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フォード・ピント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フォード・ピント
前期型のフロント
後期型のフロント
概要
製造国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
カナダの旗 カナダ
販売期間 1971年 - 1980年
デザイン ロバート・エイドシュン
ボディ
ボディタイプ 2ドアセダン
2ドアパネルバン
2ドアステーションワゴン
3ドアハッチバック
駆動方式 後輪駆動
パワートレイン
エンジン 1.6L kent 直列4気筒
2.0L EAO 直列4気筒
2.3L OHC 直列4気筒
2.8L Cologne V型6気筒
変速機 3速AT/4速MT
車両寸法
ホイールベース 2,390 mm
全長 4,100 mm
全幅 1,760 mm
全高 1,300 mm
車両重量 914–1,030 kg
系譜
後継 フォード・エスコート (北米)
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ピント (Pinto) は、アメリカフォード・モーターが製造・発売していたサブコンパクトカーで、1971年から1980年まで販売された。

同社の元社長であるリー・アイアコッカが開発責任者となっており、また構造上の欠陥が問題となったことで有名である。1907年以来最小のアメリカのフォード車であるピントは、北米でフォードが生産した最初のサブコンパクトカーであった。

概要

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1970年9月11日発売。当時、アメリカのコンパクトカー市場はフォルクスワーゲンや、ダットサン日産自動車)、トヨタなどの日本車といった輸入小型車が増加していた。アメリカの自動車会社もこれらに対抗するため、従来より小さなサブコンパクトカークラスへ参入する事となり、そうして生まれたのがピントであった。通常は約43ヶ月かける開発期間を25ヶ月に短縮して市場へ投入されたが、後にこれが重大な問題となる。

当初は2ドアセダンのみのラインナップだったが、1971年2月に「ラナバウト」と呼ばれるハッチバックが追加された。1972年にはステーションワゴンも追加され、2,000ドル以下という低価格で人気を博した。その後、数回の小規模なマイナーチェンジを繰り返し、1977年にはオールガラスハッチのモデルを追加。1979年にはヘッドライトを角形とする変更を行い、翌1980年限りでエスコートにその座を譲り生産を終了した。

構造はごく一般的なもの[1]で、フロントにエンジンを置き、リーフスプリングで吊ったリジッド後輪を駆動する。フロントサスペンションはダブルウィッシュボーン+コイルスプリングの独立懸架である。

マーキュリー・ボブキャット
マーキュリー・ボブキャット

マーキュリーブランドの姉妹車ボブキャットがあり[2]、1975年(カナダでは1974年)から1980年まで販売された。また、1973年のモデルチェンジで小型化されたマスタング(「マスタングII」と呼ばれた)は、このピントをベースにしている[3]

また、ホットモデルとしては1972年から1973年にかけて「ピント・パングラ[4]」と呼ばれる、ターボチャージャーデジタルメーターを装備したキットが、カリフォルニアのフォードディーラーで販売されていた(価格は5000ドル程度)。

販売面では当初、AMCが販売していた競合車種であるグレムリンに敗北したものの、そのグレムリンも売り上げこそ好調だったものの評価は芳しくなく、後にピントが巻き返した。最終的に累計で300万台以上を販売している[1]

ピントはその構造的欠陥を厳しく批判されたが、当時はコスト削減のために品質が必然的に犠牲になっていた時代背景もあり、2005年NBCが行った「オールタイム・アメリカン・ワースト・カー」と呼ばれる調査において、同時期に販売されていた車種のほとんどがランクインしていることもまた事実である。

ピントはストックカーレースのベースとしても用いられ、大いに活躍した。

日本にはラナバウト(ハッチバック)・ワゴンともに輸入された[1]。姉妹車マーキュリー・ボブキャットが登場すると輸入車種がそちらに変わったが[2]、モデル末期には再びピントが輸入されている[5]

アメリカテレビドラマチャーリーズ・エンジェル』でケイト・ジャクソン扮するサブリナ・ダンカンが76-78年型のオレンジ色のボディーにホワイトのバイナルトップのランナバウト(ハッチバック)モデルを愛車にしていたとして知られている。ピントという車種名を知らなくてもピントのデザインに記憶がある日本の視聴者は数多い。

