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利用者:ざっとの編集所/sandbox/競馬の歴史

競馬の歴史では競馬(近代競馬)の成立と発展の歴史について述べる。

なお、日本における競馬の歴史の詳細については競馬の歴史 (日本)を参照。

起源[編集]

ウマの速さを競わせること自体は有史以前、ウマが家畜化された頃から行われていたと考えられている。

競馬が初めて文献に現れるのは古代ギリシャの吟遊詩人ホメロスの『イリアス』第23歌における追悼式で行われた戦車競馬(戦車競走)である[1]。古代ギリシャの戦車競馬は騎手が二輪の車両(チャリオット)を馬2頭に引かせて競うもので古代オリンピックの種目にもなっていた[1]。これはのちに映画『ベン・ハー』の戦車競馬のシーンで有名になった(ただし、映画では時代設定が古代ローマ帝国になっており馬も4頭になっている[1])。なお、現在行われている繋駕速歩競走はこの伝統を引き継いだものである。戦車競走は古代ローマにも伝わり、パンとサーカスのフレーズにあるように民衆の人気を集めた。

一方、日本の平安時代の文献にも競馬(くらべうま)という表記があった。またユーラシア内陸部の遊牧民族の間では、現在でもモンゴル族などで行われているようなウマの競走が行われていた。紀元前12世紀ギリシャ競馬が最も古いとされている。

近代競馬[編集]

黎明期[編集]

競走結果に金銭や名誉の譲与が絡む、賭博の対象としての近代競馬の基礎を築いたのはイギリスとされている[1][2]

イギリスでは馬上槍試合の人気が強かったが、十字軍の遠征をきっかけとして競馬が少しずつ人気を博し始めた。[3] ローマ人による支配の歴史を持つイギリスでは東方の馬の方が優秀であると伝えられており、1121年にはアラブ馬の輸入が始まっている。[3]リチャード1世が王位を継承する以前の時期に書かれた「ロンドン市の描写」では、2頭立て数頭立ての騎乗馬競走が行われていたという記述が登場し、その20年ほど後にはリチャード1世が3マイル以上の高額賞金競走の開催を行っている。[3] また、この頃の競馬はヒートレースマッチレースが主体であり、競馬において用いられる競走馬についてはスタミナに秀でた馬が主流であった[4]。この流れは産業性を帯び始める18世紀後半まで続いた。

黎明期の競馬は狩猟や乗馬の流れをくんでいたため貴族や王族が自ら騎手を務めており、例えばリチャード2世アランデル伯爵(のちのカンタベリー大司教、1353年 - 1414年)と所有の馬を用いてしばしば一騎打ちのレースを行っていた[1]。今後の歴史においても王侯貴族や有力者によって近代競馬が形創られたため、競馬発祥の地イギリスでは「スポーツ・オブ・キングス(Sport of Kings)」と形容する場面もある[5]

1540年、チェスター郊外のルーディーに世界初の常設競馬場であるチェスター競馬場が建設され、正式のルールと専用の施設(競馬場)に基づく現代に通づる近代競馬が行われるようになった。[1] さらに、1595年にはドンカスター競馬場が記録上初めて登場した。ドンカスター競馬場では、1766年に現在まで続く中で最古の競走であるドンカスターカップが開催され、後述のセントレジャーステークス1776年に設立されている。

近代競馬の広がり[編集]

18世紀初頭頃、フランスへ競走馬が輸出されようになり、1700年貴族やイギリス大使が中心となって近代競馬がフランスで初めて開催された。同様に1790年代にはアイルランド1808年イタリア1822年にはドイツなどイギリスの近辺諸国においてサラブレッドや競馬制度の輸出が行われるようになった。以降、競馬全体の歴史ではないヨーロッパ各国における競馬の歴史は「ヨーロッパ」項に記述する。

