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利用者:桂鷺淵/藩の一覧/06

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駿河国

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  • 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」:6藩
    • 興国寺 - 沼津 - 川成島 - 小島 - 駿府 - 田中
  • 『藩史大辞典』目次:6藩
    • 沼津藩 - 興国寺藩 - 川成島藩 - 小島藩 - 府中(駿府・静岡)藩 - 田中藩 小和田哲男

駿東郡・富士郡

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興国寺藩
  • 慶長6年(1601年) - 天野康景、下総国内より入封[1]
  • 慶長12年(1607年) - 除封[1]
沼津藩
  • 慶長6年(1601年) - 大久保忠佐、上総国内より入封[1][2]
  • 慶長18年(1613年) - 大久保忠佐除封[1][2]
  • 安永6年(1777年) - 水野忠友入封[1][2]
  • 明治元年(1868年) - 水野忠敬、上総菊間に移封[1][2]
松長藩(松永藩)
荻野山中藩
川成島藩

庵原郡・安倍郡

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小島藩
『角川新版日本史辞典』は1689年から、『日本史広辞典』は1698年より記す
  • 元禄2年(1689年) - 滝脇松平信治、武蔵・上野で1万石[1]
  • 元禄11年(1698年) - 松平信治、武蔵・上野国内より入封[2]
  • 宝永元年(1704年) - 小島に居を定める[1]
  • 明治元年(1868年) - 滝脇信敏、上総桜井に移封[1][2]
駿府藩(静岡藩)
  • 天正18年(1590年) - 中村一氏14万5000石[2]
  • 慶長5年(1600年) - 中村忠一、伯耆米子に移封[1][2]
  • 慶長6年(1601年) - 内藤信成入封[1][2]
  • 慶長11年(1606年) - 内藤信成、近江長浜に移封[1][2]
  • 慶長14年(1609年) - 徳川頼宣、常陸水戸より入封[1][2]
  • 元和5年(1619年) - 徳川頼宣、紀州に移封[1][2]
  • 寛永元年(1624年) - 徳川忠長入封[1][2]
  • 寛永9年(1632年) - 除封[1][2]
  • 明治元年(1868年) - 徳川家達入封[1][2]
  • 明治2年(1869年) - 静岡藩に改称[1][2]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県

益津郡

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田中藩
  • 慶長6年(1601年) - 酒井忠利入封[1][2]
  • 慶長14年(1609年) - 酒井忠利、武蔵川越に移封[1][2]
  • 寛永10年(1633年) - 桜井松平忠重入封[1][2]
  • 寛永12年(1635年) - 松平忠重転出/水野忠善入封[1][2]
  • 寛永19年(1642年) - 水野忠善転出/藤井松平忠晴入封[1][2]
  • 正保元年(1644年) - 松平忠晴転出/北条氏重入封[1][2]
  • 慶安元年(1648年) - 北条氏重移封[1][2]
  • 慶安2年(1649年) - 西尾忠昭入封[1][2]
  • 延宝7年(1679年) - 西尾忠成転出/酒井忠能入封[1][2]
  • 元和元年(1681年) - 酒井忠能除封{[2]
    • 『角川新版日本史辞典』は酒井忠能除封を天和2年(1682年)とする[1]
  • 天和2年(1682年) - 土屋政直入封[1][2]
  • 貞享元年(1684年) - 土屋政直、大坂城代就任に伴い摂津など8か国内に転出/太田資直、摂津など5か国内から入封[2]
  • 宝永2年(1705年) - 太田資晴転出/内藤弌信入封[1][2]
  • 正徳2年(1712年) - 内藤弌信、大坂城代就任に伴い摂津など4か国内に転出/土岐頼殷、摂津など4か国内から入封[1][2]
  • 享保15年(1730年) - 土岐頼稔、大坂城代就任に伴い摂津など4か国内に転出/本多正矩入封[2]
  • 明治元年(1868年) - 本多正訥、安房長尾に移封[1][2]

