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ノート:片山徹吉

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台湾総督府の建築コンペについて (1)

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台湾総督府の建築コンペに関する調査以来の件。すでに利用者:Yhiroyukiさんが要約欄でご指摘の通りですが、気付きにくいかと思うので念のためノートにも記載します。
台湾総督府の庁舎設計に関して日本初の建築コンペ「台湾総督府庁舎設計競技」が行われたのは事実ですが、コンペがあったのは明石元二郎総督の1919年7月ではなく、佐久間左馬太総督下の1906年から1909年のことです。1919年は竣工年(3月竣工)。コンペで最も高い評価を得たのは長野宇平治(乙賞)、2番目が片岡安(丙賞)、3番目が桜井小太郎、ただし1909年4月22日官報による最終結果発表では最優秀の甲賞は該当者なし。実際の建築は、長野の辰野金吾式デザインを基礎に、総督府側の要望で森山松之助が修正を加えて中央の塔を高くしたとのこと(以上文献1)。
片山徹吉の名は見いだせず、時期的にも台湾総督府赴任前で合致しません。化学畑の人物で、建築に関わったというのは疑問でしょう。上記の通りコンペは片山のドイツ留学前であり、総督府庁舎とハノーヴァー大学との関連性もないと考えられます。
なお、1919年7月に片山が明石総督から賞金をもらったという点ですが、岳父妻の兄の高橋辰次郎が台湾総督府の土木技師で1919年7月に退職金をもらっており(文献2)、そのことが混同されているのではないかとも思われます。--Snlf1会話) 2012年5月2日 (水) 17:29 (UTC)(一字挿入--Snlf1会話) 2012年5月2日 (水) 17:32 (UTC))2012年5月2日 (水) 17:39‎に一部修正--Snlf1会話2012年5月2日 (水) 17:42 (UTC)[返信]

  1. 片倉佳史台北の歴史を歩くその10 台湾総督府(現総統府)周辺」『交流』848号、2011年11月。
  2. 台湾総督府技師高橋辰次郎外三名賞与ノ件アジア歴史資料センター リファレンスコード:A04018145400
補足ありがとうございます。高橋辰次郎の件までは調べていませんでしたが、同執筆者の「片山良庵」でも文献の誤読や、時系列を無視した推測があったので、これも同じ問題のようです。--Yhiroyuki会話2012年5月3日 (木) 05:26 (UTC)[返信]

記事対象者の特筆性について

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わたくしが当記事において添付いたしました要出典部分のうち、台湾総督府建築につきましては、利用者:YhiroyukiさんとSnlf1さんによって、出典並びにご指摘・ご意見をいただきました。本当にありがとうございます。 そうなりますと、記事対象者の特筆性に疑問符が付くことにならないでしょうか。現状、記事のほとんどすべてを『帝国大学出身人名辞典 第1巻』なる書物に頼っておりますし、立項者並びに主な加筆編集者が記事対象者の玄孫であることから、Wikipediaが個人的顕彰の場となっています。削除依頼か、しばらく第三者的出典による特筆性補足を待つか、思案中です。--飛鳥リョオ会話2012年5月3日 (木) 04:01 (UTC)[返信]

ネット上の文献を見て回っただけの感想ですが、もし、片山徹吉氏に歴史上の人物としての重要性を見出すならば、材料化学者としての業績・活動・研究内容に着目すべきはずです。この点について、近代日本の工学・技術史に明るい方の助言が必要とされます。これに対して、現状は華々しい経歴が書きつらねてあるだけで肝心の情報が何もないので、特筆性判明までの仮置きとして残しておく必要性はなかろうと思います。--Yhiroyuki会話2012年5月3日 (木) 05:26 (UTC)[返信]

台湾総督府の建築コンペについて (2)

