利用者:桂鷺淵/藩の一覧
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< 利用者:桂鷺淵
「藩の一覧」。
「〇〇藩」と呼称される近世大名の統治組織がどの時期に存在したとみなされるか・どのような名前で呼ばれるかに関心を絞っています。「いつからいつまでを<ひとつの藩>というカタマリにして記事を立てればよいのか、その記事は<どのような記事名>にしたらよいのか」という関心です。「ボーダーがはっきりわからない」というケースが予想以上に多い、というのが印象です。
個別の藩についての諸々のデータ、たとえば譜代・親藩・外様の別であるとか、石高の大小増減であるとか、藩主家の交代であるとかは、主要な関心の外に置いております。
凡例
[編集]記号等
[編集]本ページでは、便宜上以下のように「藩」を整理します(独自研究)
- ■ これは藩です
- 本ページでの「藩」の定義
- 江戸時代に徳川将軍家から表高1万石以上の土地を宛行われた大名、あるいは1万石格以上を認められた大名
- 狭義の「江戸時代」を範囲とし、1603年の江戸幕府開府を始期とします
- 多数の事典で藩として扱われる松前藩・喜連川藩は「万石格」以上に認められたことをもって「藩」とします。
- 明治時代に正式に「藩」とされた大名領
- 堀江藩は一時的にも藩として認められたからには藩です。
- 江戸時代に徳川将軍家から表高1万石以上の土地を宛行われた大名、あるいは1万石格以上を認められた大名
- 本ページでの「藩」のまとめ方
- 同一の地域内(国か郡か)で領地の大幅改変なく同一大名家が居所を移転した場合は同一藩にします(松前(福山)藩と館藩)。
- 別の大名家が同じ陣屋を居所としながら「違う」扱いとした場合は別の藩にします(貝淵藩と桜井藩)
- 別の大名家で別の陣屋/城を拠点としながら同一の在所名を称した場合には同じ藩にします(佐野藩、佐倉藩 など)
- 明治期に大名家が一般に知られている呼称から「改称」を行った際には同じ藩にします(「秋田藩」と「久保田藩」)
- □ 場合によっては藩ともされます
- 以下のようなものが含まれると思われます
- 関ヶ原の戦い後・江戸幕府開府前の時期にのみ「藩」のカテゴリに入ったケース
- 江戸時代の藩との関係で豊臣大名を「藩」ととらえるケース
- 江戸時代の藩との関係抜きに豊臣大名を「藩」ととらえるケース
- 陪臣で万石以上(徳川将軍家からではなくそれぞれの主君である大名から宛行)
- 維新期のどたばたの中で結束した家臣団(旧藩からみて陪臣団、旧幕府から見て陪々臣団)のまとまりからさかのぼって「藩」をとらえるケース(北海道移住を行う旧仙台藩重臣の「藩」、「独立運動」を行おうとした「冨江藩」)
定義をめぐって
[編集]「藩」の定義
[編集]- 「江戸時代、将軍から石高(こくだか)1万石以上の土地を宛行(あてが)われた大名の支配領域、およびその支配機構をいう。藩という公称は、江戸時代にあったのではなくて、1868年(明治1)明治新政府が旧幕領に府・県を設置したのに対して、旧大名領には藩の呼称を用い、ここに藩は公称として用いられるようになったが、1871年の廃藩置県によって藩の実態は消滅し、以後大名領をさす場合の通用語となった。したがって、藩が日本で一定の行政区域の表現とされたのは、厳密にいえば明治維新当時だけである。」[1]
- 「石高一万石以上が大名で、それ以下が旗本です。ただし、若干の例外があり、石高の無い地を領有していた蝦夷松前の松前氏、石高五千石の下野喜連川の喜連川氏(古河公方足利氏の後裔)は、名族の故を以って、藩主とされています。」[2]
