コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ドイツ本土空襲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドイツ本土爆撃から転送)
ドイツ本土空襲
ハンブルク爆撃で破壊された建物
ハンブルク空襲で破壊された建物(1945年7月28日
戦争第二次世界大戦西部戦線
年月日1940年8月24日 - 1945年5月3日
場所ドイツ
結果:イギリス、アメリカの勝利
交戦勢力
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国 イギリスの旗 イギリス
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
ナチス・ドイツの旗 ヘルマン・ゲーリング
アルベルト・ケッセルリンク
フーゴ・シュペルレ
ウァルター・フォン・アクストヘルム英語版[注 1]
ユルゲン・シュトゥムプフ
イギリスの旗 リチャード・ペイーセ英語版
チャールズ・ポータル英語版
アーサー・ハリス
アメリカ合衆国の旗 ヘンリー・アーノルド
カール・スパーツ
ジェイムズ・ドーリットル
戦力
ナチス・ドイツの旗 ドイツ空軍 イギリスの旗 爆撃機軍団英語版
アメリカ合衆国の旗 第8航空軍
損害
ナチス・ドイツの旗 6万4578機、
搭乗員死者約10万3000人[1]
住宅、インフラ、工場、基地、
住民、難民死傷約140万人[2]
イギリスの旗 2万2010機、
アメリカ合衆国の旗 1万8369機[1]
搭乗員死者約15万9000人[3]
第二次大戦ヨーロッパ戦線

ドイツ本土空襲(ドイツほんどくうしゅう、: Allied bombing of Germany, : Luftangriffen der Alliierten auf das Deutsche Reich)は第二次世界大戦中の1940年8月24日からイギリス空軍アメリカ陸軍航空軍によってドイツ全土に加えられ、延べ400回、350万戸が破壊され、750万人が家を失い、負傷者を除いた民間人死者60万人、うち子供の死者7万5000人に上る史上空前の空襲である[注 2][4][5]

1945年5月3日にドイツが降伏の交渉に入る日(欧州戦線における終戦)まで続けられ、連合国ではパイロットなど搭乗員のみならず、整備兵輜重兵衛生兵炊事兵英語版ら180万人とそれらを支援する民間人が連合国空軍のために動員された。使用された爆弾の量は270万トン、爆撃機は144万ソーティ(出撃回数)、護衛戦闘機は268万ソーティを送り出した[6][7]。このうち、ドイツ空軍戦闘機高射砲によってイギリス空軍とアメリカ航空軍の搭乗員約16万人が失われ、生き残った搭乗員も高々度で最大零下50度という超低温による凍傷や酸素マスクの不備による酸欠、猛烈な対空射撃を受けた戦闘のストレス、道徳心が欠如していると糾弾やレッテル貼りによる心的外傷に苦しんだ[8]

1940年8月24日、ドイツ空軍によるロンドンの住宅地に対する誤爆から始まった攻撃(ザ・ブリッツ)はエスカレートを重ね、バトル・オブ・ブリテンにおいてドイツ空軍とイギリス空軍は指導部に振り回された。当初の軍事目標への精密爆撃はやがて人口密集地への絨毯爆撃に変わり、火災嵐英語版を起こして焼き尽くす作戦が効率的だと考えられた。1944年の春頃にイギリス空軍とアメリカ航空軍は制空権を奪取すると敗色濃厚な戦争末期ドイツの都市に集中して行われた。多くのドイツ人が避難所とした地下室は猛火の自然現象で空気を奪われて窒息し、狭い地下道網ではパニックによる圧死が頻発した。戦後に行われた軍事裁判でドイツと日本への空襲による民間人殺傷が法的審査で問われることは一度としてなかった[2]

背景

[編集]

第一次世界大戦

[編集]
ツェッペリン飛行船が投下した爆弾(スコットランド国立航空博物館英語版収蔵)

1915年1月19日第一次世界大戦中にドイツ帝国ツェッペリン飛行船はノーフォークの海岸で灯りを目標に爆弾を投下した。この攻撃で民間人4人の死者を出し、16人が負傷した。その後、19回に渡ってツェッペリン飛行船はイギリスに向かい、民間人498人、軍人58人を殺傷した。イギリスの首都ロンドンが最初に攻撃されたのは5月30日の夜で死者7人だった。1917年から1918年にかけて双発機(エンジン2基)ゴータスと4発機(エンジン4基)リーゼン爆撃機が空襲を続け、死者836人、負傷者1994人を生じた。日中に飛行中のドイツの爆撃機は5機に1機が撃墜され、半数はロンドンを見つけることができなかった[9]

1918年6月6日にイギリスは報復で、エアコー DH.4英語版によるドイツのコブレンツティオンヴィルに対する爆撃を始めた[10]。ドイツの首都ベルリンを目標にした攻撃こそなかったが、多数の都市に対する空襲でドイツ側は死者746人、負傷者1843人を生じた。しかし、これら双方の空襲合戦は数的に当時の年間交通事故死者にも満たなかった[11]。第一次世界大戦では航空機の攻撃で都市を完全に破壊するのは不可能だと考えられた。そこで、当時の軍需大臣であったウィンストン・チャーチル1919年に「1,000機の爆撃機」でベルリンを攻撃する計画を立てた。これは1919年6月28日ヴェルサイユ条約の署名によって終戦したため、実行に移されることはなかった[12]

戦間期

[編集]
戦力を挫くということは、敵の最も弱い点を攻撃することである。しかし、敵の戦力供給源を1回攻撃すれば、遥かに高い効果を上げることができる。敵の飛行場を1回攻撃すれば50機の航空機を破壊できるだろうが、現代の工業地帯は1日100機を生産できる。生産量は我々が戦線で破壊する量を遥かに上回っているのだ。だから、敵の工場を攻撃する方が生産量に遥かに甚大な損害を与えられる。 — イギリス空軍中将ヒュー・トレンチャード(1928年)[13]、 訳者:香月恵里[14]
白リン弾を用いたエアバーストの爆撃試験を受ける戦艦アラバマ(1921年9月27日

1914年から4年に渡る工業力を駆使した最初の総力戦[注 3]が終わり、将来の戦争についての考察がしきりに行われた。伊土戦争を経て、第一次大戦に参戦したイタリアのジュリオ・ドゥーエは退役後の1921年に「制空」を発刊し、抜粋翻訳文も制作して配った。これは陸軍が守勢に回っている間に爆撃機を持つ空軍が都市を攻撃すれば民衆はパニックを起こし、厭戦気分が蔓延させれば、戦争を終戦させることが出来るというものだった[15]クラウゼヴィッツの「戦争論」のような軍隊の撃破を目的とした作戦を暗に必要ないと否定した[16]。アメリカのウィリアム・ミッチェル1904年日露戦争視察後、カーチスで飛行訓練を受けた。アメリカが第一次大戦に参戦後はフランスで航空課を設立し、イギリスやフランスの士官と協議を重ね、ヨーロッパの航空機とその戦略を知った。ミッチェルが唱えたのは工場、インフラ、港湾、農業生産など中枢(Vital Center)を叩き、敵の航空戦力を守勢に回らせ、早期終戦に持ち込むという理論だった[17][18][注 4]。戦後、1921年にアメリカで始まった爆撃機で戦艦を攻撃する実験の成功で自信を深めたが、停船した戦艦に連続爆撃するなど本来の実験規定を破るなど周囲と対立を起こしながらも、1925年に「空軍による防衛」を発表してベストセラーとなり、軍内部では孤立したもののアメリカ国民の関心を買った[19]

イギリス空軍解体の抵抗

[編集]

イギリス空軍生みの親ヒュー・トレンチャードは第一次大戦は個々の兵士の戦闘力より多くの兵器を生産する工業力に依存するようになったため、次の戦争は戦場ではなく、戦場の後方で生産力と生産者が所在する地域が勝敗を分けると主張した。同時に軍事的な生産、すなわち軍需工場は航空機そのものを作る工場だけを指すわけではない。航空機には多数の資材によって構成されており、この中では重要な圧延鋼板ボールベアリングゴム潤滑油インジケーターが含まれ、そして労働者とその住居がある。トレンチャードは工場だけを見ていたわけではなく、爆撃の効果を減らさないために目標を広く見ていた。「敵の抵抗を挫き、戦意を低下させる効果的なもの全て」だった。そして、それこそが空軍の存続理由であると言い、戦争への備えとは都市への爆撃を意味した[14][20]

イギリス爆撃論者ヒュー・トレンチャード(1943年)

爆撃論者の影響は世界中に広まり、平和主義者で知られるスタンリー・ボールドウィン首相は都市への爆撃に戦慄し、1932年11月10日に議会で「爆撃機は常に到達する英語版」と発言したが、当時の軍国主義者も平和主義者も同じ誤りに陥っていた。到達する前に何かしらの障害が発生すると相場が決まっていた[14]。そうした爆撃論者の間違いはあれど、戦間期の縮小路線を逃れて世界初の空軍として独立を果たし、イギリス空軍は戦略攻勢の性格を持って整備された。目標こそ遠大な部分はあったものの、本国は戦闘飛行隊が守り、遠方を制するのは戦略爆撃飛行隊であるという構想だった。その反面、海軍と陸軍の作戦に協力する飛行隊が軽視された。結果、緒戦における海上爆撃は拙劣であり、ドイツ空軍とは真逆に陸軍に協力する爆撃機は実戦不適だったため、ベルギー戦、フランス戦では痛撃を受けた[21]

ドイツの攻勢方針

[編集]
元共和国陸軍ハンス・フォン・ゼークト(1915年撮影)

1926年に憲法違反を追求されて辞任することになったハンス・フォン・ゼークトドイツ国防軍を立ち上げる委員会の主導をしていた。ゼークトが去った後、1933年に設立されたドイツ空軍は歩兵、砲兵、航空機が連携する諸兵科連合によって全ての火力を集中させて重要な拠点で粉砕するという作戦は、ゼークトの構想、ドクトリンに基づいていた。これは「国防」(Landesverteidigung. 1930年)[注 5]の出版でも述べられている[22]。1935年のドイツ空軍が再建されると参謀総長ヴァルター・ヴェーファーは教範「航空戦行動」(Luftkriegsführung)[注 6]によって陸軍との連携を確立すること、近接航空支援を重要視しており、空軍基地と航空機を防御するためには敵の空軍を攻撃することとしていた[23]

史上初の絨毯爆撃(無差別爆撃)はスペイン内戦中の1937年4月26日に起きた。ドイツ空軍がスペインの工業都市ビルバオを遮断するため行った都市ゲルニカへの爆撃は世界中からの批判を呼んだ。当時、義勇軍のコンドル軍団に参加していたアドルフ・ガーランドは橋梁攻撃を指示されたが、都市への爆撃は聞いていないと主張したが、後にフォン・リヒトホーフェンの命令だったことが判明した。ゲルニカは亡命政府が設置された交通の要衝で、スペインのルール工業地帯であるバスク州に比べれば重要度は低く、政治色の強い攻撃だった。また、ドイツがスペイン・モロッコ運輸会社英語版へ提供した輸送機ユンカース Ju 52スペイン保護領モロッコから精鋭部隊をスペイン本国へと輸送する作戦「魔の炎」(フォイエルツァウバ作戦英語版)によって、軍事力は反乱軍側が上回るようになった[24]6月16日、フランコ将軍の軍はバスク州ビルバオを占領し、内戦は転換点を迎えた[25]。スペイン内戦の教訓を経て、ドイツ空軍内部で研究、開発が進み、第二次世界大戦の開戦から軍事行動に貢献し続けた[26]。しかし、クレイス(1988年)[注 7]によれば、この教範では敵の戦闘機との戦闘は奨励されておらず、制空権獲得の定義は先制攻撃に留まっていたため、ドイツ空軍が守勢に回った事態を想定していなかった[23]

このゲルニカ爆撃は戦略爆撃に含まれる書籍の方が多いが、「無差別爆撃」と「戦略爆撃」の違いは何か。小野塚知二(2016年)はゲルニカは戦略爆撃ではないと否定している。戦史上なかった大規模な攻撃ではあるが、戦闘機や高射砲などに迎え撃たれることなく、爆撃機は自由な方角、高度から攻撃することが出来た。小野塚知二は攻撃期間、長距離、防空戦力の所在する拠点に対するものとして、ゲルニカから4か月後、同1937年8月に始まった大日本帝国海軍渡洋爆撃が最初の戦略爆撃と主張している[27][28]。田中利幸(2008年)によれば、そうしたゲルニカ、渡洋爆撃の他、1935年第二次エチオピア戦争中に行われたイタリア空軍の毒ガス爆撃や1938年重慶爆撃などは当初の目標が軍隊や軍事施設に対する戦略爆撃であり、結果的に無差別爆撃に近い形になったという意見もある。ドイツ空軍のドクトリンはあくまで航空機工場と空軍基地への攻撃であり、1935年の教範「航空戦行動」では、「国民の士気を挫く」ことなど念頭になく、都市爆撃の手法もなければそうした作戦行動に重要性を置いていなかった。枢軸国の指導部が計画的に行った作戦ではない攻撃に対して、逆説的に中東のソマリランド(Burao tax revolt)やイラク(Iraqi Shia revolts)で実践したイギリス空軍による無差別爆撃が隠蔽されたことで、アメリカのドクトリンである精密爆撃の本質を曇らせたことに違いないと記している[29][30]

爆撃戦争再び

[編集]

第二次世界大戦1939年9月1日に始まった。イギリス空軍はワルシャワ爆撃英語版に対する報復に取りかかったが、ドイツ空軍がフランスへ報復しないように海軍施設への限定攻撃にすることにした。そうしてドイツ本土への攻撃は1939年9月3日ヴィルヘルムスハーフェン海軍工廠英語版への嫌がらせに近い小規模な爆撃から始まった。1940年の2,000人の死傷者を出したオランダ、ロッテルダム爆撃に対する回答にイギリス政府はルール地方の工業地帯に対する攻撃[注 8]を決定させ、この5月からドイツの都市に所在する工業地帯を狙った夜間爆撃が始まった。5月29日と30日の夜間にルール地方のエッセンデュースブルクデュッセルドルフに爆撃が行われた[31]

イギリス空軍が戦略爆撃を開始した時、最初にわかったのは爆撃機が目標に到達しないことだった。戦略爆撃は爆撃論者が主張した原理や予言した側ではなく、ヘルマン・ゲーリング率いるドイツ空軍によって端緒が開かれた。これは計画も戦略でもなく、ただただ単純にドイツ空軍がイギリス海峡に面した海岸近くの空軍基地に進出し、そこからイギリス本土へと侵攻できたので爆撃を行っただけである。当初は空軍基地、工場、港湾を狙った精密爆撃を行っていたが、1940年9月からイギリス南部、中部の都市に対する戦略爆撃を開始し、1941年3月までに3万人の死者を出した。引き返すことが出来ない新時代の爆撃戦争[注 9]への突入を可能にした第一歩は、奇妙な政治力学の背景があった[32]

国会に向かうゲッベルス(手前)とゲーリング(奥)- 1930年撮影

ヨーゼフ・ゲッベルスは1940年8月26日に報復で行われたベルリン空襲が失敗に終わったのを受け、ベルリン市民の雰囲気を吟味し、大興奮していると感じた。4時間鳴りっぱなしだった空襲警報に耐えた次の日の朝のことである。ベルリンには焼夷弾2発しか落ちず、被害はほとんどなかった。ゲッベルスはロンドンへの報復を望む声が燃え上がっていると記しているが、ベルリン市民はそのような攻撃に対して軽蔑を示しただけで、怒りの発作はナチス党員や政治家が作為的に起こしただけに過ぎなかった。ウィンストン・チャーチルはベルリン空襲に固執し、空軍のシリル・ニューアル英語版に再度ベルリンの攻撃を求めた。航路をそれた爆撃機12機による誤爆とはいえ、ロンドンを攻撃された以上、徹底的にベルリンを攻撃しなければならないと強く言った。9月4日夜、ベルリン・クロイツベルク英語版ゲルリッジ駅英語版が爆撃を受け、死者10人を出した。その2日後はジーメンスシュタット英語版が攻撃された。ゲッベルスは誰もアドルフ・ヒトラー総統の指示通りに避難せず、ヒトラー自身も、ベルリンが爆撃される時はベルリンに身を置き、激昂していると記している[32]

ヒトラーはイギリスのベルリン空襲は週末に強化されると予想し、それが実行されたらロンドン爆撃[注 10]を行い、対策として絵画、美術品を避難するよう指示した。そのため、翌5日は何も起きなかった。ゲッベルスは、「総統は今のところ慎重な姿勢を崩していない。それがいつまで続くだろうか。国民は秋には戦争が終わるだろうと思っている。もし、戦争が冬を越せばアメリカの参戦は確実だ。フランクリン・ルーズベルトユダヤ人の奴隷だ。」と記したが、ヒトラーは演説で空襲について触れ、「(フランス降伏後も)3か月も続いている。イギリス人が白昼に海峡を超えることができないから、決まって夜間だ。爆弾は住宅地だろうと駅であろうと村であろうと、どこにでも無差別に落ちてくる。いつかこの乱暴狼藉が止むだろうとの希望の下、我々は耐え忍んできた。しかし、イギリスはそれを弱さと受け止めたのである。その結果、毎夜毎夜の攻撃という回答を受け取っているのである。」と報復をほのめかした[33]。9月7日、ロンドンを目標にした爆撃が行われ、市民は死者300人の犠牲を出し、1300人が負傷した[34]

ドイツ空軍機の迎撃に活躍したチェーン・ホーム・レーダー英語版

ヘルマン・ゲーリングはロンドン空襲に疑問を持ち、参謀長のハンス・イェションネクに「ベルリンが廃墟になったら、ドイツは降伏するかね?」と尋ねた。イェションネクはイギリス人の士気はドイツ人より脆いはずだと答えたが、ゲーリングはイェションネクの解釈が間違っていると指摘しながらも、9月末までに降伏に持ち込めるかも知れないと考えるようになった。ゲッベルスやゲーリング、軍の幹部がイギリスの降伏について言及するのに対し、ヒトラーは何も答えず、決断を出せないでいた[34]。和平の申し入れを断られ、イギリス本土侵攻(アシカ作戦)は難しく、爆撃機に訴えるしかなくなっていた。一方で、イギリス空軍の爆撃機軍団副司令官ロバート・ソーンドビー英語版は同じ応酬を見ながら、まったく別の解釈をしていた。戦闘機軍団の戦闘機と基地はドイツ空軍の攻撃を何度も受けたことで散々な目にあっていると考えた。実際に8月末はイギリスの戦闘機損失は生産量を上回っていたので、あと3週間すれば予備機を使い果たしてしまうのではないかと危惧した[35]

ロンドンへの爆撃でチャーチルは「ドイツ空軍の攻撃が空軍基地からロンドンに向けられることによって窮状が緩和されたが、同時に民間人が被害に合うことを意味していたものの、戦闘の転換点となり、イギリス勝利の可能性を大いに増したのである。」と語った。当時、最も尊重された軍事研究家リデル・ハートも「首都ロンドンとその住民が受けた懲罰が、崩壊寸前の軍隊を救った要因である。」と記している。人間が盾となって流血したのは、それをさせた側、ドイツの汚点として宣伝し、それに耐え抜くロンドン市民を称えた。しかし、現実としてヒトラーはイギリス海峡に立って、ロシアと同盟を結んでいた[36]。チャーチルもまたドイツへの地上戦での反撃、海上経済封鎖の難しさから、戦略爆撃しか選択肢がなかった[37]。アメリカでは参戦に賛成する国民は7.7パーセントしかおらず、その5倍以上が反対していた。19パーセントの中間層は民主主義を守るために介入してもよいと考えており、ルーズベルト再選の鍵を握っていた[38]

開戦後の変化

[編集]

ボールドウィンから首相を引き継いだネヴィル・チェンバレンは抑止力として大型爆撃機の整備を進めつつ、1938年6月21日庶民院において、「市民を標的にした爆撃は国際法違反であり、未発行に終わったハーグ空戦条約の原案に基づき、イギリスは無差別爆撃を行わない」と公式に宣言していた。アメリカの大統領フランクリン・ルーズベルトもドイツがポーランド侵攻を開始したその日に、市民や無防備な都市への攻撃は控えるべきだと主張した[39]。実際、イギリスもドイツも第二次大戦直後は都市への爆撃には慎重だったが、バトル・オブ・ブリテンを経てそれまで控えていた無差別爆撃は報復措置として例外として扱うようになり、イギリスの爆撃機軍団は1942年2月11日に戦闘機の護衛を伴わないドイツ本土への昼間爆撃を中止して夜間爆撃のみに限定し、フランスやルール地方の工業地帯に対する民間人を対象に含む「地域爆撃」、事実上の無差別爆撃の実施を決定した[29]

モスクワ会談のイギリス首相ウィンストン・チャーチル(左)とソビエト連邦書記長ヨシフ・スターリン(右)

ノルウェーの戦いでの敗北からチェンバレンが引責辞任し、1940年5月10日ウィンストン・チャーチル戦時内閣を組閣したが、フランスの問題(イギリス海外派遣軍)から取り組まなければならなかった。爆撃機軍団は、それに付随してドイツの侵攻を遅らせるためマーストリヒトアルベルト運河にかかる橋といった通行網に対する攻撃(ベルギーの戦い)を実施された。しかし。あまりの損害の多さに5月14日には中止された[40]

1942年以前のチャーチルはドイツとの戦争で地上軍を撃破しうる強力な空軍が手に入るとは思っていなかった。当時のイギリスに勝算はなく、ドイツの駐在武官が外電で伝えたようにアメリカ陸軍省もイギリスの勝利は望み薄で、敗色が濃くなったと判断していた。両国とも手詰まりに陥っており、戦争をやめるべきだったのに相手の失敗に期待していた。爆撃戦争は殺人への抑制をなくし、弱き者には虐殺ではなく保護を、という騎士道精神の仁義をも吹き飛ばしてしまった[41]

1940年8月の最後の週、チャーチルはダッチーズ・オブ・リッチモンド号英語版に乗り込むヘンリー・ティザード英語版を見送った。ティザード使節団英語版と呼ばれる使節団は最高機密のレーダー技術、アメリカに先便をつけて進めているホイットルジェットエンジンの計画、ロールス・ロイス製マーリンエンジンを持ち込み、物理学者ルドルフ・パイエルスオットー・フリッシュが同行した。この二人の科学者はウラン核分裂が爆発を引き起こす臨界量を算出しており、それがベルギー領コンゴに所在する世界最大規模のウラン埋蔵量を持つカタンガ鉱山(シンコロブエ鉱山)の情報も持っていた。また、レーダーは当時アメリカが独自で開発するSCR-268レーダーCXAMレーダーより優れたマグネトロンを使うものだった。ルーズベルトは来たるべき同盟の前払いとして受け取った[36]

1941年6月に始まった独ソ戦で参戦したソビエト連邦だったが、2回目のモスクワ会談に招待されたチャーチルは不機嫌だったヨシフ・スターリンに約束していた1940年中の第二戦線の形成について説明しなければならなかった。1942年8月12日に始まった会談で、輸送船団の問題と上陸用舟艇の問題から、第二戦線を形成する反攻作戦が不可能である理由を述べた。チャーチルは1942年中にエルヴィン・ロンメルの背後で「トーチ作戦」を計画していることを告げてスターリンの興味を引くことに成功し、「ドイツの都市ほぼ全ての住居を粉砕したい」と述べたことで両者の緊張関係は緩和した[42]。このドイツへの「地域爆撃」が第二戦線の形成になるという無理のある言い訳でしのいだ[43]

