae
亜科 : モモ亜科 Amygdaloideae
: スモモ属 Prunus
亜属 : サクラ亜属 subg. Cerasus
品種 : ツバキカンザクラ
学名
Prunus × introtsa 'Introrsa'
和名
ツバキカンザクラ(椿寒桜)
ハツビジン(初美人)

ツバキカンザクラ椿寒桜学名: Prunus × introtsa 'Introrsa' )はサクラ園芸品種の一つである[1][2]カンヒザクラまたはカンザクラシナミザクラ雑種と考えられている[2][3][4]原木愛媛県松山市居相町伊豫豆比古命神社にある[1][2][3][4][5]

密集して次々と花をつけ、かつ散りにくいため花期は長く、満開時には華麗な姿を楽しむことができる[4][5]松山市をはじめ愛媛県で広く栽培されているほか、県外にも広がっている[2][3][5]。別名ハツビジン初美人[1][3][4][5]

由来

愛媛県松山市周辺は独特のサクラの品種が多いことで知られているが[3]、本品種は、1902年明治35年)頃に台湾から松山市に持ち込まれたカンヒザクラ(寒緋桜、C. campanulata )と、1909年明治42年)頃に上海から持ち込まれたシナミザクラ(カラミザクラ、支那実桜/唐実桜、C. pseudocerasus )の間の自然交雑で生じた種間雑種と考えられている[2][3][4]。ただし、カンザクラ(寒桜、Prunus × kanzakura )とシナミザクラ雑種であるとする説もある[1][3]

愛媛県松山市伊豫豆比古命神社山門横で、地元の植物研究家八木繁一によって発見された[4]1963年昭和38年)に著書『伊予の桜図譜』で報告され[6]1967年昭和42年)に記載された[4]。「ツバキカンザクラ」の名は、伊豫豆比古命神社の通称「椿宮」「椿神社」にちなむ[1][2][5]原木はその後境内に移植されている[4]。「ハツビジン」(初美人)とも呼ばれる[1][3][4][5]

特徴

樹形

落葉性の小高木で[3]、樹形は傘状[1]シナミザクラの系統を引く品種に多く見られる特徴であるが、樹幹から気根を生じる[1][3]

つぼみは紅色で[5]、花は2月中旬から3月上旬にかけて開花する[1][3][4]。花序は散形状で、通常は5花をつけるが、4-6花のこともある[3][4]。5弁の一重咲きで、花径は2.5-3.0センチメートル[1][2][4]。花色は強い紅色[4][5]から紅紫色[3]、または淡紅色[1]。香りはないが、密集して花をつけ、蕾が次々とできて、かつ散りにくいため花期は長く、満開時には華麗な姿を楽しむことができる[4][5]。花弁は5枚で、長さは約1.2センチメートル[2][3]。形状は楕円形または卵形であり、花弁の先端には切れ込みが入る[3]。花弁は内側に曲がり、花全体としてはやや盃状になるのが特徴である[3][5]

萼筒は無毛の盃状をしており、先端が開く[2][4]。長さは約4ミリメートル[3]。萼片は三角形で縁毛がある毛[3]。苞は約1-2ミリメートルである[3]。花柄は約7ミリメートル、小花柄は約6-10ミリメートルで[3]、ともに少数の毛があるため、他のカンザクラ類の栽培品種と区別できる[2][3]

不稔性のため、果実はできない[4]

葉は卵形または倒卵形で、長さ約10センチメートル、幅5.0-5.5センチメートルまで成長する[3]。基部は円形、鋸歯は重鋸歯で、先端は鋭尖形[3]。表は光沢のある暗緑色で、裏は淡緑色である[3]。葉柄は5-8ミリメートルである[3]

分布

松山市をはじめ愛媛県では広く栽培されているほか、県外にも広がっているが[2][3][5]東京周辺では珍しい[5]。前述の通り不稔性であることから、接ぎ木によって広められている[4]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k 永田洋浅田信行石川晶生中村輝子編 『さくら百科』 丸善株式会社2010年、p. 270
  2. ^ a b c d e f g h i j k 勝木俊雄 『フィールドベスト図鑑 10 日本の桜』 株式会社学習研究社2001年、p. 168
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 川崎哲也 『山渓セレクション 日本の桜』 山と溪谷社1993年、p. 148
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 愛媛新聞社愛媛県百科大事典編集委員室編集 『愛媛県百科大事典 下巻』 愛媛新聞社1985年、p. 164
  5. ^ a b c d e f g h i j k l 伊藤健「東京農大農学部植物園から(25) ツバキカンザクラ」『新・実学ジャーナル』第118号、学校法人東京農業大学戦略室、2015年、6頁。
  6. ^ 八木繁一(1893~1980) 愛媛の偉人・賢人の紹介 - 愛媛県生涯学習センター

参考文献

関連項目

警告: 既定のソートキー「つはきかんさくら」が、その前に書かれている既定のソートキー「やき しけいち」を上書きしています。 Category:桜 植つはきかんさくら

新規記事供給とブロック解除について

さっそくの新規記事投稿ありがとうございます。さらには執筆途中のものも幾つかあるとのことで今後も投稿が予定されているようです。今回のブロックの理由となった新記事投票からの離脱が約束されれば連携作業上では特に問題はないと思いますし、新着エントリークラスの継続的な供給はとても魅力的です。ご本人はブロック解除を希望されていますが、皆様のお考えはいかがでしょうか?--Triglav会話2016年10月2日 (日) 19:25 (UTC)[返信]