エンジン

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モデルイヤー別一覧

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  • 1971年モデル
    • 1.6 L (98 CID) OHV I4 - 75hp (56kW) and 96ft.lbf (130Nm)
    • 2.0 L (122 CID) SOHC I4 - 100hp (74.5kW)
  • 1972年モデル
    • 1.6 L Kent - 54hp (40kW)
    • 2.0 L EAO - 86hp (64kW)
  • 1973年モデル
    • 2.0 L EAO - 86hp (64kW)
  • 1974年モデル
    • 2.0 L EAO - 86hp (64kW)
    • 2.3 L OHC - 90hp (67kW)
  • 1975年モデル
    • 2.3 L OHC - 83hp (62kW)
    • 2.8 L (170 CID) V6 - 97hp (72kW)
  • 1976年モデル
    • 2.3 L OHC - 92hp (69kW)/121ft.lbf (163Nm)
    • 2.8 L Cologne - 103hp (77kW)/149ft.lbf (201Nm)
  • 1977年モデル
    • 2.3 L OHC - 89hp (66kW)/120ft.lbf (162Nm)
    • 2.8 L Cologne - 93hp (69kW)/140ft.lbf (189Nm)
  • 1978年モデル
    • 2.3 L OHC - 88hp (66kW)/118ft.lbf (159Nm)
    • 2.8 L Cologne - 90hp (67kW)/143ft.lbf (193Nm)
  • 1979年モデル
    • 2.3 L OHC - 88hp (66kW)/118ft.lbf (159Nm)
    • 2.8 L Cologne - 102hp (76kW)/138ft.lbf (186Nm)
  • 1980年モデル
    • 2.3 L OHC - 88hp (66kW)/119ft.lbf (160Nm)

機種別一覧

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エンジン名 搭載された年 排気量 馬力† トルク†
直列4気筒エンジン
フォード ケント 直4 1971–1973 98立方インチ (1.6 L)
  • 75 hp (56 kW; 76 PS) (1971)
  • 54 hp (40 kW; 55 PS) (1972–1973)
  • 96 lb⋅ft (130 N⋅m) (1971)
フォード EAO 直4 1971–1974 122立方インチ (2.0 L)
  • 100 hp (75 kW; 101 PS) (1971)
  • 86 hp (64 kW; 87 PS) (1972–1974)
フォード OHC 直4 1974–1980 140立方インチ (2.3 L)
  • 90 hp (67 kW; 91 PS) (1974)
  • 83 hp (62 kW; 84 PS) (1975)
  • 92 hp (69 kW; 93 PS) (1976)
  • 89 hp (66 kW; 90 PS) (1977)
  • 88 hp (66 kW; 89 PS) (1978–1980)
  • 110 lb⋅ft (150 N⋅m) (1975)
  • 121 lb⋅ft (164 N⋅m) (1976)
  • 120 lb⋅ft (160 N⋅m) (1977)
  • 118 lb⋅ft (160 N⋅m) (1978–1979)
  • 119 lb⋅ft (161 N⋅m) (1980)
V6エンジン
フォード ケルン V6 1975–1979 170立方インチ (2.8 L)
  • 97 hp (72 kW; 98 PS) (1975)
  • 103 hp (77 kW; 104 PS) (1976)
  • 93 hp (69 kW; 94 PS) (1977)
  • 90 hp (67 kW; 91 PS) (1978)
  • 102 hp (76 kW; 103 PS) (1979)
  • 139 lb⋅ft (188 N⋅m) (1975)
  • 149 lb⋅ft (202 N⋅m) (1976)
  • 140 lb⋅ft (190 N⋅m) (1977)
  • 143 lb⋅ft (194 N⋅m) (1978)
  • 138 lb⋅ft (187 N⋅m) (1979)
†馬力とトルクは、1972年モデル以降はネット値である。

欠陥

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ピントにまつわるエピソードとして最も有名なのがいわゆる「フォード・ピント事件」である。

ピントの燃料タンク配置には、被追突時に燃料漏れ・火災を起こしやすい欠陥があった。しかし事故の損害賠償を求めた裁判において、フォードは欠陥を知りながら設計改善費用より事故発生時に支払う損害賠償額のほうが安価との内部の費用便益分析に基づいてこれを放置したことが暴露され、非難された。結果、フォードは多額の賠償金の支払いを命じられた上、企業としての信用も失墜することとなった。

この事件は今日まで技術者倫理、企業倫理[6][7]、不法行為改革[8][9]の教育においてしばしば題材として用いられている。また20世紀フォックス1991年に製作した映画『訴訟』(原題: Class Action)の題材となっている。

一方、後年の研究において、この費用便益分析(ピント・メモ)は実はピントの設計には直接関係しない文書であること[10][11]など、この事件の一般における理解には誤解や不正確なものを含むことが指摘されている[12][13][14]

概要

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一般に知られる事件の概要は、次のようなものである[15][16][17][10]

先述の通り、ピントは短期間で市場に送り込むこととコスト削減の目的で、通常43か月を要する開発期間を25か月に短縮して市場に送り込まれたが、開発段階でスタイリング重視のためガソリンタンクとリアバンパーが近接した構造になったこと、リアバンパーおよび取付部の強度が不足していたことにより、追突事故に対して非常に脆弱であるという欠陥が発覚した。しかし、フォードは欠陥対策にかかるコストと事故発生時に支払う賠償金額とを比較し、賠償金を支払う方が安価であると判断(事故予測180人が焼死、さらに180人が重傷、その結果の賠償額4,950万ドル。対してガソリンタンク対策費1台あたり11ドル、計1億3,700万ドル)してそのまま放置した。