地域爆撃へ

[編集]
戦艦プリンス・オブ・ウェールズ上のイギリス首相ウィンストン・チャーチル(右)とアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト(左)- 1941年大西洋憲章

バトル・オブ・ブリテンの厳しい夏を乗り越えて、10月25日にイギリスの爆撃機軍団司令官だったチャールズ・ポータル英語版はイギリス空軍参謀総長に昇進し、後任にはリチャード・パース英語版が任ぜられた。1940年10月30日、チャーチルの意見に同じくするポータルがパースに出した最初の命令は主にドイツの燃料関係工場、アルミニウム工場への爆撃であり、主要な都市、工業地帯への定期的な爆撃であった[44]。1940年11月のコヴェントリー爆撃英語版に対する報復として始まった12月のマンハイム爆撃英語版は双方の都市を焼き払った[45]。しかし、爆撃機軍団の1941年の間に行われたルール工業地帯と都市への地域爆撃は、天候や工場の煤煙に影響され、攻撃を受ける地上側よりする側の爆撃機の死者の方が多いと皮肉られるほど効果が薄かった。特に1941年11月7日と8日に実施されたベルリン空襲では爆撃機軍団が大きな損失を出し、ポータルはパースの判断力を疑った[44]。この2日間はベルリンとルール地方も攻撃対象だったが、損耗率は12.5パーセントに上った[46]。パースに代わって爆撃機軍団司令官に就任したアーサー・ハリスはそういったイギリス空軍内の様々な議論に終止符を打った[45]

1942年2月12日ハイ・ウィッカム空軍基地に着任したアーサー・ハリスは後に”ボマー”ハリスの異名をつけられるほど、ポータル同様に爆撃論者であった。2月14日に空軍参謀本部はハリスの着任待って「地域爆撃」への制限は撤廃させ[47]、目標地域全般に対して行う、事実上の「無差別爆撃」をハリスの主導で始まった。1942年3月始めのパリに近いビランクールルノー社工場に対する夜間爆撃では、初めてマーカー弾(照明弾)を用いる実験的な攻撃によって工場を壊滅させ、参加した爆撃機235機のうち損失はわずか1機だった[48]3月28日にはリューベック空襲英語版は激しい火災となって、それは最初の火災嵐英語版となって80パーセントの市街地が焼失した。古都リューベックは軍事施設の存在しない美しい街として知られていたが、そこが北欧から鉄鉱石がドイツへと運び込まれる港町で、Uボートの訓練基地が所在すると理由付けを行った[49][50]

発展した戦術と兵器

[編集]

爆弾

[編集]
ドレスデン爆撃で投下される焼夷弾とブロックバスター爆弾

1940年から1942年にかけてパイロットは爆弾を投下する時、命中したか外れたかの2つに1つだった。イギリス航空省の研究班は測量図と航空写真を仔細に調べ、防火帯を彩色し、攻撃対象となる都市に必要な爆弾投下量の構成を計算し、最新の空襲を分析しては学習したことを次の空襲に活かした。爆弾と一緒にフラッシュ爆弾英語版を投下して、カメラが作動した。次の日には偵察機が飛んで、空襲の成果を写真に収めた。常に戦争は戦略家と手練れの戦士による経験によって得られた事実、着想、直感にもとづいていた。学問がそれに正確無比な仕事を付け加えた[51]

火災を阻む障壁となる防火帯や防火壁は機能していた。それを十分に備えたベルリンのような都市は燃やすのが難しい。まず、防火壁を破壊しなければならなかった。それはブロックバスター爆弾で可能だった。通常爆弾は重量のある鋼鉄の殻を爆発で粉々に飛ばし、破片が人体を殺傷する。鉄筋コンクリート、レンガ、バラスト、砂袋で防御されたシェルターはそれを耐えられた。ブロックバスター爆弾は弾殻が薄く、爆薬が30から70パーセントの割合で含めれ、爆発時に炸裂すると同量のガスとなって高圧で拡大し、周囲の空気を圧縮して超音速で広がる衝撃波を生み出した。衝撃波は建物の壁、屋根、窓ガラスを吹き飛ばした。円筒形をしていたのでドイツ人からボイラーと呼ばれたブロックバスター爆弾は4,000ポンド(1,800キロ)の重量があり、ドイツ本土空襲を通じて6万8,000発が投下された[52][53][要文献特定詳細情報]

8,000万発が使用された4ポンド焼夷弾は条件によって1,000倍から2,000倍の重量のある通常爆弾より広い範囲を壊滅できる。ただし、攻撃目標の地域を詳細に分析する必要があった。鉄筋コンクリートで覆われた建物、運河、そして橋を破壊するため、圧力と爆発効果のバランスを考えたミディアム・キャパシティ爆弾が製造された。これは500から2万2,000ポンド(230から900キロ)まで幅広い容量で製造され、通常爆弾に代わって75万個が使用された。開戦時、炸裂弾と高性能爆薬弾を中心に考えられていたが、爆薬では都市に損害を与えるに不十分であることがわかった。爆薬は燃焼物と結びついて、かつてない規模の威力を発揮する兵器だった。焼夷弾の混合割合、破片弾、ブロックバスター爆弾、投下する爆弾の順番、密度だった[51]

バット報告書

[編集]
夜間空襲中に高度を低空まで下げて撮影された航空写真

1941年秋に官僚デイヴィト・バット英語版とそのチームが提出したバット報告書[注 11]で明らかになったそれは、ほとんど標的に命中していないという事実だった[37]。夜間どころか良好な条件下の昼間爆撃においても5マイル(8キロ)以内に投下した爆撃機は3機に1機しかいなかった[54]。イギリスは火器の殺傷能力改善のために開発の強化に乗り出した。通常爆弾は輸送が困難なわりに敵に対して損害を与えなかった。軽量の可燃物は大量に投下可能で、もし目標に当たれば被害は大きく拡大する[55]。それまではテルミットの焼夷弾がやみくもに投下され、都市の火災について考慮されなかった。イギリス空軍はそれらを解析できる専門家が欠けていた。消防の防火技術者が計画に加わることで、新しい学問が生まれた。火と戦う職業と火をつける職業は同じ可燃物に深く関わっており、ドイツの物理的な住宅特性から効率的な放火方法を導き出した。焼夷弾は命中から8分から30分の間、燃え続ける必要があった。その小さな火災の芽をどのように拡大し、障害物を超えて通りの空き地を横切り、数キロにわたって範囲を広げるかは数学者、統計学者、作戦分析官の仕事だった[52]

空からの攻撃で都市は完全に焼き払うことが可能なことが学者たちの研究で明らかになった。レンガ作りで強固に見えていたドイツの都市も例外ではなかった。都市の外縁は19世紀20世紀に建てられており、新しい住宅と工業地帯がある。これら外郭の建物には鋼鉄製を梁が通され、防火帯のために建物の間には広い空間があった。都市の内側に入ると18世紀普仏戦争後に建てられた安請負の町並みが広がる街区があり、通気性が悪く、暗く、梁は木製で4階から7階建ての建物が林立し、屋根裏は物で一杯だった。都市の中央部まで来ると旧市街の地域となり、中世近代初期の建築様式になる。壁は連続して建てられ、建物を支える梁は木製で屋根はレンガに変わったが、建築時は粘土が使われていて修繕も粘土だった。通りは狭く、入り組みながら建物が結びつき、火災が容易に隣へ広がる作りだった[51]

火計

[編集]
爆撃論者チャールズ・ポータル英語版はアメリカ陸軍航空軍やイギリス海軍との交渉も受け持った

イギリスのオペレーションズ・リサーチによって好都合な目標に選ばれたのは街区だった。急速な勢いで発展したため、住宅の中庭は狭いか空間がまったくない。可燃物が多数存在する倉庫や工場は木製だった。延焼を起こすには隙間を埋める必要があったが、レンガと木枠で組まれた屋根は燃えやすく、火がつけば下へと燃え広がった。1階ごとに約3時間を要するが、爆弾の信管を調整すれば爆発地点を下の階にすることもできた。火災の勢いを増すには通風も必要で、ブロックバスター爆弾が屋根や窓を吹き飛ばせば暖炉が完成した。そこに焼夷弾が雨となって降り注ぎ、放火術は出来上がった。追加して投下されるのは通常爆弾と時限信管付き爆弾だった。空襲後の消防隊は火元と水場に行く必要があったが、通常爆弾が地中にある水道管を引き裂いて通りを穴だらけにして行手を阻んだ。時限信管は爆撃機が去ってから数時間で爆発し、火元に向かう消防隊は避難を余儀なくされた[56]。消防隊に阻止されることがない勢力を保った「火災」は条件が良ければ「火災旋風」へと拡大し、「火災嵐英語版」を引き起こした。そうした破壊の様子を地図、航空写真で経済学者、情報収集者、写真分析者からなる組織によってドイツの解剖図、「爆撃機用ベデカー旅行案内書」を作るのである[注 12][57]

1942年8月のモスクワ会談の際に告げた通り、チャーチルのブレーン役だったフレデリック・リンデマン英語版は1万の爆弾で2,200万人のドイツ人の住居を奪い、3人に1人を路上生活に追い込む計画[注 13]を立てた[58][59]。これに反対したヘンリー・ティザードは遠ざけられたが、チャールズ・ポータルはその計画を拡大し、「2,500万人のドイツ人が家を失い、死者90万人、重症者100万人を出すだろう」[60]と主張した。1943年から125万トンの爆撃で、600万戸の住宅、同程度の工業、行政が灰燼に帰すというものだった。実際には125万トンもの爆弾はイギリスに用意できるものではなく、5年以内の戦争終結までに必要な爆弾は65万7,000トンと見積もられていた。ポータルのそうした突飛とも言える考えは、1942年夏の戦果が不調であることに起因している。1942年9月でのイギリス爆撃機軍団の損失は10.6パーセントに達し、30回の出撃で生きて帰ってこれる搭乗員がいないことを意味した[61]

爆撃機

[編集]
高射砲で穴だらけになって緊急着陸したイギリス空軍爆撃機ウェリントン

イギリス空軍の重爆撃機は1924年から開発が始まっていた。重爆撃機の役目は遠距離飛行に必要な燃料を搭載し、敵地を低空で攻め入ることであった。さらには戦闘機や高射砲から爆撃機の機能と搭乗員を保護するため、装甲板と機上火器を搭載したため、積み荷とあわさって重かった。戦争末期の最優の重爆撃機であるアブロ ランカスターとアメリカ製B-17 フライングフォートレス「空の要塞」[注 14]はフル装備で25トンにもなり、B-24 リベレーターは27トンに達した。その重さゆえ速度は遅く、旋回は慎重さが求められ、高度を上げるには時間がかかった。このようなタイプの航空機は遠くの地域を攻撃可能であるが、受ける抵抗は最小限という計算で標的にたどり着くことだった。白昼に飛来し、攻撃目標が視界内にあり、こちらも敵から見られるかもしれないが、攻撃はされないという場合になる。そのどれもが現実とはそぐわないことが明らかになった[7]

実戦に投入されたアームストロング・ホイットワース ホイットレイハンドレページ ハンプデンビッカース ウェリントンなどは全て1930年代に設計、生産が始まった爆撃機で、時速300キロから400キロ、最高高度7,000メートル、爆弾の搭載量は1トンに満たなかった。こういった爆撃機による攻撃は政治的威嚇には使えたが、効果のある爆撃は向いてなかった。構想では少数で敵地に侵入し、協力して敵の戦闘機を締め出すのに集中援護射撃を行い、機体の尾部で回転可能なプレキシガラス製の半球や砲塔の動力銃座、あるいは銃架にそれぞれ射撃手がつき、二連装か多重の.303インチ(7.7mm)ヴィッカース機関銃で追い払う手筈だった。しかし、爆撃機それ自体が鈍重で大型であるため夜間でも攻撃されやすかった。9,000リットルの高オクタン価ガソリン、高性能な爆薬を詰め込んだ爆弾と焼夷弾、機関銃の弾薬と照明弾を搭載した爆撃機は火薬庫そのもので、耐火性を持たせる設備はなかった。いったん戦闘機に発見されれば、逃げきれる可能性はほぼなく、積み荷を捨てて急いで高度を上げ、運良く雲があればそれに隠れた。夜闇に紛れて敵の目をかいくぐるには単独で飛行したほうが危険が少なく、編隊飛行は1942年5月までできそうになかった。イギリス空軍の爆撃機は昼間爆撃での失敗から、闇夜に隠れて夜間の爆撃を行っていたが、これにも困難があった。航法と照準である[62]

誘導

[編集]
オーボエの受信機(帝国戦争博物館展示2014年撮影)

戦闘機と爆撃機の機能を持たせることができる双発機デ・ハビランド モスキートは1940年冬に登場した。当初800キロ、改良型は1.8トンの爆弾搭載量があり、高度1万2,000メートルまで上昇でき、最高速度は時速635キロで、ドイツ空軍がジェット戦闘機を装備するようになるまで速度で負けることはなかった。これは小規模な破壊をしながら、爆撃飛行隊の誘導に役立った。オーボエ誘導装置英語版、後にH2Sレーダーといった高価な電波装置を搭載したモスキートは大きな抵抗を受けずに着色灯火で平面に照らすマーカー弾を投下することで、暗闇の中でも爆撃機を誘導するシステムが確立された。目標進入時には黄色のマーカー、爆撃時には赤と緑のマーカーで合図した。爆撃機は赤と緑のマーカーで形成された枠内に爆弾を投下した[63]

1942年12月にオーボエが爆撃機へ装備が始まるまで爆撃飛行隊は暗闇の中で目標を探し続けた。海や河川のような光を反射する地形であれば識別が出来たが、月明かりが乏しければ地上のわずかに消されず残る電灯を頼りにして爆弾を投下した。当時、ハンブルクに対して行われた40回の爆撃のうち、20回はもともとリューベックとキールを狙ったものだった。海岸と河川に近い3つの都市は容易に到達できた。そのどの都市であるかの識別は重要ではなく、運が良ければ目標の都市に落ち、何もないところに爆弾は投下された[63]。オーボエは3万4,000トンの爆弾の投下を決める爆撃手のヘッドフォンに目標上空に飛来したタイミングで木管楽器オーボエに短いメロディが流れる。イギリスの基地から出される電波のパルス信号に反応して電波を送り返し、基地のオペレーターが距離の情報を送信した。手順は簡単で、モールス信号の要領で音や文字を送信して合図を送ることが出来た。目標に近づくと短音、航路から外れると長音が鳴り響き、それから短音が連続する。その音が鳴り止んだら爆撃手は投下ボタンを押した[64]

ブロックバスター爆弾を積み込む爆撃機モスキート(1944年)

モスキートとオーボエ、マーカー弾の組み合わせはパスファインダーとして部隊に形作られた。この部隊はより正確な爆撃のためにマーカー弾の投下を役割別に分けた。第1弾のパスファインダーはオーボエ、またはH2レーダーを確認して基地から指令されている目標に赤のマーカー弾を投下した。続いて第2弾のパスファインダーが侵入し、わずかに数秒しか確認はできないものの、赤く滝のような光で照らし出された都市の中心部を目視で探して、緑のマーカー弾を投下した。パスファインダーの隊長は照らされたマーカー弾の具合を確認して、良好と判断したら、爆撃飛行隊を呼び寄せる。何波にも分かれる爆撃の投下する順番は予め計算して決められており、最初の爆撃飛行隊はすぐさま攻撃体制に入った。マーカー弾はパラシュートでゆっくり落下しながら燃焼剤が燃え尽きるのに7分から12分で薄れてしまう。また、爆撃が開始されれば火災で発生した煙などに隠れたり、その日の天候によっては強風で流され、見えなくなるかもしれない。そこに火災で明るくなった都市を確認して、第3弾のパスファインダーが追加のマーカー弾を投下し、より正確な位置を知らせた。すかさず次の爆撃飛行隊がスタートする[65]

爆撃機は夜空を疾駆するが、爆弾が投下されてから地上に叩きつけられるまで30秒から40秒かかった。その間、進行方向へと向かう力が働くので爆撃機は数秒前に投下した。しかし、爆弾がどう飛ぶかについての弾道学は十分ではなかったため、ブロックバスター爆弾や焼夷弾など、大きさも重さも異なることから同じ曲がり方をしなかった。他にもクリープバック現象で目標の手前に爆弾が落ちる問題があった。7月のハンブルク空襲でハマーブローク英語版が攻撃されるように設定されたようにクリープバック現象は爆撃の計画段階から対策が取られた。こうして抽象化された目標に爆撃飛行隊の爆撃手は投下ボタンを押した。目標の選定も目標の合図も実際の爆撃も、それぞれ別々の人の手に委ねられていた[57]

ドイツの対応

[編集]

国防軍立ち上げに貢献したゼークトのように航空機産業も製造能力の保護と高度化する技術の発展に付いていくため、1920年に新設されたドイツ航空局ドイツ語版は航空機産業の軍民転換に答えを求めた。まず、第一次大戦後のヴェルサイユ条約にともなって戦闘機を郵便機に、爆撃機を旅客機や輸送機に転用する試みが行われた。しかし、開発における関連性こそ深いが、軍用の部品などを取り除いても民間機とは求める条件が異なった。そんな中、戦後のインフレ下でユンカース社が民間向けの旅客機の開発を始めている。1920年にユンカース F.13の製造を始め、これを戦時中から準備していたAEG社傘下の航空会社ドイツ航空社[注 15]の路線へ投入し始めた[66][67]。そうしたドイツの航空メーカーによる民間機の製造を発表する際に工場の片隅に置かれた第一次大戦時の軍用機の取り扱いも問題になった。ヴェルサイユ条約が発行する1920年1月までに国外に売却するか、解体しなければならなかった[68]

第27戦闘航空団英語版メッサーシュミット Bf109G型

航空会社ドイツ・ルフトハンザの重役だったエアハルト・ミルヒは元空軍のヘルマン・ゲーリングに接近したことをきっかけに空軍再建に協力することを打診された。ドイツ航空局はドイツ運輸省ドイツ語版を経て、1933年に航空部門はドイツ航空省の管轄になった。ミルヒは航空省の次官に就任し、1934年から軍用機や補助機、練習機などの製造計画(ミルヒ計画)[注 16]を立案したが、ユダヤ人ではないかという疑惑をかけられる場面もあった。これに関してはアドルフ・ヒトラーを含むナチス幹部の後援を受けたことで、ミルヒは計画から外されることはなかった。また、急速な空軍再建に向けたミルヒの働きの実力も認められて、そういった話はかき消された[69][70]

空軍の軍備

[編集]

ヴェルサイユ条約によって航空機の性能は制限されることで、国内で新型航空機の製造が事実上不可能となり、1929年の世界恐慌はドイツに限らず世界的に産業界へ打撃を与えた。そうした危機に陥った場面で、航空省やヴァイマル政府が支援を行った。秘密裏に進められた国防軍による再軍備計画は1927年から始められ、ハインケル社を中心にその需要に答えた[71]。1930年代のドイツ自動車産業でトップシェアを持っていたのはアメリカのGM社の子会社アダム・オペル社であり、代表格にオペル・オリンピアがあった[72][73]。1938年9月17日に空軍のヘルマン・ゲーリングはアメリカのGM本社社長ウィリアム・ヌードセン英語版にアメリカ製の設備を用いた航空機用エンジンの工場建設を求め、航空省のエルンスト・ウーデットダイムラー・ベンツの航空機用液冷エンジン向けギア工場建設を求めた[74]。アダム・オペル社はGM本社の了解を取って、ドイツ空軍の要求に答えた。そういったドイツ空軍や陸軍との交渉や契約の過程で問題がなかった訳ではない。工場長が軍需品の生産に対して拒否する事態が発生し、ナチス幹部による工場への介入などの問題があった。ポーランド侵攻後、1939年11月15日に開かれたアダム・オペル社の監査役会議においてドイツ人幹部とアメリカ人幹部は協議の末、GM社の利益を損ねず国際企業としてナチス政権への協力姿勢を明確にした[75]

在ベルリン高射砲の砲門数推移

ラインメタル社はスイスのゾロータン社に出資していたことから[注 17]、1920年代に37ミリFlak18高射砲を開発することが出来た。クルップ社はスウェーデン、ボフォース社の数部門を所有していたため、最新の開発情報がドイツへともたらされた。この水面下での成果によって、有名な88ミリ高射砲は1933年に生産が開始され、後に主力高射砲となった。ジェームズ・クラブツリーによれば[注 18]、秘密裏に設立された高射砲7個中隊は輸出向けに製造されていた75ミリ高射砲を使用し、僻地に隠されていたが、1932年に輸送部隊[注 19]として組織された。1933年にはドイツ航空スポーツ連盟ドイツ語版が組織され、機関砲を装備した対空部隊が作られ、最初は1934年に航空省が飛行場防衛用のために陸軍へと編成されないよういくつか引き抜かれた。翌1935年にはドイツ空軍の下で7個大隊が新編された。これで合計は18個大隊が編成されることとなり、以降、大隊は2個大隊を基幹に連隊を作ってゆき、拡充されていった[76]

ドイツ空軍は防空の役目も担ったが、その主体として拡大された高射砲部隊があり、通信部隊が迅速な行動を支援する手筈だった。第一次大戦での教訓から夜間に襲来する航空機を撃墜するのは高射砲と照空灯(サーチライト)であり、それ以外の方法がなかった。なぜなら、戦闘機も照空灯による誘導がなければ爆撃機を撃墜できなかった部分があり、昼間爆撃への対応にはダイムラー・ベンツ DB 601を搭載して優秀と判定されている迎撃戦闘機(要撃機メッサーシュミット Bf109の開発があった。ドイツにおけるレーダーを始めとする電波を用いた装置の開発は行われていた。ただし、バトル・オブ・ブリテンにおいてイギリスの都市空襲で夜間の誘導に活躍した無線誘導装置があり、それの元を正せば夜間の着陸誘導を行う装置として始まっていた。国防軍が想定していた戦力化計画よりも第二次世界大戦の開戦が早かったため、防空システムが十分に構築されておらず、防空の責任を負っていた空軍管区(Luftgau 航空管区とも)によって高射砲部隊はより強化された。これは空襲を受けるベルリン市民の心理的な支えになると考えたヒトラーによって後押しされた。ポーランド侵攻の間は、本国の戦闘機が極端に減少したため、空軍のカール・キッツィンガードイツ語版が西方防壁(ジークフリート線)の西方防空地帯[注 20]責任者に任ぜられ、1,300門の高射砲で防衛せねばならなかった[77][23]

ドイツ本土高射砲隊の推移(出典:航空情報編. 1958年[注 21]
年次 重砲(8.8cm, 10.5cm, 12.8cm) 中・軽砲(2.0cm, 3.7cm, 5.0cm) 照空灯(150cm, 200cm)

1939
(2,600門)
650個中隊
(6,700門)
560個中隊
(3,000基)
188個中隊
1940 423個〃 333個〃 143個〃
1941 537個〃 395個〃 138個〃
1942 744個〃 737個〃 174個〃
1943 1,234個〃 693個〃 350個〃
1944 1,508個〃 623個〃 375個〃
備考 ・1個中隊あたり重砲4~5門、中・軽砲12~15門、照空灯16基
・1940年の減少は本国から転出が上回ったため
・1945年2月15日時点 高射砲隊将兵82万1,300人
・参考として日米開戦時の日本保有高射砲は陸軍500門、海軍200門の記載がある