  • 解除 対応するブロック依頼が見付からなかったので戸惑いましたが、本人の弁によれば不手際を勘違いされてブロックされたようですし、今後係かる場所には近寄らないとのことなので問題は再現しないと考えます。しかも真面目に立項執筆までなさって………解除こそ適切と考えます。なお利用者:甘薄荷氏には、同一文献から異なるページを出典とする個所がある多い場合はハーバード方式等の個別参照法が一覧性も高く色々と便利である旨をお伝えし、ささやかながら応援とさせて戴きます。--世界最狂の魔法使いCray-G会話2016年10月2日 (日) 20:11 (UTC)[返信]
  • コメント 甘薄荷様へ。本来なら、生物プロジェクトの末席を汚すメンバーとして同好の士に対し、また善意にとって解除票としたいのですが、LTA:SHINJU(正確にはWikipedia:管理者伝言板/投稿ブロック/ソックパペット#真珠王子系で報告されている利用者群ですが)に現在進行系でイヤガラセを受けている身としては、非常に懐疑的になっています。そこで質問させて下さい。初回編集から素晴らしい記事を作成されていますが、これは何も見ずに初心者が作れるレベルではありません。Wikipediaの方針・ガイドラインを熟読された事だと察しますが、この会話ページ一番上のガイドブックより読み進められた結果、記事お吉泉を作成されたのでしょうか?あるいはこのアカウント以前にもWikipediaでの編集経験があったのでしょうか?次に、[1]との事ですが、誰も貴方の会話ページに知らせたわけでもないのに、なぜ選ばれた事を知ったのでしょうか?「Yassie様が更新作業ができなくなったというのを見た」との事ですが、これはどこのノート(あるいは記事など)でしょうか?また、Yassie様の存在をどのタイミング御存知になられたのでしょうか?以上不躾ではありますが、御回答頂ければ幸いです。--JapaneseA会話2016年10月2日 (日) 21:17 (UTC)[返信]
コメント (回答は決まっているので代行します)「LTA:SHINJUなんて知りません。自分の新規記事がエントリーされて投票に興味を持ったのですが、そこで毎晩集計してくださるYassie氏を知ってお手伝い差し上げようとした次第です」といったところです。
(ここからは別次元の話ですので甘薄荷様自身は理解する必要はありませんし、この件について答えるべきではありません。)仮にLTA:SHINJUだとしても、どうせ新アカウントに乗り換えるのだから同じ事という意味で、クリーンスタートをお勧めしておきました。変なところに興味を抱いて管理者にメールを送りつけてくるその意図はつかめませんが、管理者としては通例どおり貢献を示していただこうと、恒例の新規記事の作成をお願いしました。SHINJU氏がどこまで関心を持ち続けてくれるのかわかりませんが、善玉アカウントとして使っていただけるのなら拒絶するまでもないなとの考えに至りました。それに完成した2つの記事を放置し続けておくのはもったいない・・・--Triglav会話2016年10月3日 (月) 04:10 (UTC)[返信]
JapaneseA様に回答します。Wikipediaの方針・ガイドラインも少し読みましたが、お吉泉の記事は他の泉とか池の記事を参考にして作りました。最初の地図とか出典の節から最後までとか脚注の使い方とかは、他の泉や池の記事をコピペして使いました。何個か組合わせて使いましたけど、どの記事だったか覚えてません。すみません。アカウント以前にWikipediaでの編集経験は、アカウントを作らないで二三回誤字脱字を編集した事があります。確かテレビ番組の記事だったと思いますけど、具体的に何の記事だったかは覚えていません。すみません。
次に、新記事投票所で選ばれた事を知ったのは、Wikipediaを編集しようとした時にメインページにオキチモズク属が載っているのを見て知りました。それで調べたら、気付かない内にお吉泉も選ばれていた事を知りました。そのあとオキチモズクが推薦されたので投票もしようと思ったのですが回数が足りなくて投票できなくて見ているだけでした。しばらくして「更新をしてくださる方を募集」という提案が出ているのを見つけてWikipedia‐ノート:メインページ新着投票所/新しい項目候補を読んでYassie様が更新していた事と更新できなくなった事を知りました。それまでは自動で更新されてると思っていました。それで更新作業をしてみたのですが、ミスをしてブロックされました。
回答は以上です。--甘薄荷会話2016年10月5日 (水) 11:51 (UTC)[返信]
コメント 正式な解除依頼は提出します。ここでの賛成反対の意思表明は承ります。人数把握と反対者との条件調整をさせてください。--Triglav会話2016年10月3日 (月) 00:05 (UTC)[返信]
  • コメント 上記記事を拝読いたしました。以前新着投票所で拝見した記事同様、質の高い記事に仕上がっていると思います。編集に復帰されたら記事執筆で貢献していただける方だとは思います。しかしながら甘薄荷さんのブロック理由は「sockpuppet: LTA:SHINJUまたは模倣行為」ですので、そこの疑念が晴れなければブロック解除には賛成できません。LTAであるならば、どんなに良い記事が書けることを示しても、どんな条件を付けても、解除されるべきではありません。逆にLTAでないのであれば直ちに解除されるべきで、解除申請文に書かれているような条件を付けるべきではありません。他のブロック理由なら話は別ですが、LTAとしてのブロックに対して「条件を守ると約束したから解除」という判断はありえないのではないかと思います。いずれにしても、判断材料が少なすぎて一般ユーザーにはLTAであるか否か判断できません。正式な解除依頼を出される際には、ブロックした管理者の方から(可能ならチェックユーザーの方からも)説明がほしいと思います。--だぶるすてっち会話2016年10月3日 (月) 02:12 (UTC)[返信]
コメント なにかお忘れになってませんか? 新記事投票には半年間出入りしないと宣言しています。活動再開時には許可をもらうことも言っています。別のトラブルの懸念でもお持ちですか?--Triglav会話2016年10月3日 (月) 04:15 (UTC)[返信]
コメント LTAであるならば、どんな条件を約束しても解除されるべきではないと私は考えます。きちんと過去の長期荒らし行為について謝罪と反省をした上で、元のアカウントで解除を目指すのが筋だと思います。ただ、Triglavさんがそこまでおっしゃるのであれば、解除依頼を出してコミュニティに諮ることまで反対するものではありません。最終的にはコミュニティの判断に委ねます。--だぶるすてっち会話2016年10月3日 (月) 05:09 (UTC)[返信]
コメント 問題点は、ブロック理由のLTAの行動に類似性の確度がどの程度あったかという点にあります。賞レースへのあやしい参加姿勢に問題があるというのなら、私も含めて賞レースに参加している全ての人物を疑ってみるべきでしょう。特にLTA:SHINJUの常套手段である、デビュー当初に数件の大型記事を投入し、その後、賞レース界隈に入り浸るというパターンに合致する人は、真っ黒ということになりそうです。程度の問題ですので、その黒っぽい部分を物理的に取り除くことができれば、遠めに見て白っぽくなります。黒を減らす(賞レースから離れる)、白を増やす(新規記事を投入する)この2とおりを全ての参加者が実践してLTAとの類似性を薄めていかなければなりません。--Triglav会話2016年10月3日 (月) 09:02 (UTC)[返信]
コメント その基準で行くと私は真っ黒ですね(苦笑)。LTA:SHINJUに詳しくありませんしよく調べたわけでもありませんが、私が新着投票所に関わるようになって以降にLTA:SHINJUとしてブロックされたアカウントで「デビュー当初に数件の大型記事を投入」しているという例を甘薄荷さん以外存じ上げませんが。
「問題点は、ブロック理由のLTAの行動に類似性の確度がどの程度あったかという点にあります」については完全に同意見です。であればこそブロックした管理者の方が何をもって甘薄荷さんを「sockpuppet: LTA:SHINJUまたは模倣行為」と判断したのかは知りたいところです。その「確度」が妥当なものであれば、LTAではないことを甘薄荷さんが証明することは容易ではないでしょう(LTAだったとしても解除されるべきとするTriglavさんの立場からすれば、そんなことを証明する必要はないということかもしれませんが)。逆に甘薄荷さんがLTAであるとする根拠が薄弱なものであったのなら、冤罪被害者に対して一般利用者にはない制限を課すことは正義に反すると私は思います。--だぶるすてっち会話2016年10月3日 (月) 10:21 (UTC)[返信]
コメント だぶるすてっち氏の仰る通りかと思います(はじめて意見が一致しましたね)。LTAであれば解除すべきではないし、LTAでなければいかなる制限も不要だと私も思います。先の私の質問は、それを判別する要素にしようと思っていました。ぜひ、甘薄荷様ご本人に回答頂きたく思います。YES、NOだけでなく「わからない」「知らない」や回答しないも、回答です。未来永劫善玉アカウントとして標準名前空間だけで活動してくれるのであれば、それがLTAだろうと目を瞑る事にやぶさかではありませんが、LTA:SHINJUであれば、ある日突然私を不当に攻撃してくるかもしれないので、安易に解除票を入れる事ができません(実際、現在進行形でこのような事が起こっています)。一方、LTAでない方に継続票とするのは避けたいところです。よって繰り返しますが、先の質問の回答を御願いします。勿論「回答しない」も回答です。--JapaneseA会話2016年10月3日 (月) 11:12 (UTC)[返信]
