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ラフィー (DD-724)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
DD-724 ラフィー
航行中のラフィー
1964年3月26日撮影)
基本情報
建造所 バス鉄工所
運用者  アメリカ海軍
艦種 駆逐艦
級名 アレン・M・サムナー級駆逐艦
愛称 The Ship That Would Not Die
(不死身の船)
艦歴
起工 1943年6月28日
進水 1943年11月21日
就役 1944年2月8日
1951年1月26日
退役 1947年6月30日
1975年3月9日
除籍 1975年3月9日
その後 博物館船として保存
要目
排水量 2,200トン
全長 376ft 6in(114.76m)
最大幅 40ft(12m)
吃水 15ft 8in(4.78m)
機関 蒸気タービン2基、2軸推進 60,000shp(45MW)
最大速力 34ノット(63km/h)
航続距離 6,500海里(12,000km)/15ノット(28km/h)時
乗員 士官兵員336名
兵装 5インチ連装砲3基6門
20mm機関砲11門
40mm機関砲12門
爆雷軌条2基
爆雷投射機6基
21インチ魚雷発射管10門
その他 アメリカ合衆国国家歴史登録財1983年4月12日指定)[1]
アメリカ合衆国国定歴史建造物1986年1月14日指定)[2]
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ラフィー (USS Laffey , DD-724) は、アメリカ海軍駆逐艦アレン・M・サムナー級。艦名は南北戦争での活躍から名誉勲章を受章したアメリカ海軍水兵バートレット・ラフィー英語版に因む。「ラフィー」の名を持つ艦としては、1942年11月13日の第三次ソロモン海戦で奮戦の後に沈没したベンソン級駆逐艦ラフィー (DD-459)に続き二代目。

ラフィーは第二次世界大戦中のノルマンディー上陸作戦沖縄の戦いにおいて、苛烈な砲爆撃と神風特別攻撃隊による攻撃を生き延びたことから「不死身の船」(The Ship That Would Not Die)と綽名された。ラフィーは現在、サウスカロライナ州チャールストン近郊のパトリオッツ・ポイント英語版博物館船として保存されており、アメリカ合衆国国定歴史建造物アメリカ合衆国国家歴史登録財に指定されている[3]

艦歴

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ラフィーは1943年6月28日にメイン州バスバス鉄工所で起工、同年11月21日に名前の元であるバートレット・ラフィーの娘ビートライス・F・ラフィー夫人の手によって進水した。その後ラフィーは1944年2月8日にフレデリック・J・ベクトン英語版(Frederick・J・Becton)中佐の指揮下で就役した[4]

メイン州はバスの地にて生を受けた
今や誉れ高き名と共に
乗組員は彼女の姿態を手に入れたのだ
定めを受けし彼女の運命のために — ラフィーの砲手オーウェン・ラダーによる頌歌[5]

ノルマンディー上陸作戦

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錬成訓練完了後、ラフィーはワシントン海軍工廠を訪問する。それから1944年2月28日にバミューダへ向け出港し3月4日に到着した。練習艦任務に就くために短期間ノーフォーク海軍基地に戻った後、5月14日にイギリスへ向かう船団を護衛するためニューヨークに向かう。スコットランドグリーノックで給油後、ラフィーは5月27日にイングランドプリマスへ到着した。

ラフィーはすぐにノルマンディー上陸作戦への参加準備を行う。6月3日、ラフィーは曳船、上陸用艦艇、オランダ海軍フローレス級砲艦2隻からなる船団を護衛してノルマンディーを目指した。船団は1944年6月6日(D-Day)の夜明けにセーヌ湾英語版ユタ・ビーチ沖へ到着した。ラフィーは周辺海域を警戒し、6月8日から9日にかけて敵砲台を砲撃し成果を挙げた。一時的に現場を離れた後、ラフィーは急いでプリマスへ向かい補給を行うと翌日にはノルマンディー沿岸へ取って返した。6月12日、ラフィーは駆逐艦ネルソン英語版に雷撃を行った敵のSボート部隊を追跡し、強固な陣形を突き崩してさらなる攻撃を防いだ。

警戒任務完了後、ラフィーは戦艦ネバダと共にイギリスへ戻り6月22日にポーツマスへ到着、続いてシェルブールの戦いに参加した。6月25日、ラフィーはネバダと共にシェルブール=オクトヴィルの強固な防御陣地を砲撃する第2砲撃グループ(Bombardment Group 2)に加わるため出撃した。砲撃地域に到着後、砲撃グループは沿岸砲台からの反撃を受けた。駆逐艦バートン英語版オブライエン英語版が被弾し、ラフィーにも海面で跳弾となった砲弾が水線上に直撃したが、幸運にも不発であったため被害はほとんどなかった。