爆弾とコンクリートの戦い

[編集]
ナップザックのゴルトベルク発電所ドイツ語版にあるヴィンケル式蟻塚(2009年)

戦争となると人間は防衛行為を行う。かつての都市は大砲の砲弾から耐えるために市壁(城壁)に囲まれ、防御された場所だった。砲弾がそれを打ち破るようになると、市民は堡塁を築いて堅固にした。しかし、時代が進んで、砲兵隊が放物線を描いて砲弾を都市に届かせるようになると攻撃側の方が有利になった。都市にも防衛手段が残されていたので、反撃して抵抗を示したが、補給が得られなければひどく弱かった。そこは多くの民間人を抱えているからである。さらに時を進めて空から降ってくる爆弾に抵抗するには、水平方向ではなく、垂直方向になった。つまり、地面である。逃れるのは地下に潜るしかなかった[78]。ヘルマン・ゲーリングは積極的な戦闘機と高射砲を用いた防御を希望していた。一方、アドルフ・ヒトラーは防衛思想が気に入らなかった。恐怖を与える攻撃は同じ手段で報復するしかないと考えていた。しかし、その手段が乏しかったことから、1940年10月10日に総統緊急計画によって、ヒトラーは耐爆防空施設の建設が命じた。翌1943年夏までに50万人が避難できる防空室を作るために400万立方メートルのコンクリートが準備された。リストに上がったのはほとんどが工業地帯であったが、空襲を受けていないヴュルフラートドイツ語版ノインキルヒェンオーバーヴェセルのような街もあった[79]

1934年から建築家レオ・ヴィンケルドイツ語版は蟻塚[注 22]と呼ばれる防空避難所の特許を申請した。1937年には防空塔(ルフトシュッツトゥルム)[注 23]を設計して自身の会社を立ち上げ、国防軍、国鉄、工業会社へと売り込んだ。入り組んだ鉄道施設構内において限られた敷地に有用と目され、ドイツ国営鉄道が採用した。ドイツ国営鉄道は17基を建設した。工業系企業もこれに注目し、先陣をきって航空機産業が29基を注文した。ブレーメンのフォッケウルフ社工場にはそのうちの7基が建設され、ベンツ社の工場はもちろん、製鉄、アルミといった工場にも波及した。国防軍はポツダムの国防軍司令部用に4基とツォッセンドイツ語版OKH陸軍司令部用に19基が建設された。西方防壁の建設に従事していた労働者の手が空いた1940年からこれらの建設は加速した。摸倣例が多かったのが、狭い敷地に建設できるヴィンケルの蟻塚だった。また、1939年にヴィンケルにはライバルが現れた。技術者のパウル・ツォンベック(Paul Zombeck)は新型防空塔を提案した。特徴的な丸天井[注 24]のある塔の地下室には換気用の縦杭が設けられ、換気装置のある機械室、人員収容用の階が4層、円錐状の屋根には軽高射砲と照空灯が設置できた。このタイプは西方防空地帯に2基、ヴィルヘルムスハーフェンの海軍基地に1基しか建設されなかった[80]

ルール地方の防空坑道

最も一般的だったのは民間防空壕だった。1941年7月には防空壕に最低限の安全性をもたせるためのパンフレットが配布された[注 25][81]。初期の防空壕は天井厚1.4メートルで500ポンド(230キロ)爆弾に耐えられるようにしたが、1942年には2メートルで1,000ポンド(460キロ)、最終的には2.5メートルのコンクリート厚によって2,000ポンド(920キロ)爆弾への防御まで引き上げられた[82]

大西洋の壁など政府主導による建設に資材が割かれるようになると、供給も渋られるようになって工業都市以外の街は地元組織によって建設が行われた。1943年には縦杭と横杭が繋がれ、硬質レンガで覆われ、湿度の対策がなされた。地下に放置された空間はどこも開放されていた。廃道、秘密の通路、坑道、天然の洞窟、鉱山の横杭と縦坑、地下物置、そして地下酒類貯蔵庫といった大量の地下室である[78]。最も堅牢なのは地下10メートルから12メートルに掘られた深部坑道で、これに勝るのは山の斜面にある斜面坑道ぐらいだった。斜面坑道は安価かつ早く作れるので好まれた。平地でも選炭微粒ズリ(ボタ山)、溶鉱炉スラグの山に掘られた。排水、電気、糞尿汲み上げ装置を付け、石材で内部の水分に対処していたが、トールボーイのような地震爆弾で石材が割れるため、厚さ5メートルのカバーがかけられた。工業地帯のエッセンは5万8,000人を収容する坑道が人力で掘られた。隣のドルトムントでは中央駅からヴェスト公園まで地下坑道が掘り進められ、1943年には8万人が収容できるようになった。オスナブリュックも長さ5.5キロの坑道に無理やり押し込めば、4万5,600人を収容した[83][84]

ドルトムントの地下坑道(Großstollenanlage Dortmund)は一部現存している(2013年)[85]

ハンブルクとデュッセルドルフでは、地下水面が高いことから建物の90パーセントの地下室が地上側に出ていた。これは露出した地下室の壁を補強することで爆撃に耐えることが照明された。フランクフルトでは地下室を網目状に張り巡らせ、緊急時はマイン川へ脱出できるよう作られた。しかし、カッセルでは地下室を連結したが、一街区に留まったため、誰かが持ち込んだ石炭が加熱され、倉庫の可燃物がくすぶり、地下室内にガスが充満した。発生した熱が地下室の天井に上り、地上の火災によってそれが吸引され、地下室の気圧が下がるインジェクター効果が発生した。ハンブルクとカッセルの火災による犠牲者は70から80パーセントが地下室のガスで死亡した。戦後の調査では、5から30パーセントが直接的な爆弾によるもので、爆弾の衝撃と破壊の余波によるものが5から15パーセント、60から70パーセントが一酸化炭素中毒だった。この教訓を学んだドレスデンはエルベ川や南の大庭園など脱出経路が掘られたが、ドレスデンの旧市街には高低差があった。高い地下室の扉が閉鎖されずに煙突効果で地下室まで火の手が及んだ。一方で、工場の側に設置されたブンカーも万全ではなかった。ミュンスターボンで地震爆弾と呼ばれる爆弾がブンカーを破壊したという噂が広がると、天井や壁の補強は怠ることなく進められ、4.4メートルまで厚さを増されたところもあった。「耐爆構造と貫通力を増す爆弾による決着のつかない競争」が続いた[86][87][88]

1940年8月にヒトラーは民間人のシェルターと重高射砲陣地を兼ね揃えた高層ブンカー[注 26]の建設を承認した。これは世界でも類を見ない避難施設であり、防御陣地だった。設計はアルベルト・シュペーアで、建設はOTによって行われた。ベルリン、ハンブルク、ウィーンでは2基1組で建設されたが、片方が高射砲でもう片方は射撃管制を備えていた。最初の4組がベルリン、1組はハンブルクに建設された。設計を改良したものがハンブルクに1組、ウィーンに2組が建設された。ウィーンとブレーメンにさらなる高射砲塔の建設が始まっていたが、これは1942年秋まで完成しなかった。もっとも有名な高射砲塔は1941年4月に完成したベルリン動物園塔英語版である。コンクリートの地上7層からなる内部には8,000人、記録によればその3倍以上を収容したこともあった。給水設備、自家発電機、手術室、さらには美術品の保管室まで用意されていた。最上階には高射砲の砲兵300人の営所があり、屋上には露天型砲楼に重高射砲が設置された。砲座の側には装甲キューポラで防御された給弾エレベータが設置され、屋上の中央にある窪みには高射砲師団と接続された射撃管制装置があった。ハンブルクの高射砲塔4号ハイリゲンガイストフェルト(G塔)は設計が異なり、完成すれば1万8,000人を収容できた。これらは市を中心に三角形を作るよう配置されたが、厳密に高射砲塔はベルリン、ハンブルク、ウィーンにしか建設されていない。類似した建造物に高射砲が設置されていたがために高射砲塔と誤って呼ばれることもある[89][90]

夜間戦闘機隊の設立

[編集]
Bf 110 G-4は3人の搭乗員、FuG 202/220レーダーシュレーゲムジークGM-1を搭載した。

開戦前の世界列強と共通認識に基づいて空軍の攻勢戦略は爆撃機が軸となるだろうという判断でドイツ空軍は近距離爆撃機の整備がなされたが、イギリス空軍は爆撃機の航続距離が長く、防御用の動力銃座といった装備の整備という違いこそあったが、いずれも夜間の空襲は考えられていなかった。第一次世界大戦の戦訓から最初の夜間戦闘機は1939年2月の第131戦闘航空団[注 27]第10飛行中隊が試験的に導入したものしかなかった。しかし、イギリス空軍は同年12月18日のヴィルヘルムスハーフェン軍港に対する昼間爆撃で大きな損失を出したことから、夜間爆撃へと切り替え、これに立ち向かうドイツ空軍の戦闘機Bf 109では味方の照空灯が平面の樹脂ガラスに反射してパイロットの視界は妨げられた。昼間用戦闘機隊に付随する形で設けられていた夜間戦闘機隊は実戦での経験を踏まえて、1個隊へと統合された。先駆けとなったのはメッサーシュミット Bf 109D型を装備する第79駆逐航空団と双発戦闘機メッサーシュミット Bf 110C型を装備する第1駆逐航空団であった。1940年4月にデンマークのオルボア(オールボー)に展開した両部隊はデンマークに侵入するイギリス爆撃機を迎え撃つにあたって、そのほとんどは照空灯による誘導を受けながら爆撃機への接触、いくつかの撃墜を可能であることがわかったが、偶然の産物であった。オルボア空軍基地が爆撃の対象になったことから5月にはドイツ北西のギュータースローへ移動となったが、第1駆逐航空団のヴォルフガング・ファルクはBf 110が有用な夜間戦闘機になり得ると確信し、包括的な報告書を仕上げて上層部の興味を引いた[91]

1940年5月初頭、イギリス空軍がそれまでのビラの空中投下やハラスメント的な爆撃に代わって、100機規模で工業地帯へと戦略爆撃を実施した。イギリス空軍は統制や夜間戦闘機に対抗する手段が研究されておらず、撃墜された爆撃機は高射砲の被弾によるものと判定しており、洗練されたものではなかった。一方で、ドイツ空軍も夜間戦闘機隊と高射砲隊、照空灯隊の連携が取れておらず、指揮系統の違いが問題として浮き彫りになった。1240年6月に設立された第1夜間戦闘航空団英語版には翌7月に上位組織として夜間戦闘師団が設けられると照空灯隊もその指揮下に組み込まれ、地上レーダーは爆撃機の想定侵入経路へと設置が進められた[92]。爆撃機ドルニエ Do 17の爆撃手の席に機関砲を装備した重夜間戦闘機を装備するようになった。最初のテレフンケン社製機上レーダーはDo 17-Z-10型で試験された。これは1941年春からDo 215が後継機として更新されていった。1941年8月8日の夜、Fug 202B/C型レーダーを装備したDo 215がイギリスの爆撃機を夜間に初めて撃墜した。こうした砲撃管制用のレーダーが機上レーダーとして発展し、夜間でも航空機による索敵に公明がさしたかのように見えた。しかし、より高性能なレーダーの開発は中断されてしまい、再開はドイツへの空襲が激化する1942年以降となった[93][94]。1940年11月に編成された第2夜間戦闘航空団は地中海戦線へと引き抜かれた[95]

電波戦争

[編集]
クニッケバインドイツ語版のEuBl1電波受信機(左上)、(その下)EBl 2進入受信機、(上中央)AFN1ディスプレイ、(左下)U.8型コンバーターとFuBl 1着陸システム

第二次大戦における主要戦線である欧州の戦いは、学問の学際的性質をはっきりとさせた。それまで幻の世界と思われるような電子装置は空から生じた。空っぽな空間から生じたそれは舞台となった。つい最近までそれらが勝敗を分けるだろうと思われておらず、科学者達はせいぜい敵より一歩先んじることを目指していた。ヨーロッパの空襲において先んじるための研究が次々と成果を出したが、全てが一方的な勝利へと繋がるわけではなかった。ドイツのクニッケバインドイツ語版からイギリスのオーボエ、オーボエからドイツのヴェルツブルク、ヴェルツブルクからイギリスのウィンドウ(チャフ)、ウィンドウからドイツのネプトゥン・レーダー英語版が生まれたが、最終的にH2Sレーダーによって締め出された[96]

イギリスもまた夜間の誘導装置として1937年から始まっていたジー航法装置英語版と呼ばれる夜間着陸装置を発展させたが、夜間爆撃の必要に駆られて1940年に無線航法への転用を検討し始めた。オペレーションズ・リサーチはドイツ空軍を真似ることから始めた。これはジーのよる大まかな誘導とオーボエによる精密な誘導の装置を使い、航法が確立させるまで約2年かかった[97]。1941年5月からジーのテストが始まっていたが、ドイツ空軍はジーによる誘導にすぐ気づいて約8週間をかけてこれに対抗する手段が模索された。1940年に入手していたクニッケバインの説明書と実機を参考にし、イギリス空軍も誘導機とフレアを使用する方法で夜間爆撃の精度を上げていたが、1942年夏にジーへの電波妨害が実施された。ドイツ空軍は誘導装置を無効化しつつ、その位置を特定することでエッセンへ襲来した爆撃機64機を撃墜する成果を出した。しかし、イギリス空軍は電波妨害を察知すると、アンテナを追加して偽の電波を発信しながらドイツ側に探知されないミリ波の電波を使った[96]

カムフーバー・ライン

[編集]
1942年までに構築されたカムフーバー・ライン

1940年夏にはロンドンの爆撃に対する報復として本格的なベルリン空襲が行われた。その年の秋から1943年の夏にかけて、ドイツ空軍は地上レーダー、聴音機、照空灯、その上空を哨戒する戦闘機からなる長さ何百キロにも及ぶ防衛線が構築された。それは防衛地帯を生み出した責任者ヨーゼフ・カムフーバーからカムフーバー・ラインと呼ばれた。1940年9月に配備されたフライア・レーダーは120キロの探知範囲があったが、高度を測れず、8000メートル圏内なら高度を含めたすべてを見通すことが出来た。それから1年後にヴェルツブルク・レーダー[注 28]がフライアを補完した。ヴェルツブルクは53.3センチの波長でどんな高度の航空機でも探知できたが、近視眼でその範囲は35キロだった。最も遠い距離を測れるのは無線聴音機で、540キロ離れた航空機の離陸音を聞き取ることが出来た。これに続いてフライヤ、ヴェルツブルクが次々と爆撃機を探知して、その襲来を察知した。これらがヒンメルベッドの防御陣第1段階だった[98]

ヴェルツブルク・リーゼ(左)とフライヤ・レーダー(右)

1942年3月のリューベック空襲の被害を受け、ドイツ空軍はさらなる強化に乗り出して探知範囲を2倍にしたヴェルツブルク・リーゼが配備された。フライヤもヴェルツブルクも照空灯と接続され、レーダー探知した航空機を照らし出した。また、レーダーの探知データは夜間戦闘機司令部へと送信され、半透明のガラス版に位置を映し出した。これに味方の夜間戦闘機を指揮するセクターも表示された。イギリス海峡の背後に半径36キロの円で区切り、ヴェルツブルク・レーダーはその中央に配置された。ヨーゼフ・カムフーバーがヒンメルベッド(天蓋付きベッド)[注 29]と名付けた防空地帯に爆撃機が接近すると夜間戦闘機司令部がパトロールに出ている夜間戦闘機を割り当て、オペレーターから夜間戦闘機に対して無線で侵攻する爆撃機が照空灯で映し出される地点を連絡した。パイロットは3分で爆撃機を探し出し、最大でも10分を使って攻撃を開始して撃墜しなければならなかった。撃墜に失敗するか敵を見失った場合、追跡しないことになっていた。そうなると防衛線の第3段階に入った[99]

ミュンスターからルール地方にかけて鎖状に照空灯群が立ち並び、これは30キロ先まで照らすことが出来る。1943年7月にはスカゲラク海峡からマルヌ川まで延伸された。さらに150センチの照空灯9基を3つの照空灯群に分け、中央に照空灯群を配した正方形に区切られた防空域を形成した。この照空灯は高度13,000メートル上空まで照射でき、ヴェルツブルク・リーゼの誘導で360度に回転した。この照射線の背後には、「光の夜襲」の戦闘機部隊が控えていた。これらが第3段階で、ヒンメルベッドの全貌だった。しかし、結果的にヒンメルベッドは失敗に終わった。イギリス空軍に対して4パーセントの損失を出させたが、平均化すると爆撃機の搭乗員1人あたり対して25回の出撃に1回の撃墜にしかならなかった。ヒンメルベッドは100箇所に増設され、それ1つにつき100人の要員が必要とされたことから、夜間戦闘機司令部はやがて手狭になり、半透明のガラス板もプラネタリウムへと改められ、アーネムシュターデメスデーべリッツ英語版シュライスハイム英語版にマンモス級の司令部が設置された[100]

フートン(1997年)[注 30]によれば、1942年末の時点では重高射砲中隊の30パーセントが目標探知装置を持たず、射撃管制レーダーを備えたものは30パーセント未満だったとしている。高射砲部隊は増強されていたが、肝心の重高射砲がドイツ国外に大部分が配置されたため、戦闘機で代替すべきであったと記している[101]。1942年2月のバイティング作戦英語版では、ル・アーヴル北部に設置されたヴェルツブルク・レーダーのアンテナを外し、大胆にもイギリスへと持ち帰った。直ちにその性能が測定され、航空写真の撮影で確認されていた目立つ建造物は皿型受信機(パラボラアンテナ)であることが確認された[102]

ボマー・ストリーム

[編集]
ケルン爆撃時に上空から撮影されたもの。サーチライトと対空砲の曳光弾による発光で軌跡を引く様子。

イギリス空軍のウェリントンやハンプデンといった2発爆撃機の役割が終えようとする前に第一次世界大戦でチャーチルが計画した「1,000機の爆撃機」による攻撃計画は”ボマー”ハリスが実現することになった。空軍の爆撃機だけでは数が足らず、海軍の指揮下に入っていた沿岸軍団の爆撃機も投入されることになったが、Uボートとの戦いが佳境を迎えた時期に対潜水艦爆撃機として重要な位置にあった爆撃機を外すことはできないとの判断で、後にこれは撤回された。代わりに投入されることになったのは訓練部隊の爆撃機だった。そういった紆余曲折があったものの、1,047機の爆撃機が集められ、このうち602機がウェリントンだが、4発の重爆撃機を主体にした「ミレニアム作戦」が実行された。1942年5月31日の夜間、標的に選ばれたケルン上空に全部隊が送り込まれた。これだけの爆撃機が全部、目標に投弾したわけではないが、これまでに類のない攻撃にドイツ空軍に対し、来たるべき恐ろしい事態の前兆を示した[103]

ケルン空襲に対する夜間戦闘機隊は激しく抵抗し、イギリス空軍は41機の爆撃機を撃墜されたが、ケルン上空で撃墜されたのは4機に過ぎず、ほとんどが道中に夜間戦闘機によって撃墜されたものだった。しかし、多数の爆撃機が目標に向かう往路、投弾して帰還する復路でヒンメルベッドは1時間あたり6回の迎撃にしか対応できず、多目標に対して有効に対応するには夜間戦闘機が明らかに少なかった[104]。こうしてボマー・ストリーム (爆撃機の奔流)に対して歯が立たないことがわかるとドイツ空軍は地中海に派遣していた第2夜間戦闘航空団を呼び戻し、1942年秋までドイツ空軍の夜間戦闘機隊が増強され、第4、第5夜間戦闘航空団が編成された。ドイツ空軍内部でもこうした夜間戦闘機の成果がイギリスの爆撃機部隊にどの程度の損害を与えているのか判断に苦しんだ。いくつかの理由から撃墜した爆撃機の数は常に異なり、イギリス空軍の動きが天候に左右されたこともドイツ空軍側の奮戦努力が実を結んだのか判定を難しくさせた[105]

イギリス空軍側でもボマー・ストリームの成功が市街地への爆撃であり、ドイツ空軍の戦力、装備、機材にどの程度の被害を与えているのか予想するのは困難だった。ドイツ空軍の夜間戦闘機隊はイギリス空軍が襲来しない限りにおいて、イギリスの空軍基地に対する夜間襲撃を実施していたため、諜報機関のみならず、互いに捕虜に対する尋問など情報の流入量は多かった。その中でも爆撃機モスキートの登場はドイツ空軍にとって新鋭戦闘機を求める声に弾みをつけ、ロストック近郊のマリーエンエーエドイツ語版工場が爆撃されるという障害こそあったが、ハインケル社が開発した夜間戦闘機をカムフーバーが大変気に入り、ウーフー(ワシミミズク)と名付けられたハインケル He 219がAr 240、Fw 187、Me 210といった急造の夜間戦闘機ゆえにできたギャップを埋める機種となった[106]

アメリカの参戦

[編集]
第8航空軍司令官カール・スパーツ、大統領フランクリン・ルーズベルト、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド

1942年5月、アメリカ陸軍航空軍(後にアメリカ空軍)のカール・スパーツ率いる第8航空軍(後に第8空軍)がイギリスに到着した。最初の作戦は12機の「空の要塞」で、同年8月17日にフランス北部のルーアンにある操車場を爆撃するという小規模なものだった。その後、同月から9月にかけて、フランス北部のドイツ海軍Uボート基地、セーヌ川河口に所在する造船所、メオルトポテ工場、アミアンの操車場、オランダのウィルトン造船所英語版、そしてベルギーのコルトレイク・ウェフェルヘム飛行場英語版に対する攻撃を行った。いずれもイギリス空軍の戦闘機による護衛が可能な距離だった[107][108]

これらの昼間精密爆撃は成功させたが、ロッテルダム攻撃から帰投中の海峡でドイツ空軍の戦闘機から攻撃を受けることがあった。イギリス空軍の応戦にも関わらず、「空の要塞」B-17が被弾して搭乗員が重傷を負った。ドイツ空軍の戦闘機は「空の要塞」の機銃掃射によって撃墜された。これによって戦闘機の護衛がなくても対応できるということが示された[109][108]航空戦争計画局英語版ヘイウッド・ハンセルはワシントンにこれらの成果を持ち帰って、航空戦争計画局において対ドイツ戦に必要な航空機の数と機種の選定、部隊編成の計画を計算した[110][111][要文献特定詳細情報]

第8航空軍の司令官カール・スパーツは基本的に作戦立案において爆撃が民間人に及ぼす影響についてイギリスと異なる立場を取っていた。1941年から1942年に策定されたアメリカの主要な作戦の中にドイツ国民の「士気を挫く」ことは重要視されていない。その理由として、ルーズベルトが1939年の時点でアメリカが無差別爆撃をやらないことを表明していた部分もあるが、軍内部はもとより、アメリカ国内から大きな反発があったからである。アメリカには様々な移民がいて、その中には当然ドイツ系の移民も含まれた。また、カール・スパーツに限らず、アメリカ航空軍の司令官ヘンリー・アーノルドもまたウィリアム・ミッチェルの影響を受けていた。インフラ、発電所を中心としたドイツの経済や産業システムの中枢に対するピンポイントの精密爆撃によって、継戦意欲は挫かれ、無差別爆撃に頼ることなく同様の影響を及ぼすことが可能だと想定していた[112]