コメント 本人からの回答を求めておいでなら、そのままお待ちください。きっと次の新記事の投稿のときに回答いただけるでしょう。JapaneseA様ご懸念の「不当に攻撃(具体的には手続きやルールの不備を突いたリバート)」を行わないことについても甘薄荷様に宣言していただくことは可能かと思います。
賞レース参加については誰があやしいという詮索はしたくありません。投票活動を行うすべての皆様が自戒すべきことと思っています。投票活動は残念ながら生産ではなく消費のようです。消費分を補うための生産を皆様一人ひとりで実践しましょう。確度不明な状況でブロックが実施され、新たに生まれた記事を活かすために、確度不明なブロックを解除しようとしています。白黒はっきりさせようという考えはこの世界では無理な話です。--Triglav会話2016年10月3日 (月) 12:09 (UTC)[返信]
上で回答しました。それと、「不当に攻撃(具体的には手続きやルールの不備を突いたリバート)」の懸念について「編集上のリバート(差し戻し)は行わず、代わりにノートで意見する」事を宣言します。--甘薄荷会話2016年10月5日 (水) 12:03 (UTC)[返信]
利用者ページおよび利用者会話ページでの記事作成は通常ページと違った扱いがあるのはご存知?そのあたりの読み込み程度も賛否の判断基準になり得ますよ。--Vigorous actionTalk/History2016年10月3日 (月) 12:13 (UTC)[返信]
その辺を解説いただけますと助かります。--Triglav会話2016年10月3日 (月) 12:35 (UTC)[返信]
そこを見いだして理解してこそ、ブロック解除につながるかと思いますが?--Vigorous actionTalk/History2016年10月3日 (月) 12:40 (UTC)[返信]
ご自身では解説したくないということですね。わかりました。--Triglav会話2016年10月3日 (月) 12:48 (UTC)[返信]
端的に言えば、各種方針とガイドラインに従って無いということです。--Vigorous actionTalk/History2016年10月3日 (月) 13:39 (UTC)[返信]
具体的にお願いします。もしかすると、そちらのほうが改定が必要になるかもしれません。--Triglav会話2016年10月3日 (月) 13:51 (UTC)[返信]
いえいえ、そちらの方は改定は必要在りません。なぜならこのページにあることが不適切なものですから。このページにも現在も不適切なものが表示されてる状態です。--Vigorous actionTalk/History2016年10月3日 (月) 13:58 (UTC)[返信]
具体的文言は示されませんが、この会話ページの不整合を解消させたいのなら、解除を求めて執筆活動を再開させることです。ご自身も協力者として評価されることでしょう。--Triglav会話2016年10月3日 (月) 22:38 (UTC)[返信]
そんな方針の重箱の隅を知ってるより良質な記事を書ける人が大事だと思います。Vigorous action様はどんな記事を書いたことありますか?--180.235.55.93 2016年10月3日 (月) 15:28 (UTC)[返信]
IPさんもがんばれよ--Triglav会話2016年10月3日 (月) 22:13 (UTC)[返信]
すみません。存知ません。ごめんなさい。--甘薄荷会話2016年10月5日 (水) 12:09 (UTC)[返信]
解除 解除依頼が出されたら私は解除票を投じるでしょう。執筆したいという方(しかも良い記事をかける方)をブロックし続けるのは最高の百科事典を作るウィキペディアプロジェクトの理念からかけ離れていますし、Triglavさんにもそれなりの根拠があるのでしょう。CUに連絡した方がいいと案内した管理者の方も適切な判断だと思います。それに、是非会話ページへ投稿された記事を標準空間に御自身の手で投稿して欲しい。
vaさんの言ってるルールはWikipedia:利用者ページ#カテゴリ、テンプレート、リダイレクトでしょうかね?記事の下書きで気をつけることと言えばカテゴリですが、気がついたなら御自身で修正してあげれば良かったと思います。今回はIPさんがやってくれていますが。--Mirinano会話2016年10月4日 (火) 10:05 (UTC)[返信]
解除 実際に良質な新規記事を投稿可能な状態でこちらに提示されており、記事内容を見れば今後もこのような良質記事の供給が可能であることは誰が見ても明らかであると思います。だぶるすてっちさんは上の方で「LTAであるならば絶対にブロック解除してはならない」といった内容のことを意見しておいでですが私は逆で、JAWPに於いてはWP:BANは方針化されておりませんので、過去にそのような理由に於いてブロックされていても、良質記事を安定して供給可能なこと、実際にそのような記事を資料から起こして執筆為されていること(それなりの苦労をして記事草稿を執筆なされたことに敬意を払います)、問題点に気づきそれに近寄らない、という約束をしていること、の2点に於いて「再度信用する期間を与え動向を見守るために編集権限を返しても良い事例にあたる」と考えました。◆今後同様に過去に無期限ブロックとなったような行いを再発させるようなことがあれば、他のブロック依頼よりもより早期で再度無期限ブロックに至る可能性は依然として残るわけですから、他利用者よりも遥かに強力に自身を律して今後ずっと編集活動して行かなければならないリスク、という本人にとってのみ有効となる爆弾を抱えたまま編集活動を再開するということで、過去の行いの全てが完全に許される、というような状況ではありませんこと確実ですし一旦解除、という選択をしても良い、と考えます。--Nami-ja(凪海) 会話 / 履歴 2016年10月5日 (水) 16:40 (UTC)[返信]
コメント 甘薄荷様、御回答ありがとうございました。今一つ質問させて下さい。お吉泉を作る前に方針・ガイドラインを読まれたとの事ですが、それは貴方の会話ページ最上部のガイドブックからでしょうか?御回答頂ければ幸いです。--JapaneseA会話2016年10月5日 (水) 18:09 (UTC)[返信]
JapaneseA様、お吉泉を作る前はTrgbot様のガイドブックは読んでませんでした。すみません。お吉泉を作る時は、方針・ガイドラインよりもメインページから見つけたWikipedia:ガイドブック 執筆するWikipedia:チュートリアルを読んでました。そこから方針・ガイドラインを少し読みました。あとは他の記事を参考にして作りました。--甘薄荷会話2016年10月6日 (木) 12:54 (UTC)[返信]
コメント 再度の御回答ありがとうございます。質問は以上です。参考にさせて頂き、これにて解除依頼提出までは静観します。--JapaneseA会話2016年10月6日 (木) 13:36 (UTC)[返信]
  • コメント 甘薄荷氏へ Triglav氏が親身に動いてると思ってるかもしれないけど、管理者同士で陰で嘲笑してるの知ってる?本音は甘薄荷氏をからかって、新記事投入が割に合わない限界点に達するように仕向けてるんだってさ[2]。甘薄荷氏がTriglav氏の言葉を真に受けて右往左往するのを見て楽しんでるんだよ。そんな人として最低の部類の人間が、管理者やってるんだから、日本語版のレベルが分かるだろ?コメントしてる人間だって、Wikipediaで記事も書かないで、議論ばっかりしてる人間ばっかりじゃないか。揉め事の臭いに引き寄せられて集まってきただけで、甘薄荷氏のことを考えてる人間はいないよ。いくら記事を書いたって、解除に動く人間なんかいないんだから、もう別垢を作った方がいいよ。--153.149.239.146 2016年10月6日 (木) 04:11 (UTC)荒らしのコメントに取消線。このIPは4度目の荒らしとして2016年10月7日 (金) 00:51 UTCに6ヶ月のブロックとなりました。--JapaneseA会話2016年10月7日 (金) 03:16 (UTC)[返信]
コメント 違いますよ。公開情報は陰口って言わないね。ブロックを解除するもうひとつの手段として裁量ブロックを処置した者による裁量解除というものがありますが、相談しましたところ丁寧に断られました。つまり処置者としてはLTA確定ということです。IP様の別垢作ったほうがいいという助言は遅すぎです。既に甘薄荷氏からの最初のメールの返事でクリーンスタート(アカウントの再作成)をアドバイス済みです。そのほうがあらゆる面で楽ですから。それを断って、このアカウントを生かしたいと言ったのは甘薄荷氏だからね。あとは疑惑を功績で覆せるように本人にがんばってもらうしかない(限界だと言ったのはSHINJUさんにとって覆す意味がないと私は考えているから。反面非SHINJUさんには覆す意味がある。)。IP様も物申したかったらしっかり功績積んだほうがいいよ。--Triglav会話2016年10月6日 (木) 06:03 (UTC)[返信]
(続けます)甘薄荷氏の考えが、新規記事の作成を望んで、投票活動に興味が無いのであれば、現状でも新アカウント乗り換えでも、活動における制約は極端に変わりないと思います。3本目の記事を製作中のようですので、それを待ってブロック解除依頼に移りたいと思います。--Triglav会話2016年10月7日 (金) 08:27 (UTC)[返信]
コメント 解除に動いたわよ。--テレポちゃん会話2016年10月8日 (土) 07:30 (UTC)[返信]
ありがとうございます。Wikipedia:投稿ブロック依頼/甘薄荷 解除 --Triglav会話2016年10月8日 (土) 08:33 (UTC)[返信]