その日遅く、砲撃グループは後退し北アイルランドに向かい7月1日にベルファストに到着した。3日後、ラフィーは第119駆逐隊(Destroyer Division 119, DesDiv 119)と共にボストンへ出港し7月9日に到着した。一か月のオーバーホールを終えた後、ラフィーに搭載された新型電子兵装の試験を実施、二週間後にノーフォークへ向かったラフィーは8月25日に到着する。

第二次世界大戦中のラフィー。

レイテの戦い

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翌日出港したラフィーはパナマ運河カリフォルニア州サン・ディエゴを経由し、9月に真珠湾に到着。大規模な訓練の後、ラフィーは10月23日に戦闘海域へ向かい、エニウェトク環礁経由で11月5日ウルシー環礁の泊地に停泊した。同日、ラフィーは第38任務部隊(Task Force 38, TF 38)の護衛に参加し、それからフィリピン日本軍艦艇、航空機、飛行場に対する空襲を支援した。11月1日、ラフィーは一本の落下傘が降りてくるのを発見し、護衛配置を離れて重傷を負った日本軍のパイロットを救助した。翌日、給油活動に合わせてパイロットの身柄は空母エンタープライズに移された。ラフィーは11月22日にウルシー環礁へ戻り、11月27日に第60駆逐戦隊(Destroyer Squadron 60, DesRon 60)と共にレイテ湾へ向かった。第7艦隊の大型艦艇への対空・対潜護衛任務を行いつつ、ラフィーは12月7日にオルモック湾への上陸を援護し、沿岸砲台を沈黙させ集結中の敵部隊に砲撃を行った。

12月8日にレイテ島サン・ペドロ湾での短期間の修繕の後、ラフィーを含む第77.3近接支援群(Close Support Group 77.3)は12月12日にミンドロ島へ向け出撃、12月5日から島への上陸作戦を支援した。橋頭堡が確保された後、ラフィーはレイテ島へ戻る空荷となった揚陸艦艇を護衛し、12月17日にサン・ペドロ湾へ到着した。10日後、ラフィーはミンドロ島周辺海域の警戒のために第77.3任務群(Task Group 77.3, TG 77.3)に加わる。一時的にサン・ペドロ湾へ戻った後、ラフィーは第7艦隊に再加入し、1945年1月中をルソン島リンガエン湾に上陸する部隊と揚陸艦艇の護衛を行って過ごした。カロリン諸島へ退いたラフィーは1月27日にウルシー環礁へ到着、2月には東京への陽動爆撃と硫黄島で戦う海兵隊への直接支援爆撃を行う第58任務部隊(Task Force 58, TF 58)を支援した。同月下旬、ラフィーは重要な諜報情報をグアム島にいるチェスター・ニミッツ元帥の元へ運び3月1日に到着した。

沖縄の戦い

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翌日、ラフィーは第54任務部隊(Task Force 54, TF 54)の戦艦と共に徹底的な訓練を行うためウルシー環礁に到着、3月21日に沖縄の戦いに参加する任務部隊の1隻として出撃する。ラフィーは慶良間諸島占領を支援し、沿岸目標の砲撃、夜間の敵に対する攪乱砲撃、主力艦艇の護衛を実施した。

1945年4月16日、ラフィーは沖縄沖30マイル(26海里;48km)の第1レーダーピケット・ステーションでレーダーピケット任務に就いた。同日ラフィーを含む艦隊は敵の空襲をはねのけて合計13機の撃墜を記録。翌日、日本側は約50機の更なる空襲を仕掛けてきた。