また、アメリカ本土のアメリカ陸軍航空軍司令部はヘイウッド・ハンセルによって持ち帰られた情報を元に対ドイツ戦において13万の軍用機を必要という推定で軍備計画を完成させたが、戦闘機や爆撃機の搭乗員訓練が必要であったため、当面の間、作戦行動は極めて限定的にせざるおえなかった。また、これらの計画は昼間精密爆撃を想定したものであり、チャーチルを始めとするイギリス空軍側に懸念や不満をもたらした。イギリスは政府を通じて、アメリカ政府に昼間爆撃へのこだわりに疑問を投げかけ、「第8航空軍によるフランス昼間精密爆撃を楽観視していられない」と伝えた。また、そういったアメリカの航空機産業が昼間爆撃用の爆撃機に生産を集中しないよう要請した。これらのやり取りはメディアでも取り上げられ、重爆撃機は昼間爆撃に向かないという認識はイギリスにおいて定着しつつあった[113][111]

爆撃機

[編集]
ノイミュンスター爆撃に向かうアメリカ爆撃機フライングフォートレス「空の要塞」

アメリカでは参戦に向けた準備が進められ、1941年5月4日付けで大統領ルーズベルトは重爆撃機を月産500機体制にすることを指示した。すでに1938年にフライングフォートレス「空の要塞」が完成していたが、アメリカ財務省は大規模な予算を投じて、さらなる重爆撃機の開発と生産が始まった。1939年に市民や都市への攻撃を自重するよう求めていたルーズベルトのような平和主義者が、いつから無差別爆撃もいとわない爆撃論者に変わったのか完全に解明されていない。しかし、1938年のミュンヘン会談を巡ってナチス政権に嫌悪感を示す発言をしており、1939年の閣僚会議ではドイツの成層圏爆撃機と特殊爆弾の脅威を訴えている[114]。成層圏爆撃機は3日間でアメリカ本土に達して特殊爆弾でニューヨークを灰燼に帰すというもので、どういうわけかアメリカの情報機関はルーズベルトにそういった誤った情報を伝えていた。長距離爆撃機1万2,000機を含む4万2,500機の軍用機を生産すると分析されていたが、実際に1941年を通してドイツは1万1,776機しか生産しておらず、そこに厳密な意味での長距離爆撃機は含まれていなかった[115][116]

アメリカ航空軍は1943年7月に第8爆撃機軍団、第8戦闘機軍団英語版合わせて1,823機、年末には2,893機がイギリス本土へと展開し、ドイツ本土空襲に参加した。イギリス空軍が3万6,000ソーティ(出撃回数)の夜間爆撃を行っている間、第8航空軍は昼間爆撃で1万2,000ソーティという低調具合だった[117]。一方で、重爆撃機の製造において最大の進歩を収めていた。1936年にウィリアム・ミッチェルは死去したが、その思想を色濃く影響されたアメリカ航空軍は本土防衛を名目にマーティン B-10を開発、製造し、さらにフライングフォートレスを開発した。これにはアメリカ本土に接近する敵を海上で攻撃するため、海上で軍艦を撃破を可能にする精密なノルデン爆撃照準器が搭載されていたが、「空の要塞」の爆撃手として従軍していたハワード・ジンの著書「テロリズムと戦争」(2003年)によれば、このノルデン爆撃照準器は4,000フィート(1,200メートル)以上では精度が悪くなり、実際は高射砲の攻撃を避けるため3万フィート(9,000メートル)上空から爆撃が行っていたが、海上に浮かぶ目標と違って地上の軍事目標を見つけられることはほぼ不可能だったと語っている[118]

フライングフォートレスの火器はブローニング12.7mm機関銃13門、リベレーターは同14門をもち、全方向に対して有効な射撃を各編隊ごとに集団防御コンバット・ボックス英語版で構成し、後方攻撃に対する有効射程距離に至っては800メートルもあった[119]。こうした「空の要塞」はドイツ空軍の戦闘機に脅威を感じさせることができたが、ドイツ空軍はその射撃密度に耐えられることを確認した。先頭の爆撃機が正面からのアプローチで攻撃されることにひどく弱かった。先頭機の動きが乱れるとドイツの戦闘飛行隊は散開し、爆撃機の編隊内部へと切り込んでいった。機動力があって大胆な動きがとれる戦闘機は鈍重な爆撃機に致命傷を与えることができた。爆撃機はやはり攻撃されやすかった。爆撃機が役目を果たすには従来の決闘、再び戦闘機同士で力比べをしなければならなかった[120]

戦闘機

[編集]
護衛につく第62戦闘機飛行隊英語版のP-47 サンダーボルトC型(1943年)

1941年6月にカーチス P-40 ウォーホーク[注 31]ベル P-39 エアラコブラがイギリスに到着して第8戦闘機軍団が編成されたが、第8爆撃機軍団司令官アイラ・エーカーはドイツ空軍の戦闘機との空中戦や航続距離を心配した[121]。イギリス空軍との相談の末、スーパーマリン スピットファイアを供与されたが、「空の要塞」と一緒にイギリスから発進してもフランス北部までしか援護ができなかった。1942年夏までに航続距離の長い大型戦闘機のロッキード P-38 ライトニングが到着したが、数回の護衛の後、北アフリカの第12航空軍へと引き抜かれてしまった。第8航空軍の爆撃任務は大幅に縮小され、攻撃の対象はフランス北部に集中した。その中にはUボート基地が置かれているサン=ナゼールもあってそこは護衛戦闘機の範囲外だったが、ドイツ空軍の戦闘機は姿を表すだけで積極的に攻撃してこなかった。ドイツ空軍は東部戦線に割かれた戦力を補充しており、フランス北部に重要な施設がなかったため、様子を見るに留めていた。1943年に入ってアメリカ航空軍に期待された新型機リパブリック P-47 サンダーボルトがイギリスへと到着したが、増槽に問題を抱えており、すぐにはドイツ本土爆撃への護衛に就けなかった[122]

戦闘機は構造上の短所である航続距離を克服しなければならない。ドイツの本土奥深くにたどり着くには十分な燃料を搭載しなければならないが、そんなに重くては戦闘機の強みである機動力が落ち、使い物にならなくなる。サンダーボルトは大排気量のプラット・アンド・ホイットニー製ダブル・ワスプエンジンを搭載した大型の戦闘機であったため胴体内に多くの燃料を搭載できたが、低空での機動力に劣っていて上昇力にも難点を抱えていたためメッサーシュミット Bf109G型やフォッケウルフ Fw190A型と比肩しうる戦闘機ではなかった。他方、サンダーボルトはそれまでの戦闘機より長い航続距離を有し、1943年夏には410リットルのイギリス製圧力式増槽を装備することで爆撃機に護衛を付けることができた。サンダーボルトが増槽をつけて出撃したのは9月27日のエムデン爆撃であった。イギリスから発進して約430キロの間、初めて完全に随行してその援護によって出撃した「空の要塞」244機の損失はたったの7機で済んだが、空戦での戦闘は激化し、第8航空軍司令部はアメリカ航空軍の命令によりドイツ奥地も攻撃対象にしたので戦闘機も爆撃機も損失が増大した[123]。これはロールス・ロイスのマーリンエンジンが道を切り開いた。これ以降、アメリカ航空軍の爆撃機はP-51 マスタングが空中戦をしている間に邪魔されることなく本来の役割を全うでき、それは昼間の空で行われた。しかし、それは1943年末になるまで登場しなかった[62]

マスタングの大量生産に至る道は簡単ではなかった。「アメリカ陸軍航空軍にとって第二次世界大戦の最大の過ちになりかねなかった。」[注 32]と言わしめるほど難航した。テストパイロットのロニー・ハーカーの提案を元にロース・ロイス社の試験結果が出ると、空軍省ウィルフリッド・フリーマン英語版はすぐ動き出したが、いくつもの障害があった。大量に発注がかかっていたウォーホーク、エアラコブラのメーカー、その後援者らがいたのに対してマスタングにはなかった。マスタングの試験将校ら、オリバー・エコルズ英語版を始めとするアメリカ航空委員会など反英派は頑なに拒んだ。アメリカ政府や陸軍に影響力を持ち、航空委員会など歯牙にもかけないトミー・ヒッチコック英語版ロバート・A・ラヴェットらの働きかけがあって、1943年の8月と10月のボールベアリング工場爆撃時の大損害を聞いたアーノルドを動かすに至った[124][125][126]

電波妨害の戦い

[編集]
エッセンに向かう爆撃機ランカスターから散布されたアルミ箔ウィンドウ(チャフ

ドイツとイギリスでは科学者らが、ほぼ同時期に驚くべき発見をした。針金やアルミ箔といった取るに足らない素材が精巧なレーダーに与える影響に困惑した。ドイツ側では1943年1月にヘルマン・ゲーリングが対抗手段がないことを理由にイギリス側への漏洩を恐れ、その兵器の開発を禁止した。イギリス側ではトーチ作戦で始まった地中海戦線、例えば陸軍の部隊が上陸した直後の脆弱な陣地などがレーダー合戦の被害を受けないように秘匿し、センチュリーピの戦い英語版で勝利してシチリアカターニアへ道が開かれてから、チャーチルは金属片の使用を許可した[102]。1943年7月25日の夜、ドイツ側レーダーの周波数に合わせたアルミ箔が爆撃機から投下された。実際に存在しない1万1,000機がレーダーの基地に映し出され、レーダー要員も高射砲隊も照空灯隊も司令部も対応がわからず、その機能は15分に渡って完全に麻痺した[127]

ヴェルツブルクは2,200機の爆撃機が撃墜に貢献してきたが、このウィンドウ(Window)と名付けられたチャフは7月のハンブルク空襲に向かう1,000機の爆撃機を救った。カムフーバー・ラインは一夜にして無力化された。しかし、ドイツの戦闘機パイロットはこういった防空システムを凝りすぎた狂気の沙汰と見ていた。技術的にはケチのつけようのない地上管制であったものの、動員される戦闘機があまりにも少なすぎた。イギリス空軍は1942年初頭、400足らずの爆撃機しか保有していなかったが、1943年夏のベルリン空襲には1,670機の爆撃機で編隊を組んで襲来するようになっていた。カムフーバー・ラインによる損失はやがて大したものではないという認識になっていた[102]

電波戦は6か月の優位しか持てなくなっていた。空の戦いを地上のくびきから開放するため、1942年末に両軍で機上レーダーの導入が始まった。ドイツ空軍のリヒテンシュタインレーダーはウィンドウに無力化された。イギリス空軍のH2Sレーダーはロッテルダム近郊で墜落した爆撃機から回収され、ドイツ側にその機密が漏洩していた。H2Sレーダーのサンプルは回収後に輸送先の研究所が爆撃で破壊されたため、完全に分析されなかったが、1943年9月にH2Sレーダーの逆探コルフとナクソスが開発された。また、ウィンドウの影響を受けないリヒテンシュタインSN-2が使用されていることはイギリス空軍に察知されていなかった。一方で、ドイツ空軍もオーボエの仕組みを解明できておらず、偽の電波に対する妨害で成功していると勘違いに陥っており、膠着状態になっていた[128]

連合爆撃戦略

[編集]
アメリカ第8爆撃機軍団司令官アイラ・エーカー イギリス空軍爆撃機軍団”ボマー”ハリス
アメリカ第8爆撃機軍団司令官アイラ・エーカー
イギリス空軍爆撃機軍団”ボマー”ハリス

1943年1月14日に始まったカサブランカ会談の後、ヨーロッパにおける連合爆撃攻勢[注 33]の目標がイギリスとアメリカで共有された。CCS(Combined Chiefs of Staff)は「軍事、産業、経済システムを段階的に破壊および撹乱させ、ドイツの武力抵抗が致命的に弱体化するまでドイツ国民の士気を喪失させる」[注 34]と結論を出し、これがカサブランカ指令と呼称された[129][130][131]イギリス戦時経済省英語版は1942年12月9日に設置した委員会COA(Committee of Operations Analysts)に目標の選定を進めさせており、このレポートは1943年3月9日にイギリス空軍、アメリカ航空軍に提出された[132][133]。イギリス空軍の爆撃機軍団”ボマー”ハリスはカサブランカ指令の後半に満足し、第8爆撃機軍団司令官アイラ・エーカーは前半部分に納得に満足した[134]

ワシントンで開かれた会議(トライデント)において双方の計画案の突き合わせの末、アイラ・エーカーの修正案を取り入れて5月14日になって正式に取りまとめられた[135][136]大西洋の戦いにおいて脅威となっているUボートの造船所、航空機工場、ボールベアリング工場、石油生産施設、合成ゴム工場、軍用車両工場の6種類だったが、エーカーの強い要請でドイツ空軍への攻撃が追加され、戦闘機工場が最優先目標に変更された。これが作戦「ポイントブランク」[注 35]として6月に開始された[137][138]

”ボマー”ハリスとアイラ・エーカー間で攻撃対象が共有されることはないまま、「連合爆撃攻勢」(CBO)が開始された。両者はともに空軍による力で戦争を勝利に導けるという思想においては共通していたが、ハリスは地域爆撃によるドイツ国民の士気破壊を特段に強調した。最新鋭のアブロ ランカスターの作戦稼働数は1943年1月の515機から1944年3月に947機まで強化されつつある中[139]、爆撃機ランカスターの防御力は決して高いとはいえず照準器も高性能ではなかったが、アメリカの保有する爆撃機より爆弾の搭載量は圧倒的に多かったことから、夜間の都市に対する無差別爆撃には有用であると考えていた。エーカーの方はアメリカの爆撃機が防御砲火が強力で照準器も優れていて、特に「空の要塞」は防御力が高いことから、昼間、高々度、精密爆撃が可能だと考えた[140]

ダム攻撃

[編集]

ハリスは無差別爆撃以外の方法で大きな被害を出せる作戦を承認した。ルール地方の工業地帯に電力を供給しているメーネとエダという2つの大型ダムを爆撃してその発電機能を奪うだけでなく、洪水を引き起こして下流に存在する工業地帯とその周辺の家屋を含む全てを水で押し流すという作戦だった。19機のランカスターが出撃し、1943年5月16日に16機が爆撃任務を実行した。エダ・ダムの撃破によって1億5,400万立方メートルの水が流された。これは洪水が分散したため、46人の死者に留まった。メーネ・ダムの方は悲惨だった。1億1,600万立方メートルという貯水量のほとんどが吹き出し、下流650キロにわたって洪水を引き起こした。橋は押し流され、道路、ガス管とその貯蔵タンク、変電所が破壊され、125個の工場が浸水した。実行されたのが夜間だったこともあり、警報が鳴ってからの避難が遅れて避難先が地下の防空壕だった人々も洪水に巻き込まれ、1,294人の死者行方不明者を出した。50ヘクタールの農業、牧畜地が浸水し、農作物、乳牛、食用家畜などにも大きな打撃を与えた[141]

ハンブルク空襲

[編集]
爆撃で発生した最初の火災旋風は最も激しかった3時間で屋根や木々や燃える死体を空中に巻き上げた。高熱を発した炎柱が2,000メートルの高さまで燃え上がり、人工の大嵐を発生させ、そこからさらに火災が激しくなった。まるで輪転機が回るような奇妙なリズムで広場や空き地が燃え広がった。路面電車のガラス窓が溶け、袋詰の砂糖が噴き出し、かまどのように熱い防空壕から逃げ出した人びとは、手足が異様なかたちに曲がったまま硬直して、煮えたぎる道路のアスファルトに沈んでいった。 — ドイツ小説家W・G・ゼーバルトによるハンブルク空襲の様子(2003年)Luftkrieg und Literatur[142] 、 訳者:浅岡政子[143]
照明弾、煙、爆発を背景にシルエットが映るハンブルク上空のアブロ ランカスター

連合爆撃攻勢の最初の一手はゴモラ作戦、ハンブルクにおいて実施された。1943年7月24日の夜間に開始されたイギリス空軍791機の爆撃機はブロックバスター、メディアム・キャパシティなど高性能爆弾1,346トン、焼夷弾938トンをハンブルク市内に投下した。翌25日と26日の昼間にアメリカ航空軍の爆撃機252機が造船所など海軍施設、航空機工場を狙った精密爆撃を行おうとしたが、前日のイギリス空軍による爆撃の煙が市内を覆っていたため、目標に正確な命中は出来なかった。27日夜間には再びイギリス空軍の787機による爆撃が再開され、高性能爆弾1,127トン、焼夷弾1,199トンがハンブルク東部を目標に投下され、29日夜間には火災で燃え盛る所にまたイギリス空軍の777機から高性能爆弾1,094トン、焼夷弾1,224トンが降り注いだ。非常に乾燥していた時期であったこともあり、この地域は猛烈な高温の炎に包まれて巨大な火炎が火災嵐となって荒れ狂った[144]

この空襲でイギリス空軍が失った爆撃機は100機、その搭乗員552人、アメリカ航空軍は17機を失った。ハンブルクの市街地は75パーセントが焼き出され、生き残った住人約100万人が家を失った。ハンブルクの犠牲者は民間人4万4,600人の死者、3,700人の負傷者、軍人は800人の死者を出し、民間人死者の半分は女性、約4割が男性、残りは子どもと推定されている。犠牲者が多いのは家屋が密集したハンブルク東部であり、ナチス党員や実業家などの高所得者が住む西部はほとんど被害を出していない。イギリス空軍が狙った家屋密集地帯は労働者階級の住宅地であり、若い男性は兵役や徴兵のため不在だったことから女性、子どもの比率が高く、次いで兵役の対象にならない工場務めの中高年男性と高齢者が犠牲となった。その後の空襲や日本の空襲でのそうであったように、多くの場合、弱者が犠牲になる差別爆撃という性格を帯びていた[145]。この空襲が軍事的な転換点になったという事実もなく、戦争の行く末に関わることはなかったが、ドイツの指導部に衝撃を与えた。ドイツ空軍の立ち直りは早く、連合国の昼間、夜間ともに損害は増大した[146]

シュヴァインフルト・レーゲンスブルク攻撃

[編集]
「空の要塞」B-17を攻撃するドイツ空軍のメッサーシュミット Me 410(1943年)

1943年7月末、ポイントブランクに従って戦闘機の工場を攻撃することになったアメリカ航空軍はベルリン南方に位置するオシャースレーベンのフォッケウルフ社工場を爆撃したが、出撃した39機のうち15機が撃墜された。続いて1943年8月17日、ドイツの軍需産業の基幹を支えるボールベアリング工場を狙ったシュヴァインフルト、メッサーシュミット工場が所在するレーゲンスブルクへ昼間爆撃[注 36]を行った。これは事前に戦闘機による露払いでドイツの空軍基地を攻撃し、厳重な護衛戦闘機をつけて同時攻撃を図ったものだったが、天候に阻まれて時間差が発生してしまったので計画通りにならなかった。合計で376機の「空の要塞」が出撃し、このうち30機を失う損害を被った[147][148]

アイラ・エーカーはボールベアリング工場への攻撃を継続することにしたものの、2回目の10月14日に行われた攻撃では、「空の要塞」291機が出撃し、爆弾計500トン以上を投下することに成功し、約60発が住宅へと落ちてしまったが、工場へ約1,500発の直撃弾を浴びせる成果を上げた。しかし、アメリカ航空軍は再び攻撃で60機を失い、138機が損傷した。このほとんどが護衛戦闘機が帰投した後に、ドイツ空軍の戦闘機による包囲、反復攻撃で失われたものだった[149][150][151][152]。オペレーションズ・リサーチの検証によると最終的に8月31日までで487機の「空の要塞」が撃墜され、823機がドイツ戦闘機の攻撃で損傷、580機が高射砲で被弾したと報告された[153]

フランスに墜落した「空の要塞」の残骸(1943年)

イギリス側の高射砲は戦前の整備においてドイツのそれとひどく劣っていて、ドイツの高射砲を回避するため高度10,000フィート(約3,000メートル)で攻撃するよう指示していた。これがアメリカ航空軍にも共有され、実戦での猛烈な高射砲の攻撃に晒される結果となった。ヴァイマル共和国陸軍の高射砲教官だったギュンター・ルーデルドイツ語版は1930年に防空計画を立案し、高射砲整備を推進した。旧型の口径がバラバラの高射砲と廃し、8.8センチを標準砲に最低とした重高射砲の整備を訴えた。 1935年にヒトラーが政権を握ると高射砲隊はゲーリングのドイツ空軍指揮下に入り、ギュンター・ルーデルは高射砲兵総監へと昇進した。1937年から新たな防空計画が立案され、10.5センチ高射砲や150センチ照空灯など将来のより早くより高く飛べるように発展した爆撃機の登場に備えた。特に1937年10月からルール地方の高射砲防空地帯はヒトラーによって1939年10月までに完成させるよう命令されていた。10.5センチ高射砲は有効射程高度31,000フィート(約9,500メートル)、8.8センチ高射砲は有効射程高度26,000フィート(7,930メートル)あった。ドイツ空軍の地上配備レーダーの数が不足していたことから、1940年に夜間での防空が脆弱であることがイギリス空軍側に伝わってしまったが、これは通信網を整備して探知情報を連携することで対処した[154][155]

イギリス空軍も8月23日から24日のかけてベルリン空襲で7.9パーセントという今までにない最大の損失を出し、ドイツ空軍が戦闘機を増強していることを確認した[117]。9月以降、アメリカ航空戦略軍もベルリンへと爆撃の矛先を変えたが、ここでも芳しくない結果だった。第1波で出撃した爆撃機1,719機のうち、ベルリンの中央部から3マイル(4.7キロ)以内に投下できたのは32機のみだった[156][146]。1944年1月、第8爆撃機軍団の維持に関わる損失だと痛感した司令官エーカーは、このドイツ空軍の戦闘機を地上、空中、基地、工場、問わず見かけ次第攻撃するよう第8戦闘機軍団に要請し、戦力回復に努めた[157]。また、”ボマー”ハリスが長距離夜間戦闘機を求め、エーカーが長距離昼間戦闘機を求めたように両司令官は爆撃機に護衛の戦闘機が必要であることを痛感した。増槽を付けて航続距離が増したサンダーボルトとライトニングではアーヘン地方で引き返せねばならず十分ではなかった[158]

ドイツの本国防衛優先

[編集]
10.5センチ高射砲が設置された高射砲塔(ベルリン動物園塔)

1943年の初頭、西部戦線におけるドイツ空軍の戦闘機は670機まで増強されたが、11月頃にはさらに1,660機へと増強された[159]。2月に本土防衛の専門航空艦隊ライヒ航空艦隊[注 37]を設立した。また、斜めの音楽(ジャズ)を意味するシュレーゲムジーク[注 38]が採用された。およそ70度の角度をつけた20ミリ機関砲2つが戦闘機の上方に取り付けられ、パイロットは光学式照準器で上に向かって狙いをつけて撃つことができた。その角度の射撃位置に付かれたら、爆撃機からは見えなかった。戦闘機の射撃を受けてから爆撃機の搭乗員は気がついた。戦闘機のパイロットは燃料タンクがある翼のエンジン間を狙い、それは数秒で火が付いた。爆撃機それ自体が弾薬庫のようなものなので、爆撃機のパイロットは火を消す唯一の方法である急降下を試みる。イギリス空軍の攻撃者はベルリンやルール地方のような防備が厳重な場所であれば見渡す限り破滅の場面である。地上には高射砲が展開し、上空か後方には戦闘機が待ち構えている。前に進めば急降下する味方機との衝突の危険、耳を聾する轟音、周囲には爆撃機から吹き出す炎、その炎は飛び出したパラシュートに火を付けて爆撃機の搭乗員は恐怖した[160]

