コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

キーウ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
キーエフから転送)
キーウ
Київ
キーウの市旗 キーウの市章
特別市 特別市
愛称 : 「ルーシの町々の母」[注 2]、「第二のエルサレム」[注 3]、「栗」の木の街[注 4]
位置
の位置図
位置
キーウの位置(キーウ内)
キーウ
キーウ
キーウ (キーウ)
キーウの位置(ウクライナ内)
キーウ
キーウ
キーウ (ウクライナ)
キーウの位置(ヨーロッパ内)
キーウ
キーウ
キーウ (ヨーロッパ)
地図
座標 : 北緯50度27分0秒 東経30度30分0秒 / 北緯50.45000度 東経30.50000度 / 50.45000; 30.50000
歴史
建設 482年[4]
行政
 ウクライナ
 特別市 キーウ
市長 ヴィタリ・クリチコ[5]
地理
面積  
  特別市 836[6] km2
標高 179 m (587 ft)
人口
人口 (2022年2月1日現在)
  特別市 2,950,702人
    人口密度   3,530人/km2
  備考 現在人口、推定[7]
その他
等時帯 東ヨーロッパ時間 (UTC+2)
夏時間 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3)
郵便番号 01000—06999
市外局番 +380-44
ナンバープレート АА
公式ウェブサイト : https://kyivcity.gov.ua/

キーウウクライナ語: Київ, 発音 [ˈkɪjiu̯] ( 音声ファイル))またはキエフロシア語: Киев [ˈkʲi(j)ɪf] ( 音声ファイル))は、ウクライナ首都[8]ウクライナ憲法セヴァストポリと共に特別市と規定されており、に属さず独立した自治権を有する。

同国最大の都市でウクライナの政治・経済・文化の中心地である[9]。市街はドニエプル川の中流右岸の高台に発達している。人口はキーウ市内の人口は約295万人、キーウ首都圏の人口は約350万人であり、ヨーロッパ有数の大都市である[10]。週末になると、歩行者天国になる市の中心部を通るフレシチャーティク通りや独立広場などが人々で賑わう。別名「緑の都」とも呼ばれ、市内には広大な植物園がある他、緑豊かな公園が点在し、ライラックやカシュタン(栗の一種)の花が咲き乱れる春、街路樹が紅や黄に染まる秋など、四季折々にさまざまな姿を見せる[11]

5世紀後半から6世紀前半の建設と伝えられ、9世紀末にキエフ・ルーシの成立に伴いその首都となり12世紀まで繁栄した[12]。13世紀にモンゴルの襲来を受け荒廃、14世紀以降リトアニア、ポーランド、17世紀にはモスクワへの従属に甘んじた。20世紀にはウクライナ民族主義の拠点都市として[9]ウクライナ人民共和国ウクライナ国の首都となり、1991年、ソビエト連邦解体に続いて独立したウクライナの首都となった。

キエフ・ルーシ時代の聖ソフィア大聖堂キエフ・ペチェールシク大修道院世界遺産に登録されている[13]。ほかにも同時期の建築物が多数残されているが、戦火や共産党政権などによって破壊されたものも多く、黄金の門のように復元されたものも存在する。

名称とその表記

[編集]

キーウという名称は「キーイの都市」を意味し、キーウを創建した伝説上の人物であるキーイウクライナ語: Кий)の名前に由来する[14][15]英語を初めとするラテン文字を使用する言語ではウクライナ語の発音に基づく「Kyiv」(キーウ)の他に、ロシア語の発音に基づく「Kiev」(キエフ)がよく使われていた。「Kyiv」はウクライナ独立後の1995年に公式のラテン文字表記として定められた比較的新しい綴り方である[16]。2006年10月19日、アメリカ地名委員会がウクライナの首都の公式表記をKyivに変更する決定を発表[17]したが、一方で、文脈上の必然性によってはKiev表記を排除しないとする公式見解を示した[18]

2014年のウクライナ紛争以降、英語圏では旧ソ連時代を想起させる「Kiev」表記が避けられるようになった。2018年10月にウクライナ外務省は「KyivNotKiev」キャンペーンを開始[19]し、2019年6月11日、米内務省アメリカ地名委員会がKyiv表記の標準化を決定した[20]。同委員会は米国連邦政府の作成文書内で使用される地名を統一するために設立されたものだが[20][21]、同委員会が運営する地名のデータベースは国際航空運送協会(IATA)など民間団体も利用しており[注 5]、IATA加盟航空会社の運航先表記にも影響を及ぼすため、この決定は米連邦政府内文書や米国内だけにとどまらず国際的な波及をもたらすこととなった[22]。また文脈によって「キエフ」と記する必要がある場合は、「キエフ」表記を禁止するわけではないことも米国務省から後日言及された[21]。2022年現在は「Kyiv」表記が定着している[23][24][25]

日本ではロシア語に由来するキエフ表記が浸透していた[26]。2009年3月1日、かねてよりウクライナ言語・文化研究会の論文でキーウ表記を用いていた言語学者中澤英彦[27]が同日出版の著書で普及を提唱[28]。2018年9月頃よりウクライナの国営通信社ウクルインフォルムが日本語版においてキーウ表記または「キーウ(キエフ)」とした併記を始めた[29][30]

2019年7月17日に駐日ウクライナ大使館公開書簡によって日本語表記についての問題提起がなされ、その時点では同大使館は翻字・字訳方式に基づく「クィイヴ」の片仮名表記を提唱していた[31]。同年9月に開かれた岡部芳彦を座長とする「ウクライナの地名のカタカナ表記に関する有識者会議」では「ウクライナの地名のカタカナ表記に関してはできる限りウクライナ語に近づけることを目指す[32]」との結論が示されたものの、「Київ」においてはクィとヴは義務教育では使用しないため表記の際には避けるのが好ましいという一般の意見や、日本人が実際に発音した時のこと、ウクライナ長期滞在邦人がウクライナ語の固有名詞長音なしで発音することが多いことを考慮して、発音表記・音声表記のクィーイウからキーイウ、キーイウを日本人が発音した場合にはキーウとなるという結論に至った[32]。また、キーウ以外にもキイフ、キエフの3例の併用を可とすることも全会一致で合意した[32]

