三木義雄
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選手情報 | ||||
生年月日 | 1905年6月6日 | |||
出身地 | 日本 兵庫県揖保郡揖西村構 | |||
没年月日 | ? | |||
オリンピック | 110mハードル準決勝進出 | |||
自己ベスト | ||||
100m | 11.0秒 [1] | |||
200m | 24.6秒 [1] | |||
110mハードル | 15.0秒 [1] | |||
走高跳 | 1m83cm [1] | |||
走幅跳 | 6m98cm [1] | |||
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三木 義雄(みき よしお)は、日本の陸上競技選手。1920年代に障害走で活躍して日本記録を更新、1928年アムステルダムオリンピックに出場した。
経歴
[編集]兵庫県揖保郡揖西村構(現在のたつの市揖西町構)生まれ[2]。旧制龍野中学校(現在の兵庫県立龍野高等学校)に入学し、1923年の日本陸上競技選手権大会では走高跳で優勝する(1m65)[1]。
慶應義塾大学に進学し、1925年には明治神宮競技大会の200mH種目で24秒6の記録を出した(当時の日本記録・世界記録という[1])。1927年には第8回極東選手権競技大会(上海)に出場、110mHで2位、200mHで3位[1]。1927年10月、関東学生陸上競技対校選手権大会の100mHで15秒3の日本記録を出す[3]。
大学卒業後は大阪市北浜の大阪屋商店(岩井コスモ証券の前身の一つ)[注釈 1]に勤務。
1928年、アムステルダムオリンピックに男子110mHで出場[5]、準決勝で落選し決勝進出はならなかった(公式記録としては「記録なし」)。15秒0は当時の日本新記録相当であった[1]。1928年には日本選手権でも優勝。1929年には明治神宮競技場で開催された日独対抗競技会の110mHで優勝(15秒1)。
1931年には万一の負傷に備えて1年間の傷害保険をかけ、「陸上競技選手が足に保険をつけたものは日本では三木君が初」と新聞記事に取り上げられている(当時は様々なものに損害保険をかけることが「流行」であったという)[4]。記事によれば三木は「北浜アスレチック・クラブ」の会員仲間とともに、勤務後に中之島公園のトラックで練習をし、翌年のオリンピックを目指しているという[4]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i “アムステルダムオリンピック出場 三木義雄選手の記録”. 龍野高校陸友会. 2020年9月25日閲覧。
- ^ “過去の有名人(医学、スポーツ、宗教、逸話・伝承)”. たつの市の文化紹介『たつのへようきたったなぁ』. たつの文化活動促進運営委員会. 2020年9月25日閲覧。
- ^ “日本学生記録の変遷”. 日本学生陸上競技連合. 2020年9月25日閲覧。
- ^ a b c “陸上選手の足に五千円の保険/ハードルの三木君が神戸海上保険と尖端的の契約 ” (pdf). 聖州日報: p. 5. (1931年2月6日)
- ^ “Yoshio Miki Olympic Results”. Sports Reference LLC. 2020年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年9月13日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- アムステルダムオリンピック出場 三木義雄選手の記録 - 龍野高校陸友会