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スコット・ラッセル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
スコット・ラッセル
1993年鈴鹿8耐
グランプリでの経歴
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
活動期間 1995年 - 1996年
レース数 19
チャンピオン 0
優勝回数 0
表彰台回数 2
通算獲得ポイント 176
ポールポジション回数 0
ファステストラップ回数 1
初グランプリ 1995年 500cc イタリアGP
最終グランプリ 1996年 500cc オーストラリアGP
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レイモンド・スコット・ラッセルRaymond Scott Russell, 1964年10月28日 - )は、アメリカ合衆国ジョージア州イーストポイント出身のオートバイレーサー。スーパーバイク世界選手権AMAスーパーバイクでチャンピオンを獲得した。デイトナ200マイルレースでは通算5勝という史上最多記録を持ち、"ミスター・デイトナ" の異名を持つ[1]。1993年には鈴鹿8時間耐久ロードレースでも勝利を挙げ、またAMAスーパースポーツ750ccクラスで通算最多優勝記録を保持している。

経歴

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AMA時代

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子供時代にモトクロスのレースに出場し、その後はWERA[2]のレースイベントに出場、1987年からはAMAのレースに参戦を開始する。翌1988年には750ccのスーパースポーツクラスでシリーズ2位に入り、スーパーバイクや600ccスーパースポーツクラスでも成功を収めた。1989年にはスーパーバイクでシリーズ2位、1990年から1992年までは750ccスーパースポーツで3年連続チャンピオン、特に1991年にはシーズン全勝を果たす大活躍を見せた。1992年にはさらに最高峰AMAスーパーバイクでチャンピオンを獲得、1995年のデイトナ200では1周目に転倒クラッシュを喫したにもかかわらず、カール・フォガティを抑えて優勝を果たした。

スーパーバイク世界選手権

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スーパーバイク世界選手権には1989年以降スポット参戦を続け、1991年と1992年には表彰台も獲得していたが、1993年に Rob Muzzy 率いる Muzzy・カワサキチームからフル参戦を開始、初年度にしていきなりチャンピオンに輝いた。またこの年はアーロン・スライトと組んで鈴鹿8時間耐久ロードレースにも出場、カワサキに初優勝をもたらした。翌1994年にはドゥカティを駆るカール・フォガティに敗れてシリーズ2位に終わった[3]

ロードレース世界選手権

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ラッセルは1995年シーズン序盤にスーパーバイク世界選手権を去ると、シーズン途中に現役引退を発表したケビン・シュワンツの後継として、ラッキーストライク・スズキチームからロードレース世界選手権500ccクラスに参戦を開始した。翌1996年も同チームに残留しフルシーズンを戦い、3位表彰台を2度獲得してシリーズランキング6位の成績を残した[4]

再びスーパーバイク世界選手権へ

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1997年にはヤマハのマシンを駆ってスーパーバイク世界選手権に復帰、1回のポールポジション、2回の表彰台を経験し、シリーズ6位に入った。翌1998年にはトップ集団で争うことがほとんどなくなり、シリーズランキングは10位に終わった。この年のラグナ・セカでのレースでは、スタートで明らかなフライングを犯してしまい、その後ストップ&ゴーペナルティの指示を無視して走り続け、最後は転倒によってチームメイトの芳賀紀行を道連れにしそうになった。

AMAスーパーバイク ~ 引退へ

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ラッセルは1999年、2000年とAMAスーパーバイクでハーレーダビッドソンのマシンを駆ったが、成功は収められなかった。2001年の開幕戦デイトナ200、ラッセルはHMC・ドゥカティチームからエントリーした。ドゥカティは "ミスター・デイトナ" が同社にデイトナ200初優勝をもたらしてくれることを期待していたが、スタートでラッセルのマシンはエンジンストールを起こし、コースサイドにマシンを避けようとしていた時に後続車が追突[5]。結局ラッセルはこのときに負った重傷が原因で、トップレーサーとしてのキャリアを終えることになった。

近年の活動

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2005年、ラッセルはAMAの "オートバイの殿堂" (en:Motorcycle Hall of Fame) 入りを果たした[6]。2008年には元AMAスーパーバイクチャンピオンのジェイミー・ジェームズが用意したヤマハ・YZF-R1を駆ってデイトナ200のスーパーストッククラスに復帰を果たした[7]。2009年からは、アメリカのモータースポーツ専門チャンネル "SPEED TV" の解説者を務めている(同じく解説を務めるフレディ・スペンサーがスケジュールの関係で出演できない場合の代役)[8]

主なレース戦績

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ロードレース世界選手権[4]

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シーズン クラス バイク 出走 優勝 表彰台 PP ポイント 順位
1995年 500cc スズキ 6 0 0 0 43 13位
1996年 500cc スズキ 13 0 2 0 133 6位
合計 19 0 0 0 176

スーパーバイク世界選手権[3]

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シーズン バイク 出走 優勝 表彰台 PP FL ポイント シリーズ順位
1989年 2 0 0 0 0 0 -
1990年 カワサキ 2 0 0 0 0 15 35位
1991年 カワサキ 4 0 2 0 0 53 17位
1992年 カワサキ 8 0 3 0 0 83 11位
1993年 カワサキ 26 5 18 4 3 378.5 1位
1994年 カワサキ 22 9 13 3 5 280 2位
1995年 カワサキ 6 0 0 0 0 34 18位
1997年 ヤマハ 24 0 2 1 0 226 6位
1998年 ヤマハ 24 0 1 0 0 130.5 10位
合計 118 14 39 8 8 1200

鈴鹿8時間耐久ロードレース[9]

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開催年 バイク チーム パートナー 総合順位
1988年 ホンダ・RC30 ポールポジション・レーシング Kurt Hall リタイヤ
1990年 カワサキ・ZXR-7 Shin-Etsu・カワサキ ダグ・チャンドラー リタイヤ
1992年 カワサキ・ZXR-7 グリコ・リー・カワサキ トーマス・スティーブンス 10位
1993年 カワサキ・ZXR-7 伊藤ハム・レーシング・カワサキ アーロン・スライト 1位
1994年 カワサキ・ZXR750R 伊藤ハム・レーシング・カワサキ テリー・ライマー 2位
1996年 スズキ・GSX-R750 ラッキーストライク・スズキ テリー・ライマー リタイヤ
1997年 ヤマハ・YZF750 ヤマハ・レーシング・チーム テリー・ライマー 4位
1998年 ヤマハ・YZF750 BPヤマハ・レーシングチーム 藤原儀彦 8位

脚注

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外部リンク

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