遠江国

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  • 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」:8藩
    • 相良 - 横須賀 - 掛川 - 久野 - 掛塚 - 浜松 - 堀江 - 井伊谷
  • 『藩史大辞典』目次:
    • 相良藩 - 掛川藩 - 横須賀藩 - 久野藩 - 掛塚藩 - 浜松藩 - 堀江藩 - 井伊谷藩

榛原郡

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相良藩
  • 宝永7年(1710年) - 本多忠晴、三河伊保より入封[1][2]
  • 延享3年(1746年) - 本多忠如転出/板倉勝清入封[1][2]
  • 寛延2年(1749年) - 板倉勝清転出/本多忠央入封[1][2]
  • 宝暦8年(1758年) - 本多忠央除封[1][2]
  • 明和4年(1767年) - 旗本田沼意次、加増により新封1万石[1][2]
  • 天明7年(1787年) - 田沼意明除封[2](陸奥下村に移封[1]
  • 文政6年(1823年) - 田沼意正復封[1][2]
  • 明治元年(1868年) - 田沼意尊、上総小久保に移封[1][2]

城東郡

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横須賀藩
  • 文禄4年(1595年) - 有馬豊氏3万石[2]
  • 慶長5年(1600年) - 有馬豊氏、丹波福知山に移封[1][2]
  • 慶長6年(1601年) - 大須賀忠政入封[1][2]
  • 元和元年(1615年) - 大須賀忠次は上野館林藩榊原家を継承、横須賀は収公[1][2]
  • 元和5年(1619年) - 能見松平重勝入封[1][2]
  • 元和8年(1622年) - 松平重忠転出/井上正就入封[1][2]
  • 正保2年(1645年) - 井上正利転出/本多利長入封[1][2]
  • 天和2年(1682年) - 本多利長除封(出羽村山に再封)[2]/西尾忠成入封[2]
  • 明治元年(1868年) - 西尾忠篤安房花房に移封[3][2]

佐野郡

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掛川藩
  • 文禄4年(1595年) - 山内一豊6万8600石[2]
  • 慶長5年(1560年) - 山内一豊、土佐浦戸に移封[3](1601年[2]
  • 慶長6年(1561年) - 久松松平定勝、下総小南から移封[3][2]
  • 慶長12年(1607年) - 松平定綱、山城伏見城代となり移封、松平定行に譲る[3]
  • 元和3年(1617年) - 松平定行、伊勢桑名に嗣子として移る/安藤直次【徳川頼宣付家老】入封[3][2]
    • 安藤直次の前封地は「武蔵国内より」[3]「遠江川崎領より」[2]
  • 元和5年(1619年) - 安藤直次、紀伊田辺領に移封/松平定綱、常陸下妻から入封[3][2]
  • 元和9年(1625年) - 松平定綱移封/朝倉宣正【駿河付家老】入封[3][2]
  • 寛永9年(1632年) - 朝倉宣正除封[3][2]
  • 寛永10年(1633年) - 青山幸成入封[3][2]
  • 寛永12年(1635年) - 青山幸成転出/桜井松平忠重入封[3][2]
  • 寛永16年(1639年) - 松平忠倶転出/本多忠義、播磨国内から入封[3][2]
  • 正保元年(1644年) - 本多忠義転出/藤井松平忠晴入封[3][2]
  • 慶安元年(1648年) - 松平忠晴転出/北条氏重入封[2]
  • 万治元年(1658年) - 北条氏重除封[3][2]
  • 万治2年(1659年) - 井伊直好入封[3][2]
  • 宝永2年(1705年) - 井伊直矩転封[3][2]
  • 宝永3年(1706年) - 桜井松平忠喬入封[3][2]
  • 正徳元年(1711年) - 松平忠喬転出/小笠原長煕入封[3][2]
  • 延享3年(1746年) - 小笠原長恭転出/太田資俊入封[2]
  • 明治元年(1868年) - 太田資美、上総柴山に移封[3][2]