  • 午前8時30分、1機の九九式艦上爆撃機がラフィーの近くに偵察に現れた。その九九式艦爆は対空砲火を受けると爆弾を投棄して退避していった。間もなく九九式艦爆4機が出現し、編隊を崩した敵機はラフィーに向かって急降下爆撃を仕掛けてきた。2機は20mm機関砲で破壊され、低空から攻撃を試みた他の2機も海面に突っ込んだ。それからほどなくして、ラフィーの砲手の一人は左舷から機銃掃射を行いつつ接近してきた彗星1機を撃墜する。10秒後、今度はラフィーの5インチ主砲が火を噴き、右舷から飛来して爆撃を試みようとしていた2機目の彗星に砲弾を命中させた。その彗星が落とした爆弾は海面に落ち、破片で右舷の砲手たちを負傷させた。火災は応急修理要員によって直ちに消火された。
  • 午前8時42分、ラフィーはさらに左舷から接近してきた九九式艦爆を撃墜。敵機の機体はラフィーの艦体に直撃することはなかったものの、海に突っ込む直前に甲板を掠め、損傷した発動機からの燃料をばら撒いていった。3分後、新たな九九式艦爆が右舷方向から接近し、ラフィーの40mm機関砲座に突入した。これによって3名が死亡、40mm機関砲2基と20mm機関砲数門が破壊され弾庫に火災が発生した。時を同じくして、別の九九式艦爆が艦尾方向から機銃掃射しつつ接近、後部主砲塔に突入する。この敵機の爆弾は装薬庫を誘爆させ、後部主砲塔は破壊され大火災が発生した。同様に接近した別の1機も、ラフィーからの反撃で炎上しつつも燃えるラフィーの後部主砲塔に突入した。間髪入れず、更なる九九式艦爆が艦尾から接近して爆弾を投下、7名が死亡しが取舵26度から動かなくなった。攻撃は止むことなく、新たな九九式艦爆と彗星が右舷に接近しさらにラフィーに爆弾を命中させた。

危機的な状況下で、護衛空母シャムロック・ベイから発艦した4機のFM-2ワイルドキャット戦闘機が、ラフィーを狙う特攻機を迎撃した。そのうちの1機のパイロットであったカール・リーマン(Carl Rieman)は、特攻機の編隊に急降下すると1機の九九式艦爆に狙いを定めた。僚機がその敵機を片付けたため、リーマンは別の九九式艦爆の背後に付きこれを撃墜した。10秒後、リーマンは1機の九七式艦上攻撃機を追跡し、パイロットを射殺した。わずか5秒後に、別の九七式艦攻を攻撃したリーマンは、残る弾薬全てをその敵機に撃ち込んだ。弾薬を使い果たしたリーマンは、乗機を特攻機の編隊に突っ込ませて攻撃を妨害すると母艦に帰還した。3機の僚機も数機を撃墜し、弾薬が尽きた後は、燃料不足からシャムロック・ベイに帰還を余儀なくされるまでの間同様に攻撃を妨害し続けていた。リーマンらの任務は12機のF4Uコルセアが引き継いだ。

九九式艦爆1機が機能を喪失しているラフィーに左舷方向から接近してきたが、コルセアがその九九式艦爆を追跡し、狙いを誤りラフィーを飛び越えた九九式艦爆を撃墜した。次いで、そのコルセアは左舷方向からラフィーに機銃掃射をしてきた一式戦闘機の背後に追いついた。ラフィーの対空砲火がその一式戦闘機を撃ち落としたが、機体はそのままラフィーのマストに激突すると海面に突っ込んで行った。ところが、追跡していたコルセアもまた誤ってレーダーアンテナに衝突し海に叩きつけられてしまった。だが幸いなことに、コルセアのパイロットは後に上陸支援艇LCS-51に救助された。

九九式艦爆が艦尾方向から接近すると爆弾を投下した。これは左舷に至近弾となり、投弾した九九式艦爆はその後コルセアに撃墜された。コルセアは新たな九九式艦爆を追跡し攻撃をかけたが、投下された爆弾はラフィーの40mm機関砲座の一つに命中し、砲員を全滅させた。コルセアは艦首方向から接近してきた2機の一式戦闘機と交戦し1機を撃墜するも、別の1機に撃ち落とされてしまった。残った一式戦闘機はそれからラフィーの対空砲火で撃墜された。右舷方向から接近した九九式艦爆はラフィーの主砲で撃墜され、さらに攻撃をかけてきた彗星1機は上空警戒のコルセアによって撃ち落とされた。

ラフィーは実に特攻機5機による突入と4発の爆弾、機銃掃射を受け大破、死者32名・負傷者71名に上る甚大な損傷を負ったにもかかわらず、ついに生き残った[4]。補助通信士官フランク・マンソン(Frank Manson)大尉がベクトン艦長に総員退艦を考えているかと尋ねたが、ベクトン艦長は怒って言った。

いいや! 1門でも火を噴く砲がある限り俺は絶対に艦を捨てはせんぞ。
"No! I'll never abandon ship as long as a single gun will fire."