防衛側のドイツ空軍は事前に察知した情報に基づいて、爆撃機の経路を割り出し、高射砲隊が連続した弾幕射撃を展開した。ドイツの88ミリ高射砲は8キロの榴散弾を6,500メートル上空に発射した。炸裂点に到達すると1,500個の尖った破片を高速で飛散させ、10メートル以内なら爆撃機は撃墜され、180メートル以内でも大破させた。爆撃機が4,000メートル上空で飛行する場合、炸裂点に到達するまで6秒を要した。爆弾の重量や航続距離の都合で爆撃機が290キロで飛行していた場合、榴散弾が到達するまで約500メートル進んだ。高射砲についた装備(射撃盤など)がこうした係数を割り出すが、狙撃するのは非常に困難だったため戦闘機ほどの成果を上げることはなかった。しかし、それらが弾幕射撃となって打ち上げられると破片の嵐の中を進むパイロットの神経はズタズタに引き裂かれた。アメリカ航空軍の搭乗員は、「あの弾幕に身を晒すのは、巨人が履いた七里靴に蹴り飛ばされるようなものだった。」[注 39]と震えさせた[161][162]

被災したデュッセルドルフのラインメタル社の工場(1944年11月)

こうした連合爆撃攻勢に対抗するためにドイツ空軍の本国防衛は強化の一途を図ったが、間接的に他戦線への資源供給が滞ったという側面もある。石津(2020年)によれば、爆撃から避難するため工場そのものを山岳地、森林、あるいは地下へ移転により多大な労力と資材を要したという点である[163]。高射砲隊の充実は高射砲の生産強化によって、対戦車砲などその他の生産に大きな影響を及ぼした面もあり、各地で必要とされたレーダーも本土防衛に割かれて不足した。1944年までに火砲生産30パーセント、重弾薬20パーセント、光学機器30パーセント、電子工学50パーセント、そして軍人とそれを支える民間人約200万人が防空システムに関連する任務、被災地の復興作業に従事していた[164][165]。1943年夏以降、ライトニングやサンダーボルトといったドイツ中部まで護衛できる戦闘機が付いていったため、激しい空中戦になった。しかし、未だドイツ奥地は爆撃機だけで行かなければならず、連合爆撃攻勢における爆撃機の損害は大きかった[166]。1943年9月にアーヘン上空で初めてサンダーボルトが撃墜された時、ヘルマン・ゲーリングは強風で流されただけだと取り合わなかったが、この9月からドイツ空軍は戦闘機部隊が消耗を強いられ、11月には戦闘機の損失率が21パーセントに達した。昼間戦闘機部隊の総監アドルフ・ガーランドは報告で、「現在、約1対7の戦力差での戦いになっています。アメリカ軍の水準は高く、1,000機の戦闘機と優秀な将校を失いました。その補充は不可能です。事ここに至っては、空軍が崩壊する恐れもあります。」と強く訴えた[167][168]

疎開計画の失敗

[編集]
ベルリンの駅から出発する学童疎開列車

1943年初頭からドイツの指導部は大量の民間人を都市から移送する計画を立てていた。被災者のために用意された仮設住宅が許容値を超えるのは時間の問題だった。郊外に建てるにもさらなる場所が必要だったので、そこに住む人びとを動かさなければならなかった。1943年6月の概算で人口10万人以上の都市において65歳以上、15歳以下は軍事関連の仕事をしていないことがわかった。人口の4分の1、650万人の人びとの移送するには輸送手段、福利厚生上の問題があったが、不可能ではなかった。少なくともチューリンゲンアルゴイドイツ語版といった地方に移転してもらえるなら、防空体制の負担がずっと楽になると目された[169][170]

1943年7月3日、疎開地域と疎開者受け入れ地域が発表された。学級閉鎖が始まり、1943年8月までに30万人の子供たちが大都市を出た。この「学童疎開」は戦争が終わるまで評判が悪かった。児童は祈りの言葉ではなく、スローガンを教えられ、道徳的な堕落もひどいものだった。アルプス渓谷シュレージエンバーデンなど授業は通常通り行われていた他、地方に移ったことにより宣伝通りに栄養のある食料が実際に提供された。また、夜に爆撃機に怯える必要もなく、連合国の偵察機も農村の避難所を発見できなかった。一方で、親たちは実行機関であるヒトラー少年団に親権が奪われるのではないかと心配し、子供の両親は親戚を頼って、農村の従兄弟や祖母に子供を置いてもらうように頼った。親だけでなく子供も別離に耐えれなかった例もある。ミュンヘンから疎開してきた4万450人の一割は1943年10月までに帰郷してしまった。しかし、ちょうどその頃にミュンヘンの空襲が始まり、435人の子供が犠牲となった。空襲の恐れがある学校は閉鎖され、それ以外の学校は病院や被災者の避難所に転用されたが、空襲が重なるとそれらも防空上必要とされたために他に移転することになった[171]

1943年7月のハンブルク空襲後、ハンブルク市民は交通網の打撃にも関わらず約100万人が徒歩で脱出を図った。交通の回復するのを待つ間、着の身着のまま森などを彷徨い、野宿した。現地の警察は被災者たちをハンブルクの周辺の無事な駅まで誘導し、そこに臨時列車を用意された。5万人はエルベ川の船に乗った。警察と国防軍の車両、馬車、バスと利用できるもの全てを動員して駅と船着き場を往復し、625本の列車が約78万600人をピストン輸送した。ハンブルクの多くの被災者は保養所として整備されていたバイロイトに送られたが、男は仕事に戻るために家族を残してハンブルクに戻った[172]。同じことはベルリンでも起こった。9月25日までに72万人がベルリンの都市部から離れた。疎開計画以上の数であったため、場所の確保が問題となった。先に移転していた者を含めて、25パーセント相当、ベルリンの人口は110万人減少した。ルール地方でも同じようにマイン・フランケンバイエルン、バーデン、ザクセンスデーテン行きの列車に殺到した。一度疎開した者でも別離に耐えられず戻った者、家族の疎開先まで定期的に通う者までいた。しかし、ドイツの指導部にとって事態は悪い方向へと向かっていった。アメリカとイギリスによる連合爆撃攻勢が始まったことである。昼はアメリカ機、夜はイギリス機と24時間体制で爆撃が始まると工業地帯そのものを疎開させる必要があるという結論に達した。都市から人びとが疎開させて工場に場所を譲るより、工場を移転させて、その周辺の危険が少ない地域に労働者を住まわせるほうが賢明だと考えられたが、移転先にはすでに疎開した人びとがいた。ドイツが総動員体制になった以上、戦争のために場所を作らなければならなかった。ドイツ内務省は疎開の中止を決定し、都市を危険度別、住人を仕事別に区分けして郊外の地域に分散させるモデルへと変更を余儀なくされた[173]

マスタングの登場まで

[編集]
ベルリンのツィマー通り角にある出版社が燃える様子(1944年7月)

ドイツ空軍が各戦線から戦闘機を集めて高射砲の生産を強化したため、1944年3月のベルリンとニュルンベルクにおけるイギリス空軍の爆撃は多大な損失を出して失敗に終わった。イギリス空軍”ボマー”ハリスはハンブルク空襲の成功に自信を深め、ハンブルクの再現をベルリンで成功させればドイツの降伏は早まると確信していた。ベルリンへの爆撃再開は1943年8月で爆撃機モスキートのパスファインダーも投入して開始されたが、ベルリンまでの長い飛行距離、冬の悪天候によって爆撃機はベルリンに到達できず、組織だった爆撃の実施は出来なかった[174]

天候の回復を待って大規模な攻撃を開始した11月19日から1944年3月まで、延べ16回、9,000機の爆撃機が動員され、ベルリンに相当な被害を与えたことは事実ではあるもののベルリンはハンブルクよりも大きな近代的な都市で防災に対する備えがあり、ドイツ空軍の防空体制も厳重であった。3月30日のニュルンベルク爆撃ではもっと手痛い損失を被り、ベルリンとニュルンベルクでイギリス空軍は1,047機の爆撃機を失い、1,682機が損傷した。アメリカ航空軍の統計専門家ロバート・マクナマラ(後の国防長官)の分析によれば、1943年後半から1944年春まで戦闘機による爆撃機の損失が相次いだため、出撃した爆撃機のうち20パーセントがエンジン不調などを口実に基地に戻ってしまったとしている[175]。しかし、1944年を前にしてセレイト ・レーダー探知機英語版を搭載した夜間戦闘機型モスキートがベルリン上空に現れたことで、数こそ少ないがドイツ空軍の戦闘機も損失を出すようなった[176]

政治的な背景にも関わらずヨーロッパへ増援を送り続け、ボールベアリング工場への攻撃以来、第8航空軍が低活発になったことに不満を覚えたアメリカ航空軍司令官アーノルドは1943年12月にヨーロッパ派遣航空軍の再編を決定した。イギリスの戦略空軍である第8航空軍と戦術空軍である第9航空軍はイタリアの第15航空軍と合流し、戦略航空軍と改められた。司令官はカール・スパーツが就任し、第8航空軍はジェイムズ・ドーリットルが任命され、エーカーは第8爆撃機軍団から地中海戦線への転属命令が出た[177]

1月にエーカーが出した戦闘機殲滅の方針に代わって、ジェイムズ・ドーリットルは戦闘機は爆撃機の側に常にいること、つまり、爆撃機編隊の前方に展開して迎撃ラインを作ることを命じた。ドーリットルの方針は時期という意味で成功だった。サンダーボルトだけでなく、新型戦闘機マスタングがイギリスに到着し始めた。最初にパイオニア・マスタング(P-51B型)として装備した第9航空軍の第336戦闘機飛行隊英語版は前年の12月11日にエムデン爆撃の護衛に始まり、フライング・タイガース帰りのジェームズ・ハウエル・ハワード英語版を始めとするベテランが合流し、急速に数を増やした[178]。アメリカの工業力がいかに巨大で、カナダの工場がイギリスの支援をしていても、優れた兵器をヨーロッパに輸送するには、大西洋の戦いが一段落していなければならなかった。数に余力のでた護衛空母に搭載されてサンダーボルトとマスタングが一週間に何百機と輸送された。男女混成の空輸部隊が自力飛行で「空の要塞」とリベレーターを運び、それらはイギリスで合流した[179]

ビッグ・ウィーク

[編集]
第375戦闘機飛行隊(現en:172nd Attack Squadron)のマスタングP-51B型とP-51D型(1944年7月26日)

1944年2月20日に始まったアーギュメント作戦、「ビッグ・ウィーク」[注 40]の異名で知られる作戦はそうした状況から開始された。アメリカ戦略航空軍の800機の戦闘機、3,800機の爆撃機はイギリスの爆撃機軍団2,350機と共にドイツ本土の航空機工場を目標に1週間足らずの間に2万トンの爆弾で攻撃した。この大規模な攻撃を受けて工場が完全に操業を停止することなく、数カ月後にはより生産量が増加したことから爆撃自体は成功とは言い難く、アメリカは28機の戦闘機、90機の爆撃機、イギリスは131機の爆撃機を失った[180]

連合爆撃攻勢は引き続き大きな損失を出したが、ボールベアリング工場攻撃時の30パーセントの喪失率に比べて、アメリカは14パーセント、イギリスは5.7パーセントと喪失率は遥かに低かった。この5日に渡るビッグ・ウィークは戦闘機同士の激しい航空戦となり、ドイツ空軍は262機の戦闘機が失われた。航空機工場のみならず、ネイメーヘン爆撃英語版など空軍基地も攻撃の対象となり、最終日となった25日にはボールベアリング工場が集中するレーゲンスブルク、シュヴァインフルトが再び爆撃された。ドイツ空軍にとって戦闘機の生産を維持するという重大さから己の損失を顧みずに迎撃せざる終えなかった[181][要文献特定詳細情報]。戦後に調査したアメリカ戦略爆撃調査団(USSBS)によって2月の6日間でドイツ空軍は600機以上を失い、このうち3分の1がアメリカ戦略航空軍の戦闘機によるもので、ドイツ空軍の記録が消失してことから現代でも正確な数字は判明していないとしているが、これらはスピットファイア、サンダーボルト、ライトニング、そしてマスタングの戦果だった。新米のパイロットを含むマスタングの戦果はこの時点でさほど目立った数ではないが、ドイツ空軍と違って戦略航空軍は損耗に対する補充が続いた[注 41][182][183][179]

別の統計によると、1944年1月から5月までに2,605機の爆撃機と1,045機の戦闘機が失われたが、このうち戦闘機による被弾、故障は2.2パーセントであり、高射砲による被弾、故障は21.4パーセントだった。これも1943年6月から12月の戦闘機による被害7.4パーセント、高射砲による被害21.4パーセントであったことから、高射砲に対応策として高々度からの爆撃が必要不可欠だったが、それが可能な新型爆撃機B-29はアジア・太平洋戦線へ投入されることになっていた。これにアメリカのオペレーションズ・リサーチは、無視界・計器爆撃[注 42]を提言した[184]

ドイツ空軍の抵抗

[編集]
ECM戦のイギリス空軍フォートレス Mk.III型(1944年)

ジェリー・スカッツ(2001年)はドイツ空軍の夜間戦闘機部隊は1944年6月の時点で約800機に達していたと記している。1940年6月から比べれば8.35倍の拡充であり、昼間戦闘機部隊の実質2倍に相当した。1944年7月3日、アメリカ第9航空軍に夜間戦闘機P-61 ブラックウィドウが夜間作戦を開始したが、戦局に変化を与える数、時期ではなかった[185]エーテル(電磁場を媒介すると考えられた物質)の戦いに最も有用と評価が確立したのは実際にドイツの工業力に打撃を与える部隊ではなく、特別任務を与えられた第100特別任務集団英語版(No. 100 (SD) Group)だった。B-24 リベレーターやB-17 フライングフォートレス、イギリスの旧式機を機材として用いた同部隊はドイツの夜間戦闘機を撃墜するか、妨害装置でまごつかせて、爆撃機部隊の脅威を制圧し、たいていの場合大きな成功を収めた[186]

モスキートやブラックウィドウといった高速夜間戦闘機の存在がドイツ空軍の戦闘機が駐屯する基地への急襲で成果を出していた。こういった高速機に対抗するため、専用装備のBf 109G型では役に立たず、Ta 154は製造不良で失敗し、He 219だけが有用だったが、信頼性に対する不信感が実力を発揮しきれない問題として尾を引いた。圧倒的な性能で戦い得た戦闘機が唯一メッサーシュミット Me 262だった[187]。1944年12月に実働可能状態になったジェット戦闘機Me 262は対高速機に対して速度を落とす必要がないというそれまでのモスキートの優越していた因子が逆転することで大きな成功を収めた。しかし、対爆撃機に対しては目標に対して射撃する時間が足りないオーバーシュート(射越し射撃)になってしまう問題を孕んでいた[188]。連合国の地上部隊がドイツに迫るとドイツ空軍は部隊のあいつぐ移動を迫られ、多くの空軍基地が爆撃に晒されるとアウトバーンを滑走路の代用にした。戦後、最後の基地で自爆を逃れたMe 262B-1a/U1を鹵獲した。ジェット戦闘機は連合国でも開発されていたが、夜間戦闘機の技術だけは例外だった。カムフーバーは連合国の調査団に対して、「基幹となる6個夜間戦闘航空団が18個だったならば、はるかに多くの成果を得られ、イギリスの爆撃方針を断念あるいは変更させることさえ出来ただろう。」と証言し、イギリスとアメリカは様々な要因、特に限りある工業資源を多数の計画に使って希薄化してなければ、ドイツ空軍はより大きな脅威となっていたと調査結果を出した[189]

ノルマンディー上陸作戦の準備

[編集]
2月22日の爆撃を受けたネイメーヘン市街地

アメリカで戦略航空軍への組織改編が行われた同月、地中海作戦戦域からドワイト・D・アイゼンハワーとその参謀が丸ごと連合国遠征軍最高司令部としてイギリスへと移り、ノルマンディー上陸作戦の準備が始まった。アイゼンハワー連合軍最高司令官、アーサー・テッダー英語版副司令官、イギリス空軍チャールズ・ポータル英語版参謀総長、イギリス爆撃機軍団アーサー・ハリス、そしてアメリカ戦略航空軍カール・スパーツの5者を中心とした協議が開始された[177]。この中で、ノルマンディー周辺とドイツ本国間の兵員と物資移動を阻害するため鉄道網の徹底的な破壊をアーサー・テッダーは提唱した[190]

ウィンストン・チャーチル首相はこの作戦に反対し、ノルマンディー周辺だけでなく鉄道の駅や路線付近のフランス国民に犠牲が出ることを憂慮して、「名誉を汚す」とルーズベルト大統領に親書を送っている。しかし、参戦前まで無差別爆撃を自重するよう主張していたルーズベルトは、「上陸部隊の生命損失をこれ以上ださせないための作戦を規制することはできない」と政治的な回答をした。5月にも、「戦後に尾を引く問題になりかねず、2万人の死者を含む8万の死傷者が出る恐れがある」とルーズベルトに訴えたが、「総力戦における必要性の論理には答えがない」と決行を支持した[191]

オイル計画と輸送計画

[編集]

空軍内部でもアーサー・ハリスは無差別爆撃こそが終戦への近道だという意見を変えることはなく非協力的な姿勢を取り続けたが、1945年1月までチャールズ・ポータル参謀総長は複数回に渡っての説得により態度を改めた。また、戦略航空軍のカール・スパーツも反対し、連合爆撃攻勢の計画に沿ったドイツ空軍に航空燃料を供給する石油精製施設への攻撃を主張し、アイゼンハワー最高司令官はこれを支持した[192]

プロイエシュティ油田を爆撃するリベレーターB-24爆撃機(1944年5月)

スパーツによる「オイル計画」[注 43]によってルール地方の燃料精製所、燃料備蓄施設、ブラバクドイツ語版[注 44]といった石炭液化(合成燃料)燃料精製所も攻撃の対象として選ばれ、それはロイナ工場、ブリュックス(モスト)、ボーレンツァイツ英語版リューツェンドルフドイツ語版マクデブルクに所在した[193]。余力のあったイタリア戦線の第15航空軍に対してはルーマニアプロイエシュティ油田と精製所の攻撃を命令が出た。1944年4月に始まった一連の攻撃は合計で57回の爆撃は建物、設備に対して2.2パーセントしか命中せず、効果は薄かった。1945年1月から4月かけて、ハリスの方針変更によりイギリス空軍の爆撃機も加わって74回、49箇所の燃料関連施設を爆撃した[194][195]

ルール地方、プロイエシュティ油田、ベルリンなど一連の攻勢は、1944年4月に航空作戦の指揮権がアイゼンハワーに移管することで終了した。アイゼンハワーはフランス、ドイツの鉄道網に対する攻撃を命じたが、ドイツ空軍の反応は薄かった。アメリカ戦略航空軍の戦闘機との空戦で、ドイツ空軍は2,262人の戦闘機パイロットを失っていた。1944年1月から5月までの間に失われた戦闘機パイロットは爆撃機など全搭乗員の20パーセントにあたる約450人を1月ごとに失っていた計算になる[196]。5月にアイゼンハワーはドイツ空軍の戦力確認のためスパーツに対して再びプロイエシュティ油田への攻撃を命じたが、防御が脆弱化していることが確認され、ドイツ空軍の残存戦闘機による抵抗が減り、爆撃機の損失は減少するようになった[197]

「輸送計画」の成功によってフランス上空における制空権を確保し、ノルマンディー上陸だけでなくファレーズ・ポケットにおいても橋梁やトンネルへの爆撃によってドイツ陸軍の交通網を完全に麻痺させることに成功した。1944年6月上旬までに上陸地域の東を結ぶフランス北西部全域が隔離された状態に陥り、ドイツ陸軍が身動きがとれない状況を作り出した[190]。また、アメリカ戦略航空軍ではイギリス、イタリア、ソ連の空軍基地を利用する計画「狂気作戦」[注 45]が立案された。イギリスからルーマニアなど遠方の目標を攻撃した場合、往復が難しいためソ連領の空軍基地に着陸してそこで燃料と爆弾を補給して復路で再び攻撃してから戻って来るという作戦だった。ソ連は物資の援助を見返りに基地の利用を承認した。この作戦は1944年6月22日から開始され、それまで攻撃の受けることがなかったポーランドの燃料精製所を攻撃するなど大きな成果を出したが、ウクライナのポルタバで駐機中のB-17「空の要塞」43機がドイツ空軍の戦闘爆撃機に奇襲攻撃で破壊された他、燃料や爆弾をアメリカから運ばなくてはならないという難題があったため、1944年9月には中止された[198]

燃料の欠乏

[編集]
プロイエシュティに配備されているドイツの8.8センチ高射砲(1943年)

オウヴァリー(2021年)によれば、プロイエシュティ油田はドイツ空軍によって厳重に防御されていた。1944年8月のソ連のルーマニア侵攻(ヤッシー=キシニョフ攻勢)とイギリス空軍によるドナウ川への機雷敷設によってドイツへの供給量は3分の2が減少した[199][200]。1944年9月までにドイツ空軍は80パーセントの戦闘機を本土防衛に回し、ソ連の東部戦線にも影響を与えた。イギリス、アメリカの爆撃機に対抗するため早急に戦闘機を増産する必要性にかられ、戦闘機の生産と整備を優先するあまり、中型爆撃機や急降下爆撃機は戦闘機に対して半分以上あったのが4分の1にまで低下した。バランスを欠いた部隊編成でありながら、マスタングやサンダーボルトといった長距離戦闘機の出現がドイツ空軍にとって致命的になった[201]

1944年7月までの3か月間で燃料98パーセントの供給量減少があった[176]。1944年5月から9月までの期間にアメリカ戦略航空軍は127回、イギリス爆撃機軍団はおよそ53回の燃料関連施設に対する攻撃により、ルーマニアの油田と合成燃料の工場から供給を絶たれたことで備蓄を使用し始め、9月には全戦域で継戦するには半月分の15万トンまで減少した[202][203][204][注 46]。それは1944年中のピーク時の燃料供給量に比べて5パーセントだった。ドイツにおける戦闘機の生産量がまさにピークに達したその瞬間に、爆撃機の迎撃に向かう戦闘機の燃料がなくなり、新規に育成するパイロットを訓練する燃料も枯渇した[200]。このパイロットの育成は大きな影響を及ぼし、未熟なパイロットが出撃しては撃墜されるという悪循環を作り出し、1944年6月から10月にかけて1万3,000人の戦闘機パイロットが失われた[176]。副次的に燃料の枯渇はドイツ陸軍の戦車など装甲軍に対する影響を及ぼした。東部戦線ではシュレージエンがわずか2週間でソ連軍に奪われ(ヴィスワ=オーデル攻勢)、西部戦線も12月のアルデンヌ攻勢(バルジの戦い)で備蓄燃料を切り崩すだけでは事足りず、攻勢を成功させる唯一の希望は連合軍から燃料を奪取することだった[205]