周智郡

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遠江久野藩
  • 天正18年(1590年) - 松下重綱 1万6000石[2]
  • 慶長8年(1603年) - 松下重綱常陸小張に移封[3][2]
  • 元和5年(1619年) - 北条氏重、下野富田から入封[3][2]
  • 寛永17年(1640年) - 移封[3][2]

豊田郡

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掛塚藩

敷知郡

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浜松藩
  • 堀尾忠氏12万石[3]
  • 慶長5年(1600年) - 堀尾忠氏転出[3]
  • 慶長6年(1601年) - 桜井松平忠頼、武蔵松山より入封[3]
  • 慶長14年(1609年) - 松平忠頼除封/水野重央、常陸国内より入封[3]
  • 元和5年(1619年) - 水野重央、紀伊新宮に移封/高力忠房入封[3]
  • 寛永15年(1638年) - 高力忠房転出/大給松平乗寿入封[3]
  • 正保元年(1644年) - 松平乗寿転出/太田資宗入封[3]
  • 延宝6年(1678年) - 太田資次、大坂城代に就任し摂津ほかの国内に入封/青山宗俊摂津国内より入封[3]
  • 元禄15年(1702年) - 青山忠重転出/本庄松平資俊入封[3]
  • 享保14年(1729年) - 松平資訓転出/大河内松平信祝入封[3]
  • 寛延2年(1749年) - 松平信復転出/本庄松平資訓入封[3]
  • 宝暦8年(1758年) - 松平資昌転出/井上正経、大坂城代を辞し摂津他の封地を改め入封[3]
  • 文化14年(1817年) - 井上正甫転出/水野忠邦入封[3]
  • 弘化2年(1845年) - 水野忠精転出/井上正春入封[3]
  • 明治元年(1868年) - 井上正直転出[3]
堀江藩
  • 明治元年(1868年) - 大沢基寿1万石[3]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県

引佐郡

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井伊谷藩
  • 元和5年(1619年) - 近藤秀用、上野青柳より入封[3]
  • 元和6年(1620年) - 分知により万石以下となり廃藩[3]

三河国

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  • 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」:21藩
    • 大浜 - 刈谷 - 重原 - 中嶋 - 西端 - 西尾 - 岡崎 - 奥殿 - 西大平 - 深溝 - 足助 - 伊保 - 挙母 - 新城 - 作手 - 形原 - 田原 - 畑村 - 吉田 - 半原 - 水野忠胤領
  • 『藩史大辞典』目次:21藩
    • 半原藩 - 作手藩 - 新城藩 - 吉田(豊橋)藩 - 田原藩 - 畑村藩 - [野村藩] - 足助藩 - 伊保藩 - 挙母藩 - 奥殿藩 - 岡崎藩 - 西大平藩 - 中島藩 - 深溝(深溝西郡)藩 - 形原藩 - 重原藩 - 刈谷藩 - 西端藩 - 大浜藩 - 西尾藩 - 水野忠胤領

碧海郡

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大浜藩
  • 明和5年(1768年) - 水野忠友入封(信濃国内より)[3]
  • 安永6年(1777年) - 水野忠友転出[3]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
刈谷藩
  • 関ヶ原時:水野忠重:3万石
  • 元和元年 - 水野勝成転出[3]
  • 元和2年 - 水野忠清入封(上野小幡より)[3]
  • 寛永9年 - 水野忠清転出深溝松平忠房入封[3]
  • 慶安2年 - 松平忠房転出久松松平定政新封[3]
  • 慶安4年 - 松平定政除封稲垣重綱入封[3]
  • 元禄15年 - 稲垣重富転出阿部正春入封[3]
  • 宝永7年 - 阿部正鎮転出本多忠良入封[3]
  • 正徳2年 - 本多忠良転出三浦明敬入封[3]
  • 延享4年 - 三浦義理転出土井利信入封[3]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
重原藩
  • 明治2年 - 板倉勝達入封(陸奥福島より)[3]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
三河中島藩
  • 寛永16年 - 板倉重矩入封(深溝より)[3]
  • 寛文12年 - 板倉重矩転出[3]
西端藩
  • 元治元年 - 本多忠寛新封:1万500石[3]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県