- 「大名と旗本のちがいはいうまでもなく、一万石以上、以下が基準となるわけだが、この基準(格式)が成立したのは、実は家光政権下の寛永十年代である。すなわち、寛永十二年(一六三五)の武家諸法度改定の条文に、「乗家」(「乗輿」の資格となる対象)の範囲が一万石以上となり、その後変更をみない。つまり一万石以上を大名の格式として規定しておこうということであろう。これは寛永期ごろにおいて一万石以上の知行高をもつ譜代家臣が増えた結果、これらを大名として格づける必要にせまられたのであろう。」 - 江戸時代、石高一万石以上を大名、一万石未満を旗本と身分分けしていたが、この基準が「一万石」である理由はなにか?(レファレンス協同データベース)の回答に引かれた煎本増夫『江戸幕府と譜代藩』(雄山閣出版、1996年)
「近世大名」の定義
[編集]参考文献
[編集]- 『藩史大事典』
- 目次のみを参照している。
- 『藩史大事典 第1巻 北海道・東北編』 56藩
- 『藩史大事典 第2巻 関東編』 136藩
- 『藩史大事典 第3巻 中部編Ⅰ 北陸・甲信越』 73藩
- 『藩史大事典 第4巻 中部編Ⅱ 東海』 92藩
- 『藩史大事典 第5巻 近畿編』 97藩
- 『藩史大事典 第6巻 中国・四国編』 71藩
- 『藩史大事典 第7巻 九州編』 57藩
- 582個の「藩」を目次に記載
- 豊臣大名の「江戸藩」、「石田政成領」(※三成の父・石田正継)を含む
- 松前家の藩は「松前藩」と「館藩」の2藩として挙げる。
- 明治期の上総の太田家の藩は「柴山藩」と「松尾藩」の2藩として挙げる。
- 「琉球藩」を含む。
- 藩の配列は国ごと。支藩や一時移転先等は同一地方(同一巻)の場合は本藩のあとに配置。例:盛岡(南部)藩→七戸藩→白石藩→八戸藩
- 目次のみを参照している。
- 須田茂『房総諸藩録』(崙書房、1985年)
- 目次のみを参照している。
- 房総諸藩録(NDL) - ネット上に非公開だが、目次のみは閲覧可能
- 目次のみを参照している。
- 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」
- 「慶長5(1600)から明治4(1871)までの大名の配置・移動」を示した表。「慶長5年以前に定着した大名は入封年代を省略」し、別掲の「豊臣大名表」へ誘導。「藩名は原則として居城・陣屋などが所在した地名をもって示し、地名・郡名は江戸時代の旧名をもって示した」とある。
- 和暦表示
- 603個の「藩」を表に記載。
- 松前家の藩は「福山藩」と「館藩」の2藩として挙げる。
- 明治期の上総の太田家の藩は「柴山藩」と「松尾藩」の2藩として挙げる。
- 「琉球藩」は含まない。
- 藩の配列は「国ごと」―「郡ごと」。郡内の配列はおおむね五十音順。
- 『日本史広辞典』(山川出版社、1997年)、巻末附録・近世「大名配置」
- 「本表は1600年前後から廃藩置県までの主要な大名の配置・移動、および石高(表高)の変化を示したものである」
- 西暦表示
- 「主要な大名」のみのため、短命な藩などは記載がない。
- おおむね郡ごとに配列。「特定の領地をもたない」藩(新田藩など)は本藩所在地。
- 特徴的な記載として、
- 高知新田藩を上総国武射郡に掲出
- 小幡藩を2つ記載(水野家→永井家の藩と、織田家→奥平松平家の藩)
現在の記事への疑問点
[編集]- 記事名が適切か
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “藩”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2022年12月7日閲覧。
- ^ “守谷城と下総相馬氏>第六章>一、旗本とは>大名・旗本・御家人の違いは?”. 守谷中央図書館/わたしたちの守谷市. 2022年12月7日閲覧。
外部リンク
[編集]- 和暦西暦対照表(近世) - 静岡県立中央図書館
- 大名家一覧|武鑑全集
- 大閤御代大名 - 新日本古典籍データベース