イギリスやその他欧州諸国の植民地であったアメリカオーストラリアシンガポール香港南米アフリカ諸国などの国々においても各国から競馬文化が持ち込まれるようになった。

また、鎖国から開かれ近代化が進められた日本においても競馬がイギリスから輸出され、戦争において日本の占領下に置かれた朝鮮(韓国)にも伝わっている。以降、欧州以外の地域における競馬の歴史は各地域項に記述する。

競走馬の改良[編集]

上記の通り、イギリスにもアラブ種が存在していたが、軍事的な輸出入規制や継続的な在来馬と輸入馬の交配が行われなかったことからサラブレッドという品種は確立していなかった。しかし、17世紀後半以降競走馬の品種改良が進み、1689年にはトルコからバイアリーターク1704年ダーレーアラビアン、1729年にゴドルフィンアラビアンの、後にサラブレッドに登録される父系をたどると必ずたどり着く三大始祖がイギリスへ輸入された。

前述の通り、競走馬にはスタミナが重視されており、7歳馬といった現在と比較するとかなり年齢を重ねた競走馬を使うことが多かった。しかし、競走による選択と淘汰の上での交配が重ねられ、俊敏性や早熟性を持つ競走馬が増えていった[4]1776年には若駒の実力を試す機会としてセントレジャーステークスが創設、それに習い1779年オークス1780年ダービーステークスの創設がされた。

後述のジェネラルスタッドブックの発行以降は血統が重視されるようになり、繁殖馬の需要が増加。次第に若駒限定の競走を若いうちからどの血統を残すかを選定するという目的のクラシック路線と呼ばれるようになった。

この頃からヒートレース、マッチレースは衰退し始め、多数の馬による一発勝負のステークス方式へと主流が移行した。競走の賞金も馬主同士の出資によるものから始まったが、現在ではスポンサーの出資と馬券の売上金の一部、および補助金や積立金から賄われている。

制度の制定[編集]

17世紀中期には、出馬登録や負担重量、検量、反則や失格といったルール作りがされるようになったと記録に残っているが[6]、近代競馬の初期において競技運営は貴族の内輪内、18世紀初頭においても100以上の競技場で競技が行われる中思い思いのローカルルールで運営されていた[7]1750年ロンドンのスター・アンド・ガーターで世界初の競馬統括組織であるジョッキークラブが記録上に現れ、1758年3月24日に検量に関する規定指示が出された。しかし、貴族やジェントルマンの利用するクラブという形であり、やはりこれも当初はニューマーケットの範囲での権威であった[7]。18世紀末には近代競馬の基礎となる制度、規則をほぼ確立し、当時皇太子であったジョージ4世の起こしたエスケープ事件への対応などで信頼や権威を得た後、19世紀半ばにはイギリス全国の競馬総括組織としての立場を得ていた。

1670年、レーシングカレンダーの原型であるニューマーケットで行われた競走の記録集をジョン・ネルソンが出版し[8]1727年には競走馬のイギリスでの競走成績が公式文書(レーシングカレンダー)として残されるようになった。1773年からはジョッキークラブからの委託という形でウェザビー一族が出版している。また、ウェザビー一族は1791年よりジェネラルスタッドブックの出版も行っている。

競馬周辺の制度も18世紀後半には確立されて始めており、1766年には競走馬セリ市がタタソールズ社によって制度化され、1795年にはオグデン社がニューマーケット競馬場で世界初のブックメーカー方式による賭けを行った。また、1891年にはフランスにおいてパリミュチュエル方式も法制化され、日本など多くの国で採用されている。

競走馬の取引においては、1952年にアメリカのファシグ・ティプトン社でブラックタイプ方式が初めて使われ、1960年ケンタッキー州キーンランドでも採用された[9]

国際化[編集]

1961年に国際的な競馬の連携を取ることを目的として国際競馬統括機関連盟(IFHA)が結成された。

国をまたいだ競走馬の取引が行われるようになり、また勝鞍による競走馬の優劣の判断も容易にする必要性が出てきたため1965年から競走の格付けをすることを目標とした委員会が設立、1970年には一部の欧州においてグループ制が採用された。1973年にはアメリカでもグレード制が採用、後にグループ制とグレード制の間に互換性が保証された。その後、競争格付けの不均衡の是正などを目的に1981年国際セリ名簿基準委員会が組織され[10]1983年に各国の競馬事情による格付け(パート制)と競走の格付けを記載した国際セリ名簿基準書を発行した。2008年以降は国際競馬統括機関連盟の下部組織が発行を行っている。