幡豆郡

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西尾藩
  • 慶長6年 - 本多康俊入封(下総小篠より)[4]
  • 元和3年 - 本多康俊転出大給松平成重入封[4]
  • 元和7年 - 松平成重転出本多俊次入封[4]
  • 寛永13年 - 本多俊次転出[4]
  • 寛永15年 - 太田資宗入封(下野山川より)[4]
  • 正保元年 - 太田資宗転出[4]
  • 正保2年 - 井伊直好入封[4]
  • 万治2年 - 井伊直好転出増山正利入封(相模国内より)[4]
  • 寛文3年 - 増山正弥転出土井利長入封(下野国内より)[4]
  • 延享4年 - 土井利信転出三浦義理入封[4]
  • 明和元年 - 三浦明次転出松平乗佑入封[4]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県

額田郡

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岡崎藩
  • 関ヶ原時:田中吉政:10万石
  • 慶長5年 - 田中吉政転出[4]
  • 慶長6年 - 本多康重入封[4]
  • 正保2年 - 本多利長転出水野忠善入封[4]
  • 宝暦12年 - 水野忠任転出松井松平康福入封[4]
  • 明和6年 - 松平康福転出本多忠粛入封[4]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
奥殿藩
西大平藩
  • 寛延元年 - 大岡忠相新封[4]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
深溝藩
  • 慶長6年 - 深溝松平忠利入封(下総小見川より)[4]
  • 慶長17年 - 松平忠利転出[4]
  • 寛永元年 - 板倉重昌新封[4]
  • 寛永16年 - 板倉重矩、居所移転(中島へ)[4]

加茂郡

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足助藩
  • 天和3年 - 本多忠周新封:1万石[4]
  • 元禄2年 - 本多忠周減封により万石以下[4]。廃藩[4]
伊保藩
  • 慶長5年 - 丹羽氏次入封(伊勢国内より)[4]
  • 寛永15年 - 丹羽氏信転出[4]
  • 天和元年 - 本多忠晴入封[4]
  • 宝永7年 - 本多忠晴転出[4]
挙母藩
  • 慶長9年 - 三宅康貞入封(武蔵瓶尻より)[4]
  • 元和元年 - 三宅康信転出(伊勢亀山へ)[4]
  • 寛永13年 - 三宅康盛転入(伊勢亀山より)[4]
  • 寛文4年 - 三宅康勝転出[4]
  • 天和元年 - 本多忠利入封[4]
  • 寛延2年 - 本多忠央転出内藤政苗入封[4]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
新城藩
  • 慶長11年 - 水野分長入封(緒川から)[4]
  • 正保2年 - 水野元綱転出[4]
作手藩
  • 慶長7年 - 奥平松平忠明入封(上野長根より)[4]
  • 慶長15年 - 松平忠明転出[4]

宝飯郡

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形原藩
  • 慶長6年 - 形原松平家信:5000石[4]
  • 元和4年 - 松平家信、安房で5000石を加封され1万石[4]
  • 元和5年 - 松平家信転出(摂津高槻へ)[4]

