マッシモ・ボニーニ
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名前 | ||||||
ラテン文字 | Massimo Bonini | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | サンマリノ | |||||
生年月日 | 1959年10月13日(65歳) | |||||
出身地 | サンマリノ | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
代表歴 | ||||||
1980-1983 | イタリア U-21 | 9 | (0) | |||
1990-1995 | サンマリノ | 19 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
年 | チーム | |||||
1996-1998 | サンマリノ | |||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
マッシモ・ボニーニ(Massimo Bonini, 1959年10月13日 - )は、サンマリノ出身の元サッカー選手。元サンマリノ代表である。ポジションはミッドフィールダー。
経歴
[編集]1980-81シーズン、ACチェゼーナのセリエA昇格に貢献し、1981-82シーズンにユヴェントスに移籍[1]。9月13日に古巣チェゼーナとの対戦で途中出場し、セリエAの舞台にデビューした[2]。初年度は、リーグ優勝を経験したが、ローテーションでプレーすることが多かった[2]。2シーズン目には、ジュゼッペ・フリーノからポジションを奪ってスターターに定着、ブラヴォー賞も受賞した[2]。ユヴェントスでは、公式戦294試合に出場して6得点を決めた[3]。3回のスクデット、1回のコッパ・イタリア獲得、1983-84シーズンのUEFAカップウィナーズカップ、1984-85シーズンのUEFAチャンピオンズカップ、1984年のUEFAスーパーカップ、1985年のインターコンチネンタルカップ獲得などに貢献した。
ユヴェントス退団後、引退までの4シーズンはボローニャでプレーした。
1990年まで、サンマリノサッカー協会はUEFAに公式には認知されていなかった。サンマリノ人選手はイタリア人選手とみなされていたのである。この理由でボニーニはイタリアサッカー連盟からプレーする権利を与えられ、実際にイタリアU-21代表でプレーした[1]。そして何度かフル代表からの誘いを受けたものの、サンマリノ市民権を放棄することを拒み続け、1990年にサンマリノ代表が発足するまで待った[1]。1995年までに、19試合に出場した。引退後の1996年から1998年までサンマリノ代表監督を務めた[1]。
人物
[編集]- 運動量が多く、献身的なプレーでボールを回収、プラティニやボニエクらを助けるなど、チームに欠かせない選手であった[1][2]。派手なパッサーではなく、鋭いショートパスを好んで供給していた[2]。
- ユヴェントス時代ミシェル・プラティニからも信頼されており、プラティニがアニエリ会長から、煙草を吸うことに対しての懸念を示された際、「重要なことは、ボニーニが煙草を吸わないことだ。何故なら、彼は私の為に走るからだ。」と返したエピソードが知られている[2]。
所属クラブ
[編集]- 1977-1978 ACベッラーリア・イジェーア・マリーナ
- 1978-1979 ACフォルリ
- 1979-1981 ACチェゼーナ
- 1981-1988 ユヴェントスFC
- 1988-1992 ボローニャFC
タイトル
[編集]クラブ
[編集]- ユヴェントス
- セリエA 1982, 1984, 1986
- コッパ・イタリア 1983
- UEFAチャンピオンズカップ 1985
- UEFAカップウィナーズカップ 1984
- UEFAスーパーカップ 1984
- インターコンチネンタルカップ 1985
個人
[編集]- UEFAジュビリーアウォーズ 2004 - 過去50年の最も偉大なサンマリノ人選手
脚注
[編集]- ^ a b c d e “Massimo Bonini: San Marino’s unsung hero”. FIFA (2023年3月10日). 2023年8月23日閲覧。
- ^ a b c d e f “Massimo Bonini: The Juventus dynamo who became San Marino’s greatest”. THE GENTLEMAN ULTRA. 2023年8月23日閲覧。
- ^ “Massimo Bonini”. Transfermarkt. 2023年8月23日閲覧。