同年11月頃よりBBCニュースが日本語版において「キーウ(キエフ)」とした併記を始めた[33]。以降は歴史・地理を扱う新書等の一般的な刊行物において、ウクライナ語に基づく独自表記とした上でキーウに言及する例が散見されるようになった[34]。しかし「キーウ」表記が一般に広まることはなく、日本政府による表記も変更されなかった。

2022年、ロシアのウクライナ侵攻に伴い、英語圏と同様の理由で日本国内の報道機関や国会の与野党議員も積極的に「キエフ」表記を「キーウ」に改める動きを見せるようになり[35][36]、同年3月31日には日本政府も日本語表記を「キーウ」へ変更することを正式発表した[37][38]。これに倣い、マスメディアもキーウ表記への変更を行った[38]。他にキイフ、キーフ、キーイフとも表記される[32][39][40]

地理

[編集]
キーウ市の航空写真。街の中心をドニプロ川が流れ、西岸には旧市街が、東岸には新市街が広がる。

キーウはウクライナの北部に位置し、ドニプロ川(ドニプエル川)を挟んで広がっているが、旧市街はドニプロ川右岸の小高い丘の上にある。それに対し低地である東岸側は高層建築物の目立つ新市街となっている。川の中州にはかつてドイツ軍に破壊された村の跡に娯楽施設ヒドロパールクウクライナ語版英語版がつくられている[41]

市西部にはコチュビンスケというキーウ州ブチャ地区飛び地が存在する。ウクライナ鉄道南西鉄道ウクライナ語版キエフ=コーベリ線はこの飛び地をまたいでいる。

ソフィア広場、キーウの中心地

市の北方約20キロメートルには、ドニプエル川をせき止めてつくられたキーウ貯水池ウクライナ語版英語版がある。貯水池は長さ110キロメートルにわたる広大なもので、その向こうはベラルーシである[12]

ベラルーシとの国境近くにはチェルノブイリ原子力発電所がある。1986年4月26日に起きたチェルノブイリ原子力発電所事故では、ソビエト連邦上層部によって全住民350万人の疎開が検討されたが、風向きの関係で健康への影響はないと判断され、疎開は中止された。2011年からはキエフを起点としたチェルノブイリの観光ツアーが催行されるようになり、事故を起こした4号炉を間近に見ることや発電所周辺の遊覧飛行も可能であったが[42][43]ロシアのウクライナ侵攻の兆候が迫った2022年2月20日には「専門的理由」から当局によって観光ツアーは中止されている[44]

北緯50度25分に位置し、樺太北部、ドイツのフランクフルト、カナダのウィニペグとほぼ同緯度にある[11]

気候

[編集]

大陸性気候であり、ケッペンの気候区分では湿潤大陸性気候 (Dfb) に属し、日本の旭川市北海道)や仙北市秋田県)、軽井沢町長野県)などとほぼ同じ気候である。最も暑い7月の平均気温は20.5°Cで、30°Cを超えることも少なくない。最も寒い1月の平均気温は−3.5°Cで急速に平年値は上昇したものの、近年は寒冬になることも多く、時に零下20度を下回ることも珍しくない。過去最高気温は1936年7月31日観測された39.4°C、過去最低気温は1929年2月7日と9日に観測された−32.2 °Cである。年間降雪量は355cmと欧州の大都市の中ではかなり多い方である。

キーウの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 11.1
(52)
17.3
(63.1)
22.4
(72.3)
30.2
(86.4)
33.6
(92.5)
35.0
(95)
39.4
(102.9)
39.9
(103.8)
33.8
(92.8)
27.9
(82.2)
23.2
(73.8)
14.7
(58.5)
39.9
(103.8)
平均最高気温 °C°F −0.9
(30.4)
0.0
(32)
5.6
(42.1)
14.0
(57.2)
20.7
(69.3)
23.5
(74.3)
25.6
(78.1)
24.9
(76.8)
19.0
(66.2)
12.5
(54.5)
4.9
(40.8)
0.0
(32)
12.5
(54.5)
日平均気温 °C°F −3.5
(25.7)
−3
(27)
1.8
(35.2)
9.3
(48.7)
15.5
(59.9)
18.5
(65.3)
20.5
(68.9)
19.7
(67.5)
14.2
(57.6)
8.4
(47.1)
1.9
(35.4)
−2.3
(27.9)
8.4
(47.1)
平均最低気温 °C°F −5.8
(21.6)
−5.7
(21.7)
−1.4
(29.5)
5.1
(41.2)
10.8
(51.4)
14.2
(57.6)
16.1
(61)
15.2
(59.4)
10.2
(50.4)
4.9
(40.8)
0.0
(32)
−4.6
(23.7)
4.9
(40.8)
最低気温記録 °C°F −31.1
(−24)
−32.2
(−26)
−24.9
(−12.8)
−10.4
(13.3)
−2.4
(27.7)
2.4
(36.3)
5.8
(42.4)
3.3
(37.9)
−2.9
(26.8)
−17.8
(0)
−21.9
(−7.4)
−30.0
(−22)
−32.2
(−26)
降水量 mm (inch) 36
(1.42)
39
(1.54)
36
(1.42)
46
(1.81)
57
(2.24)
82
(3.23)
72
(2.83)
61
(2.4)
58
(2.28)
40
(1.57)
48
(1.89)
44
(1.73)
619
(24.37)
平均降水日数 8 7 9 13 14 15 14 11 14 12 12 9 138
湿度 83 80 74 64 62 67 68 67 74 77 85 86 74
平均月間日照時間 31.0 56.5 124.0 180.0 279.0 270.0 310.0 248.0 210.0 155.0 60.0 31.0 1,954.5
出典1:Pogoda.ru.net[45]
出典2:BBC weather (sun values).[46]

歴史

[編集]