IFHAは1977年より競走馬のランキングであるインターナショナル・クラシフィケーション(現ワールド・ベスト・レースホース・ランキング)、2015年よりレースのランキングであるトップ100 G1レースを発表している。特に前者にも用いられているレーティングは競走格付けの昇格基準にもなっており、重要性が高い。

ヨーロッパ[編集]

イギリス[編集]

ピューリタン革命後、王位に据えられたチャールズ2世も競馬を好んでおり、狩猟の目的で王室厩舎が建てられていたニューマーケットに彼も居着くようになった。チャールズ2世の庇護のもと、狩猟競技の流れで競馬も盛んだったニューマーケットとそこに存在したニューマーケット競馬場がイギリス競馬の中心地となる。1666年にはチャールズ2世が競馬のレースに王室杯を贈呈している[1]

1711年アン女王の命令でアスコット競馬場が建設、現在のロイヤルアスコット開催が始まる。アスコット競馬場では1807年ゴールドカップが設立されている。

1788年ウィンチェスターで2頭立てで4マイル余りの、1792年にはレスタシャで記録上最初の多頭数による8マイルのスティープルチェイスが行われた。[11] 当時のイギリスでは囲い込み運動の影響で仕切りや開墾地の整備が進んでおり、障害競走も行いやすくなっていた。初期の障害競走は競馬場で行われるものではなく、クロスカントリーの形式で行われ、障害もレースのために用意されたものでなく、牧場の囲いや小川、天然の生垣などを飛越していた。発馬地点や走路に明確な規定はなく、通過すべき障害の地点に係員が立ち、旗を振って誘導を行った。

19世紀に入ると競馬場や人工の固定障害などが用意されはじめ、1821年には初のハードル競走がイギリスのブリストル近郊のダータムダウンで開催、1830年からは障害レースの父と称される人物、トマス・コールマンセント・オルバンズで野原を利用したスティープルチェイスを開催、1830年代よりチェルトナム競馬場、そしてエイントリー競馬場が障害競走の中心地として認められるようになり、1836年にはエイントリー競馬場でグランドナショナルが創設される。1863年にイギリスの障害競走の全国統一機関であるNational Hunt Committeeが誕生し、1870年ごろまでに施行規則を整備した(1969年にジョッキークラブの傘下として統合される)。

アメリカの競走馬が頭角を現してきた1909年に、ジョッキークラブは締め出しのため先祖が全てジェネラルスタッドブックに記載されている競走馬のみがサラブレッドであるというジャージー規則を制定した。(1949年に撤廃された。)

イギリスの競馬統括団体は1993年、ジョッキークラブから英国競馬公社(BHB)へと移り、2007年には現在の英国競馬統括機構(BHA)へと移っている。

フランス[編集]

フランスでは1700年貴族やイギリス大使が中心となって近代競馬が初めて開催され、同時期にイギリスから競走馬の輸入も行った。

1833年には、競馬統括団体としてフランス馬種改良奨励協会が設立された[12][13]。障害競走でも1863年にフランス障害競走協会が設立[12]1992年には2組織が合併しフランス平地障害競走協会が設立された[12]1993年には再編を目的に平地障害競走協会とスポーツ奨励協会、フランススポーツ協会が参加するGIEギャロ協会が設立[13]、2年後の1995年には参加協会が合併しフランスギャロが創設された[12][13]

競馬統括団体の主催する競走は1834年シャン・ド・マルス競馬場で行われた[14][15]。現在の3歳馬限定競走もこの頃に設立されており、2年後の1836年にはジョッケクルブ賞が、1840年にプール・デッセ(現プール・デッセ・デ・プーラン1861年にはプランスアンペリアル賞(現ロワイヤルオーク賞)が設立され、1863年にはフランス初の国際競走、パリ大賞典も設立されている。