コメント 非常に奇妙なブロック解除依頼があったので来てみました。管理者は被依頼者をLTAの靴下としてブロックしたわけですよね。編集の不手際でブロックしたわけではないですよね。もし、管理者の勘違いによるミスならば「変な条件」などつけずに即解除するべきことです。もし、LTAのブロック解除依頼ならば解除理由が全く違いますし、本アカでするべきことです。--61.207.89.184 2016年10月9日 (日) 12:21 (UTC)[返信]

記事を書かないIP様には分からないのかもしれませんが、記事書きにとって投票参加や編集リバートは必須ではありません。解除依頼は当該LTAとリンクさせていない者たちによって手続きが進められています(なぜそこにあるのか分かりませんが、目の前に障害物があればただそれをよけるだけ)。--Triglav会話2016年10月9日 (日) 12:38 (UTC)[返信]
コメント LTAのブロック解除ではなく、管理者のミスブロックの解除というなら、「無実」の利用者の権利を奪う必要性などありません。というか、してはいけませんよ。そんなこと記事を書かなくとも解ります。常識でしょ。--61.207.89.184 2016年10月9日 (日) 14:49 (UTC)[返信]
本人から制限解除の要請がきたら考えます。いまのところ問題はありません。--Triglav会話2016年10月9日 (日) 20:28 (UTC)[返信]
コメント 少々認識違いがあったので、前言を修正いたします。被依頼者のブロック理由は「LTAまたは模倣行為」でした。ずばりLTAの疑いならば私の意見が正しいわけですが、「模倣行為」も含まれており、この場合は、今後は模倣行為をしないように条件を付けるのは問題はありませんでした。この点を修正いたします。
しかし、貴方が科した「今後も新記事賞エントリークラスの新規記事の執筆を続ける」は、なんら荒らしの模倣行為とは関係のないことです。被依頼者は「新記事賞エントリークラスの新規記事の執筆を続け」てないからブロックされたのではありません。よって、このような義務(努力目標とか言い換えても同じことです)を条件に付ける必要は全くありません。問題となった執筆の修正等と違い、新記事を強要する権利など何人にもありません。貴方がその条件を取り下げるつもりがないのならば、しかるべき場所でコミュニティの意見を聞いてみたいと思います。貴方の方からこれを飲めと条件を出しておいて、相手がそれを飲んだのを「自主的」というは、サラ金が過払い金分の利息で使った手口と同じです。--61.207.89.184 2016年10月12日 (水) 07:35 (UTC)[返信]
IP様も新規記事書いてみればいいのに・・・--Triglav会話2016年10月12日 (水) 09:12 (UTC)[返信]
コメント 反論しないということは、自分の非を認めるわけですね。だったら行動に移してくださいよ。--61.207.89.184 2016年10月15日 (土) 05:06 (UTC)[返信]
行動しました。--Triglav会話2016年10月17日 (月) 11:33 (UTC)[返信]
これまでのところこの会話ページには4本の記事(八木繁一ツバキカンザクラミョウショウジ吊るされた棺)が投稿されましたが、今後、執筆途中との連絡をいただいてます船田ミサヲテレポちゃんのオリジナル記事、あと被ブロック者をご支援くださる 61.207.89.184様から軽めのもの1本の計3本を投入する予定です。--Triglav会話2016年10月19日 (水) 02:12 (UTC)[返信]
オリジナル記事を肩代わりしたわ。--テレポちゃん会話2016年10月19日 (水) 12:52 (UTC)[返信]
ありがとうございます。IP様もこの流れに乗ってぜひ協力お願いいたします。--Triglav会話2016年10月19日 (水) 13:38 (UTC)[返信]

