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多良藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

多良藩(たらはん)は、関ヶ原の戦い前後の短期間、美濃石津郡多良(現在の岐阜県大垣市上石津町多良地区)に存在した。居城は多良城[1]

概要

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織田信長豊臣秀吉に仕えた関盛信の息子に関一政がいた。一政は天正10年(1582年)から天正16年(1588年)まで多良を支配していたが、やがて蒲生氏郷の与力大名として会津に移されたため、多良は大垣城主の支配地となる。しかし秀吉没後に政権を掌握した徳川家康によって関ヶ原の戦い直前に再び多良に戻された。

一政は関ヶ原においては、はじめ西軍に与して竹中重門稲葉貞通加藤貞泰らと共に犬山城を守備していた。しかしやがて東軍に寝返り、関ヶ原本戦で戦功を挙げたため、戦後に関氏の旧領であった伊勢亀山藩に移され、多良藩は廃藩となった。跡地には後に美濃衆が復帰した。

ちなみに多良は、東を養老山地、西を鈴鹿山系、その中央を牧田川が流れる盆地であり、近江伊勢に通じる重要拠点でもあった。

歴代藩主

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関家

外様 3万石

  1. 一政

脚注

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  1. ^ 二木謙一監修・工藤寛正編「国別 藩と城下町の事典」東京堂出版、2004年9月20日発行(308ページ)