1891年法律によりブックメーカー方式賭けが禁止される。賭けは競馬場内においてパリミュチュエル方式で行われることとなり、フランス場内馬券発売公社が設立される。

第一次世界大戦後の1920年には凱旋門賞が設立、現在には世界でも有数の競争となっている。

アイルランド[編集]

1752年アイルランドコークにおいて世界初の障害競走がコーネリアス・オーカラガンとエドマンド・ブレークとの間で行われた。また、アイルランドは1790年代以降、近代競馬のシステムが整備され、競馬統括機関としてアイリッシュターフクラブが創設される。

1866年 アイルランドで第1回アイリッシュダービーが行われる。

イタリア[編集]

イタリアでは1808年、サラブレッドの輸入を開始し、近代競馬が行われるようになった。

1880年、競馬統括団体としてイタリアジョッキークラブが創設された。2000年には現在のウニーレが競馬総括を行っている。

1884年、イタリアダービーであるデルビーイタリアーノが創設された。

ドイツ[編集]

1822年 ドイツで初めて近代競馬が行われる。

1867年、競馬統括団体としてウニオンクラブが創設される。1947年には現在の総括団体であるサラブレッド生産競馬管理委員会が創設された。

1869年 ドイツで第1回ドイチェスダービーが行われる。

その他[編集]

1907年スイスサンモリッツでホワイトターフ(氷上競馬)の開催が始まる(サンモリッツ競馬場)。

北米[編集]

アメリカ[編集]

1620年代、アメリカはイギリスの植民地であったため、イギリスから来た人々によって競馬が行われるようになり、少なくとも17世紀半ばまでには植民地全体の人気娯楽となっていた[16]

1665年、初の常設競馬場としてロングアイランド競馬場ニューヨークに建設される。

1867年ベルモントステークスが、1873年プリークネスステークス1875年チャーチルダウンズ競馬場の開設と同年にケンタッキーダービーが設立され、1930年頃にアメリカクラシック三冠の概念が形成される。

1923年に初の米英の競走馬で大西洋間国際交流競走が行われ、それをきっかけとして1924年にはインターナショナルスペシャルが開催、初めてフランスからの遠征馬が渡米した。1952年には初の本格的国際招待競走ワシントンDCインターナショナルが、1984年にはブリーダーズカップ・ワールド・サラブレッド・チャンピオンシップが創設された。

1894年にアメリカの競馬統括組織であるニューヨークジョッキークラブがニューヨークに設立された。1930年代には各州に競馬委員会が設立、1951年には裁判によって権限を没収されたため、現在は完全に競馬委員会が競馬の統括を行っている。また、1998年全米サラブレッド競馬協会(NTRA)という組織が設立されているが、この組織は競馬振興の活動のみを行っている。

1950年ニューヨーク州サラトガ・スプリングズアメリカ競馬名誉の殿堂博物館が設立された。当時はカジノ内の一室であったが、1955年サラトガ競馬場付近に移転。同年から競馬の殿堂を決定し、展示する施設として運営されている。

カナダ[編集]

1760年代 イギリスの植民地であったカナダにおいて競馬が行われるようになる。

1830年 カナダでモントリオール競馬場が建設される

1860年 カナダで第1回クイーンズプレートが行われる。

1881年オンタリオジョッキークラブが設立される。1973年には現在の競馬総括団体、ジョッキークラブオブカナダが創設される。

南米[編集]

19世紀[編集]

ブラジルウルグアイチリペルーで競馬が行われるようになる。

1826年 アルゼンチンで競馬が行われるようになる。

1859年 アルゼンチンで初の常設競馬場が建設される。

1882年 アルゼンチンで統括団体アルゼンチンジョッキークラブが創設される。

1884年 アルゼンチンで第1回ナシオナル大賞が行われる。

1887年

アルゼンチンでナシオナル競馬場が建設される。

アルゼンチンで第1回カルロスペレグリーニ大賞が行なわれる。

20世紀[編集]