処置者の会話ページに問い合わせたIP氏に回答します。処置者はLTA確定の扱いをして、それに賛同する者も大勢いらっしゃいます。だから、LTAかどうかで争うことはしません。疑惑が出ているかのように勘違いしているのはIP様だけです。解除を要請する側はLTAではないと考えていますが、仮にLTAであっても問題ないように被処置者から作業上の制限も宣言いただいております。(直上の別のIP氏にも同じことが言えますが)今回のような問い合わせを受け付けてもらうには、被処置者のように執筆活動で貢献してから質問されることをお勧めします。--Triglav会話2016年10月9日 (日) 20:17 (UTC)[返信]

記事の作成を肩代わりしたわ

Triglavさんにお願いされたから八木繁一ツバキカンザクラの記事の作成を肩代わりしたわ。とっても良い記事ね。--テレポちゃん会話2016年10月9日 (日) 06:34 (UTC)[返信]

テレポちゃん違いますよ。そういうの記事の作成って言いますか? 甘薄荷氏作品の転記ではありません。求めているものはテレポちゃんオリジナル作品です。どうぞよろしく。あと、新着エントリーしておいてください。--Triglav会話2016年10月9日 (日) 06:50 (UTC)[返信]
あら、そういう意味だったの?エントリーはしてるわよ。--テレポちゃん会話2016年10月13日 (木) 13:24 (UTC)[返信]

ミョウショウジ

ミョウショウジ
画像キャプション
分類
: 植物界 Plantae
: 被子植物門 Magnoliophyta
: 双子葉植物綱 Magnoliopsida
亜綱 : バラ亜綱 Rosidae
: バラ目 Rosales
: バラ科 Rosaceae
亜科 : モモ亜科 Amygdaloideae
: スモモ属 Prunus
亜属 : サクラ亜属 subg. Cerasus
品種 : ミョウショウジ
学名
Prunus × introtsa 'Myoshoji'
和名
ミョウショウジ(明正寺)
ミョウショウジザクラ(明正寺桜)
涅槃桜

ミョウショウジ明正寺学名: Prunus × introtsa 'Myoshoji' )[1][2]またはミョウショウジザクラ明正寺桜[3]は、サクラ園芸品種の一つである[1][2]カンザクラシナミザクラ雑種と考えられている[1]原木愛媛県新居浜市黒島明正寺にある[1][2][3]。3月中旬に微淡紅色または白色の花をつける[1][3]。別名涅槃(ねはん)桜[2][3]

由来

愛媛県松山市周辺は独特のサクラの品種が多いことで知られているが[1]、本品種はカンザクラ(寒桜、Prunus × kanzakura )と、1909年明治42年)頃に上海から持ち込まれたシナミザクラ(カラミザクラ、支那実桜/唐実桜、C. pseudocerasus )の間の種間雑種と考えられている[2][1][4]

愛媛県新居浜市黒島明正寺で、地元の植物研究家で当時愛媛県文化財保護委員だった八木繁一によって発見された[3]。同じく八木繁一によって発見されたツバキカンザクラに近い品種である[1]。「涅槃(ねはん)桜」とも呼ばれる[2][3]

特徴

樹形

落葉性の小高木で[1]シナミザクラの系統を引く品種に多く見られる特徴であるが、樹幹から気根を生じる[1][5]

花は3月中旬に開花する[1][3]。花序は散形状で4-5花をつける[1]。5弁の一重咲きで、花径は2.4-3.2センチメートル[1][2]。花色は微淡紅色または白色[1][3]。花弁は5枚で、長さは約1.2センチメートル[1]。形状は長楕円状の卵形で、花弁の先端には切れ込みが入る[1]。花弁はやや内側に曲がり、花全体としては浅い盃状になる[1]

葉は楕円形で、長さ約10センチメートル、幅4-5センチメートルまで成長する[1]。基部は円形、鋸歯は単鋸歯に重鋸歯が混じり、先端は鋭尖形または尾状鋭尖形[1]。表は暗黄緑色で、裏は淡緑色である[1]。幼葉では、表裏両面の脈状に多数の毛が見られるが、成葉ではほぼ無毛となる[1]。葉柄の上部には、やや大きめの蜜腺が1つまたは2つある[1]