ニュージャージー州スタンダード・オイル社精製所

多くの書籍で語られているように搭乗員の損耗、燃料の枯渇によってドイツ空軍の命運は決した。ノルマンディー上空にはイギリスとアメリカの戦闘機3,700機が哨戒にあたった。1944年夏以降、改良型のサンダーボルトとマスタングが登場したことで、それが覆されることはなかった。サンダーボルトは重量に反して低空での戦闘に強く、マスタングに至ってはどの高度でも空中戦に強かった。ドイツの戦闘機が墜落するか、急降下で逃れようとしているのか不明な場合、それを追跡する余裕があったため、低空に追い込んで撃墜した[206]。サンダーボルトに対する非難と擁護の論争でポール・ケネディ(2013年)はサンダーボルトを擁護し、サンダーボルトもマスタングも必要な機種だと記しており、評論家はサンダーボルトは速度を失わない限り横転率(ロールレート)は良かったとしている[207][注 47][208]

アメリカでは1943年にハロルド・L・イケス内務長官の主導でビッグ・インチ英語版が完成し、テキサスのロングビューからペンシルベニアのフェニックスヴィル英語版までパイプラインによる燃料輸送が可能になった。これが連合国の燃料供給を支え、連合国の航空用燃料の90パーセントをアメリカによって生産、供給された。また、ドイツ空軍が87オクタン価の航空用燃料を使用している間、イギリス空軍とアメリカ戦略航空軍は1944年頃から100オクタン価、夏以降は160オクタン価の超ハイオクガソリンを使用した。1943年11月28日、チャーチルがテヘラン会談の乾杯の音頭を取る際に、「エンジンとオクタンの戦争だ。アメリカの自動車産業と石油産業に、乾杯」と述べたように、連合国は近代化した兵器を最大限活用する手段を手に入れた[209][210][211][212]

飽和攻撃

[編集]
女性の場合は特に身元確認が困難である。衣服にポケットがないため、身分証明書を直に身につけていないことが多いからだ。女性の身元を調べる手がかりは、身につけているアクセサリーを確認することが大切である。調査隊は指輪を外すためのペンチや衣類を切り取るためのハサミを準備しておくことをお勧めする。 — カッセル市防衛担当警察長官(1983年)Die Zerstörung Kassels im Oktober 1943[213]、 訳者:香月恵里[12]
アメリカの戦闘機に銃撃されるドイツJG27所属のBf 109G型(1944年10月)

ノルマンディー作戦後の秋、イギリス爆撃機軍団とアメリカ戦略航空軍はアイゼンハワーの指揮下から解放された。”ボマー”ハリスは圧倒的な爆撃機数の物量をもって、ドイツの戦争遂行能力を完全に破壊することを目論んだ。いわゆる「飽和攻撃[注 48]だった。その最も好例なルール地方の爆撃の再開、そして、3,000機以上の爆撃機による最大規模の爆撃を実施した[214]。1944年10月6日のドルトムント、14日と15日のデュイスブルク、ブラウンシュワイク、そして、28日にケルンを焼き払った。ルール地方以外では、9月11日ダルムシュタット爆撃英語版も猛火に包まれた。ダルムシュタットでは、ドレスデンの予行演習として「扇」[注 49]と呼ばれるイギリスの爆撃手法がアメリカ戦略航空軍によって試された。照明弾による囲いではなく、一点を中心にして扇状に破滅の絨毯を形成した。高射砲が配置されておらず、同時期のシュツットガルトが坑道に住民が逃れたのに対して地下室しか逃れる先はなく、住民の10.7パーセントにあたる1万2300人の死者を出した[215]

ドイツの軍事力が急速に弱まってきた1944年後半から連合爆撃による無差別爆撃は激しくなる一方だった。ドイツ空軍が強力で未だに力を持っていた時には、その報復措置を恐れて自己抑制機能がある程度働いていたが、それが弱体化したためにその抑制が効かなくなっていた。こうした変化はアメリカ戦略航空軍の爆弾比率に顕著に現れている。1944年9月1日から12月31日までの4か月間に攻撃目標に対して14万807トンの爆弾を投下したが、そのうちの6割にあたる8万1,654トンが盲目爆撃(目標を確認しない)で投下された。従来の精密爆撃で使用された爆弾はわずか674トンだった[216]

ドレスデン爆撃

[編集]
「空の要塞」によるドレスデン爆撃

ヨーロッパ戦線はドイツ陸軍のアルデンヌ攻勢の失敗によりライン川を遮る防衛部隊が崩壊し、東部でもハンガリーが占領されてルーマニアからの燃料供給が完全に遮断され、ソ連は1944年1月から東プロイセンへの侵攻を開始していた。そうした全戦線においてドイツが崩壊しつつある状況下、まったく必要のない無差別爆撃としてあげられるのがドレスデン爆撃である[217]。本来、「サンダークラップ計画」[注 50]と呼ばれるベルリンの完全破壊に準備された爆弾の半分が実際に11月25日から5日間でベルリンへ投下されたが、残りは修正案としてドレスデンなど東部の町へと降り注いだ。1945年2月13日から15日に渡るドレスデン爆撃はハンブルクの時をさらに酷くしたような火災、そこから火災旋風を起こし、火災嵐英語版となった。当時のドレスデンには避難民と住民合わせて80万から100万人がいたと見られ、死者約4万人を出した[218]

フランスからベルギー、オランダへの進軍によって、その地に配備されていたドイツのレーダーや通信施設は破壊、寸断された。また、カーペット・ジャマー英語版とウィンドウを組み合わせた各種妨害装置により、ドイツ空軍のレーダー無効化、通信網が破壊されることで爆撃機編隊の襲来に対する早期警戒能力が失われつつあった。ドレスデンに襲来した爆撃機に対してドイツ空軍が発進できた戦闘機は27機で、残りは地上に待機したままだった[219]。ドレスデンの他にソビエト連邦の侵攻を助けるために東部の都市が主要目標に選ばれた。ケムニッツ、ライプツィヒ、ハレ、デッサウ、マグデブルク、そして、ベルリンも継続目標だった。空襲を受けていない、または、その被害が少ない市街地として目標選定委員会に選ばれたのはヒルデスハイム、ヴェルツブルク、プフォルツハイム、ヴォルムス、ニュルンベルクだった。これらは予備目標とされた[220]

プフォルツハイム空襲

[編集]

プフォルツハイムは小さい都市で装飾品と時計生産で知られ、軍事的に重要でもないので爆撃機軍団も戦略航空軍にもほとんど攻撃されなかった。投下爆弾量1,551トン、死者2万277人を出す爆撃が行われたのは1945年2月23日のことである。プフォルツハイムがその候補にあげられたのは軍事的要因よりも、できるだけ狭い範囲で燃えやすい素材があるという点だった。街区を囲む建物、砂岩の建材、狭く枝分かれした中央の小道、まともな防火区画のない密集する建物、それらは無防備で空襲対策がなかった。19時50分に始まった爆撃は、最初は強風をともない、あとになって氷のように冷たい風を吸い寄せた。23時30分にはプフォルツハイム全体を炎が包み、融点1,700度の金属が溶けて流れ出した[221]

スヴィーネミュンデ空襲

[編集]
東プロイセンから徒歩で脱出する難民

ソビエト連邦は東プロイセンの多くを占領下に置き、1945年の初めの頃、ヴァイクセル川(ヴィスワ川)とオーダー川(オーデル川)間、シュテティン・ ダンツィヒまで侵攻してきた[222]。海岸沿いに避難民は西へと目指し、ウーゼドム島のスヴィーネミュンデ(シフィノウイシチェ)へと進んだ。3月12日、ケーニヒスベルクなどの避難民を乗せたポンメルン湾に大小様々な船がひしめき合う中でスヴィーネミュンデが爆撃を受けた。沿岸砲兵隊がバルト海に多数の爆撃機が迫っていると警報を出した時、ヴィルヘルム・グストロフの生存者約900人、海岸を徒歩で避難してきた女性たち、橋がソビエトの爆撃で破壊されてフェリーを待つ人々、橋の修理を待つ人々は保養公園に身を寄せていた[223]。アメリカ戦略航空軍はそれを知っていたので、爆弾が地上にぶつかる前に樹木の上で炸裂する近接信管を用意していた。港ではヤスムント、ヒルデ、ラーヴェンスブルク、ハイリンゲンハーフェン、トリーナ、コルディレラが撃沈され、アンドロスも被弾した。石炭が切れて港外で立ち往生していたヴィンリヒ・フォン・クニプローデ(SS Meduana)は被害が少ない方だった。爆撃機671機、戦闘機412機による虐殺の犠牲者は死者2万3,000人となっているが、正確な数は判明していない。氏名がわかっているのは1,667人だけだった。アメリカ戦略航空軍には避難民への攻撃の記録は存在せず、「操車場」への攻撃である[224][225]

1945年2月22日から始まったクラリオン作戦では、戦争終結段階の必要のない爆撃のもう1つの典型例である。名目上は鉄道とその施設の破壊だったが、それまで空襲の被害が少なかった町や村が2日間に渡って、低空から爆撃や機銃掃射を受けた。かくして1945年の春までに60個の都市が完全に破壊され、空襲を受けた町や村は131に上る[226]。1945年4月5日に”ボマー”ハリスは、「適切な目標を探すのがもはや非常に困難になった」と嘆いた。東部の都市ドレスデンから西に70キロの場所にあるケムニッツは3月5日にイギリス爆撃機軍団720機から1,100トンの爆弾を投下され、街の3分の1が焼失した。2日後にはアンハルトの王宮所在地デッサウが攻撃され、84パーセントが崩壊した。3月12日がスヴィーネミュンデの虐殺であり、3月31日には1,100トンの爆弾がハレの5分の1の住宅を粉砕した[227][228]

4月に入るとツェルプスト、フランクフルト(アン・デア・オーダー)、ノルトハウゼン、ポツダム、ハルバーシュタットが短期間で爆撃を受けた[229]

連合爆撃攻勢の終了

[編集]

1945年4月12日をもって欧州戦線における連合爆撃作戦は終了とし、連合参謀本部は近接航空支援へ従事するよう命令を出した[230]。イギリス爆撃機軍団は4月25日から26日に都市への爆撃を終了して、物資輸送や帰還兵の輸送に従事した[231]。イギリス陸軍の前線司令部が置かれたハンブルクにおいて降伏交渉が始まると、連合国最高司令部の一員でありイギリス第21軍集団司令官バーナード・モントゴメリーは1945年5月3日をもって爆撃の中止するよう連絡し、停戦に応じない、停戦できない一部の地域を除きつつもドイツ本土空襲は終了した[232][要文献特定詳細情報]

指導者の心境変化

[編集]
空襲で得られるものはあまりない、単に恐怖を増すだけの爆撃は再検討するべきである。ドレスデンの破壊は連合軍爆撃活動に関して重大な疑問を残すことになった。どんなに印象的であろうとも単なる恐怖行為や残虐な破壊行為としてではなく、もっと軍事目標に絞った爆撃にすべきである。 — ウィンストン・チャーチル 1945年3月28日 参謀長委員会宛ての親書[注 51]、 訳者:田中利幸『空の戦争史』 2008年[233]

チャーチルはドイツの敗北が近づいてくるにつれ、無差別爆撃の必要性に対して疑問を抱くようになった。ドレスデン爆撃から1か月後、空軍に方針の転換を求めた。ロンドン空襲以後、強行に無差別爆撃の実施を主張していたが、終戦間際になって本当に必要だったかと態度を改めた。ポータル空軍参謀総長は今になって重大な問題があったと非難することは受け入れられず、参謀長委員会が容認できるような内容に表現を変えるべきだと伝えた[233]

4月1日、「長期的に見て我々の攻撃が、敵の目下の戦争努力を損なうよりも、我々自身がさらなる害をもたらさぬよう留意すべきである」と修正文書を出した。連合爆撃作戦が終わった後の14日にはハリー・S・トルーマン大統領宛の親書で、「戦争状況は今や我々に有利な状態になってきたので、ドイツ諸都市を大爆破するようなことは、もはや、以前のように重要ではなくなりました」とこれ以上の無差別爆撃は必要ないことを伝えた。また、チャーチルは終戦後に勲章の授与式に駆けつけ、陸海軍の指揮官を功労を讃えたにも関わらず、ハリスへの授与は避けた他、勝利宣言の演説でも、自著の回顧録でも、爆撃機軍団についてほとんど触れなかった[234]

”ボマー”ハリスは政府によって認可された爆撃であり、イギリス空軍の爆撃機軍団がこれまで行ってきた戦略的に正当な行為であり、陸軍はこれに大いに助けられ戦略的効果があったとし、ノーマン・ボトムリー副参謀長に終戦まで爆撃の続行を強く主張し、アイゼンハワーにも爆撃の正当性を書簡で送っていた。しかし、戦後に連合国最高司令部オマール・ブラッドレーは終戦間際の乱暴な無差別爆撃を激しく批判した[235]。アメリカ国務長官ヘンリー・スティムソン、陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルらはソ連の要請に基づくと責任逃れを延べている[236]

国務長官ヘンリー・スティムソンの主張はフレデリック・テイラー(2004年)が引用している。「アメリカが原爆を投下した主な目的の1つは軍備開発で勝っていることを誇示することだったと言われている。ドレスデン空襲にも、残念ながら似たような部分がある。ー(中略)ーつまり、伝統的な都市の一般的な市民を叩くという考え方には、道義をまったく顧みていなかったことが明白にあらわれている。また、一般市民の生命および歴史と伝統を外交駆け引きの道具に使う計算高さには、驚きを禁じえない。」[注 52]と記している[237]

イギリスの世論

[編集]
ヨーロッパの大都市で無辜の人々の生命を奪った冷酷な残虐行為や、屈指の美しさを誇る都市で歴史的至宝をあとかたもなく消し去った暴虐行為は、未来の文明において犯罪的な愚行の最たるものとみなされるだろう。わが国の政治指導者と軍事指導者は、わざわざそういう道を選んだのだ。 — ヴィーラ・ブリテン英語版 自著 (1944) Seed of chaos.[238]、訳者:浅岡政子 『大空襲と原爆は本当に必要だったのか』 2006年[239]
チチェスター大聖堂英語版のジョージ・ベル記念碑

「ヨーロッパが仮りにも文明社会であるならば、爆撃で非戦闘員を恐怖におとしいれるのが許されるのだろうか。」という問いかけは、チチェスター大主教ジョージ・ベル英語版から送られた手紙を「タイムズ」が1941年4月17日付けに掲載し、ジョージ・ベルはイギリスとドイツに夜間の無差別爆撃をやめるよう訴えた[240]。市民の間では、ボランティアに従事するヴィーラ・ブリテン英語版が1944年春に出版した「混沌の種」[注 53]で、「自分たちが引き起こしたか、緩和できなかった苦しみをの本当の意味に、私たちは気づかなかったからだ」と主張して反爆撃運動を始めた。「混沌の種」は当時のイギリス国民は知りうることを記述された貴重な資料である[241]

戦時中のイギリス国民が一般的に知っていることと、実際に起きたことを深く理解していることの間には大きく剥離があった。1941年4月の世論調査で53パーセントがドイツの国民を目標にした爆撃に賛成していたが[242]、1944年の調査では、ほとんどのイギリス国民がドイツ都市への爆撃がどのようなものか9割が知らないと回答していた。イングランド国教会では、ジョージ・ベルの他に前カンタベリー大主教コズモ・ラング英語版らが、「抹殺爆撃」[注 54]と1940年から批判的であったの対し、ヨーク大主教シリル・ガーベット英語版は、「絶対に正しいことと絶対に誤っていることを分ける唯一の選択肢などありません。2つの悪のうち、より悪が少ない方を選ばなければならない場合が多いのです。わが国民を犠牲にし、奴隷状態の数百万人々の解放を遅らせるよりは、好戦的なドイツを爆撃する方が悪が少ないのです。」[243]と爆撃を擁護した[244]

アメリカの世論

[編集]

ヴィーラ・ブリテンの初期の原稿が彼女の知らないところで、1943年クリスマス前に支持者によってアメリカへと持ち込まれた。これはアメリカ全土から考えうるありとあらゆる手段をもって、ブリテンへの批判が何百と彼女の元へ送られた。「ニューヨーク・タイムズ」への投書では50対1で圧倒的な非難で占められ、著名人もそこに含まれた。反ナチスのジャーナリストドロシー・トンプソン英語版はロンドンの「サンデー・クロニクル英語版」のコラムで、「イギリスの平和主義者がアメリカの怒りを駆り立てている」と記した。著名なジャーナリストウィリアム・シャイラーに至っては、1944年3月12日の「ヘラルド・トリビューン」に「ナチの手先」とまで書いた[245]

世論は爆撃支持が多かったが、戦局の変化にともなって世論にも変化があった。アメリカでヴィーラ・ブリテンを擁護する声を最初に上げたのはジョージ・オーウェルが最初である。「ミス・ヴィーラ・ブリテンは無差別または抹殺爆撃を雄弁に攻撃している。しかし、平和主義者ではない。彼女は戦争に勝ちたいと思っている。合法的な手段を貫いて、市民への爆撃をやめることだけであり、そうした爆撃が後世においてわれわれの名を汚すことを恐れているのだ」[246]と1944年5月19日に雑誌のトリビューンに記した[247]。また、それまで爆撃を強硬に擁護していたベイジル・リデル=ハートにも心境の変化があり、1944年7月に「戦争熱が猛威をふるっている時に人間の良識に訴えたあなたの勇気に深い敬意を」[248]とヴィーラ・ブリテンに手紙を送っている[249]

1945年2月にAP通信が新聞「イブニング・スター」においてアメリカ戦略航空軍がヨーロッパで恐怖爆撃[注 55]を行っていると記事を掲載し、この恐怖爆撃に対する疑問が持ち上がった。戦略航空軍は記者会見で、「それらは誤解に基づくものでそのような爆撃方法は連合軍最高司令部の政策とも、戦略航空軍の方針とも一致しない」と記事を全面的に否定した。また、「意図的に恐怖爆撃を行ったことはこれまでまったくないし、今も行ってないし、将来も行うことはない」と断言した[236]

しかしながら、アメリカ戦略航空軍による爆撃は日本上空(日本本土空襲)で勢いを増して展開されつつあった[250]

戦後

[編集]

1945年6月26日に始まったロンドン会議では、戦勝国のアメリカ、イギリス、ソビエト連邦、フランスの代表者がナチス指導者の訴追について議論された。ここで、「戦争犯罪」という用語が用いられるようになり、それは後の国際軍事法廷で使用された。戦勝国の代表者たちにとって大きな問題はこれらが前例のないことだった。ドイツが世界戦争を引き起こし、ユダヤ人を虐殺したことは疑いようもなかったが、そういった行為をどの法律で告発するかだった。それが当てはまる明確な国際法は存在しなかったため、「事後法」で裁こうとしているのではないかと非難された[251]

1899年ハーグ陸戦条約、1919年のヴェルサイユ条約、1925年ロカルノ条約1928年不戦条約、その全ての条項と精神にドイツが違反していることは明らかだった。憲章の起案者は、ナチス政権が本土および占領地でしていたことに適用しようとした。「事後法」ではなく、既存の法律を眼の前の状況に当てはめようとしているのだと主張した。起案者は他の問題も予見していた。それは、「勝者の正義」として見られることであり、戦闘中は敵も味方も残虐行為を働いていた。西進したソビエト軍の恐ろしい殺人、強盗などの残虐行為、何十万件の強姦[注 56]、イギリス軍、アメリカ軍による市民を標的にした空襲も同様のことで語られることはなかった。8月末に起案された国際軍事裁判所憲章はそういった抗弁を禁ずることを明記された[注 57][252]

歴史学者の評価

[編集]
ドイツの世界的大国になろうという試みを拒否するため、ソ連とアメリカは自ら世界的大国になる必要があった。1945年の戦争の勝利は、ドイツの弱さによるものではなく、連合国の強さによるものだった。 —  イギリス歴史家リチャード・オウヴァリー英語版 、 訳者:河野純治、作田昌平 『なぜ連合国が勝ったのか?』 2021年[253]
リチャード・オウヴァリー(2015年クリエイティブ・コモンズ下のYouTube公開動画より)

ドイツ本土空襲を含め、第二次世界大戦中に行われた空襲を巡る問題に学者による多くの問いがある。実際に用いられた方針は妥当だったか、精密爆撃の目標は妥当で正当性があったのか、空軍を無差別爆撃以外に用いたほうが有用ではなかったか、無差別爆撃が戦争指導者や国民にどの程度の影響があったのか、最終的に第二次世界大戦の勝利へどの程度貢献したのか、そして、倫理的に正当化され得るのか、といった内容である[254]

各戦線において戦略爆撃の効果を戦後すぐに調査したアメリカ戦略爆撃調査団(USSBS)によれば、ドイツへの定量計算可能なインプット(投下された爆弾の量)と定量計算可能なアウトプット(ドイツの軍需生産量)との因果関係を分析し、「戦略爆撃は多大な犠牲を伴った戦略的破綻に過ぎない」と厳しい意見を出している[254]。イギリス航空省の調査団はそれより低く見積もっており、1943年下半期の爆撃による破壊は全体で8.2パーセントしか生産高は減少しておらず、1944年下半期に7.2パーセント、1945年に9.7パーセントの低下に留まったと結論を出している[注 58][255]

そうした戦略爆撃を肯定する意見として、第一次大戦の従軍経験があって負傷など理由で陸軍を退役したイギリスのジャーナリスト兼歴史家リデル・ハート(1970年)は自著第二次世界大戦で、ノルマンディー上陸の時点で連合国の空軍はドイツ空軍を30倍を有し、上陸に失敗しても直接ドイツを叩き敗北を必至にしていたと前置きし、「1944年までは陸上侵攻に代わるものとして空軍の自負を裏切るものであり、都市の無差別爆撃は軍需生産を阻害することはできず、戦意を挫くことも降伏に追い込むこともなかった。独裁的な指導者の強力な統制のもとで、個々が空中の爆撃機に降伏することはできない。1944年以降、空軍力は抵抗の根源をなす産業の中枢を精密に選び分け、壊滅的な打撃を与えた。」[注 59]としている[256]

「地域爆撃」や「無差別爆撃」が軍需産業への影響を取り除いても、イギリス、アメリカを擁護する意見は様々ある。「ナチス・ドイツがヨーロッパ全域において殺傷した民間人と比較すればイギリス、アメリカの連合爆撃機が殺傷した民間人はわずかに下回っている」とイギリスの歴史家アントニー・ビーヴァー(2012年)は自著第二次世界大戦 (本)英語版で記している[256]

イギリス歴史家ロビン・ニーランズ英語版や同ジョン・テレイン英語版は、「ドイツと日本の敗北が数年前か数か月前にもう避けられないとわかったとして、戦争の成り行きはどうなるかわからない。軍隊や市民や政府の激しい抵抗が続く限り、彼らを敗北させることだと思い知らされた。」と主張し、(ドイツの燃料供給が絶たれた)「1944年9月の時点で明白になった」[注 60]と主張した[257]。歴史家リチャード・オウヴァリーは論点を2つ絞っていて、「爆撃戦争によって火砲や戦闘機が本国の防衛に回ったことで、前線から遠ざけられた」こと、「1945年1月にシュペーアがそれを認めるほど、爆撃によってドイツの産業能力を枯渇させたこと」[注 61]と総括している[258]

日常言語学派として知られるロンドン大学教授の哲学者A.C.グレイリング英語版(2007年)は自著廃墟の町で英語版[注 62]で、(連合国にとって)「第二次世界大戦はナチス・ドイツや日本に対する正義の戦争であり、戦争の最終段階で明らかになったホロコーストは決して許されない罪だった。ー(中略)ー爆撃任務を遂行した英米の軍人たちの貢献に異議を唱えるものではない。そのうえで、一般市民の意図的に攻撃目標として爆撃するのは道義に反している。」と記している[259]