中世前期

[編集]
中世期のキーウの象徴。聖ミハイール黄金ドーム修道院

ウクライナ最古の記録『ルーシ年代記』の伝説によれば、キーウはポリャーネ族公爵キーイ、ならびに彼の兄弟シュテーク(シチェク)、ホリーウ(ホリフ)とリービジによって創建されたという[47]。しかし、年代記には創建の年代は記載されていない。考古学の資料によると、キーウは5世紀末から6世紀初頭に形成した集落として発展してきたという[47]。当時の集落の中心地はドニプロ川の右岸に位置する城山にあったとされる[47]。6世紀から7世紀にかけて集落は城山から周りの丘陵への拡大したのである[47]。キーウはドニプロ川の貿易ルート、森林草原が接する地帯、そして多民族が交わる境界地に位置していたため、ドニプロ川の中流における政治・経済・文化的拠点として成長した[47]。6世紀のゴート人の歴史家ヨルダネスは、「ドニプロ川の町」という意味のダナピルスタディル (Danapirstadir) という名で記録している。

8世紀末にキーウは、「ルーシの地」と呼ばれる南方の東スラヴ人の共同体の中核的都市であった[47]。882年に北欧ヴァリャーグヴァイキング)がその都市を征服すると、キーウは「キエフ・ルーシ」国家の首都、いわゆる「ルーシの都市の母」[注 6]となった[47]。8世紀から9世紀にかけてキーウでは、古キエフ山にある山の手古キエフ)と山麓にある下町ポジール)というの2つの区域が形成された。前者では貴族聖職者、後者では庶民が暮らしていた[47]。当時のキーウは、東ローマ帝国北欧西欧イスラム系諸国と貿易をし、国際都市として発展した。10世紀前半にキーウでは初めてのキリスト教聖堂が建立された[47]

ヴォロディーミル聖公の代(980年–1015年)には、キーウの山の手の範囲が拡大され、防衛が強化された。研究史では改善された山の手は「ヴォロディーミルの町」と呼ぶ[47][48]。山の手は高い土塁によって囲まれて、土塁には3つの大門が設けられた。正門であるソフィア門は町の南方に置かれた[48]。988年にルーシがキリスト教を国教にすると、キーウはコンスタンディヌーポリ総主教庁キエフ府主教区の中心となった。キーウの最大の教会は、「像の市」と呼ばれる市場と大公の宮殿の隣に建立された什一聖堂であった[48]。ヴォロディーミル聖公の子息、ヤロスラーウ賢公(1019年–1054年)は、さらに山の手をおよそ80ヘクタールまで拡大させ、いわゆる「ヤロスラーウの町」を建設した[48]。本城を囲む土の城壁の長さは3.5キロメートまで達した[48]。これによってキーウは東欧の最大の都市となった[48]。ヤロスラーウ賢公はキエフの正門を黄金の門に改め、キエフ府主教の座として聖ソフィア大聖堂を建立した。ヤロスラーウ賢公の子孫イジャスラーウ (1054年–1068年, 1069年–1073年)とスヴャトポールク (1093年–1113年)は新たな「イジャスラーウ・スヴャトポールクの町」を建設した。この町における中心的な建造物になったのは聖ミハイール黄金ドーム大聖堂であった[48]

キーウの最大の地区は下町ポジールであった。12世紀から13世紀前半にかけてポジールの面積は約200ヘクタールに及んでおり、土塁と柵によって囲まれていた[48]。ポジールの中央にはキーウ最大の市場「市の場」(トルホーヴィシュチェ)が位置しており、その周りにピロゴシチャ聖母聖堂ウクライナ語版英語版、ボリス・フリブ聖堂、ミハイール聖堂などが並んでいた[48]。古キエフの西部ではコープィル隅という地区があり、スヴャトスラーウ2世の代(1073年–1076年)にはそこで聖シメオン修道院が建立された[48]。キーウ郊外ではキリーロ修道院クローウ修道院洞窟修道院(1598年以降はキエフ洞窟大修道院)、ヴィードゥビチ修道院などの正教会の修道院が置かれた[48]。キーウの周りにプレドスラーヴィネ村、ベレストーヴェ村、公爵と貴族の別荘、ドロホジチ谷ハンガリー谷があった[48]

12世紀半ばにキーウは約5万人の人口、400の教会と8つの市場を有していた。キーウの総合面積はおよそ400ヘクタールであった[48]

中世後期

[編集]

12世紀後半以降、キーウはルーシの聖地の役割を保ちながら、政治的な中心として衰退した。ムスチスラーウ大公(1125年–1132年)の後、キーウを治める有能な統治者がなく、ルーシを構成していた諸公国は独立しはじめた[49]。1169年にウラジーミル・スーズダリ公国の公爵アンドレイは武力でキーウを占領して掠奪し、キエフ大公に即位せず帰国した。さらに、1203年にチェルニーヒウ公国の公爵リューリク2世はキーウを攻略して同様な掠奪を行った。このような事件によってキエフ大公の地位と威厳は大きく損なわれた。また、1223年にキーウの軍勢はカルカ河畔の戦いでモンゴル軍に敗北し、1235年にチェルニーヒウの公爵ミハイール2世キプチャクを連れてキーウを陥落させた。1239年にハリーチ公国の公爵ダニーロはキーウを獲得し、最後のキエフ大公となった。

1240年のキエフの戦いにおいて、モンゴル帝国の軍勢はキーウを包囲し破壊させた。決定的な打撃を受けた古キエフは全滅となり、キエフ・ルーシという国は名実共に亡国となった。キーウの中心地は下町ポジールへ移った。

支配する勢力は、1264年までのハールィチ・ヴォルィーニ大公国から非スラヴ系国家のリトアニア大公国に移り、1569年にリトアニアが同君連合を結んでいたポーランド王国ルブリン合同を結んでポーランド・リトアニア共和国を形成すると、ウクライナ貴族はシュラフタとして共和国のうちのポーランド王国への帰属移動を求め、キエフ県としてポーランド王国に加盟した。その後、ドニプロ川の中流に興ったザポロージャ・コサックの統治地域に加わった。コサックたちはポーランド・リトアニア共和国の中央政界(セイム)との対立を深め、1648年には県全体がヘーチマン国家(コサック国家)の一部としてポーランド・リトアニア共和国からの自治権を得た。キーウはヘーチマン国家の文化的中心として再び栄え、ウクライナ・バロック文化が養われた。