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コンペの時系列についてのご指摘ですが、コンペの結果、大幅な台湾総督府からの修正要求があり、その要求の原点はハノーバー大学本館の形態のイメージです。誰でもハノーバー大学本館の形態を見れば直ちに相関が分かるはずです。1919年の竣工まで追加変更修正があり、明石元次郎総督の件は総督府文章甲-1601号に記録があり、高橋辰次郎の退職金の件とは全く別で混同はありません。表彰はコンペ時点ではなく、実施設計段階での変更についてのヒントであり、片山徹吉が台湾から大阪に戻った時点です。化学者ですが、総督府庁舎の建築材料の赤煉瓦の製法とか現地調達出来る建材についても研究をしていたようです。時系列に遅効性があることを認識して下さい。--Toru Katayama会話2012年5月5日 (土) 11:25 (UTC)[返信]

  • (コメント)何にしても、自費出版ではない第三者による二次資料が必要です。
  1. 「誰でもハノーバー大学本館の形態を見れば直ちに相関が分かるはずです。」⇒今のところあなたの主観。
  2. 「総督府文章甲-1601号」⇒これについて言及がある二次資料は?
  3. 「実施設計段階での変更についてのヒントであり、片山徹吉が台湾から大阪に戻った時点です。」⇒第三者による二次資料は?
  4. 「研究をしていたようです。」⇒憶測・独自見解の域を出ていない。
Wikipediaの各種ガイドラインに即した資料をそろえたうえで再立項してもよいのではないでしょうか。--飛鳥リョオ会話2012年5月5日 (土) 12:14 (UTC)[返信]
  1. 台湾総督府の要求は建築主要求であり、コンペ案は帝国主義競争時代にそぐわないものであったため、建築主の要求提案としては両者を比較すれば自明。勿論辰野金吾の赤白パジャマのデザインは踏襲されました。
  2. 450円の賞典は異例であり、総督府庁舎建設時期と一致しており、在任中の功績を賞典すると記されている。中華民国の公開文章にある。
  3. 「総督府文章甲-1601号」に総督府の職を解かれた後との文言がある。中華民国の公開文章にある。
  4. 研究としては発表されていないが、手書きの研究ノートが残されている。

憶測・独自見解ではありません。--Toru Katayama会話2012年5月5日 (土) 12:55 (UTC)[返信]

  • (コメント)ですから、第三者による信頼できる二次資料を示すことが大事です。「自明」と主張するだけではなく、それを裏付ける独自研究・自費出版でない文献が必要です。中華民国の公開文章なるものも、紙媒体なら書名・編著者名・出版社名・出版年・参照ページ番号、ネットならば参照アドレスが必須です。あと、手書きの研究ノートが残されているとのことですが、これはあなた個人が所有している一次資料で、誰もが検証可能な状態にはないから、Wikipedia:検証可能性を満たしません。これまでわたくしが述べたことは、あなたのノートでわたくしを含めて数名が再三再四指摘いたしました。Wikipediaの各種ガイドライン・文書は、お読みいただくだけではなく、理解の上遵守して頂くためのものです。--飛鳥リョオ会話2012年5月5日 (土) 13:13 (UTC)[返信]
  • (報告)総督府文書甲-1601号と思われる記録は一応発見できました。『台湾総督府公文類纂 大正八年』という保存行政文書の第5巻を見ると、目次の1919年(大正8年)7月の進行番号8の項に、「〔元研究所技師〕片山徹吉轉任賞與」という記載があります。本文のWEB公開はされてないようです。なお、同年6月に工業試験場の技師に転任辞令が出ています[1]
問題は中身ですが、Toru Katayamaさんによると「総督府庁舎建設時期と一致しており、在任中の功績を賞典すると記されている」とのことで、つまり台湾総督府のコンペの賞金とは明記されていないのですね。案件名に「転任賞与」とあり、実際に直前に転任しているとおり、現状では転任に際して公務員に広く支給されていた賞与の一例と見る方が素直だと思います。転任に際しての賞与なのですから、「在任中の功績を賞典」というのはお決まりの言い回しかなと。当時の転任賞与については、アジ歴:A04018116100の3-4枚目に技師の転任に際して賞与500円を出した例があります。
以上踏まえると、まだ権威のある歴史学者の著作で言及された仮説でもないですし、コンペの賞金とWikipediaに記載するのは現状では無理と思います。--Snlf1会話2012年5月5日 (土) 17:02 (UTC)[返信]