歴史認識

[編集]
ドイツのジャーナリストおよび歴史家イェルク・フリードリヒ(2005年)

ドイツ人による著作はイェルク・フリードリヒ英語版の著作Friedrich, Jörg. (2007) (ドイツ語). Der Brand.と (2003) (ドイツ語). Brandstaetten. フォルカー・ハーヘ英語版の著作Hage, Volker. (2003) (ドイツ語). Hamburg 1943. クリストフ・キュークリックドイツ語版の著作Kucklick, Christoph. (2003) (ドイツ語). Feuersturm.などがあるが、これらは爆撃で多くのドイツ人が被災して約30万人の死者を出したばかりか、歴史のある建造物、文化遺産が甚大な被害を受けたことをドイツ人の読者に再考を促している作品である[260]

ドイツの歴史家ヨルク・エヒターンカンプ英語版(2017年)によれば、2003年のフリードリヒが出版した著作Der Brandは日本語訳として出版はないが、「火災」[注 63]と訳される[261]。歴史的事象をドイツ人の視点に限定し、ナチス政権が起こした総力戦、ワルシャワ爆撃、ロッテルダム爆撃を扱わず、空襲の避難先である地下室や防空壕がガス室、炎上を起こす建物と人々を焼却炉で焼かれたクレマトリムなど連合国の都市爆撃をホロコーストと同列にあるような表現をはっきりと使った[注 64]。ドイツの歴史家ハンス・ウルリヒ・ヴェーラー英語版を始めとする批評家は修正主義、尊厳を侵す、バランスに欠くと非難したが、フレデリック・テイラー(2005年)やA.C.グレイリング(2007年)のように言及を歓迎する者もいた。これらをエヒターンカンプは「当時の経験を追憶し、フランスの歴史家ピエール・ノラの表現を使えば、第二段階の歴史だ。」と表現した[262]

ドイツ本土空襲を扱う作品

[編集]
  • ヘンリー・キング監督(日本語字幕)『Twelve O'Clock High(頭上の敵機)』(映画)20th Century-Foxセントラル映画社)、ロサンゼルス、1949年、該当時間: 132分。ISBN 4774715689OCLC 154625879 
  • ウォルター・グローマン監督(日本語字幕)『633 Squadron(633爆撃隊)』(パイオニアLDC)(映画)United Artistsカルバーシティ、1964年、該当時間: 101 分。OCLC 431624006 
  • マイケル・ケイトン=ジョーンズ監督(日本語字幕)『Memphis Belle(メンフィス・ベル)』(映画)Lugano(ポニーキャニオン)、バーバンク(東京)、1990年、該当時間: 107分。ISBN 9780790703121OCLC 23374099 
  • ローランド・ズゾ・リヒター監督(日本語字幕)『Dresden(ドレスデン、運命の日)』(映画)EOS Entertainment, TeamWorx(アルバトロス)、München. Potsdam.(東京)、2006年、該当時間: 145分。OCLC 805087842 
  • WGBH-TV (12 May 2010). "連合国はいかにしてドイツを爆撃したか". BS世界のドキュメンタリー ヨーロッパ戦線終結70年. 第1シリーズ. Episode Season 22. Episode 3 : The Bombing of Germany. NHK. NHK BS

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 航空情報編 1958, p. 251では、「高射砲兵監アックストヘルム大将」
  2. ^ 出典では死亡、怪我人という用語を使用しているが、以下、死者、負傷者、その両方を死傷者と記す。
  3. ^ グレイリング 2007, p. 401の訳者:浅岡政子によれば、「総力戦」の考察はCheckring, Roger. (2005) A World at Total War. Cambridge.が詳しいと紹介している。
  4. ^ 田中利幸、源田孝らは中枢としているが、レドウィッジ 2022, p. 65の訳者:矢吹啓によれば、鉄道、発電所、水道など軍や産業の生産と補給のチョークポイントを標的にした「重要な結節点」(キー・ノード)。後に「産業網論理」(インダストリアル・ウェブ・セオリー)に発展と記している。
  5. ^ 他にSeeckt, Hans von. Gedanken eines Soldaten. 1935.の日本語訳 一軍人の思想. 東京: 岩波書店. (1940). NCID BN05556805 も参照
  6. ^ カウフマン 2006, p. 140の訳者:平田光夫による翻訳「航空基地マニュアル第16号”航空作戦の遂行法”」など。他にレドウィッジ 2022, p. 140の訳者:矢吹啓によれば「航空戦要綱(Die Luftkriegsführung)」はバランスを考慮した空軍とある。
  7. ^ カウフマン 2006, p. 140にはジョン・クレイス「空戦および航空基地防空」(Air Warfare and Air Base Defense)とあるが、脚注はない。しかし、これはアメリカ政府DTICで公開されているKreis 1988, pp. 34–36と推察。要確認。
  8. ^ 「ルール地方航空戦」グレイリング 2007, p. 90の訳者:訳者:浅岡政子よる翻訳、他に「ルール工業地帯爆撃」 木俣 1987、「ルール地方攻撃」 グリーンフィールド 1964など
  9. ^ 「爆撃戦争」(Bombenkrieg) はFriedrich, Jörg (2002) Der Brand Deutschland Im Bombenkrieg 1940-1945.の原題であり、訳者:香月恵里による翻訳。
  10. ^ 「都市急襲爆撃(ブリッツ)」オウヴァリー 2021, p. 207の訳者:河野純治、作田昌平による翻訳。
  11. ^ 「バット報告書」石津 2020, p. 320による。他に「バットの報告書」グレイリング 2007, p. 76など。
  12. ^ 「爆撃機用ベデカー旅行案内書」(Bombers' Baedeker)フリードリヒ 2011, p. 21の訳者:香月恵里による翻訳。他にコフィ 1983, p. 254「爆撃機旅行案内書(ベイデイカー)」など。
  13. ^ 「デハウジング(家屋除去)」オウヴァリー 2021, p. 509、「路頭に迷わす」(Dehousing)石津 2020、「家を失い」グレイリング 2007, p. 91など。
  14. ^ 空飛ぶ要塞(フライングフォートレス)オウヴァリー 2021, p. 217とも
  15. ^ 「ドイツ航空会社(Deutsche Luftreederei GmbH)」永岑三千輝 著、横井編 2016, p. 99による。
  16. ^ 「ミルヒ計画 1934-1935」 Air Ministry (2001). 永岑、横井編 2016, p. 97より。ヴァイマル共和国時代の総生産数を超える4,000機の整備。
  17. ^ 「ゾロータン」(Solothurnカウフマン 2006, p. 138の訳者:平田光夫による。
  18. ^ カウフマン 2006, p. 138に「防空について」(On Air Defense)とあるが脚注なし。Crabree, James D (1994) (英語). On Air Defense. Westport, Connecticut: Praeger. ISBN 9780275947927 と推察。要確認。
  19. ^ 「輸送部隊」(Transport-Luftsportverband)カウフマン 2006, p. 138の訳者:平田光夫による。国家社会主義航空軍団も参照。
  20. ^ 「西方防空地帯(Luftverteidigungs zone West)」訳者:平田光夫カウフマン 2006, p. 140より
  21. ^ 航空情報編 1958, p. 239より。1939年時における重砲、中・軽砲、照空灯の数はKreis 1988, p. 62と完全に一致しているが、Kreisはp.186など部隊が連隊、大隊規模での表記になっている。また、航空情報編 p.229とp.239で筆者の違いにより中隊数が異なっている。数が少ないp.239を記載。要確認。
  22. ^ 「蟻塚(Ameisenhügel)」訳者:平田光夫カウフマン 2006, p. 148より
  23. ^ 「ルフトシュッツトゥルム(Luftschutztürme=防空塔」カウフマン 2006, p. 148より
  24. ^ 「キノコ状のディティール塔(Dietel-Turm)」カウフマン 2006, p. 148、「丸天井」フリードリヒ 2011, p. 312より
  25. ^ カウフマンに脚注なし。出典ミヒャエル・フェードロヴィッツのページ不明。Foedrowitz, Michael (1998) (ドイツ語). Die Luftschutztürme der Bauart Winkel. Berstadt: Podzun-Pallas. ISBN 978-3-7909-0632-5 
  26. ^ 「フラックトゥルム(Flakturm=高射砲塔)」カウフマン 2006, p. 151より
  27. ^ 訳者:渡辺洋二と編集部によれば、Geschwader 航空団、Jagdgeschwader 戦闘航空団、Zerstörergeschwader 駆逐航空団、Nachtjagdgeschwader 夜間戦闘航空団の日本語にしたと記している(スカッツ 2001, p. 4)。
  28. ^ 「ヴェルツブルク・レーダー」フリードリヒ 2011, p. 26の訳者:香月恵里による。
  29. ^ 「ヒンメルベッド(天蓋付きベッド)」フリードリヒ 2011, p. 25の訳者:香月恵里による。
  30. ^ カウフマン 2006, p. 141に「炎の鷹」(Eagle in flames)とあるが脚注なし。E. R. Hooton. (1997) ‘’Eagle in flames : the fall of the Luftwaffe’’. Arms & Armour. London. ISBN 978-1854093431. と推察。要確認。
  31. ^ 「カーチス P-40 ウォーホーク」ヘス 1972, p. 12の訳者:野田昌宏, 「P-40 ウォーホーク」ケネディ 2013, p. 156の訳者:伏見威蕃による。
  32. ^ Craven, Wesley F; Cate, James L (1983) (英語). The Army Air Services. vol.4. OCLC 1050620634  pp.217-218 ケネディ 2013, p. 157の訳者:伏見威蕃による。
  33. ^ 「連合爆撃機攻勢」オウヴァリー 2021, p. 221の訳者:河野純治、作田昌平による
  34. ^ 訳文は石津 2020, p. 328による。ただし、同書は脚注なし。また、石津朋之は5月14日に正式承認された内容としているが、Ramsey.AAHRA 1945, p. No. 110Norris.AAHRA 1947, p. No.122によれば、原文はCCSのレポートであり、イギリス、アメリカの空軍参謀合同Anglo-American committeeによる計画完成が5月14日となっているため、石津朋之の訳文以外は使用せず。
  35. ^ 暗号名「直射」(ポイントブランク)オウヴァリー 2021, p. 229の訳者:河野純治、作田昌平による翻訳。
  36. ^ 「レーゲンスブルク=シュヴァインフルト攻撃」高田journal 2018, p. 29による
  37. ^ 「本国航空艦隊」 ガーランド 2013, p. 466、「本国防空隊」 航空情報編 1958, p. 241など。
  38. ^ 「シュレーゲムジーク<斜めの音楽(ジャズ)を意味する>」フリードリヒ 2011, p. 36より。
  39. ^ 訳者:香月恵里。同書に説明はないが、フランス・ロマン派シャルル・ペローの童話に出る七里靴 en:Seven-league boots に由来、マーク・トウェインなど数々の作品で用いられる。
  40. ^ 「ビッグ・ウィーク」石津 2020, p. 360による
  41. ^ ケネディ 2013, p. 453によれば、Graham, Cross E (2001) (英語). Jonah's Feet Are Dry; The Experience of the 353rd Fighter Group during World War II. Ipswich, UK: Crecy Publishing. ISBN 978-0-954-11640-8 が詳しいと紹介している。
  42. ^ 「盲目爆撃」田中 2008, p. 184、「無視界計器爆撃(Blind bombing)」高田conference 2018, p. 35より
  43. ^ 「オイル計画」「輸送計画」石津 2020, p. 363による
  44. ^ 「ブラバク」フリードリヒ 2011, p. 291の訳者:香月恵里による翻訳。他に「褐炭・ガソリン株式会社」(Braunkohle-Benzin AG=BRABAG AG)白川欽哉 2008 CRID 1520009407209794560 p.33など。
  45. ^ 「狂気作戦(Operation Frantic)」田中 2008, p. 181による
  46. ^ オウヴァリー 2021, p. 575によれば、USSBS, Webster, Charlesなどを参考に一か月の消費量32万7,000トンと記している。
  47. ^ 第二次大戦の空戦戦果はライトニング:K/L 1.4(被撃墜1,758機、撃墜1,771機)、サンダーボルト:2.0(被撃墜3,077機、撃墜3,082機、地上撃破3,202機)、マスタング:3.6(被撃墜2,520機、撃墜4,950機、地上撃破4,131機)。海軍機ヘルキャットK/L:4.4のように、Christopher Shoresなど評論家はどれかが優れているというより役割が違うしている。数値はWagnerより。Wagner, Ray (2004). American combat planes of the 20th Century. Reno. pp.274-5 参照。日本語では、 20世紀の世界航空戦史. 潮書房光人新社. (2021). ISBN 978-4-7698-1678-2  p.31に撃墜数の表もあるが、数値が異なる。また、秦郁彦編には脚注がなく原典が不明。
  48. ^ 「飽和攻撃」(Saturation bombing)石津 2020, p. 366による
  49. ^ 「扇」(Fan-shaped)フリードリヒ 2011, p. 298の訳者:香月恵里による
  50. ^ 「雷鳥(サンダークラップ)」フリードリヒ 2011, p. 299による
  51. ^ 原典は3/12 folio 25, Records of the Prime Minister's Office, The National Archives' catalogue, The National Archives of the United Kingdom.の訳者:田中利幸による。
  52. ^ Taylor, Frederick. (2004) Dresden: Tuesday, February 13, 1945. Harper. ISBN 978-0060006761. p.406 グレイリング 2007, p. 323の訳者:浅岡政子による
  53. ^ グレイリング 2007, p. 231の訳者:浅岡政子によれば、時事的な問題などですぐに絶版となった。後にアメリカで再版。
  54. ^ 「抹殺爆撃」(Elimination Bombing)グレイリング 2007, p. 230の訳者:浅岡政子、フリードリヒ 2011, p. 75の訳者:香月恵里も同じ。
  55. ^ 「恐怖爆撃」(Terror Bombing)田中 2008, p. 197による。他に「テロ爆撃作戦」オウヴァリー 2021, p. 213「テロ爆撃」石津朋之 2020とも。
  56. ^ グレイリング 2007, p. 288の訳者:浅岡政子によれば、ソビエト軍の行為はBeevor, Antony (2002) (英語). Fall of Berlin, The 1945. ISBN 978-0-14-103239-9 が詳しいと紹介している。なお、日本語訳の 川上洸 訳『ベルリン陥落 1945ISBN 978-0141032399. の方が参照しやすい。
  57. ^ グレイリング 2007, p. 288の訳者:浅岡政子によれば、敵味方の双方の残虐行為問題についてはPersico, Joseph E (1994) (英語). Nuremberg: Infamy on Trial. NY. ISBN 978-0670842766 が詳しいと紹介。
  58. ^ 石津 2020, pp. 316, 366–367に脚注なし。
  59. ^ 脚注なし。訳 上村達雄による。
  60. ^ Neillands, Robin (2001) (英語). The Bomber War. ISBN 978-0719556371  p.343 グレイリング 2007, p. 327の訳者:浅岡政子による
  61. ^ Overy, Richard title=Why the Allies Won (1995) (英語) (first ed ed.). Pimlico. ISBN 978-0712674539  p.128-130 グレイリング 2007, p. 322の訳者:浅岡政子による翻訳。出典は初版だが、日本語訳『なぜ連合国が勝ったのか?』の方が参照しやすい。
  62. ^ 「廃墟の町で ― 第二次世界大戦の連合国軍による一般市民への空襲は、必要だったのか、犯罪だったのか」グレイリング 2007, p. 351「訳者あとがき」より
  63. ^ 「火災」エヒターンカンプ 2017, p. 44の訳者:猪狩弘美による、<Der Brand>(火災)グレイリング 2007, p. 340の訳者:浅岡政子も同じ
  64. ^ クレマトリム(Krematorium)は訳者:香月恵里によれば「火葬場」である。フリードリヒ自身の主張はフリードリヒ 2011, p. 165「日本の読者のための後書き」、472-473「訳者後書き」に日本語で確認できる。