近世

[編集]
コサックの頭領によって復元されたキエフ洞窟大修道院における至聖三者大門教会

1654年、ヘーチマン国家はモスクワ大公国ロシア帝国に対する政治的な闘争に敗れ、その宗主権下に入ることとなった。1667年、ウクライナ・コサックを巡るポーランドとロシアの戦争が講和を迎え、キーウを含むヘーチマン国家は正式にロシア帝国の版図と定められた。

その後、キーウは徐々にロシアの一地方に地位を落としていったが、それでもやはりウクライナ文化や政治運動の中心地のひとつとしての機能を担っていた。そのため、モスクワ政府はキーウを強力な監視下に置くようになり、時期により差異はあるとはいえ、ウクライナの文化的あるいは政治的運動は「マゼッパ主義」や「裏切り独立主義」などと呼ばれ弾圧を加えられた。

近代

[編集]
キーウにおけるウクライナ人民共和国の士官

1917年のロシア革命後の同年秋、キーウのウクライナ中央ラーダウクライナ人民共和国の事実上の独立宣言をするとロシアのボリシェヴィキはウクライナに侵攻を始め、ソビエト・ウクライナ戦争が開始された。共和国の首都となったキーウは赤軍による攻撃を受けた。1918年1月29日、ウクライナ人民共和国軍はキーウ郊外のクルトィ駅の戦いで赤軍に敗れ、ウクライナ勢力の劣勢が決定的になった。その後、1918年2月8日にロシアの占領軍によってキーウの住民の虐殺が行われた。

この戦闘で、ウクライナの古都キーウはウクライナ民族主義の拠点となった。一方、赤軍に協力するウクライナ人民共和国(ウクライナ・ソビエト共和国)の首府は、ロシア人ユダヤ人の多いハルキウに置かれた。

1918年4月29日にはドイツ帝国の軍事力と農民層の支持を後ろ盾とするヘーチマンの政変キーウ・サーカス場にて発生し、キーウを首都とするウクライナ国が建設された。だが、12月にはドイツ軍の撤退により同国はディレクトーリヤに倒され、ディレクトーリヤはウクライナ人民共和国を再建した。

1918年にウクライナからの要請によって始められたポーランド・ソビエト戦争でも、キーウは主戦場の一つとなった。1920年には、ポーランド軍と合同したディレクトーリヤ軍によるキエフ攻勢が奏功し一時はキーウを奪還したが、最終的には赤軍に敗れた。

結局、ウクライナの独立各派は相互の協力に失敗し、またイギリスフランス、そしてポーランドなどのような外国勢力も非協力的であったことからソビエト政府に対して敗北を喫し、ウクライナの独立は潰えた。それに伴い、ソ連時代初期のウクライナ社会主義ソビエト共和国の首都は民族主義熱の高かったキーウを避け、1934年6月24日にキーウに戻るまでハリコフに置かれた[50]。1937年、国号は「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」に改称されたが、キーウはその主都であり続けた。

第二次世界大戦中の1941年6月22日、ナチス・ドイツはソビエト連邦に対して宣戦布告。直後、キーウにドイツ空軍機が飛来してキーウに対して爆撃を行った[51]。9月19日には侵攻して来たドイツ軍がバルバロッサ作戦の一環としてキーウを占領した。同年の9月29日と30日に、キーウ近郊のバビ・ヤールで、ナチス親衛隊の特別殺戮部隊が、33771人のユダヤ人を虐殺した。キーウ市は1943年11月6日に赤軍によって奪還されるまでドイツの占領下にあった。市街や郊外はドイツ軍による激しい破壊を受けたが、戦後復興に力が入れられ、比較的早い時期に復興を果たした。1941年の激しい戦いを記念し、戦後の1965年にキーウは「英雄都市」の称号を贈られた[52][53]

現代

[編集]

1991年8月24日、ウクライナは独立を宣言し、キーウは新たな独立ウクライナの首都となった。

21世紀に入ると、キーウはたびたび抗議活動の舞台となった。2000年末から2001年初頭にかけて、キーウは「クチマのいないウクライナ」という抗議活動の中心地となった。2004年11月から2005年1月にかけては、2004年ウクライナ大統領選挙に不正があったとする大規模な抗議活動であるオレンジ革命が起こった。さらに2013年11月から2014年2月にかけ、キーウの独立広場マイダン革命の中心地となり、特殊部隊と市民との衝突で100人以上の抗議参加者が死亡し、数百人が重傷を負う事件も起こった。

2016年3月11日、脱共産主義化法ウクライナ語版の施行の一環として、キーウ市内の79の大通り、通り、広場、路地に新しい名前が付けられた。

2022年2月24日に始まったロシアのウクライナ侵攻において戦闘の舞台となった(キーウの戦い)。

言語

[編集]
母語話者(2001年)
ウクライナ語
  
72.1%
ロシア語
  
25.4%

ロシア帝国支配、ソ連時代のロシア語優遇政策の影響と地方各地から様々な人が流入してきた結果、ロシア語が共通語としての地位を築いてきた。これは、ウクライナ語は農村部の言語、ロシア語は都市部の言語としての住みわけが行われていたためである。そのため、住民の多くがロシア語もしくはロシア語とウクライナ語(スルジク)を併用しており、ウクライナ語のみの住民は少数といわれる。民族的にはロシア人は約13%でウクライナ人が80%強を占めている[9]。住民にとってはロシア語、ウクライナ語を区別して使い分けるというよりは混合して使ってるのが現状でありスルジクが主流ともいえ母語調査の選択では政治状況によって大きく左右される。