渥美郡

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田原藩
  • 慶長6年 - 戸田尊次入封(伊豆国内より)[4]
  • 寛文4年 - 戸田忠昌転出(肥後富岡へ)/三宅康勝入封[4]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
畑村藩野村藩
  • 元禄元年 - 戸田氏成入封(美濃大垣新田より):1万石【大垣藩支藩】[4]
  • 明治2年 - 野村藩と改称[4]。同年の当主は戸田氏良
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
三河吉田藩(豊橋藩)
  • 関ヶ原時 - 池田輝政:15万2000石
  • 慶長5年 - 池田輝政転出
  • 慶長6年 - 竹谷松平家清入封(武蔵八幡山から)[4]
  • 慶長17年 - 松平家清除封深溝松平忠利入封[4]
  • 寛永9年 - 松平忠房転出水野忠清入封[4]
  • 寛永19年 - 水野忠清転出水野忠善入封[4]
  • 正保2年 - 水野忠善転出小笠原忠知入封[4]
  • 元禄10年 - 小笠原長重転出久世重之入封[4]
  • 宝永2年 - 久世重之転出牧野成春入封[4]
  • 正徳2年 - 牧野成央転出大河内松平信祝入封[4]
  • 享保14年 - 松平信祝転出本庄松平資訓入封[4]
  • 寛延2年 - 松平資訓転出大河内松平信復入封[4]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県

八名郡

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半原藩
  • 明治元年 - 安部信発入封(武蔵岡部より)[4]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県

所在不明

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水野忠胤領三河水野藩[要出典]
『角川新版日本史辞典』は「水野忠胤領」[5]
  • 慶長年間 - 水野忠胤新封:1万石[5]
  • 慶長14年(1609年) - 水野忠胤除封[5]

尾張国

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  • 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」:
    • 名古屋 - 清洲 - 犬山 - 黒田 - 緒川
  • 『藩史大辞典』目次:
    • 犬山藩 - 黒田藩 - 名古屋(尾張)藩 - 緒川藩

愛知郡・春日井郡・丹羽郡

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尾張藩(名古屋藩)
  • 慶長15年 - 徳川義直、清洲より入封[5]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
清洲藩
  • 関ヶ原時 - 福島正則24万石[5]
  • 慶長5年(1600年) - 福島正則転出/松平忠吉入封[5]
  • 慶長12年 - 徳川義直入封[5]
  • 慶長15年 - 徳川義直、名古屋に移転[5]
犬山藩
  • 関ヶ原時 - 石川貞清1万2000石[5]
  • 慶長5年(1600年) - 石川貞清除封[5]
  • 慶長12年 - 平岩親吉入封[5]
  • 慶長16年 - 平岩親吉除封[5]
  • 元和2年 - 成瀬正成(尾張藩付家老)、下総栗原より入封[5]
  • 慶応4年 - 成瀬正肥、大名となり犬山藩になる[5]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県

葉栗郡・知多郡

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尾張黒田藩
  • 関ヶ原時 - 一柳直盛3万5000石[5]
  • 慶長6年 - 伊勢神戸に転出[5]
緒川藩
  • 慶長6年 - 水野分長新封9800石[5]
  • 慶長11年 - 水野分長、三河新城に転出[5]

美濃国

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  • 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」:
    • 加納 - 岐阜 - 岩滝 - 加賀野井 - 高松 - 太田山 - 高須 - 多良 - 青野 - 今尾 - 大垣 - 曾根 - 福束 - 揖斐 - 大垣新田 - 清水 - 野村 - 北方 - 十七条 - 黒野 - 高富 - 上有知 - 関 - 長谷川守知領 - 八幡 - 岩村 - 苗木 - 金山 - 徳野 - 平塚為広領 - 脇坂安信領
  • 『藩史大辞典』目次:
    • 苗木藩 - 岩村藩 - 金山藩 - 徳野藩 - 八幡(郡上)藩 - 上有地藩 - 関藩 - 高富藩 - 岩滝藩 - 加納藩 - 岐阜藩 - 北方藩 - 加賀野井藩 - 黒野藩 - 揖斐藩 - 野村藩 - 曽根藩 - 清水藩 - 大垣藩 - 大垣新田(畑村)藩 - 福束藩 - 青野藩 - 多良藩 - 十七条藩 - 今尾藩 - 太田山藩 - 高松(松ノ木)藩 - 高須藩 - 平塚為広領 - 長谷川守知領 - 脇坂安信領