1935年 アルゼンチンでサンイシドロ競馬場が建設される。

1953年・1973年 アルゼンチンで競馬の国有化が行なわれる。

1992年 ブラジルでブラジル・ジョッキー・クラブが発足。

オセアニア[編集]

19世紀[編集]

1810年 シドニーハイドパーク競馬場においてオーストラリア初の近代競馬が行われる。

1840年 オーストラリアでオーストラリア・レーシング委員会(1842年よりオーストラリアンジョッキークラブ)が発足。

1841年 オークランドにおいてニュージーランド初の近代競馬が行われる。

1851年 オーストラリアでサウス・オーストラリアン・ジョッキー・クラブが発足。

1853年 ニュージーランドでオークランド・ジョッキー・クラブが発足。

1861年 第1回メルボルンカップが行われる。

1864年 オーストラリアでヴィクトリアレーシングクラブが発足。

1873年 ニュージーランドでベイ・オブ・プレンティ競馬クラブが発足。

1874年 ニュージーランドでオークランド・ジョッキー・クラブとオークランド・ターフ・クラブが合併し、オークランド・レーシング・クラブが発足。

1889年 ニュージーランドでアヴォンデール・ジョッキー・クラブが発足。

20世紀[編集]

1912年 オーストラリアで同国内共通の競馬施行規程(オーストラリア競馬施行規程)が制定される。

1922年 第1回コックスプレートが行われる。

1957年 第1回ゴールデンスリッパーステークスが行われる。

1964年 オーストラリアでゴールドコーストターフクラブが発足。

アジア[編集]

シンガポール[編集]

1842年 シンガポールでシンガポールスポーツクラブ(1924年シンガポールターフクラブと改称)が発足。

1843年2月23日、シンガポールのファラーパークにおいて近代競馬が行われる。

1869年 シンガポールで統轄機関ストレーツ競馬協会(のちのマラヤン競馬協会)が設立される。

1924年 シンガポールで第1回シンガポールゴールドカップが行われる。

1999年 シンガポールでクランジ競馬場が建設される。

2000年 シンガポールで第1回シンガポール航空国際カップが行われる。

香港[編集]

香港はイギリスの植民地であった歴史があり、その過程で競馬も輸入された。1845年には、ポニーを用いた競馬が行われた記録が残っている。香港でのサラブレッド競馬は1960年代に始まった。

1846年ハッピーバレー競馬場が開設。1978年沙田競馬場が開設。

1884年 香港で統轄機関香港ジョッキークラブが発足。

日本[編集]

日本で初めての西洋式の競馬の開催は、江戸幕府の開港の翌年の1860年に、横浜・元町で行われたとされている。1866年には横浜の根岸に、初めての本格的な競馬場として根岸競馬場が造られた。

また岩倉具視の著述記録によれば、黒船来航時の殉国者と伏見戦争戊辰戦争)の殉国者を併せて慰霊するため、1869年に招魂社靖国神社の前身)が設立され、1870年からその境内に作られた競馬場で年3回の神事として競馬が催されるようになった[17]

1879年には、のちに日本赤十字社大日本武徳会の総裁となった陸軍軍人小松宮彰仁親王を社長とする「共同競馬会社」が設立された。その後に明治天皇から賞品が下賜されるようになったのが、天皇賞のルーツであるといわれている。

1906年には、軍馬の改良を目的とした行政機関の馬政局が設立し、農林省畜産局の設置まで競馬の方針を決定した。馬政局の指示で1908年より競馬倶楽部、1936年から日本競馬会が、1948年以降は国営競馬となり1954年発足の日本中央競馬会(JRA)が中央競馬の運営をしている。

フィリピン[編集]

韓国[編集]