2003年の調査によると、日常生活でロシア語を主に使う人が52%、ロシア語とウクライナ語の両方が32%、主にウクライナ語が14%、大半がウクライナ語は4.3%に過ぎず、ウクライナ語のみで生活している人はむしろ圧倒的に少数派である[54]

独立後はそれまでのロシア語優遇政策が改められ、市内の表記も広告等ふくめ全てウクライナ語に制限されるようになった。テレビ放送は放送法により、外国語の放映に関してはウクライナ語字幕をかぶせなければならなくなった。そのためロシアで製作されたロシア語番組はウクライナ語字幕つきロシア語放送となっていたが、マイダン革命以降は全面放送禁止となっている。地下鉄もウクライナ語のみのアナウンスとなっている。それでもなお多くの市民は独立から30年を経過してもなお学校や公的機関以外では日常的にロシア語で生活してるのが現状であり、ウクライナ語使用率の比較的高いウクライナ中部地方にあってはロシア語圏の飛び地もといえる。マイダン革命以降は強力なウクライナ語化政策が進められており、ロシア語使用率が低下している。

学校教育で使われる教授言語はソ連時代の1991年はロシア語が69.1%、ウクライナ語が30.9%と圧倒的にロシア語が主流を占めていたが、2012年にはウクライナ語が97.1%と大半を占めるまでになりロシア語は2.9%にまで低下した。マイダン革命以降はロシア語での教育は禁止となった。この事はキーウのウクライナ語化に大きく影響を与えており、中高年世代がロシア語でも若者世代がウクライナ語へと使用言語が変わりつつある。それでもなお日常的な言語として家族や友人との会話、SNS等ではロシア語をメインとして使用する若者は非常に多くみられ一般的である。

ロシアのウクライナ侵攻後の2023年に行われたアメリカ合衆国連邦政府非営利組織IRIの調査によると家庭で話される言語のうち、ウクライナ語が59%、ロシア語が38%となっており、以前に比べるとウクライナ語の割合が大幅に増加している[55]

行政区分

[編集]

10の区(ラヨン)に分割される。

面積(km2[56] 人口(2021年[56]
ドニプロ川の右岸(西部): Правий берег
ホロシーイウ区 Голосіївський район 156 254,014
オボローニ区 Оболонський район 110 318,137
ペチェールシク区 Печерський район 20 163,672
ポジル区ウクライナ語版 Подільський район 34 209,133
スヴィアトシン(スヴィアトシンスキー)区ウクライナ語版 Святошинський район 103 341,886
ソロムヤンシク区 Солом'янський район 40 384,616
シェウチェンコ区 Шевченківський район 27 215,924
ドニプロ川の左岸(東部): Лівий берег
ダルニツヤ区ウクライナ語版 Дарницький район 134 348,401
デスナ区ウクライナ語版 Деснянський район 148 368,461
ドニプロ区ウクライナ語版 Дніпровський район 67 357,936

人口

[編集]

人口値は2021年1月1日推計、民族構成は2001年ウクライナ国勢調査による。

民族構成(2001年[59]
ウクライナ人
  
2,110,800人 (82.2%)
ロシア人
  
337,300人 (13.1%)
ユダヤ人
  
17,900人 (0.7%)
ベラルーシ人
  
16,500人 (0.6%)
ポーランド人
  
6,900人 (0.3%)
アルメニア人
  
4,900人 (0.2%)

交通

[編集]
キーウ地下鉄
インターシティ用の電車
キーウ河川港
ボルィースピリ国際空港

市内交通

[編集]

公共機関としてキーウ地下鉄キーウ市電キーウ・ライトレールのほか、トロリーバスと路線バスがある。

キーウ地下鉄は3路線あり、現在も建設中で路線数と総延長共に拡大する予定である。旧市街と新市街にそれぞれキーウ市電が、また旧市街と南西の郊外を結ぶキーウ・ライトレールが運行されている。また、1905年に開業したキーウ・ケーブルカーウクライナ語版英語版が、ヴォロディミール丘の斜面に設置されている[60]

これらに加え、半公共交通機関といえる営業免許制のマルシュルートカ(ワゴン車・マイクロバス等を利用した個人経営のバス・乗り合いタクシー)が無数に運行されている。これは、料金は乗車距離に応じた運賃制度で公共交通機関よりかなり割高であるとは言え、低速の路線バスなどに比べ所要時間や運用本数・路線数で大きなメリットがあり、やはり市民にとっては欠かせない交通手段である。

地下鉄車両や路面電車、バスやトロリーバスには、ソ連時代に製造されたソ連製やチェコスロヴァキア製、ハンガリー製の車両の他、新型のウクライナ製やドイツ製のものも多く見られる。

鉄道

[編集]

郊外に向かって運行される交通機関には、キーウ旅客駅などから発着するウクライナ鉄道がある。鉄道には近距離の「エレクトルィーチュカ」と長距離の「ポーイズド」があり、夜行列車や国際列車も運行されている。この他、鉄道のない地域を補うための長距離バスが地下鉄スヴャトーシン駅ウクライナ語版前ターミナルなどから発着している。

水運

[編集]

キーウはドニプロ川の水運で発展した街と言っても過言ではなく、川岸の船着場、キーウ河川港は鉄道や道路が整備される以前はキーウの玄関口であった。現在では水上交通の重要性は低下したものの、貨物船の航行は行われており、観光用の遊覧船も発着する。

空港

[編集]

ボルィースピリ国際空港が街の東28kmに位置する。東隣のボルィースピリ市に所在するが、通常「キーウ空港」と呼ばれる。主に国際線が乗り入れる国際空港である。長らく鉄道や地下鉄のアクセスがなく、バスやタクシーが必要になるなどキーウ市内からのアクセスは不便であったが、近年はキーウ旅客駅から定期的にシャトルバスが運行されて利便性が向上した。所要時間は1時間ほど。また2018年11月にキーウ旅客駅との間を結ぶ空港連絡鉄道が開業した。こちらの所要時間は40分ほどで、深夜帯も運行されている。