分布

明正寺住職によって新居浜市内外の寺社に広められている[3]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 川崎哲也 『山渓セレクション 日本の桜』 山と溪谷社1993年、p. 148
  2. ^ a b c d e f g 勝木俊雄 『フィールドベスト図鑑 10 日本の桜』 株式会社学習研究社2001年、p. 168
  3. ^ a b c d e f g h i 明正寺ホームページへようこそ - 新四国曼荼羅霊場 第29番札所 龍宝山 明正寺
  4. ^ 愛媛新聞社愛媛県百科大事典編集委員室編集 『愛媛県百科大事典 下巻』 愛媛新聞社1985年、p. 164
  5. ^ 永田洋浅田信行石川晶生中村輝子編 『さくら百科』 丸善株式会社2010年、p. 270

参考文献

関連項目

外部リンク

Category:桜 植つはきかんさくら

吊るされた棺

フィリピンマウンテン州サガダにある吊るされた棺
中国雲南省文山州丘北県白泥塘のボウ人の子孫による吊り下げ墓のひとつ

吊るされた棺(つるされたひつぎ、Hanging coffins)は、崖の途中に留め置かれたである。中国インドネシアおよびフィリピンの各地で見られる。中国語では懸棺(悬棺)として知られている。

中国

墓場として使われる天然の崖地(中国雲南省文山州丘北県白泥塘)

崖から棺を吊り下げる様式は、主に中国南部のボウ人などいくつかの少数民族が行ってきた古代の葬式習慣によるものである。様々な形の棺は、そのほとんどが1本の丸太をくり抜いて作られている。棺は、崖の鉛直面に刺した2本の杭の上に乗せるか、崖の途中にある洞穴に置かれるか、または崖の表面から突き出した自然の岩の上に置かれる。

崖に吊り下げることによって、遺体が獣に荒らされるこをと防ぎ、さらには魂を永遠に祝福することができるとも言われている[1]

吊るされた棺のある主な地域

丘北県白泥塘。墓に使われる崖面の全体像。

フィリピン

吊るされた棺は、ルソン島マウンテン州サガダで見つけることができる。

インドネシア

スラウェシ島の高地には、トラジャ族によって吊り下げ棺や友引人形が納められたロンダ埋葬洞窟がある。

脚注

  • 陆敬严:《中国悬棺研究︰中国悬馆问题的理论与实践》
  • 陈明芳:《中国悬棺葬》

外部リンク

中国

フィリピン

インドネシア

警告: 既定のソートキー「つるされたひつき」が、その前に書かれている既定のソートキー「つはきかんさくら」を上書きしています。

Category:考古遺跡に見る葬制 Category:中国の考古学 Category:棺

米沢高等女学校事件

山形県立米沢東高等学校山形県立米沢高等女学校の後身)

米沢高等女学校事件(よねざわこうとうじょがっこうじけん)とは、1927年昭和2年)に発覚した性風俗事件である[1][2][3][4]山形県米沢市にあった山形県立米沢高等女学校(現在の山形県立米沢東高等学校)の女子生徒が[2][3][4]、報酬を得て市内の写真館の主人にコスプレ写真やヌード写真を撮らせていた[1][2][3][4]

事件の概要

山形県立米沢高等女学校(現在の山形県立米沢東高等学校)は、1898年明治31年)に開校した高等女学校である[5]。当時は、卒業生の大部分がそのまま家庭に入っていたため良妻賢母の養成を教育方針とし[6]、「修誠」の校訓を掲げていた[5]。特に言葉遣い礼儀作法などの厳しい生活指導で知られ[6]、一方で情操教育やスポーツにも力を入れており[6]、歴史と伝統を誇る置賜地域女子教育の中心校であった[5]

事件は、1927年昭和2年)5月14日に発覚した[1][3]。写真館の主人の依頼を受けた女子生徒が、報酬を得て男装聖母マリアコスプレ写真のモデルとなっていたことが明らかとなったのである[1][2][3][4]。当時の全校生徒750名のうち200名以上が関わっていたとも言われるが[1][2][4]、詳細は不明である[1]。このうち、眼科医の令嬢は、私立大学卒の初任給が70~80円であった時代に[7]、30円の報酬で全裸のヌード写真を撮らせていた[1][2][3][4]

脚注

出典

  1. ^ a b c d e f g エムティ出版 1998, p. 24
  2. ^ a b c d e f 下川耿史 2002, p. 21
  3. ^ a b c d e f 管賀江留郎 2007, p. 192
  4. ^ a b c d e f 下川耿史 2009, p. 133
  5. ^ a b c 山形放送 2006, p. 762
  6. ^ a b c 米沢市 1996, p. 246
  7. ^ 下川耿史 2009, p. 129

参考文献

  • 『写真・図版 昭和・少年少女史総合大年表』 1巻、エムティ出版、1998年、24頁。 
  • 管賀江留郎戦前の少年犯罪築地書館、2007年、192頁。 
  • 下川耿史編 編『近代子ども史年表 1926-2000 昭和・平成編』河出書房新社、2002年、21頁。 
  • 下川耿史編 編『性風俗史年表 大正・昭和[戦前]編』河出書房新社、2009年、129-133頁。 
  • 山形放送株式会社新版山形県大百科事典発行本部事務局編 編『新版 山形県大百科事典』山形放送、1993年、762頁。 
  • 米沢市史編さん委員会 編『米沢市史 第五巻 現代編』米沢市、1996年、246頁。 

関連項目

警告: 既定のソートキー「よねさわこうとうしよかつこうしけん」が、その前に書かれている既定のソートキー「つるされたひつき」を上書きしています。 Category:昭和時代戦前の教育 Category:昭和時代戦前の事件 Category:米沢市の教育 Category:米沢市の歴史 Category:日本のスキャンダル Category:性風俗