日本統治下にあった朝鮮半島では1920年に近代競馬が行われるようになり、その2年後の1922年には朝鮮競馬倶楽部が発足。同年5月20日に朝鮮初の公式競馬が開催され、現在では同日は「競馬の日」と制定されている。競馬施行団体は1942年に朝鮮馬事会となり、太平洋戦争後の1949年には現在の韓国馬事会に改名した。1962年1月20日に韓国馬事会法の制定、公布が行われた。当初は韓国馬事会が一括して競走馬を所有、調教師や騎手の雇用も同団体が行う単一馬主制が取られていたが、1993年には個人馬主制となった。

1928年に新設(シンソル)に競馬場(現在は廃止)が開かれた。同競馬場は1954年のトゥクソムへ移転し、1989年ソウル競馬場建築に伴って廃止された。1990年には済州競馬場、2005年には釜山慶南競馬場が開かれ、2026年後半には永川競馬場が開場する予定となっている。

2004年IFHAからパートIII国として承認された。2016年にはパートIIに昇格となり、国際セリ名簿基準書に5レースがパートII国競走として記載されることとなった[18]。また、2022年には韓国G1であるコリアカップコリアスプリント国際G3として施行されるようになった。

その他[編集]

仏領インドシナでも競馬が行われていたとされ、サイゴン1893年にサイゴン競馬協会が発足していた。

現代になり、様々な国における競馬の整備が整い始めた。1916年にはタイロイヤルターフクラブオブタイランドが、1963年にはマレーシアマラヤン競馬協会が、1989年にはマカオマカオジョッキークラブベトナムフートースポーツクラブが発足した。1996年には賭博の禁止されているアラブ首長国連邦でもドバイワールドカップが行われるようになった。

アフリカ[編集]

18世紀末[編集]

19世紀[編集]

21世紀[編集]

  • 2004年 南アフリカジョッキーズクラブがナショナルホースレーシングオーソリティーオブサウスアフリカと改称。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 下楠昌哉 編『イギリス文化入門』2010年、250-251頁。 
  2. ^ 『イギリス文化と近代競馬』彩流社、2013年10月25日、29頁。 
  3. ^ a b c 『競馬の世界史』中公新書、2016年8月25日、12-15頁。 
  4. ^ a b 『イギリス文化と近代競馬』彩流社、2013年10月25日、30-31頁。 
  5. ^ 競馬コラム - 競馬小史英国”. JRA. 2015年2月13日閲覧。
  6. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「:3」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  7. ^ a b 『イギリス文化と近代競馬』彩流社、2013年10月25日、18頁。 
  8. ^ 『イギリス文化と近代競馬』彩流社、2013年10月25日、22-23頁。 
  9. ^ History - International Cataloguing Standards Committee”. IFHA(国際競馬統括機関連盟公式サイト). 2023年9月23日閲覧。
  10. ^ 2023 International Cataloguing Standards Book” (PDF). International Federation of Horseracing Authorities. 2023年10月4日閲覧。
  11. ^ 『イギリス文化と近代競馬』彩流社、2013年10月25日、45-47頁。 
  12. ^ a b c d AC. Grison (2012年7月). “フランスギャロ” (フランス語). フランス馬・馬術研究所. 2013年3月10日閲覧。
  13. ^ a b c 競走の歴史” (PDF) (フランス語). フランスギャロ (2011年3月29日). 2013年3月10日閲覧。
  14. ^ 競走の歴史” (PDF) (フランス語). フランスギャロ (2011年3月29日). 2013年3月10日閲覧。
  15. ^ ギイ・チボー 著、真田昌彦 訳『フランス競馬百年史』財団法人競馬国際交流協会、2004年。 p97
  16. ^ Joan S. Howland "Let's Not Spit The Bit In Defense Of "The Law Of The Horse": The Historical And Legal Development Of American Thoroughbred Racing”(2004)
  17. ^ Nikkei Style『靖国神社は昔、競馬場!』、2011年12月16日。アーカイブ
  18. ^ Hong Kong Promoted to Part I of the International Cataloguing Standards Book; Korea Promoted to Part IIhorseracingintfed.com、2016年4月2日閲覧

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