市内にあるキーウ・ジュリャーヌィ国際空港は、かつてはウクライナの空の玄関口として機能した空港であるが、現在では主に国内線と近距離の国際線が乗り入れている。この他、個人の所有するビジネスジェットなども数多くこの空港を利用している。これについては、空港の私物化との批判がある。この他、空港にはウクライナ空軍の使用機等を展示する国立航空博物館ウクライナ語版も併設されている。この空港は、市内にあり利用の便は非常によいが、安全面と土地の問題から本格的な国際空港への拡張は困難である。

スヴィアトシン(スヴィアトシンスキー)区ウクライナ語版に所在するスヴィアトシン飛行場ウクライナ語版英語版は、ウクライナの航空産業初期から存在する空港であるが規模が小さく、また町に隣接しているため拡張できない。現在では、O・K・アントーノウ記念航空科学技術複合体アントノフ連続生産工場ウクライナ語版英語版の使用する小規模な飛行場となっている。

キーウ市外に隣接するキーウ・チャイカ空港は、民間のスポーツ用の小規模な空港である。

ホストーメリ空港もキーウ市に所在する空港ではなく、近郊のホストメリに所在する。小規模な空港で、別名アントーノフ空港と呼ばれるとおり、アントーノフの機体の試験や貨物用空港として使用されている[61]

教育

[編集]

スポーツ

[編集]

キーウではサッカーが最も重要なスポーツであり、ウクライナ・プレミアリーグに所属する名門クラブのFCディナモ・キーウが存在している。同リーグでは最多優勝を誇り、ウクライナ・カップウクライナ・スーパーカップでも最多優勝を飾っている。ディナモ・キーウはウクライナ最大のスタジアムである、オリンピスキ・スタジアム本拠地としている。同地はUEFA EURO 2012決勝が行われた場所でもある。なお、2部リーグにはFCアルセナル・キーウも存在する。

見どころ

[編集]

建造物

[編集]

美術館・博物館

[編集]

劇場

[編集]

ギャラリー

[編集]


著名な出身者

[編集]

姉妹都市

[編集]

※出典[71]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ これまでキエフ読みだったが、2022年ロシアのウクライナ侵攻をきっかけに令和4年(2022年)3月31日にキーウに変更になった[1]
  2. ^ ルーシ年代記』の882年の条に、ルーシ族の公オレーグルーシの都をキーウに定めた時、キーウを「ルーシの町々の母」と名づけた(Полное собрание русских летописей (ПСРЛ). — Т. 2. Ипатьевская летопись. — СПб., 1908. — c. 17.)。
  3. ^ キーウは東欧キリスト教の発祥地で、1453年のコンスタンティノープルの陥落後、エルサレムに次ぐ正教会の聖地であると主張したウクライナの聖職者の概念。キーウ、ハールィチおよび全ルーシの府主教ヨフ・ボレツキーウクライナ語版英語版による1622年の書状、1633年にその後継者となったペトロー・モヒーラによる『洞窟大修道院のアテナイオス』、またキエフ・モヒラ・アカデミーの校長およびロシア正教会会議の会長を務めたフェオファン・プロコポーヴィチウクライナ語版などマゼーパ時代の聖職者・文人の著作などにおいてしばしば見られる(Рибалка І. К. Історія України (частина перша) — К.,1994 — 7. Культура в Україні у XVIII ст. )。
  4. ^ 街の並木通りには「栗」の木(実際はセイヨウトチノキAesculus hippocastanum)が植えられ、春先には花が咲いて街を彩るため[2][3]
  5. ^ 米連邦政府が作成しているのでパブリック・ドメインとなり、民間企業や団体は自由に情報を使用できる。
  6. ^ 「都市の母」とは、スラヴ語の翻訳借用で、ギリシア語メトロポリス(「メトロ」(母)・「ポリス(都市)」)に由来する。
  7. ^ 古代ギリシャ語Ἁγία Σοφίαより。Ἁγίαは聖なる[62]Σοφίαは知恵の意味[63]
  8. ^ 聖ソフィア大聖堂の場合、洋ナシ (pear) 形とも言われる[64]