船田ミサヲ

ふなだ みさを

船田 ミサヲ
生誕 白川 ミサヲ
1872年明治5年)1月13日
愛媛県松山市柳井町
死没 (1956-05-19) 1956年5月19日(84歳没)
愛媛県松山市新玉町
記念碑 済美高等学校内に胸像
国籍 日本の旗 日本
別名 船田 操
職業 教育者婦人活動家
活動期間 1886年明治19年)~1956年昭和31年)
著名な実績 済美高等学校創設
配偶者 船田金太郎
子供 きみ(娘)・(養子)
白川親応(父)、白川仲(母)
親戚 白川義則(兄)
受賞 愛媛県知事表彰・文部大臣賞・愛媛県教育文化賞・藍綬褒章
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船田 ミサヲ(ふなだ ミサヲ、1872年明治5年)1月13日 - 1956年昭和31年)5月19日)は、日本教育者婦人活動家である[1][2]澤田亀らとともに済美高等女学校(現:済美高等学校)を創設し、専務理事理事長を歴任して同校の基礎を築いた[1][3][4][5]。また、戦前愛媛県内における婦人活動の草分け的存在としても知られ、愛媛県内の様々な婦人団体役員を務めている[1][6]。1956年(昭和31年)、愛媛県の教育界での尽力が評価されて藍綬褒章を受章した[2][4][7][8]

生涯

生い立ち

白川義則陸軍大将

1872年明治5年)1月13日に愛媛県松山市柳井町に生まれる[1][9][10][11]。元松山藩の上級藩士であった父・白川親応と母・仲の間の四人兄妹の末っ子の長女であった[9][11][12]。すぐ上の兄に、陸軍大将となる白川義則がいる[1][9]親応明治維新後に材木商で財を成し、白川家はかなり裕福な生活を送ることができた[9][11]。しかし、親応の事業は次第に行き詰まり、最終的には家屋敷も人手に渡る苦しい生活の中で、親応は急死した[9][13]

白川家の生活は一層苦しくなり、母・仲のもとには由緒ある白川家の名を買いたいという申し出も多かったが母の仲は耳を貸さず、炭屋や餅屋を始めて女手一つで生活を支えた[14]。そのような生活の中でも子供たちの教育には力を注ぎ、ミサヲにも琴や舞の稽古を続けさせ[15]、後に日本女子大学をつくる三輪田真佐子の塾に通わせて漢文や国文を学ばせた[1][16]。兄の義則授業料のかからない陸軍教導団に進み[9][17]、ミサヲも1886年明治19年)に愛媛県立師範学校附属小学校高等科を卒業すると、そのまま教員見習いとなった[1][4]。この時、同じ学校で、後に夫となる船田金太郎と知り合っている[1][4][9]1891年明治24年)、母とともに兄・義則の任地である広島に移り[1][18]、女学校の教師を務めながら外国人について英語を学んだ[1][19]

教育者として

1892年明治25年)に、伊予鉄道技師長となっていた船田金太郎結婚[1][4][9][19]。当時としては珍しい恋愛結婚であった[9]。同年、松山幼稚園(現:済美幼稚園)の保母主任となり、結婚後も教育の仕事をつづけた[4][9]。このころ、沢田裁縫伝習所を経営していた澤田亀と知り合い意気投合している[3]松山幼稚園では「母の会」を設立[1][9][20]1905年明治38年)には、清水貞子ら知名人の夫人らと勝山婦人会を結成して「母の会」を合同させ[1][4]、同年、光野マス子の裁縫研究所の経営を勝山婦人会が引き継いで私立学校令による勝山女学校とした[1][10][21][22]

1907年明治40年)に清家久米一郎に経営を譲って一旦勝山女学校を離れ[3][21][22]、新たに家政女学会を設立した[1][3][4][22]1908年明治41年)、ミサヲの家政女学会は、澤田亀澤田裁縫学校と合同して愛媛実科女学校となった[1][3][4][23]。さらに1911年明治44年)には勝山女学校と合併し、済美高等女学校を設立[1][3][4][23]専務理事として学校経営にあたり、以後、特に学校施設の拡充のための資金獲得の分野で尽力した[1][3][4]。ミサヲは、地元松山はもとより関西や東京にも出向いて地縁・血縁を頼りに寄付を募った[24]。ミサヲの資金集めには、兄・義則による応援が大きな後ろ盾となった[3]。最終的に陸軍大将まで昇進した義則は、様々な会合に参加して、妹と故郷の教育のために協力を惜しまなかった[3]

済美高等女学校以外でも、上の兄二人が生まれつき目が弱かったこともあり、1906年明治39年)に松山に盲啞学校を作ることになったときにも力を尽くしている[6]1919年大正8年)には、同年設立された松山高等学校の学生のために市の公会堂を寮とする交渉を行い、これが成功して緑寮となると寮母として学生たちの世話にあたった[1][25]

婦人活動家として

1901年明治34年)の愛国婦人会愛媛支部の設置に関わって以降、ミサヲは様々な愛媛県内の婦人団体に関わった[1][6]1919年大正8年)には大阪市で開かれた第一回婦人会関西聯合大会に愛媛県代表として松崎ノブとともに参加し[4]、翌1920年大正9年)には愛媛県聯合婦人大会と婦人問題研究会を主催[1][4]。前者は2000人、後者は800人の参加者を集めた[4]。さらに1921年大正10年)には400人が参加した四国地方聯合婦人大会を主催[4]1927年昭和2年)には昭和婦人会を結成して会長に就任している[1][4]

1935年昭和10年)7月13日に国防婦人会松山支部が結成されると支部長に就任[26]1939年昭和14年)に軍関係者以外の役員を置くことになった愛国婦人会愛媛県支部には副本部長として迎えられている[26]1942年昭和17年)に、婦人団体3団体(国防婦人会・聯合婦人会愛国婦人会)が統合されて大日本婦人会が発足することになると[27]愛媛県支部顧問[28]・松山支部長に選任された[4][28]大日本婦人会松山支部の結成式では、支部長となったミサヲ以下の会員が「大東亜戦争完遂のため高度国防国家の建設に力を尽くし、以て戦時下女性の任務を完うせんこと」を誓い合った[28]

太平洋戦争後

現在の済美高等学校

済美高等女学校松山空襲で用務員や生徒が犠牲になり校舎も大きな被害を受け、終戦後のミサヲは学校再建に苦闘することとなる[2][29]。そんな中の1946年昭和21年)、戦時中の軍国主義的な婦人活動が咎められて公職追放処分を受け学園を追われた[2][4][7][10]。しかし、周囲の熱心な運動が実って1948年昭和23年)に公職追放は解除され[2][4][7]済美学園理事長として復帰して、学園の再興に尽力した[4][7]1953年昭和28年)からは松山幼稚園(現:済美幼稚園)の理事長園長も兼ねた[7]