ベクトン艦長には傍で聞いていた見張り員の呟きは聞こえなかった。

それと、砲を撃てる奴が一人でも見つかるのならね。
"And if I can find one man to fire it."[6]

当時、あまりに特攻機がレーダーピケット艦を攻撃してくるので、ラフィーの乗組員の内1名が「Carriers This Way(空母はあちら)」という意味の矢印を書いた大きな看板を掲げたこともあったが、結局ラフィーは特攻を受け大破することになった[7]

戦闘後、損傷したラフィーは曳航され、1945年4月17日に沖縄に到着した。大急ぎで応急修理が行われた後、ラフィーはサイパンに向かい4月27日に到着する。4日後、西海岸を目指したラフィーはエニウェトク環礁とハワイを経由しつつ5月24日にワシントン州タコマに到着した。トッド・パシフィック造船所に入渠したラフィーは9月6日まで本格的な修理を実施した[8] 。修理完了後、ラフィーはサン・ディエゴへ向かい9月9日に到着した。

10月5日にサン・ディエゴを出たラフィーは10月11日に真珠湾へ着き、1946年5月21日までハワイ近海で活動した。次いでラフィーはビキニ環礁での核実験であるクロスロード作戦に参加する。ラフィーの除染は「塗装のサンドブラスト処理と水線上及び水線下の再塗装、そして海水配管とエバポレーターの酸洗浄と一部交換」が必要とされた[9]。除染完了後、真珠湾を経由して西海岸での任務のため8月22日にサン・ディエゴに到着した。

1947年2月、ラフィーはグアム島とクウェゼリン環礁を巡航した後3月11日にハワイへ到着、以降5月1日にオーストラリアへ向かうまでハワイ近海で活動した。6月17日にサン・ディエゴへ戻ったラフィーは、1947年6月30日に退役し太平洋予備役艦隊英語版に編入された。

朝鮮戦争

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ラフィーは1951年1月26日にチャールズ・ホロヴァク中佐(Charles Holovak)の指揮の下で再就役した。サン・ディエゴでの公試後、東海岸に向かったラフィーは1951年1月中旬にキューバグアンタナモ湾で錬成訓練を行い、2月にはノーフォークでオーバーホールを実施した。1952年1月、ラフィーは朝鮮半島へ向かった。3月に到着後、ラフィーは第77任務部隊(Task Force 77, TF 77)の空母アンティータムヴァリー・フォージを護衛した。

5月、ヘンリー・J・コンガー(Henry J. Conger)大佐の指揮の下でラフィーは北朝鮮元山封鎖英語版に参加する。

彼の旗艦であるU.S.S.ラフィーに乗艦していた間、しばしば元山港で敵の砲撃に見舞われたものの、コンガー大佐は彼の艦が成功をもたらす大いなる助けとなり、そして敵に対する恐れ知らずな反撃砲火の数々を指揮したのである。彼のリーダーシップ、秀でた判断力そして任務遂行への熱意ある献身によって、コンガー大佐は朝鮮半島東岸の海上封鎖に大いに寄与したのであり、アメリカ合衆国海軍の任務における最も崇高な伝統を保ったのであった。 — ダン・A・キンボールアメリカ合衆国海軍長官[10]

5月30日に横須賀で短期間の改装を行った後、朝鮮へ戻ったラフィーは第77任務部隊に再加入する。6月22日、アメリカ東海岸へ向かったラフィーはスエズ運河を経由して8月19日にノーフォークへ到着した。

ラフィーはカリブ海地域1954年2月までハンターキラーグループと行動を共にし、6月29日までの朝鮮半島展開を含む世界巡航に出発した。ラフィーは極東を発ち、スエズ運河経由で8月25日にノーフォークへ着いた。ノーフォークを出てからは艦隊演習と空母のプレーンガードとしての任務に就いたほか、10月7日にはバージニア岬英語版沖で嵐のために沈没したスクーナーエーブル(Able)の乗員4名を救助している。

冷戦

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駆逐艦ハンク英語版(DD-702)と共に入渠中のラフィー(右)。1968年

1956年11月7日、ラフィーはスエズ危機を受けてノーフォークを発ち地中海に向かった。到着後は第6艦隊に加わり、イスラエルエジプト領海の境界付近を哨戒した。その後緊張状態は収束したため、1957年2月20日にラフィーはノーフォークに戻り大西洋岸での任務を再開する。9月3日には北大西洋条約機構の演習に参加するためスコットランドに向かった。それからラフィーは地中海で第6艦隊に再加入した。12月22日にノーフォークに帰還し、1958年6月には大規模演習のためカリブ海地域を巡航した。