出典

[編集]
  1. ^ ウクライナの首都等の呼称の変更”. 外務省. 2024年7月16日閲覧。
  2. ^ Vdovenko, N.. “Chestnut - Blooming symbol of Kiev | Igor Sikorsky Kyiv Polytechnic Institute” (英語). kpi.ua. 2022年5月16日閲覧。
  3. ^ Руденко, Євген; Сарахман, Ельдар. "'Туйовий Хрещатик'. Чому кияни сумують за каштанами та як вони стали символом столиці" (ウクライナ語). Iнтерфакс-Україна (2020年5月29日). 2022年5月16日閲覧。
  4. ^ Oksana Faryna (2012年5月31日). "Kyiv's 1,530th birthday marked with fun, protest" [キーウの1,530歳の誕生日は、楽しさと抗議があった]. KyivPost. 2020年2月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月2日閲覧
  5. ^ 【キエフ市長インタビュー】私はプーチンの嘘を許さない ウクライナ人は「平和の民」だ:文書オンライン”. 時事ドットコム. 時事通信社 (2022年3月21日). 2022年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月13日閲覧。
  6. ^ UKRAINE: Provinces and Major Cities”. Citypopulation.de (2021年7月10日). 2022年5月1日閲覧。
  7. ^ Population by region (by estimate) as of February 1, 2022. Average annual population in January 20221”. ウクライナ国家統計局. 2022年5月1日閲覧。
  8. ^ The Verkhovna Rada of Ukraine (2019年2月7日). “CONSTITUTION OF UKRAINE”. 2022年9月9日閲覧。
  9. ^ a b c キエフとは”. コトバンク. 2022年10月16日閲覧。
  10. ^ City Mayors: The 500 largest European cities (1 to 100)”. www.citymayors.com. 2022年10月16日閲覧。
  11. ^ a b c d e f g h i j キエフ案内”. 在ウクライナ日本国大使館 (2021年8月). 2022年10月10日閲覧。
  12. ^ a b キーウとは”. コトバンク. 2022年10月16日閲覧。
  13. ^ Kyiv: Saint-Sophia Cathedral and Related Monastic Buildings, Kyiv-Pechersk Lavra” (英語). World Heritage Centre. UNESCO. 2022年7月14日閲覧。
  14. ^ Яструбов, Олег (2006年7月14日). “«И нарекоши имя ему Киев» - Князь Кий — легенди та бувальщина”. day.kyiv.ua. День. 2022年4月24日閲覧。
  15. ^ Повесть временных лет” (ロシア語). www.hrono.info. Вячеслав Румянцев. 2022年4月24日閲覧。
  16. ^ Kyiv (Kiev) Travel Guide. Kiev?, Kyiv?! Which is right?” (英語). UA Zone Group International Foundation. 2022年4月20日閲覧。
  17. ^ Tom Casey (2006年10月19日). “Daily Press Briefing -- October 19” (英語). United States Department of State. 2009年1月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月20日閲覧。
  18. ^ “#KyivNotKiev: U.S. To Change International Database Spelling Of Ukraine's Capital” (英語). Radio Free Europe/Radio Liberty. (2019年6月13日). https://www.rferl.org/a/us-to-change-international-database-spelling-to-kyiv-not-kiev/29997415.html 2022年4月20日閲覧。 
  19. ^ “МИД начинает всемирную кампанию: Kyiv Not Kiev” (ウクライナ語). Європейська правда. (2018年10月2日). https://www.eurointegration.com.ua/rus/news/2018/10/2/7087647/ 2022年4月20日閲覧。 
  20. ^ a b United States Board on Geographic Names Foreign Names Committee (2019年9月). “Statement Regarding the Name of the Capital of Ukraine” (PDF) (英語). 2020年7月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月20日閲覧。
  21. ^ a b Press Briefings” (英語). United States Department of State (2006年10月19日). 2009年1月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月23日閲覧。
  22. ^ Embassy of Ukraine in the USA (2019年6月12日). “#KyivNotKiev. Відтепер офіційно в Сполучених Штатах Америки та в міжнародному вжитку!” ((ウクライナ語)、(英語)). Facebook. 2022年4月23日閲覧。
  23. ^ Kyiv not Kiev: ВВС змінює написання столиці України” (ウクライナ語). BBC (2019年10月14日). 2022年3月4日閲覧。
  24. ^ 小林恭子 (2022年2月27日). “英語メディアはウクライナの首都をKievではなくKyivと綴る 前者はロシア語の発音に基づく”. Yahoo!ニュース. 2022年2月28日閲覧。
  25. ^ キエフを「キーウ」に、歓迎も 欧米メディアにウクライナ人―「歴史知る契機」と識者”. 時事ドットコム. 時事通信社 (2022年3月26日). 2022年3月27日閲覧。
  26. ^ 防衛省 ウクライナ首都「キエフ」の名称表記に「キーウ」併記”. NHK (2022年3月29日). 2022年4月2日閲覧。
  27. ^ 教育・研究組織 | 研究活動”. 東京外国語大学. 2011年10月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月20日閲覧。
  28. ^ 大内悟史 (2022年4月13日). “東京が「トンジン」と呼ばれたら 「キーウ」の発音はこう生まれた”. 朝日新聞デジタル. https://www.asahi.com/articles/ASQ4C4CPZQ46UCVL05X.html 2022年4月20日閲覧。 
  29. ^ MH17の悲劇:近づく裁判の日」『ウクルインフォルム』2018年9月4日。2022年4月22日閲覧。
  30. ^ ウクルインフォルム日本語版 (@Ukrinform_JP) によるツイート”. Twitter (2018年9月6日). 2022年4月22日閲覧。
  31. ^ ウクライーナの地名の正しいスペルと使用法に関する公式ガイド”. 在日ウクライナ大使館 (2019年7月17日). 2019年8月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月20日閲覧。
  32. ^ a b c d 岡部芳彦「ウクライナの地名のカタカナ表記に関する有識者会議」報告 (特集 ウクライナの環境・社会・経済・政治に関する研究)」(PDF)『神戸学院経済学論集』第51巻第3号、神戸学院大学、2019年12月、133-143頁、NAID 400221943882022年3月6日閲覧 
  33. ^ ジョナ・フィッシャー (2019年11月15日). “【解説】 なぜウクライナはアメリカにとってそれほど重要なのか”. BBCニュース. オリジナルの2019年11月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20191116164729/https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-50429406 2022年4月20日閲覧。 
  34. ^ 21世紀研究会『地名の世界地図文藝春秋、2020年9月、275頁。ISBN 9784166612697https://books.google.co.jp/books?id=hGX9DwAAQBAJ&pg=PT275#v=onepage&q&f=false 
  35. ^ 首都表記「キーウ」に変更 日テレ、ウクライナ語に”. 東京新聞 (2022年3月24日). 2022年4月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年3月27日閲覧。
  36. ^ 大統領の国会演説で再燃 与野党から「キエフ」→「キーウ」変更論”. カナロコ. 神奈川新聞社 (2022年3月24日). 2022年10月10日閲覧。
  37. ^ ウクライナの首都等の呼称の変更”. 外務省 (2022年3月31日). 2022年4月20日閲覧。
  38. ^ a b ウクライナ首都キエフの表記「キーウ」に 政府が変更”. 毎日新聞 (2022年3月31日). 2022年4月8日閲覧。