厚見郡

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加納藩
  • 慶長6年(1601年) - 奥平信昌入封[5][6]:10万石[5]
    • 上野小幡より[5]・上野宮崎より[6]
  • 慶長6年(1601年) - 奥平信昌、三男の菅沼忠政に4万石分与[5]:→6万石
  • 慶長7年(1602年) - 奥平信昌、忠政(上野吉井藩主)に家督継承[5]。信昌は隠居領4万石、忠政は6万石を領有[5]
  • 元和元年(1615年) - 奥平忠政、信昌隠居領を合わせる:→10万石[5]
  • 寛永9年(1632年) - 奥平忠隆除封大久保忠職入封(武蔵私市より):5万石[5][6]
    • 奥平忠隆の除封は一説に寛永12年(1635年)と付記[5]
  • 寛永16年(1639年) - 大久保忠職転出(明石へ)/戸田松平光重入封(明石より):7万石[5][6]
  • 寛文8年(1668年)、松平光永、光澄・光賢に各5000石を分与:→6万石[5]
  • 正徳元年(1711年) - 松平光煕転出(淀へ)/安藤信友入封(備中松山より):6万5000石[5][6]
  • 宝暦5年(1755年) - 安藤信成1万5000石減封[5]:→5万石
  • 宝暦6年(1756年) - 安藤信成転出(磐城平へ)/永井直陳入封(岩槻より):3万2000石[5][6]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
岐阜藩
  • 関ヶ原時 - 織田秀信:13万3000石[5]
    • 1592年より[6]
  • 慶長5年(1600年) - 除封[5][6]

各務郡

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岩滝藩
  • 宝永2年(1705年) - 本庄道章入封(下野国内より):1万石[5]
  • 宝永6年(1709年) - 移封(美濃高富へ)[5]

中島郡

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加賀野井藩

海西郡

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美濃高松藩
  • 関ヶ原時 - 徳永寿昌:3万石[5]
  • 慶長5年(1600年) - 移封(美濃高須へ)[5]

石津郡

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太田山藩
高須藩
  • 関ヶ原時 - 高木盛兼:1万石[5]
  • 慶長5年(1600年) - 高木盛兼除封徳永寿昌入封(美濃高松より):5万600石[5][6]
  • 元和3年(1617年) - 徳永昌重、新田分を合わせて朱印を受ける:5万3700石[5]
  • 寛永5年(1628年) - 徳永昌重除封[5][6]
  • 寛永17年(1640年) - 小笠原貞信入封(関宿より):2万2700石[5][6]
  • 元禄4年(1691年) - 小笠原貞信除封(越前勝山へ)[5][6]
  • 元禄13年(1700年) - 松平義行入封(信濃国内より):3万石【尾張藩支藩】[5][6]
  • 明治3年(1870年) - 本藩に併合[5][2]
多良藩
  • 関ヶ原時 - 関一政:3万石[5]
  • 慶長5年(1600年) - 関一政転出(伊勢亀山へ)[5]

不破郡

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青野藩
  • 天和2年(1682年) - 稲葉正休新封:1万2000石[5]
  • 貞享元年(1684年) - 除封[5]