翌月ノーフォークに戻ると、1959年8月7日に第32駆逐戦隊(Destroyer Squadron 32, DesRon 32)と共に地中海へ展開するまで通常の任務を続けた。ラフィーは12月14日にスエズ運河を通過、エリトリアマッサワで留まった後サウジアラビアラス・タヌラ英語版にあるアラムコの荷役港へ向かい、そこでクリスマスを過ごした。ラフィーは1960年1月下旬までペルシャ湾で活動した後、スエズ運河を抜けて帰国の途に就き2月28日にノーフォークへ到着した。ラフィーはそれからノーフォーク沖合、そしてカリブ海での巡航を行う。8月中旬、ラフィーは北大西洋条約機構の大規模演習に参加した。10月にベルギーアントワープを訪問して10月20日にノーフォークへ戻ったが、1961年1月には地中海へ向かった。

地中海での展開中、ラフィーは遭難したイギリス客船ダラ英語版の救援活動に参加している。8月中旬に本国へ向かったラフィーは8月28日に到着した。9月にラフィーの乗員間の協調性を高めることを企図した激しい演習に参加することになり、演習はノーフォーク試験評価派遣隊(Norfolk Test and Evaluation Detachment)に隷属することになる1963年2月まで続いた。1963年10月から1964年6月まで、ラフィーは東海岸でハンターキラーグループに加わり活動、6月12日からは海軍兵学校生徒の地中海への訓練航海を実施して6月23日にパルマ・デ・マヨルカへ到着した。2日後、ラフィーを含む任務部隊は地中海でのソ連海軍の演習監視任務に向かう。それからラフィーはイタリアナポリフランステウル=シュル=メール英語版スペインロタバレンシアを訪問して9月3日にノーフォークへ戻った。以降もラフィーは第6艦隊と共に地中海の巡航を継続したほか、大西洋やカリブ海で多くの作戦・演習に参加した。

ラフィーは1975年3月9日に退役し、同日除籍された。ラフィーはアレン・M・サムナー級で一番長く現役を貫いた駆逐艦であった。

栄典

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ラフィーは第二次世界大戦において従軍星章英語版5個と殊勲部隊章英語版[11]朝鮮戦争で従軍星章2個と大韓民国殊勲部隊章英語版冷戦中には功労部隊感状英語版をそれぞれ受章した。また展開した3つの戦争・対立全てで「Battle "E"英語版」の称号を与えられている。

ラフィーは1983年アメリカ合衆国国家歴史登録財に、1986年にはアメリカ合衆国国定歴史建造物にそれぞれ指定された。ラフィーはまた、アメリカ海軍で運用されたアレン・M・サムナー級駆逐艦で一番長く現役に留まり、激しい特攻機の攻撃を生き延びた強靭な艦であった[12]

保存

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博物館船として保存されているラフィー。2007年

ラフィーは現在サウスカロライナ州マウントプレザントパトリオッツ・ポイント英語版(Patriots Point)で保存されている。ラフィーの傍らにはエセックス級航空母艦ヨークタウン (CV-10)潜水艦クラマゴア」も同様に保存されている。また、2009年フロリダ州キーウェストへ移転するまでは沿岸警備隊カッターインガムもともに展示されていた。

2008年10月、ラフィーの艦体に100ヶ所以上の漏水が発見され[13]、パトリオッツ・ポイントの関係者はラフィーが係留場所で沈没するのではないかという懸念を抱いた[13]。 ラフィーを修理するため乾ドックへ曳航するには900万ドルが必要と見積もられ、関係者はサウスカロライナ州政府から920万ドルを借りることで費用を確保した[14]

2009年8月19日、ラフィーは修理のためクーパー川河畔にあるノースカロライナ州デチェンス造船所の乾ドックへ曳航された[15]。 腐食した艦体は厚板で被覆された後、数マイルに及ぶ溶接と新たな塗装で修理された[14]

2010年4月16日、クレムソン大学トラスト部局はパトリオッツ・ポイントの団体関係者と合意に達し、ノースチャールストンにあるチャールストン海軍工廠跡地のクレムソン大学所有地の傍にラフィーを係船するという契約を結んだ[16]。 ラフィーは2012年1月25日にパトリオッツ・ポイントに戻り、帰還を喜ぶ群衆と12名以上の元乗員たちに迎えられた。パトリオッツ・ポイントへの帰還と、博物館正面の新たな埠頭へ適合させるための改修には110万ドルが費やされた[17]。元乗員の一人は次のように語った。