出典

[編集]
  1. ^ a b 航空情報編 1958, p. 巻末.
  2. ^ a b フリードリヒ 2011, p. 470「日本の読者のための後書き」.
  3. ^ 航空情報編 1958, p. 227.
  4. ^ フリードリヒ 2011, p. 「巻末」.
  5. ^ フリードリヒ 2011, p. 474「訳者後書き」.
  6. ^ (1947) (英語). United States Strategic Bombing Survey (USSBS). vol.1 Washington D.C. : U.S. National Archives. p.2 「出典はBd.I S.2.」
  7. ^ a b フリードリヒ 2011, p. 16.
  8. ^ コフィ 1983, pp. 258–262.
  9. ^ フリードリヒ 2011, pp. 45–46.
  10. ^ (2020) (英語). British Military Aviation in 1918. London : Royal Air Force Museum. 2021-01-13. ”6 June The first operational sorties are mounted by the Independent Force”
  11. ^ フリードリヒ 2011, p. 46.
  12. ^ a b フリードリヒ 2011, p. 45.
  13. ^ Parks, Hays. Boog, Horst(Hrsg.) (1993) (ドイツ語). Luftkriegführung im Zweiten Weltkrieg. Herford. Bonn. S. 239.
  14. ^ a b c フリードリヒ 2011, p. 48.
  15. ^ 田中 2008, pp. 55–56.
  16. ^ レドウィッジ 2022, p. 64.
  17. ^ 田中 2008, p. 112.
  18. ^ 源田 2023, p. 31.
  19. ^ 田中 2008, p. 118.
  20. ^ レドウィッジ 2022, p. 66.
  21. ^ 航空情報編 1958, p. 232.
  22. ^ Murray.Millett. 1998, pp. 21–22.
  23. ^ a b c カウフマン 2006, p. 140.
  24. ^ レドウィッジ 2022, p. 72.
  25. ^ ガーランド 2013, pp. 71–72, 76.
  26. ^ Murray.Millett. 1998, p. 24.
  27. ^ 潘洵(ハン・ジュン) 著、柳英武(リュウ・エイブ) 訳「重慶爆撃死傷者数の調査と統計 (18)」『戦時期中国の経済発展と社会変容』 5巻、慶應義塾大学出版会、東京〈日中戦争の国際共同研究〉、2014年。ISBN 978-4-7664-2148-4 
  28. ^ 小野塚知二 著、横井編 2016, pp. 219–220, cp.5 "戦間期航空機産業の技術的背景と地政学的背景"
  29. ^ a b 田中 2008, pp. 140, 153.
  30. ^ レドウィッジ 2022, p. 61.
  31. ^ 田中 2008, pp. 154–155.
  32. ^ a b フリードリヒ 2011, p. 49.
  33. ^ フリードリヒ 2011, p. 50.
  34. ^ a b フリードリヒ 2011, p. 51.
  35. ^ フリードリヒ 2011, p. 53.
  36. ^ a b フリードリヒ 2011, p. 54.
  37. ^ a b 石津 2020, p. 320.
  38. ^ Hillgruber 1965, p. 96.
  39. ^ グレイリング 2007, p. 51.
  40. ^ グレイリング 2007, pp. 60–61.
  41. ^ フリードリヒ 2011, p. 55.
  42. ^ オウヴァリー 2021, pp. 195–197.
  43. ^ 石津 2020, p. 323.
  44. ^ a b グレイリング 2007, pp. 68–69.
  45. ^ a b 田中 2008, p. 154.
  46. ^ グレイリング 2007, p. 79.
  47. ^ グレイリング 2007, p. 81.
  48. ^ ハート下巻 1999, pp. 322, 326.
  49. ^ グレイリング 2007, p. 82.
  50. ^ 田中 2008, p. 155.
  51. ^ a b c フリードリヒ 2011, p. 10.
  52. ^ a b フリードリヒ 2011, p. 9.
  53. ^ MacBean, John A; Hogben, Arthur S (1990) (英語). Bombs gone. Wellingborough: Patrick Stephens. ISBN 9781852600600  p.135
  54. ^ レドウィッジ 2022, p. 88.
  55. ^ フリードリヒ 2011, p. 8.
  56. ^ フリードリヒ 2011, p. 11.
  57. ^ a b フリードリヒ 2011, p. 21.
  58. ^ Müller, Rolf D. (2004). Huber, Florian.; Eglau, Johannes. eds (ドイツ語). Der Bombenkrieg 1939-1945. Berlin. ISBN 978-3861533177  S.114
  59. ^ フリードリヒ 2011, p. 67.
  60. ^ Terraine, John (1985) (ドイツ語). The Right of the Line. Barnsley: Pen & Sword Books. ISBN 9781848841925  S.505f
  61. ^ フリードリヒ 2011, pp. 67–68.
  62. ^ a b フリードリヒ 2011, p. 17.
  63. ^ a b フリードリヒ 2011, p. 19.
  64. ^ フリードリヒ 2011, pp. 2–3.
  65. ^ フリードリヒ 2011, p. 20.
  66. ^ Hirschel, Ernst H; Prem, Horst; Madelung, Gero (2001) (ドイツ語). Luftfahrtforschung in Deutschland:Die deutsche Luftfahrt. Berlin: Bernard & Graefe. ISBN 978-3763761234  S.60
  67. ^ 永岑三千輝 著、横井編 2016, pp. 94, 99, 116, cp.3 "ドイツ航空機産業とナチス秘密再軍備"
  68. ^ 永岑、横井編 2016, p. 106
  69. ^ UK Air Ministry (1948) [1947] (英語). The rise and fall of the German Air Force. London: Public Record Office. ISBN 978-1903365304  p.8
  70. ^ 永岑、横井編 2016, pp. 96–98
  71. ^ 永岑、横井編 2016, p. 95, 108-109
  72. ^ (1945). "Motor Vehicles and Tanks Plant Report No. 3 Adam Opel Russelsheim, Germany" (英語). United States Strategic Bombing Survey.
  73. ^ 西牟田祐二 著、横井編 2016, pp. 241–242, cp.6 "ドイツ航空機産業におけるアメリカ資本の役割"
  74. ^ 西牟田、横井編 2016, pp. 246, 250
  75. ^ 西牟田、横井編 2016, pp. 250, 256, 264, 272–273
  76. ^ カウフマン 2006, p. 138.
  77. ^ Murray.Millett. 1998, pp. 42–47.
  78. ^ a b フリードリヒ 2011, p. 312.
  79. ^ フリードリヒ 2011, p. 331.
  80. ^ カウフマン 2006, p. 148.
  81. ^ カウフマン 2006, pp. 148–149.
  82. ^ カウフマン 2006, pp. 150, 152.
  83. ^ Sollbach, Gerhard E (1996). “Dortmund” (ドイツ語). Bombenkrieg und Nachkriegszeit, 1939-1948. Hagen: Lesezeichen Verlag. ISBN 978-3930217120  S.20
  84. ^ フリードリヒ 2011, pp. 327–328.
  85. ^ Bunker Dortmund. 閲覧 2024-10-25
  86. ^ Dettmar, Werner (1983) (ドイツ語). Die Zerstörung Kassels im Oktober 1943. Fuldabrück: Hesse. ISBN 978-3-924259-00-6  S.120ff
  87. ^ (1976) (英語). United States Strategic Bombing Survey. cp.5 p.1, 50
  88. ^ フリードリヒ 2011, pp. 314–316, 324–325, 333.
  89. ^ (1945) "Report No.22 Air-raid shelters in germany" (英語). United States Strategic Bombing Survey.
  90. ^ カウフマン 2006, pp. 153–154.
  91. ^ スカッツ 2001, pp. 7–8.
  92. ^ スカッツ 2001, p. 9.
  93. ^ スカッツ 2001, pp. 10, 21–22.
  94. ^ カウフマン 2006, p. 143.
  95. ^ スカッツ 2001, p. 23.
  96. ^ a b フリードリヒ 2011, p. 25.
  97. ^ フリードリヒ 2011, p. 23.
  98. ^ フリードリヒ 2011, p. 26.
  99. ^ フリードリヒ 2011, pp. 25–26.
  100. ^ フリードリヒ 2011, p. 27.
  101. ^ カウフマン 2006, p. 141.
  102. ^ a b c フリードリヒ 2011, p. 29.
  103. ^ スカッツ 2001, pp. 26–27.
  104. ^ スカッツ 2001, p. 26.
  105. ^ スカッツ 2001, p. 30.
  106. ^ スカッツ 2001, pp. 30–31.
  107. ^ Craven.Cate. 1949, pp. 216–217.
  108. ^ a b 高田journal 2018, p. 23.
  109. ^ Crane 2016, p. 23.
  110. ^ Futrell 1979, pp. 130–131.
  111. ^ a b 高田journal 2018, p. 24.
  112. ^ 石津 2020, p. 326.
  113. ^ Biddle, Tami Davis (2002) (英語). Rhetoric and reality in air warfare : the evolution of British and American ideas about strategic bombing, 1914-1945. Princeton Studies in International History and Politics. Princeton: Princeton University. ISBN 978-0691089096  pp.211-213
  114. ^ Sherry, Michael S (1987) (英語). The rise of American air power. New Haven: Yale University. ISBN 978-0300036008  pp.95-98
  115. ^ Arnold, Henry Harley (1941). “Box 246 G2 1941-1-22” (英語). Henry Harley Arnold papers. Washington, D.C: Library of Congress. OCLC 70981096 
  116. ^ オウヴァリー 2021, p. 208-209.
  117. ^ a b フリードリヒ 2011, p. 30.
  118. ^ 田中 2008, pp. 127, 158.
  119. ^ 航空情報編 1958, p. 237.
  120. ^ フリードリヒ 2011, pp. 16–17.
  121. ^ ヘス 1972, p. 48.
  122. ^ ヘス 1972, pp. 48, 50–51.
  123. ^ ヘス 1972, pp. 53, 55, 58.
  124. ^ Ludwig, Paul A (2003) (英語). P-51 Mustang: Development of the Long-Range Escort Fighter. Wythenshawe, UK: Crecy Publishing. ISBN 978-1903223147  cap.5
  125. ^ Furse, Anthony (1999) (英語). Wilfrid Freeman: The Genius Behind Allied Survival and Air Supremacy 1939 to 1945. Staplehurst, UK: Spellmount. ISBN 978-1862270794  pp.226-229
  126. ^ ケネディ 2013, pp. 154–158.
  127. ^ フリードリヒ 2011, p. 28.
  128. ^ フリードリヒ 2011, p. 31.
  129. ^ Beagle, T. W. (2001) (英語). Effects-Based Targeting: Another Empty Promise?. Maxwell Air Force Base: Air University Press. OCLC 1396889058  p.24
  130. ^ Ramsey.AAHRA 1945, p. 6, No. 110.
  131. ^ 石津 2020, p. 328.
  132. ^ Craven, Wesley F; Cate, James Lee (1956) (英語). The Army Air Forces in World War II. vol. 6 Men and Planes. Washington D.C.: U.S. Government Printing. OCLC 7547268526  p.687
  133. ^ Norris.AAHRA 1947, p. 6, No.122.
  134. ^ ハート下巻 1999, p. 330.
  135. ^ Levine, Alan J (1992) (英語). The Strategic Bombing of Germany, 1940–1945. Westport: Greenwood Publishing. OCLC 4653999337  pp.85–87
  136. ^ 源田 2023, p. 175.
  137. ^ Norris.AAHRA 1947, p. 10, No.122.
  138. ^ オウヴァリー 2021, p. 229.
  139. ^ ハート下巻 1999, pp. 330–331.
  140. ^ グレイリング 2007, p. 109.
  141. ^ 田中 2008, pp. 162–163.
  142. ^ Sebald, Winfried Georg. Bell, Anthea訳 (2004) (英語). On the natural history of destruction. London: Penguin. ISBN 0140298002  pp.27-29
  143. ^ グレイリング 2007, p. 45.
  144. ^ 田中 2008, p. 164.
  145. ^ 田中 2008, pp. 165–166.
  146. ^ a b オウヴァリー 2021, p. 225.
  147. ^ Craven, Wesley F; Cate, James L (1983) (英語). The Army Air Services III. WashingtonDC: Office of Air Force History. OCLC 1050620634  pp.681-683
  148. ^ オウヴァリー 2021, p. 227.
  149. ^ Galland, Adolf (1955) (英語). The first and the last. London: Fontana-Collins. ISBN 978-0006132288  p.185
  150. ^ Golücke, Friedhelm (1980) (ドイツ語). Schweinfurt und der strategische Luftkrieg 1943. Paderborn: Schöningh. ISBN 978-3506774460 
  151. ^ オウヴァリー 2021, p. 228.
  152. ^ コフィ 1983, pp. 332–333.
  153. ^ 高田conference 2018, p. 33.
  154. ^ Westermann 2000, pp. 81–84, 101,106-107, 122–123, 189–190.
  155. ^ カウフマン 2006, p. 144-145.
  156. ^ Webster, Charles; Frankland, Noble (1961) (英語). The Strategic Air Offensive Against Germany 1939-1945. volume III. London: H.M.S.O. OCLC 1067576846  p.162-163
  157. ^ 石津 2020, pp. 358–359.
  158. ^ ハート下巻 1999, pp. 336–338.
  159. ^ ヘス 1972, p. 55.
  160. ^ フリードリヒ 2011, p. 36.
  161. ^ Cooper, Alan W. (2000) (英語). Air Battle of the Ruhr. London: Airlife. ISBN 978-1840372137  p.108
  162. ^ フリードリヒ 2011, p. 37.
  163. ^ 石津 2020, p. 368.
  164. ^ UK Air Ministry (1983) [1947] (英語). The rise and fall of the German Air Force, 1933-1945. London: Arms and Armour Press. ISBN 978-0853685609  pp.185-188
  165. ^ オウヴァリー 2021, p. 243.
  166. ^ グレイリング 2007, p. 97.
  167. ^ Murray, Williamson (1985) (英語). Luftwaffe Strategy for Defeat, 1933–45. Baltimore. ISBN 978-0933852457  pp.211-215「出典ではLondon 1985」
  168. ^ オウヴァリー 2021, p. 231.
  169. ^ Brustat-Naval, Fritz (1962) (ドイツ語). Dokumente deutscher Kriegsschäden : Evakuierte, Kriegssachgeschädigte, Währungsgeschädigte : die geschichtliche und rechtliche Entwiclkung. Bonn: Bundesminister für Vertriebene. OCLC 163277502  Bd.II 1, S.109
  170. ^ フリードリヒ 2011, p. 387.
  171. ^ フリードリヒ 2011, p. 388.
  172. ^ フリードリヒ 2011, pp. 386–387.
  173. ^ フリードリヒ 2011, p. 389.
  174. ^ 石津 2020, p. 332.
  175. ^ 田中 2008, p. 168.
  176. ^ a b c 田中 2008, p. 175.
  177. ^ a b 田中 2008, p. 170.
  178. ^ ヘス 1972, p. 69.
  179. ^ a b ケネディ 2013, p. 161.
  180. ^ 石津 2020, pp. 360–361.
  181. ^ Caldwell.Muller. 2014, p. 163.
  182. ^ Murray, Williamson (1985) (英語). Luftwaffe : Strategy for Defeat, 1933–45. Baltimore: Nautical & Aviation. ISBN 093-3-85245-2  p.223
  183. ^ Ludwig, Paul A. P-51 Mustang. p.204
  184. ^ 高田conference 2018, p. 35.
  185. ^ スカッツ 2001, pp. 62, 63.
  186. ^ スカッツ 2001, p. 66.
  187. ^ スカッツ 2001, p. 71.
  188. ^ スカッツ 2001, p. 73.
  189. ^ スカッツ 2001, p. 75.
  190. ^ a b 石津 2020, p. 363.
  191. ^ 田中 2008, pp. 171–172.
  192. ^ 田中 2008, pp. 172, 174.
  193. ^ グレイリング 2007, p. 147.
  194. ^ Karlsch, Rainer; Stokes, Raymond G (2003) (ドイツ語). "Faktor Öl" : die Mineralölwirtschaft in Deutschland, 1859-1974. München: C.H. Beck. ISBN 978-3-406-50276-7  p.234
  195. ^ 田中 2008, pp. 173–174.
  196. ^ ケネディ 2013, p. 163.
  197. ^ 石津 2020, p. 361.
  198. ^ 田中 2008, p. 182.
  199. ^ Cooke, Ronald C; Nesbit, Roy Conyers (1985) (英語). Target: Hitler's oil : Allied attacks on German oil supplies, 1939-1945. London: W. Kimber. ISBN 978-0918678089  pp.336-337
  200. ^ a b オウヴァリー 2021, p. 404.
  201. ^ オウヴァリー 2021, p. 550.
  202. ^ United States Strategic Bombing Survey (1947) (英語). Oil Division Final Report. No 109. Washington D.C.: U.S. Government Printing. ISBN 978-0598652423. OCLC 654470934  pp.18-26
  203. ^ Webster, Charles; Frankland, Noble (1961) (英語). The Strategic Air Offensive Against Germany 1939-1945. volume 4. London: H.M.S.O.. OCLC 1067576846  pp.508-516
  204. ^ Piekałkiewicz, Janusz (1986) (英語). Tank war, 1939-1945. New York: Blandford Press. ISBN 978-0918678089  p.29
  205. ^ 石津 2020, p. 364.
  206. ^ ケネディ 2013, pp. 163, 169.
  207. ^ Prien, Jochen (2010) (ドイツ語). Die Jagdfliegerverbände der Deutschen Luftwaffe 1934 bis 1945 Teil 10. Eutin: Struve's Buchdruckerei und Verlag. ISBN 978-3-923457-92-2  p.474
  208. ^ ケネディ 2013, p. 453.
  209. ^ (英語) Petroleum Press Service 10. London: Petroleum Press Bureau. (1943). NCID AN00285203  pp.1, 31-32.
  210. ^ (1944) Petroleum Press Service 11. pp.45-46
  211. ^ Johnson, Arthur M (1967) (英語). Petroleum Pipelines and Public Policy, 1906–1959. Cambridge: Harvard University. ISBN 9780674499188  pp.320-325
  212. ^ オウヴァリー 2021, pp. 404–405.
  213. ^ Dettmar. Die Zerstörung Kassels. S.130
  214. ^ 石津 2020, p. 366.
  215. ^ フリードリヒ 2011, pp. 299–300.
  216. ^ 田中 2008, pp. 183–184.
  217. ^ 田中 2008, p. 188.
  218. ^ フリードリヒ 2011, p. 298.
  219. ^ 田中 2008, pp. 175–176.
  220. ^ フリードリヒ 2011, p. 258.
  221. ^ フリードリヒ 2011, pp. 84–85.
  222. ^ フリードリヒ 2011, p. 135.
  223. ^ フリードリヒ 2011, pp. 136–137.
  224. ^ Brustat-Naval, Fritz (1985) (ドイツ語). Unternehmen Rettung. Herford: Koehler. ISBN 978-3782203623  S.146
  225. ^ フリードリヒ 2011, pp. 138–140.
  226. ^ 田中 2008, p. 189.
  227. ^ Groehler, Olaf (1990) (ドイツ語). Bombenkrieg gegen Deutschland. Berlin: Akademie-Verlag. ISBN 3-05-000612-9  S.208
  228. ^ フリードリヒ 2011, p. 294.
  229. ^ フリードリヒ 2011, p. 295.
  230. ^ Biddle (2002). Rhetoric and Reality in Air Warfare. p.260
  231. ^ グレイリング 2007, p. 108.
  232. ^ Davis, Richard G (2006) (英語). Bombing the European Axis Powers: A Historical Digest of the Combined Bomber Offensive, 1939 -1945. Maxwell Air Force Base: Air University. ISBN 978-1429455510  p.554
  233. ^ a b 田中 2008, p. 193.
  234. ^ 田中 2008, p. 194.
  235. ^ 田中 2008, pp. 194–195.
  236. ^ a b 田中 2008, p. 197.
  237. ^ グレイリング 2007, p. 323.
  238. ^ Brittain, Vera (1944) (英語). Seed of chaos : what mass bombing really means. London: New Vision. OCLC 249740259 
  239. ^ グレイリング 2007, p. 349.
  240. ^ グレイリング 2007, p. 228.
  241. ^ グレイリング 2007, pp. 231–233.
  242. ^ Garrett, Stephen (1993) (ドイツ語). Ethics and Airpower in World War II. New York: St Martin's Press. ISBN 0312086830  S.89f
  243. ^ Garrett, Stephen. (1993) (ドイツ語). S.90
  244. ^ フリードリヒ 2011, pp. 74–75.
  245. ^ グレイリング 2007, pp. 253, 255.
  246. ^ Orwell, George. (1944) As I Please. Tribune.
  247. ^ グレイリング 2007, p. 256.
  248. ^ Bostridge, Mark; Berry, Paul (2022) (英語). Vera Brittain. Virago. ISBN 978-0349015019  p.442
  249. ^ グレイリング 2007, p. 259.
  250. ^ 田中 2008, p. 198.
  251. ^ グレイリング 2007, pp. 286–287.
  252. ^ グレイリング 2007, pp. 287–288.
  253. ^ オウヴァリー 2021, p. 553.
  254. ^ a b 石津 2020, p. 316.
  255. ^ 石津 2020, pp. 366–367.
  256. ^ a b ハート下巻 1999, pp. 505–506.
  257. ^ グレイリング 2007, p. 327.
  258. ^ グレイリング 2007, pp. 321–322.
  259. ^ グレイリング 2007, p. 352.
  260. ^ グレイリング 2007, p. 340.
  261. ^ エヒターンカンプ 2017, p. 44.
  262. ^ エヒターンカンプ 2017, p. 45.

参考文献

[編集]

並びは初版の年号順に整列した状態

公文書

[編集]
  • Ramsey, John F. Army Air Force Historical Office (1945年). “The War Against the Luftwaffe: AAF Counter-Air Operations” (英語). Maxwell Air Force Base, Alabama: Studies, Air Force Historical Research Agency (AAHRA). 2024年9月17日閲覧。
  • Norris, Joe L. Army Air Force Historical Office (1947年). “The Combined Bomber Offensive” (英語). Maxwell Air Force Base, Alabama: Studies, Air Force Historical Research Agency (AAHRA). 2024年9月17日閲覧。
  • Craven, Wesley Frank; Cate, James Lea (1949). USAF Historical Divisionh. ed (英語). Europe: Torch to Pointblank : August 1942 to December 1943. vol.2. Chicago: University of Chicago. ISBN 978-3-598-21914-6 
  • Kreis, John F (1988年1月1日). “Air Warfare and Air Base Defense 1914-1973” (英語). Air Force Historical Advisory Committee, Washington: ADA20863, Defense Technical Information Center(DTIC). 2024年10月9日閲覧。
  • Westermann, Edward B (2000年). “Defending Hitler's Reich: German Ground-Based Air Defenses, 1914-1945” (英語). University of North Carolina: ADA380153, Defense Technical Information Center(DTIC). 2024年9月17日閲覧。

産業

[編集]

西洋史

[編集]
  • Hillgruber, Andreas (1965) (ドイツ語). Hitlers Strategie : Politik und Kriegführung 1940-1941. Frankfurt: Bernard & Graefe. ISBN 9783763750320 
  • カーユス・ベッカー 著、松谷健二 訳『攻撃高度4000 : ドイツ空軍戦闘記録』フジ出版社、東京、1974年(原著Bekker, Cajus 1964)。 NCID BN05356318 
  • Futrell, Robert Frank (1979) (英語). Ideas, Concepts, Doctrine: A History of Basic Thinking in the United Stated Air Force (Reprint ed.). New York: Ayer Co Pub. ISBN 978-0405121661 
  • ハインツ・ヘーネ 著、森亮一 訳『髑髏の結社SSの歴史』フジ出版社、東京、1981年(原著Höhne, Heinz 1967)。ISBN 4-89226-050-9 
  • フリーマン・ダイソン 著、伏見康治 訳『核兵器と人間』みすず書房、東京、1986年(原著Dyson, Freeman 1984)。ISBN 4-622-01639-7 
  • ヴェルナー・ヘルト 著、野崎透 訳『ドイツ本土防空戦1943~1945』大日本絵画、東京、1990年(原著Held, Werner 1988)。ISBN 4-499-20558-1 
  • Herbert, Pogt (1993) (ドイツ語). Bomben auf Wuppertal. Wuppertal: Born-Verlag. ISBN 3-87093-063-2 
  • マーティン・ギルバート 著、岩崎俊夫 訳『第二次世界大戦 : 人類史上最大の事件』心交社、東京、1994年(原著Gilbert, Martin 1989)。ISBN 4-88302-194-7 
  • Harris, Robert、Paxman, Jeremy 著、大島紘二 訳『化学兵器 : その恐怖と悲劇』近代文芸社、東京、1996年(原著1982年)。ISBN 4-7733-4754-6 
  • Franklin D, Margiotta (1996) (英語). Brassey's encyclopedia of land forces and warfare. Washington: Brassey. ISBN 157488087X 
  • Murray, Williamson; Millett, Allan R (1998) (英語). Military innovation in the interwar period. Cambridge University. ISBN 9780521637602 
  • リデル・ハート 著、上村達雄 訳『第二次世界大戦』 下、中央公論新社、東京、1999年(原著Liddell Hart 1970)。ISBN 4-12-002925-5 
  • Karlsch, Rainer; Stokes, Raymond G (2003) (ドイツ語). "Faktor Öl" : die Mineralölwirtschaft in Deutschland, 1859-1974. München: C.H. Beck. ISBN 978-3-406-50276-7 
  • B.H.リデルハート 著、岡本〓輔 訳『ヒトラーと国防軍』原書房、東京、2010年(原著Liddell Hart 1948)。ISBN 978-4-562-04641-6 
  • イェルク・フリードリヒ 著、香月恵里 訳『ドイツを焼いた戦略爆撃 : 1940-1945』みすず書房、東京、2011年(原著Friedrich, Jörg 2002)。ISBN 978-4-622-07551-6 
  • 辻俊彦『レーダーの歴史 : 英独暗夜の死闘』芸立出版、東京、2012年。ISBN 978-4-87466-069-0 
  • Overy, Richard. J (2013) (英語). The bombers and the bombed : Allied air war over Europe 1940-1945 (ハードカバー ed.). New York: Viking. ISBN 9780670025152 
  • Caldwell, Donald; Muller, Richard (2014) (英語). Luftwaffe Over Germany: Defense of the Reich. New York: Frontline Books. ISBN 978-1848327412 
  • Crane, Conrad C (2016) (英語). American airpower strategy in World War II : bombs, cities, civilians, and oil (Paperback ed.). Lawrence: University of Kansas. ISBN 978-0700629022 
  • 山崎雅弘『西部戦線全史 : 死闘!ヒトラーvs.英米仏1919~1945』(新装)朝日新聞出版、東京、2018年(原著2008年)。ISBN 978-4-02-261920-4 
  • 高田馨里「プロエスティ・レーゲンスブルク・シュヴァインフルト : 米軍白昼精密爆撃戦略の揺らぎ、1943年ヨーロッパ戦線」『大妻比較文化(通号19) 2018』、比較文化学部, 大妻女子大学、東京、2018年3月1日、CRID 1050564288357071744ISSN 134543072024年10月8日閲覧 
  • 高田馨里「第二次世界大戦期、空爆標的地図にみる米英連合国の空爆戦略の転換」『第48回空襲・戦災を記録する会全国連絡会議』、比較文化学部, 大妻女子大学、東京、2018年3月1日、CRID 10400007819640995842024年9月17日閲覧 
  • 石津朋之『総力戦としての第二次世界大戦 : 勝敗を決めた西方戦線の激闘を分析』中央公論新社、東京、2020年。ISBN 978-4-12-005275-0 
  • リチャード・オウヴァリー 著、河野純治、作田昌平 訳『なぜ連合国が勝ったのか?』楽工社、立川、2021年(原著Overy, Richard 1995)。ISBN 978-4-903063-89-8。「同書p.16によれば、第二版(2006 2nd ed)の翻訳本である他、一部独ソ戦について訳者が初版の加筆修正を追加したとしている。」 
  • 源田孝『アーノルド元帥と米陸軍航空軍』芙蓉書房出版、東京、2023年。ISBN 978-4-8295-0862-6 

伝記

[編集]

西洋哲学

[編集]

軍事

[編集]
  • 航空情報編集部 編『第2次大戦ドイツ軍用機の全貌』酣燈社、1965年(原著1958年)。 NCID BC01705768。「<ドイツの数値は空軍参謀本部, イギリス・アメリカはTedder卿>との記載あり。」 
  • ウィリアム・ヘス 著、野田昌宏 訳『P51ムスタング : 米空軍最強戦闘機』サンケイ新聞社出版局、東京、1972年(原著Hess, William N 1970)。 NCID BA46838136 
  • 渡辺洋二『ドイツ夜間戦闘機』サンケイ出版、東京、1980年。 NCID BN03805170 
  • トーマス・M.コフィ 著、手島尚 訳『戦略空軍』 航空戦史シリーズ ; 26、朝日ソノラマ、東京、1983年(原著Coffey, Thomas M 1977)。ISBN 4-257-17026-3 
  • ジェリー・スカッツ 著、渡辺洋二 訳『第二次大戦のドイツ夜間戦闘機エース』大日本絵画、東京〈オスプレイ・ミリタリー・シリーズ. 世界の戦闘機エース ; 16〉、2001年(原著Scutts, Jerry 1998)。ISBN 4-499-22765-8 
  • ジュリオ・ドゥーエ 著、瀬井勝公 訳、戦略研究学会 編『ドゥーエ』 戦略論大系 ; 6、芙蓉書房出版、東京、2002年(原著Douhet, Giulio 1935)。ISBN 4-8295-0307-6 
  • J.E.カウフマン、H.W.カウフマン 著、平田光夫 訳『第三帝国の要塞 : 第二次世界大戦におけるドイツの防御施設および防衛体制』大日本絵画、東京、2006年(原著Kaufmann, 2003)。ISBN 4-499-22913-8 
  • 田中利幸『空の戦争史』講談社、東京、2008年。ISBN 978-4-06-287945-3 
  • ポール・ケネディ 著、伏見威蕃 訳『第二次世界大戦影の主役 : 勝利を実現した革新者たち』日本経済新聞出版社、東京、2013年(原著Kennedy, Paul M 2013)。ISBN 978-1400067619 
  • ロジャー・フォード 著、村上和彦、小椿整治、由良富士雄(防衛研究所) 訳、石津朋之 編『ドイツ軍の秘密兵器1939-45 : 〈図説〉第二次世界大戦』創元社、大阪、2018年(原著Ford, Roger 2013)。ISBN 978-4-422-21529-7 
  • フランク・レドウィッジ 著、矢吹啓 訳『航空戦』創元社、大阪〈戦争学入門〉、2022年(原著Ledwidge, Frank 2020)。ISBN 978-4-422-30084-9 

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]