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井上要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
井上 要
いのうえ かなめ
生年月日 1865年5月29日(慶応元年5月5日
出生地 伊予国喜多郡菅田村(現愛媛県大洲市
没年月日 1943年昭和18年)3月18日
死没地 愛媛県松山市
出身校 東京専門学校法律科中退(推薦校友)
前職 愛媛県会議長
所属政党 憲政本党
称号 勲四等旭日小綬章
大礼記念章
緑綬褒章
従六位
配偶者 井上チカヨ
子女 貞、セツ、平一郎
親族 有友正親(衆議院議員)
選挙区 愛媛郡部
当選回数 3回
在任期間 1902年(明治35年)8月10日 - 1908年(明治41年)3月27日
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井上 要(いのうえ かなめ、旧姓・有友1865年5月29日(慶応元年5月5日) - 1943年昭和18年)3月18日)は、日本の弁護士[1][2]政治家・衆議院議員(憲政本党)[1]実業家[2]。松山商工会議所会頭[3][4]早稲田大学評議員[5]松山高等商業学校理事[6]。北予中学会理事[6]。族籍は愛媛県士族[3][6]不去庵

略歴

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伊予国喜多郡菅田村(現在の愛媛県大洲市)の庄屋の家に生まれた。有友平衛の長男[3][6]。のちに井上家の養嗣子となる。地元の小・中学校を経て[7][8]1882年(明治15年)に上京して丸山作楽塾、岡松甕谷塾で学び[9]、翌年漢学者鈴村譲の海南書院(松山)で学ぶ[10]。法学を独習して代言人(弁護士)試験に合格[11]1888年(明治21年)に再び上京して東京専門学校に入学。成績優秀により大隈綾子(大隈重信夫人)から賞品(書籍)を授与されるも義兄有友正親の説得により同校を中退し[12]1890年(明治23年)1月、松山市三番町に代言人事務所を開く[13]。同年立憲改進党に入党[14][5]

1897年(明治30年)愛媛県会議員に当選[15]、議長も務めた[16]1902年(明治35年)に愛媛郡部から第7回衆議院議員総選挙に出馬して当選(憲政本党)、1908年(明治41年)まで衆議院議員を3期務めた[17]第10回衆議院議員総選挙には出馬せず、自らの地盤を才賀藤吉に譲って政界の第一線から退いた[18]

実業界では1888年(明治21年)に伊予鉄道委員(取締役兼監査役)となる。のち第3代、第5代同社社長[19]1927年(昭和2年)10月から1933年(昭和8年)8月まで松山商工会議所会頭も務めた[4]1933年(昭和8年)に伊予鉄道電気会長を辞し、退職金を愛媛県立図書館の建設費に寄贈した[20]

教育界では1902年(明治35年)に社団法人北予中学会理事となり、1924年(大正13年)には北予中学校(現・松山北高校)の校長に秋山好古を招聘[21]。また、新田長次郎らと協力して松山高等商業学校(現・松山大学)を設立。さらに、伊予鉄道電気の重役に対する慰労金5万円を寄贈して道後グラウンドを建設。同グラウンドには野球場(1万9000人収容)、陸上競技場、テニスコート、プール、児童遊戯場も設けられ[22]、愛媛県のスポーツ振興に大きく貢献した[23]

1943年(昭和18年)3月18日死去。79歳。法名は謙徳院要道不昧居士。葬儀は松山市内の寺院で伊予鉄道電気社葬により行われた[24]

人物

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親交のあった渋沢栄一から贈られた「不去庵」という雅号[25]を用いて和歌を詠み、伊予史談会を援助して自らも多くの論文を寄せた[26]

東京専門学校の中退者ではあるが1894年に推薦校友となり[5]1914年6月14日に大隈邸で行われた早大校友有志大会では四国校友会総代として祝辞を述べている[27]

趣味は囲碁[6]。宗教は仏教[6]。住所は愛媛県松山市豊坂町2丁目(本宅)[5]、同県温泉郡三津浜町大字新浜[5](別荘・不去庵)[25]

家族・親族

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不去庵(別荘)
井上要翁頌徳碑(徳富蘇峰揮毫)
井上家
親戚

栄典

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脚注

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  1. ^ a b 『衆議院議員略歴 第1回乃至第19回』30頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年12月8日閲覧。
  2. ^ a b 『愛媛県紳士列伝 第1編』1-2頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年12月8日閲覧。
  3. ^ a b c 『人事興信録 第9版』イ16頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年12月4日閲覧。
  4. ^ a b 歴代会頭|会議所について|企業向けサイト - 松山商工会議所 2019年12月12日閲覧。
  5. ^ a b c d e 『早稲田大学紳士録 昭和15年版』イ43頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年6月1日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g 『人事興信録 第13版 上』イ15頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。
  7. ^ 小学校時代の友人に井上仁郎がいた(『井上要翁伝』 30-31頁)。
  8. ^ 共済中学校に入学して間もなく父が病没し、1880年(明治13年)1月頃に中退した(『井上要翁伝』 36-37頁)。
  9. ^ 『井上要翁伝』 54頁
  10. ^ 『井上要翁伝』 58-59頁
  11. ^ 『井上要翁伝』 65-71頁
  12. ^ 『井上要翁伝』 108-112頁
  13. ^ 『井上要翁伝』 139頁
  14. ^ 『井上要翁伝』 140頁
  15. ^ 『井上要翁伝』 不去庵井上要翁年譜、11頁
  16. ^ 愛媛県庁/歴代議長・副議長一覧、2018年6月10日閲覧
  17. ^ 宮川隆義 『歴代国会議員経歴要覧』 政治広報センター、78頁
  18. ^ 「井上要」『愛媛県史 人物』 1989年、70-71頁
  19. ^ 企業情報|会社概要|伊予鉄、2018年6月10日閲覧
  20. ^ 『井上要翁伝』 559-563頁
  21. ^ 秋山好古大将伝記刊行会 『秋山好古』 1936年、345-348頁
  22. ^ 『井上要翁伝』 565-569頁
  23. ^ 道後グラウンドは戦時中に食糧増産のため芋畑となり(松山市史編集委員会 『松山市史』 第三巻、1995年、762-763頁)、戦後は住宅地へと姿を変えた(鞍懸琢磨 『ノックバットは語る』 鞍懸琢磨先生還暦記念出版会、1955年、131-132頁)。
  24. ^ a b 『井上要翁伝』 873頁
  25. ^ a b 『井上要翁伝』 839頁
  26. ^ 『井上要翁伝』 579-580頁
  27. ^ 黒川九馬 『早稲田大学校友有志大会記事』 1914年、19-21頁。
  28. ^ 『井上要翁伝』 850頁
  29. ^ a b 『井上要翁伝』 851頁
  30. ^ 『井上要翁伝』 851-852頁
  31. ^ 『井上要翁伝』では弘化2年の時点で21歳(数え年)としている(同書、10頁)
  32. ^ 『井上要翁伝』 10頁
  33. ^ 『井上要翁伝』 12頁
  34. ^ 『井上要翁伝』 11頁
  35. ^ 『愛媛県史 人物』愛媛県史編纂委員会、1989年、31頁。
  36. ^ a b c 『井上要翁伝』 869頁

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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