安八郡

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今尾藩
  • 関ヶ原時 - 市橋長勝:1万石[5]
    • 1587年より[6]
  • 慶長5年(1600年) - 1万石加増:→2万石
  • 慶長15年(1610年)- 市橋長勝転出(伯耆矢橋へ)[5]
  • 元和8年(1622年) - 竹腰正信新封【尾張藩付家老】:3万石[5]
  • 明治元年(1868年) - 竹腰正旧大名となる。藩成立[5][6]
大垣藩
  • 関ヶ原時 - 伊藤盛宗:3万石[5]
  • 慶長5年(1600年) - 伊藤盛宗除封[6]
  • 慶長6年(1601年) - 石川康通入封(上総鳴渡より):5万石[5]
  • 元和2年(1616年) - 石川忠総転出(日田へ)/久松松平忠良入封(関宿より):5万石[5]
  • 寛永元年(1624年) - 松平忠憲転出(小諸へ)/岡部長盛入封(福知山より):5万石[5]
  • 寛永10年(1633年) - 岡部宣勝転出(龍野へ)/久松松平定綱入封(淀より):6万石[5]
  • 寛永12年(1635年) - 松平定綱転出(桑名へ)/戸田氏鉄入封(尼崎より):10万石[5]
  • 明暦元年(1655年) - 戸田氏信、新田を分与。戸田氏経に4000石、戸田氏照に4000石、戸田氏利に5000石[5]
  • 延宝2年(1674年) - 戸田氏西、新田を分与。戸田氏広に2000石[5]
  • 元禄元年(1688年) - 戸田氏定、新田を分与。戸田氏成に3000石[5]
    • 『角川新版日本史辞典』では新田分とは記さず[5]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
曽根藩
  • 関ヶ原時 - 西尾光教:2万石[5]
  • 慶長5年(1600年) - 1万石を加増:3万石[5]
  • 慶長5年(1600年) - 移転(揖斐へ)[5]
福束藩

大野郡

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揖斐藩
大垣新田藩
  • 明暦元年(1655年) - 戸田氏経、大垣藩(戸田氏信)より新田4000石分与。旧領と合わせ6200石[7]
  • 元禄元年(1688年) - 戸田氏成、戸田氏定の封地3000石を加封、別に新田分を合わせる:1万石【大垣藩支藩】[7]
  • 元禄元年(1688年) - 戸田氏成移封(三河畑村へ)[7]
清水藩
野村藩
  • 慶長5年(1600年) - 織田長孝新封:1万石[7][6]
  • 寛永8年(1631年) - 織田長則除封[7][6]
  • 明治元年(1869年) - 戸田氏良入封(三河畑村から)[6]
    • 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」は戸田氏良の藩を記さず、畑村藩が廃藩置県を迎えたと描図[4]。「府藩県変遷表」は明治2年(1870年)に大垣新田藩が野村藩に改称したと記す[8]

本巣郡

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北方藩
十七条藩本江藩
  • 慶長12年(1607年) - 稲葉正成新封:1万石[7]
  • 元和4年(1618年) - 稲葉正成移封(糸魚川へ)[7]

方県郡

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黒野藩
  • 関ヶ原時 - 加藤貞泰:4万石[7]
  • 慶長12年(1607年) - 加藤貞泰移封(米子へ)[7]

山県郡

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高富藩
『日本史広辞典』では岩滝藩を含める。1705年に本庄道章が新封1万石とし、1709年に岩滝から高富に移るとする[6]
  • 宝永6年(1709年) - 本庄道章入封(美濃岩滝より):1万石[7]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県

武儀郡

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上有知藩
  • 関ヶ原時 - 佐藤方季佐藤方政?):2万5000石[7]
  • 慶長5年(1600年) - 佐藤方季除封金森長近入封(飛騨高山より):2万3000石[7]
  • 慶長12年(1607年) - 金森長近は飛騨一国を領有し移転。上有知領2万3000石は金森長光に分与[7]
  • 慶長16年(1611年) - 金森長光除封[7]
関藩
  • 慶長5年(1600年) - 大島光義入封(摂津・美濃・尾張国内より):1万8000石[7]
  • 慶長6 - 9年(1601 - 1604年) - 大島光成、分知により万石以下となる:7500石[7]
    • 大島光政に4700石余、光舜に3200石、光朝に2500石[7]
美濃長谷川藩[要出典]
『角川新版日本史辞典』では「長谷川守知領[7]
  • 元和3年(1617年) - 長谷川守知新封:1万石[7]
  • 寛永9年(1632年) - 長谷川正尚、分知により万石以下となる:7000石[7]
    • 長谷川守勝に3100石分与[7]

