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ジャンパオロ・ダラーラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャンパオロ・ダラーラ

Giampaolo Dallara
イタリア・ラリーイベント「La Festa Mille Miglia 2016」パルマ・ステージにて
生誕 (1936-11-16) 1936年11月16日(88歳)
国籍 イタリアの旗 イタリア
別名 Gian Paolo Dallara
教育 ミラノ工科大学
子供 女子2人[2]
業績
専門分野
勤務先

設計
成果
受賞歴
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ジャンパオロ・ダラーラ(伊:Giampaolo Dallara、英:Gian Paolo Dallara、1936年11月16日 - )は、イタリア出身の自動車技術者実業家。自動車企業「ダラーラ・アウトモビリ」の創業者。

青年期には母国自動車メーカーの要職を歴任し、特にランボルギーニにて高い実績を積む。レース活動実現のため、1972年に自ら起業しモータースポーツに進出。以来、各分野にフォーミュラカーを供給する一大企業に育て上げた。

略歴

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スーパーカー開発

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パルマ県ヴァラーノ・デ・メレガーリ出身[1][3]ミラノ工科大学航空力学を専攻し、1959年に博士号を取得して母国の自動車メーカー『フェラーリ』に入社。モータースポーツの仕事に携わり[4]カルロ・キティの下でエンジニアリング・アシスタントを担当した[5]。1年半後には『マセラティ』へ移籍し、カーレースのブランドから撤退するまで在社[2]

1963年、新興メーカーであった『ランボルギーニ』にスカウトされ、チーフエンジニアの地位に就く。ここで同僚のパオロ・スタンツァーニボブ・ウォレス[6]マルチェロ・ガンディーニベルトーネ社)らと共同で、初期の代表車種である「ミウラ」や「エスパーダ」などを開発した[7]

さらに本人は、フェラーリやマセラティ時代に体験したフォーミュラカーの開発や、ミウラでのレース参戦を熱望。しかし社長のフェルッチオ・ランボルギーニにはレース参戦の意思はなく、このことが原因で1968年にランボルギーニを退社し、実現のために1969年から『デ・トマソ』に移籍する[8]

ここでF2マシンやフランク・ウィリアムズ(後のウィリアムズF1チーム代表)率いる『フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ』のF1マシン設計を担当した。しかし開発した「デ・トマソ・505/38」は性能が不足しており、1970年F1世界選手権で死亡事故が起きてしまう。デ・トマソはプロジェクトから手を引き、本人は大きな挫折を味わった。

モータースポーツ・コンストラクターとしての成功

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やがてデ・トマソを離れ、1972年に地元パルマ県にて起業し、自動車開発メーカー『ダラーラ・アウトモビリ』を設立した。初期は国内向けの小排気量スポーツカーを発表しながら、ランチア・ストラトス(グループ4)やランチア・ベータ・モンテカルロ(グループ5)など外部企業の開発コンサルタントを請け負う。

フォーミュラカーの分野においては、デ・トマソ時代に縁のあったフランク・ウィリアムズ・レーシングカーズの仕事を請け負い、F1マシンの改修に協力。後の同チーム冠名F1マシン「ウィリアムズ・FW」シリーズの誕生に貢献した。そして1978年よりF3シャーシの製造・販売市場に参入し、F3初のカーボンモノコックを開発[9]ラルトレイナードとのシェア争いを経て、1990年代末にはダラーラの寡占状態を実現する[10]2000年代以降、フォーミュラレースで車体のワンメイク化が進行すると、GP2(→FIA F2)、GP3(→FIA F3)などの下位カテゴリーにおいて、独占供給するまでに会社を成長させた[11]

F1にはチーム『スクーデリア・イタリア』と提携し、1988年よりコンストラクターとして参戦。その後は、米国のインディカー・シリーズ耐久レースの分野にも供給を拡大させ、2000年代にはル・マン耐久シリーズに出場するプロジェクトを指揮。2010年代スーパーフォーミュラフォーミュラEへの供給も開始。さらには念願だったロードカーの開発に着手し[12]2017年に初の自社製市販車「ダラーラ・ストラダーレ」を発表している[13]

社外の役員としては、1980年代からイタリア・モータースポーツ委員会に属し、1996年に副会長に就任。1998年には、国際自動車連盟 (FIA) のイタリア代表委員に選出されている。表彰に関しても数多く、2013年には母国の栄誉「イタリア共和国功労勲章」(グランデ・ウッフィチャーレ)を受勲した。

開発に関わった主な車種

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ロードカー (市販車)
スポーツカー (モータースポーツ)
フォーミュラカー

ほか多数

ギャラリー

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脚注

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  1. ^ a b Giampaolo Dallaraプロフィール”. ダラーラ・アウトモビリS.p.A. 2020年6月1日閲覧。
  2. ^ a b Interview: Race Car Designer Gian Paolo Dallara”. Automobile Magazine (2014年6月19日). 2021年3月13日閲覧。
  3. ^ 『Racing On 2006年8月号(No.405)特集 シャシーコンストラクター』、ニューズ出版、17頁。
  4. ^ あのジャンパオロ・ダラーラがSF最終戦鈴鹿に登場”. オートスポーツweb (2014年10月5日). 2019年6月17日閲覧。
  5. ^ ランボルギーニ・ミウラの生みの親が選んだ自分への誕生日プレゼントとは?”. Octane Japan 編集部 (2019年4月18日). 2019年9月21日閲覧。
  6. ^ 観光名所ではないけれどしっかり見ておきたいラウンドアバウト”. Carview (2019年9月15日). 2019年10月3日閲覧。
  7. ^ 【伝説のランボルギーニ③】ミウラは世界を驚かせる“奇想天外”なスーパーカーだった”. webモーターマガジン (2019年6月6日). 2019年6月16日閲覧。フェルッチオの理想が完成「350 GT & 400 GT」(1964-1966)【ランボルギーニ ヒストリー】”. GENROQ Web (2019年9月22日). 2019年10月3日閲覧。名作「ミウラ」誕生までの実話(1965-1966)【ランボルギーニ ヒストリー】”. GENROQ Web (2019年9月29日). 2019年10月3日閲覧。
  8. ^ Giampaolo Dallaraバイオグラフィー”. ランボルギーニS.p.A. 2020年6月1日閲覧。
  9. ^ 『Racing On 2006年8月号(No.405)特集 シャシーコンストラクター』、ニューズ出版、24頁。
  10. ^ 世界最大レースカーメーカー創始者の夢を実現した“道”という名のクルマ”. Response (2019年4月24日). 2019年10月3日閲覧。
  11. ^ ダラーラを知っているか? 知っておきたい歴史”. AUTOCAR JAPAN (2018年4月26日). 2019年6月16日閲覧。
  12. ^ Dallara Stradale 文化と情熱を共有する”. Forbes JAPAN (2019年6月18日). 2019年7月10日閲覧。
  13. ^ ダラーラ・ストラダーレ試乗 初のロードカー市販”. AUTOCAR JAPAN (2018年3月26日). 2019年6月16日閲覧。

外部リンク

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