  39. ^ 今村栄一 (3 2005). 環バルト海研究会. ed. “1970年代のポディル発掘とその成果” (PDF). 環バルト海研究会現地調査報告書 第4回: 15. https://www.toyota-ti.ac.jp/Lab/Kyouyou/Humanities/Kumano/Imamura.pdf. 
  40. ^ ウクライナ研究会 沿革”. ukuken.web.fc2.com. ウクライナ研究会. 2022年4月13日閲覧。
  41. ^ Пам'ятне Місце Робітничого Селища Передмостова Слобідка, Знищеного Нацистами 1943 | Звід Історїї Памяток Києва” (ロシア語). Звід Історїї Памяток Києва. 2022年10月16日閲覧。
  42. ^ Chernobyl and the dangerous ground of 'dark tourism'” (英語). CNN (2019年6月25日). 2022年4月2日閲覧。
  43. ^ Pavlo Fedykovych (2021年4月21日). “Dark tourism takes to the sky above Chernobyl” (英語). CNN. 2022年4月2日閲覧。
  44. ^ Pendlebury, Richard (2022年3月12日). “Chernobyl tour guide Lara Graldina: "It wasn’t radiation that stopped everything for me, it was Putin"” (英語). Harper's BAZAAR. 2022年4月2日閲覧。
  45. ^ Pogoda.ru.net” (Russian). 3 July 2012閲覧。
  46. ^ BBC Weather: Kiev, BBC. Retrieved 3 July 2012.
  47. ^ a b c d e f g h i j Толочко 2007:201.
  48. ^ a b c d e f g h i j k l m Толочко 2007:202 .
  49. ^ キエフ大公国とは”. コトバンク. 2022年10月16日閲覧。
  50. ^ 中井 1998:040.
  51. ^ ドイツが突如、ソ連に宣戦布告(『朝日新聞』昭和16年6月23日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p390 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  52. ^ Flower Politics: In Moscow, No Wreath For 'Hero City' Kyiv Ahead of Victory Day” (英語). RadioFreeEurope/RadioLiberty. 2022年5月22日閲覧。
  53. ^ Kiev: Hero City of the Ukraine” (英語). Wheelchair Foundation (2010年3月8日). 2022年5月22日閲覧。
  54. ^ “What language is spoken in Ukraine?”. Welcome to Ukraine. (2014年2月3日). オリジナルの2014年1月29日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140129120939/http://www.wumag.kiev.ua/index2.php?param=pgs20032/72 2016年5月6日閲覧。 
  55. ^ [https://web.archive.org/web/20230719164824/https://ratinggroup.ua/files/ratinggroup/reg_files/municipal_survey_may_2023_ua_-_final.pdf “Восьме всеукраїнське муніципальне опитування?”]. International Republican Institute. オリジナルの2023年6月19日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20230719164824/https://ratinggroup.ua/files/ratinggroup/reg_files/municipal_survey_may_2023_ua_-_final.pdf 2023年11月14日閲覧。 
  56. ^ a b UKRAINE: Kiev City”. Citypopulation.de (2021年7月10日). 2022年5月1日閲覧。
  57. ^ a b Number of Present Population of Ukraine, as of January 1”. State Statistics Service of Ukraine. p. 5 (2021年). 2022年2月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月1日閲覧。
  58. ^ a b c Resident Population of Ukraine by Sex and Age, as of January 1” (pdf). ウクライナ国家統計局. p. 251 (2021年). 2022年5月1日閲覧。
  59. ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。地域別民族構成” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
  60. ^ Київський фунікулер відзначає 115-річчя” (ウクライナ語). Укрінформ. 2022年10月5日閲覧。
  61. ^ Gostomel Antonov Airport Profile | CAPA”. centreforaviation.com. 2022年5月22日閲覧。
  62. ^ ἁγία - WordSense Dictionary” (英語). www.wordsense.eu. 2022年7月22日閲覧。
  63. ^ σοφία | Definition of σοφία at Definify”. www.definify.com. 2022年7月22日閲覧。
  64. ^ a b Shevtsova, Galyna; Gorbyk, Olena; Mezhenna, Nataliia; Chobitko, Oksana; Kozak, Yurii; Andropova, Olga (2020-12-01). “The Architecture of the Cathedral of Saint Sophia in Kyiv: Uniqueness and Universality in Historical Cultural Spaces”. IOP Conference Series: Materials Science and Engineering 960 (2): 022105. doi:10.1088/1757-899X/960/2/022105. ISSN 1757-8981. https://iopscience.iop.org/article/10.1088/1757-899X/960/2/022105. 
  65. ^ Saint Sophia Cathedral.”. Library of Congress, Washington. 2022年7月21日閲覧。
  66. ^ 聖ミハイルの黄金ドーム修道院とは”. コトバンク. 2022年10月16日閲覧。
  67. ^ St. Andrew’s Church” (英語). Discover Ukraine. 2022年10月16日閲覧。
  68. ^ Vyshyvanka or Budyonovka?”. The Day (2004年10月19日). 2022年10月10日閲覧。
  69. ^ デジタル大辞泉. “ウラジーミル聖堂とは”. コトバンク. 2022年10月16日閲覧。
  70. ^ 大統領と国会議長、無名戦士の墓に献花”. Ukrinform. 2022年10月16日閲覧。
  71. ^ Перелік міст, з якими Києвом підписані документи про поріднення, дружбу, співробітництво, партнерство” (ウクライナ語). kyivcity.gov.ua. Kyiv (2018年2月15日). 2020年3月30日閲覧。
  72. ^ Nicuşor Dan: Am hotărât să aprobăm înfrăţirea dintre Bucureşti şi Kiev” (ルーマニア語). mediafax.ro. Mediafax (2022年3月7日). 2022年7月11日閲覧。
  73. ^ "Neue Städtepartnerschaft mit Kyiv: Vitali Klitschko in Berlin"” (ドイツ語). berlin.de. Berlin (2023年9月11日). 2024年8月16日閲覧。

参考文献

[編集]
  • (日本語) 伊東孝之, 井内敏夫, 中井和夫編 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 (世界各国史; 20)-東京: 山川出版社, 1998年. ISBN 9784634415003
  • (日本語) 黒川祐次著 『物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国』 (中公新書; 1655)-東京 : 中央公論新社, 2002年. ISBN 4121016556
  • (ウクライナ語) Історія міст і сіл Української РСР: Київ. — Київ: УРЕ АН УРСР, 1968.
  • (ウクライナ語) Толочко П. П., Івакін Г. Ю., Верменич Я. В. Київ // Енциклопедія історії України. — Київ : Наукова думка, 2007. — Т. 4. — С. 201–218.

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]
公式
旅行