そんな折、市販された翌年の1972年にインターステートハイウェイを走行中のピントがエンストを起こし、約80km/hで走行してきた後続車に追突されて炎上し、運転していた女性が死亡、同乗者が大火傷を負う事故が発生した。この事故での陪審評決で、フォードを退社した元社員らが欠陥を知りながら開発を進めた事実を証言し、コスト比較計算の事実も発覚した。その後、フォードは陪審員裁判において総額1億2,780万ドル(当時の日本円換算で約260億円)もの巨額の懲罰的損害賠償を命じられることになり(後に裁判官により賠償額は350万ドル=当時の日本円換算で7億円に減額される)、より大きな経済的打撃を受けるだけでなく、製品の信頼性や同社の信用も失墜してしまう皮肉な結果となった。

フォードは対策としてピントのガソリンタンクの配置を後車軸上に変更し、ガソリンタンクとバンパーの強化を行う等の対策を取った。

訴訟

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ピントの欠陥による事故の結果起こされた2つの画期的な訴訟として、「グリムショー対フォード」(上記の訴訟)および「インディアナ対フォード」がある。

脚注

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  1. ^ a b c 『自動車アーカイヴ vol.10 70年代のアメリカ車篇』二玄社、2003年4月25日、82頁。 
  2. ^ a b 『自動車アーカイヴ vol.10 70年代のアメリカ車篇』二玄社、2003年4月25日、100頁。 
  3. ^ 『自動車アーカイヴ vol.10 70年代のアメリカ車篇』二玄社、2003年4月25日、85頁。 
  4. ^ Pangra!”. Hemmings. 2020年12月11日閲覧。
  5. ^ 『CAR GRAPHIC別冊 1979年の乗用車・外国車編』二玄社、1979年、368頁。 
  6. ^ Bazerman (April 2011). “Ethical Breakdowns”. Harvard Business Review. 2020年12月12日閲覧。
  7. ^ Birsch, Douglas (1994-10-25). The Ford Pinto Case 
  8. ^ Woodyard, Chris (March 28, 2011). “Case: Lee Iacocca's Pinto: A fiery failure”. USA Today 
  9. ^ Kitman, Jamie (March 24, 2011). “Don't Like Government Regulation? How'd You Like Another Pinto?”. Cartalk.com 
  10. ^ a b 伊勢田哲治「フォード・ピント事件をどう教えるべきか」『技術倫理研究』2016年11月30日。 
  11. ^ Lee & Ermann 1999: Conventional wisdom holds that Ford Motor Company decided to rush the Pinto into production in 1970 to compete with compact foreign imports, despite internal pre-production tests that showed gas tank ruptures in low-speed rear-end collisions would produce deadly fires. This decision purportedly derived from an infamous seven-page cost-benefit analysis (the "Grush/Saunby Report" [1973]) that valued human lives at $200,000. Settling burn victims' lawsuits would have cost $49.5 million, far less than the $137 million needed to make minor corrections. According to this account, the company made an informed, cynical, and impressively coordinated decision that "payouts" (Kelman and Hamilton 1989:311) to families of burn victims were more cost-effective than improving fuel tank integrity. This description provides the unambiguous foundation on which the media and academics have built a Pinto gas tank decision-making narrative.
  12. ^ Lee & Ermann 1999: "The Pinto story has become a landmark narrative" (Nichols 1997:324), a definitive story used to support the construction of amoral corporate behavior as a pervasive social problem. This narrative was first stated publicly by investigative journalist Mark Dowie (1977) in a scathing Pulitzer Prize-winning exposé, "Pinto Madness," published in Mother Jones magazine.
  13. ^ Danley, John R (2005). “Polishing Up the Pinto: Legal Liability, Moral Blame, and Risk”. Business Ethics Quarterly 15 (2): 205–236. doi:10.5840/beq200515211. 
  14. ^ Schwartz 1991: Having reflected on these invocations of the Ford Pinto case, I have arrived at two general observations. One is that several significant factual misconceptions surround the public's understanding of the case. Given the cumulative force of these misconceptions, the case can be properly referred to as "mythical."
  15. ^ 失敗事例 自動車ピントの衝突火災”. 2021年8月27日閲覧。
  16. ^ フォード・ピントの悲劇~欠陥車がもたらした最悪の事件~(CarTube)[リンク切れ]
  17. ^ 『アメリカ車の100年 1893-1993』二玄社、1996年10月5日、237-238頁。 

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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