これは再び生き残らんとする彼女の長きにわたる戦いを意味するものである。ドイツ人は彼女を沈めんとした。日本人も彼女を沈めんとし、さらには彼女が自らをここに横たえんとしたのである。彼女は全てを打ち負かし、そしてまた戻ってきてくれたのだ。[18]

創作作品への登場

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出典

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  1. ^ National Park Service (23 January 2007). "National Register Information System". National Register of Historic Places. National Park Service. {{cite web}}: Cite webテンプレートでは|access-date=引数が必須です。 (説明)
  2. ^ Laffey, USS (Destroyer)”. National Historic Landmark summary listing. National Park Service. 2008年6月26日閲覧。
  3. ^ Explore Museum”. en:Patriots Point. 2012年9月4日閲覧。
  4. ^ a b Destroyer Photo Index DD-724 USS LAFFEY”. www.navsource.org. 2018年5月11日閲覧。
  5. ^ "Hell from the Heavens: The Epic Story of the USS Laffey and World War II's Greatest Kamikaze Attack",John Wukovits著,Da Capo Press刊(2016年),ISBN 978-0306824548,p5
  6. ^ Gandt, Robert (2010). The Twilight Warriors. Broadway Books. p. 265. ISBN 978-0-7679-3241-7 
  7. ^ Walker, J. Samuel (2009). Prompt and Utter Destruction: Truman and the Use of Atomic Bombs Against Japan (Easyread Super Large 20pt Edition ed.). ISBN 1442994770
  8. ^ Trueblood, William (25 May 1945). “USS Laffey DD-724 Arrives at Tacoma for Repairs”. Tacoma Times (Tacoma Public Library South Sound Photo Archive). http://search.tacomapubliclibrary.org/southsound/southsound.asp?now=13/AUG/00 2012年9月4日閲覧。 
  9. ^ Delgado, James P.; Lenihan, Daniel J.; Murphy, Larry E. (1991). “Operation Crossroads”. The Archeology of the Atomic Bomb - A Submerged Cultural Resources Assessment of the Sunken Fleet of Operation Crossroads at Bikini and Kwajalein Atoll Lagoons. Santa Fe, New Mexico: en:National Park Service. p. 33. http://www.nps.gov/history/history/online_books/swcrc/37/chap2.htm 2012年9月4日閲覧。 
  10. ^ Destroyer Photo Index DD-724 USS LAFFEY”. www.navsource.org. 2018年7月7日閲覧。
  11. ^ USS Laffey: Attacked Off Okinawa in World War II | HistoryNet” (英語). www.historynet.com. 2018年5月11日閲覧。
  12. ^ Butowsky, Harry A. (May 1985). “National Register of Historic Places Inventory-Nomination: Laffey” (pdf). en:National Park Service. 2012年9月4日閲覧。 and
    Accompanying photos, exterior and interior, from 19.” (pdf). 2012年9月4日閲覧。
  13. ^ a b Bird, Allyson (21 February 2009). “Will friends be able to save the 'Ship that Would Not Die'?”. en:The Post and Courier (Charleston, SC) 
  14. ^ a b Bird, Allyson (11 February 2010). “The USS Laffey's greatest battle? Against time”. en:The Post and Courier (Charleston, SC) 
  15. ^ “Historic WWII destroyer heading to SC dry-dock”. en:Victoria Advocate. en:Associated Press (Victoria, Texas: en:The McClatchy Company). (19 August 2009). https://www.victoriaadvocate.com/news/2009/aug/19/bc-sc-laffey-repairs/ 19 October 2016閲覧。 
  16. ^ Clemson trustees take action on academic, facility issues”. clemson.edu (16 April 2010). 2010年4月17日閲覧。
  17. ^ Crisp, Adam (25 January 2012). “Patriots Point Celebrates Laffey's Return”. Mount Pleasant Patch. 2012年9月4日閲覧。
  18. ^ Smith, Bruce (25 January 2012). “WWII destroyer returns to SC home after repairs”. Yahoo News. Associated Press. https://news.yahoo.com/wwii-destroyer-returns-sc-home-repairs-165711422.html 2012年1月26日閲覧。 
  19. ^ https://www.hollywoodreporter.com/heat-vision/mel-gibson-eyes-kamikaze-war-thriller-destroyer-as-next-directing-gig-1107033 2018年7月8日閲覧

関連項目

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外部リンク

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