1956年昭和31年)、ミサヲは済美高等学校の入学式に病をおして出席した[2][30]。両脇を支えられながら壇上に上がったが、壇上に立つと背筋をまっすぐに伸ばし、よどみなく祝辞を読み上げる姿は、明治女の気骨を感じさせるものだったという[2]。翌日の済美幼稚園での入園式の壇上で倒れた[6]。5月19日、松山市新玉町の自宅で84歳で死去した[2][7][10]。その日は夫・金太郎の命日でもあった[31]

業績と評価

ミサヲは、澤田亀や名校長と称えられた富田昌兮とともに[4][5]1901年明治34年)に一軒の民家から始まった済美学園の基礎を築いた[5]。14歳で教壇に立ち、その後70年にわたって教育に携わったミサヲは、1950年昭和25年)教育勅語渙発40周年記念表彰・教育功労者として愛媛県知事表彰、1953年昭和28年)学制発布80周年記念文部大臣賞、1954年昭和29年)愛媛県教育文化賞、1956年昭和31年)藍綬表彰などを受賞している[2][4][7][8]

済美高等女学校では、ミサヲ自身がスポーツが好きだったこともあり、生徒に自信と誇りを持たせることを目指してスポーツに力を入れた[32]。テニス・バスケットボール・卓球や陸上の走り高跳び・砲丸投げなどで日本一を獲得し、他にも陸上・バレーボール・体操・ダンスなどで優秀な成績を残し[33]、スポーツ済美の名声を全国にとどろかせた[7][34]

1956年昭和31年)11月、ミサヲを讃える胸像が済美学園の玄関前に建立されている[2][35]

人物

ゆったりとした体つきで姿勢が良く、誰に対しても伊予弁で自分の意見を堂々と述べるミサヲは、「女傑」と呼ばれた[36]。琴や日本画、書道に優れ、晩年には能楽や謡曲も嗜むなど趣味が広く話題が豊富だったミサヲの周りには多くの人が集まり、そうした人たちからは「おばさん」と呼ばれた[3][7][36]

夫の金太郎とは、当時としては珍しい恋愛結婚で、夫婦仲もよく幸福な家庭生活であったという[3]。結婚当初はなかなか子供ができなかったため甥の彰を養子としたが、その後夫妻には実娘のキミが生まれている[3][37]。夫の金太郎とは1917年大正6年)に死別している[1][3][38]

ミサヲは、資金集めをはじめとする学校経営に手腕を発揮したが、その傍ら家庭科の教師としても教壇に立ち続けた[3]。「母親の育て方で子供の人格は決まる」という信念で教えるミサヲの授業は、厳しくも親しみやすく分かりやすい講義として生徒から好評であった[3]

明治末から戦前愛媛県婦人活動の中心的な存在ではあったが、婦人参選運動には批判的であった[39]1928年昭和3年)に海南新聞社市川房江武知美与子らを招いて開催した「婦人参政権問題座談会」では、市川の要望した婦選獲得同盟松山支部の設立に、愛国婦人会愛媛支部の竹田津春江婦人矯風会松山支部の野本チヨらが積極的であったのに対して、ミサヲは時期尚早と主張している[40]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 愛媛県史編さん委員会編 『愛媛県史 人物』 愛媛県1989年、p. 535
  2. ^ a b c d e f g h i j 大野慶一 「明治・大正・昭和を生きた女流学校経営の草分け 船田 ミサヲ」『まつやま 人・彩時記』 松山市文化協会2006年、p. 96
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 大野慶一 「明治・大正・昭和を生きた女流学校経営の草分け 船田 ミサヲ」『まつやま 人・彩時記』 松山市文化協会2006年、p. 95
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 愛媛新聞社愛媛県百科大事典編集委員室編集 『愛媛県百科大事典 下巻』 愛媛新聞社1985年、p. 407
  5. ^ a b c 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p.74
  6. ^ a b c d 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p.49
  7. ^ a b c d e f g h i 愛媛県史編さん委員会編 『愛媛県史 人物』 愛媛県1989年、p. 536
  8. ^ a b 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、pp.71-72
  9. ^ a b c d e f g h i j k 大野慶一 「明治・大正・昭和を生きた女流学校経営の草分け 船田 ミサヲ」『まつやま 人・彩時記』 松山市文化協会2006年、p. 94
  10. ^ a b c d 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p.8
  11. ^ a b c 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p.12
  12. ^ 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p.17
  13. ^ 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p.16
  14. ^ 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、pp.22-23
  15. ^ 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p.24
  16. ^ 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p.27
  17. ^ 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p.28
  18. ^ 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、pp.29
  19. ^ a b 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p.30
  20. ^ 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p.33
  21. ^ a b 愛媛新聞社愛媛県百科大事典編集委員室編集 『愛媛県百科大事典 下巻』 愛媛新聞社1985年、p. 549
  22. ^ a b c 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p.17
  23. ^ a b 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p.36
  24. ^ 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、pp.42-43
  25. ^ 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、pp.51-52
  26. ^ a b 松山市史編集委員会編 『松山市史 第3巻』 松山市1995年、p. 638
  27. ^ 松山市史編集委員会編 『松山市史 第3巻』 松山市1995年、p. 639
  28. ^ a b c 松山市史編集委員会編 『松山市史 第3巻』 松山市1995年、p. 640
  29. ^ 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p.11
  30. ^ 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p.72
  31. ^ 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p.73
  32. ^ 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p.47
  33. ^ 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p.48
  34. ^ 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、pp.47-48
  35. ^ 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p.74
  36. ^ a b 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p.50
  37. ^ 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p.32
  38. ^ 一色和壽子「船田ミサヲ」『愛媛子どものための伝記 第8巻 船田ミサヲ 八木繁一 山路一遊』 愛媛県教育会1984年、p.51
  39. ^ 松山市史編集委員会編 『松山市史 第3巻』 松山市1995年、p. 478
  40. ^ 松山市史編集委員会編 『松山市史 第3巻』 松山市1995年、p. 479

参考文献

関連項目

警告: 既定のソートキー「ふなた みさを」が、その前に書かれている既定のソートキー「よねさわこうとうしよかつこうしけん」を上書きしています。

このまま記事を書き溜めたい考えですので一旦削除されることを希望します。--甘薄荷会話2016年10月29日 (土) 14:20 (UTC)[返信]