建築主ニーズとして提案した事と、建設に伴い台湾地場産業の育成に役立つ研究に尽力した事を含めて述べているのであって「コンペの賞金」とは言っていません。コンペが終わってからの話なので誤解しないで下さい。建築としてルネッサンス様式など参考にされたところも数多く見られるので、一度建築の専門家の意見を聞かれたらいかがですか。中国のミッキーマウスほどのことはありませんが、影響は明らか。--Toru Katayama会話2012年5月5日 (土) 20:44 (UTC)[返信]

横から失礼いたします。にのと申します。上記で「中華民国の公開文章」や「専門家の意見を聞かれたらいかがですか。」とありますがそれらはWeb上か書籍、もしくは国会図書館などにありますでしょうか。それであれあれば有用な出典として考えられると思います。「検証可能」とはそういうことなのです。残念ながら「こんなのは常識だ」というのは検証可能になりません。--にの会話2012年5月5日 (土) 21:00 (UTC)[返信]
Toru Katayamaさん、あなた、本当にWikipedia:検証可能性を端から端までお読みになりましたか?第三者による独自研究・自費出版でない二次資料を(紙ベースであれネット上であれ)示すことが大事ですと、何度も何度もご忠告申し上げておりますが、お分かり頂けず至極残念です。Wikpediaのガイドラインに即した第三者的文献を示さずに、「みんなが誤解している」「正しく認識していない」「言論統制だ」「影響が明らかなのに、わからないのはおかしい」「手書きのノートがあるから出典になる」などといった、わたくしを含めた他編集者への非難・糾弾・責任転嫁ばかりです。わたくしからはここまでにします。--飛鳥リョオ会話2012年5月5日 (土) 22:16 (UTC)[返信]

ウィキペデア創設者のまだ存命中の方についてのゴシップについての記述も読ませていただきました。存命中の方であれば飛鳥リョオ様のご意見を尊重する必要があります。著名人であっても壬申戸籍簿公開によって、いくら第三者記述があっても受け売りでは意味がありません。もし検証可能な項目に絞れば、壬申戸籍簿公開なくして生死の検証は出来ないこととなります。当事者として責任ある立場で記述しており、誤りがあれば当然修正します。ウィキペデア創設者のご意見もこうした意味を踏まえており、裁判とか研究論文とかとの違いをはっきり述べられています。例えば、台湾総督府庁舎イメージはビックベンを参考にしたというような対抗物件の提示があり検討してみて了解すれば私は直ちに修正します。部外者には分からない部分も当然残されますが、分かった時点で修正すればよいと考えます。--Toru Katayama会話2012年5月6日 (日) 00:10 (UTC)[返信]

上記の Toru Katayama さんのコメントは、Wikipedia:検証可能性 が理解されていないもので、主張が無意味です。--Calvero会話2012年6月11日 (月) 13:37 (UTC)[返信]

有用な記述内容があったにもかかわらず、削除されてしまいました。 復帰を希望します。--Toru Katayama会話2012年5月14日 (月) 10:43 (UTC)[返信]

記事の復帰については、Wikipedia:復帰の方針をよくお読みいただいた上で、Wikipedia:削除の復帰依頼に依頼をご提出ください。このノートにコメントを書かれても、手続きは進みません。よろしくお願いいたします。--山田晴通会話2012年5月14日 (月) 12:05 (UTC)[返信]

信頼できる情報源

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ウィキペディアは出典主義です。したがって、第三者が検証可能でない事実について、その真偽をどうこういっても無意味です。ところで、出典として『帝国大学出身人名辞典』が挙げられていますが、これは「信頼できる情報源」とはいえないものでしょうか?--Calvero会話2012年6月11日 (月) 13:39 (UTC)[返信]

通りすがりですが気になって軽く調べてみました。ごく簡単に、

で「片山徹吉」を検索しただけでも相当数の資料がヒットします。独自研究・自費出版ではない資料が。大阪工業試験所の所長を務め(大阪朝日新聞 1923.1.25)、従三位にまで叙せられた(叙位裁可書・昭和十三年・叙位巻十四)人物のようですね。--Simasakon会話2012年7月26日 (木) 12:30 (UTC)[返信]