郡上郡

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郡上藩(八幡藩)
  • 関ヶ原時 - 稲葉貞通:4万石 [7]
    • 1588年 - 稲葉貞通[6]
  • 慶長5年(1600年) - 稲葉貞通転出(豊後臼杵へ)/遠藤慶隆入封:2万7000石[7]
    • 『日本史広辞典』は遠藤を新封とする[6]
    • 『角川新版日本史辞典』は遠藤を国内より1万9500石加増で入封とする[7]
  • 正保3年(1646年) - 遠藤常友、分知を行う。遠藤常昭に2000石、遠藤常紀に1000石:2万4000石[7]
  • 元禄5年(1692年) - 遠藤胤親移封(下総国内へ)[7]井上正任入封(常陸笠間より):5万石[7][6]
  • 元禄6年(1693年) - 井上正岑、井上正長に3000石分知:4万7000石[7]
  • 元禄10年(1697年) - 井上正岑転出(丹波亀山へ)/金森頼旹入封(出羽上山より):3万8800石[7][6]
  • 宝暦8年(1758年) - 金森頼錦除封青山幸道入封(宮津より):4万8000石[7][6]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県

恵那郡

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岩村藩
  • 関ヶ原時 - 田丸直昌:4万石[7]
    • 『日本史広辞典』は1599年成立とする[6]
  • 慶長5年(1600年) - 田丸直昌除封[6][7]
  • 慶長6年(1601年) - 大給松平家乗入封(上野那波より):2万石[6][7]
  • 寛永15年(1638年) - 松平乗寿転出(浜松へ)/丹羽氏信入封(三河伊保より):2万石[6][7]
  • 正保3年 - 丹羽氏定、丹羽氏春に1000石分与→1万9000石[7]
  • 元禄15年(1702年) - 丹羽氏音転出(越後高柳へ)/石川松平乗紀入封(小諸より):2万石[6][7]
  • 享保20年(1735年) - 1万石加封→3万石[7]
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県
苗木藩
  • 関ヶ原時 - 川尻直次:1万石[7]
    • 『日本史広辞典』は1583年成立とする[6]
  • 慶長5年(1600年) - 川尻直次除封遠山友政新封:1万500石[6][7]
  • 享保7年(1722年) - 遠山友将、友央に500石分与[7]→1万石
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県

可児郡

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金山藩
  • 関ヶ原時 - 森忠政:7万石[7]
  • 慶長5年(1600年) - 森忠政移封(松代へ)[7]
徳野藩
  • 慶長9年(1604年) - 平岡頼勝新封:1万石[6][7]
  • 承応2年(1653年) - 平岡頼資除封[6][7]

所在不明

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平塚為広
  • 関ヶ原時 - 平塚為広:1万2000石[7]
  • 慶長5年(1600年) - 除封[7]
脇坂安信美濃脇坂藩[要出典]
『角川新版日本史辞典』では「脇坂安信領」[7]
  • 慶長年間 - 脇坂安信新封:1万石[7]
  • 寛永9年(1632年) - 除封[7]

飛騨国

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  • 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」:
    • 高山
  • 『藩史大辞典』目次:
    • 高山藩

大野郡

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飛騨高山藩(高山藩)
  • 関ヶ原時 - 金森長近:3万8700石[7]
    • 天正14年(1586年) - 金森長近[6]
  • 慶長5年(1600年) - 金森長近、6万1000石に加増[7]、美濃上有知に移転[7]
  • 慶長12年(1607年) - 金森可重、飛騨一国3万8700石余を相続し高山に入る[7]
  • 元禄5年(1692年) - 金森頼旹転出(出羽上山へ)[7][6]

脚注

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注釈

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出典

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参考文献

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  • 二木謙一監修、工藤寛正編『藩と城下町の事典』東京堂出版、2004年。 
  • 『角川新版日本史辞典』角川学芸出版、1996年。 

外部リンク

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