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利用者:要塞騎士/sandbox

下書き:中津川一家6人殺傷事件(要約欄には「

下書き:中津川一家6人殺傷事件

」と記入)

中津川一家6人殺傷事件
場所 日本の旗 日本岐阜県中津川市坂下261番地4号[注 1][1]
座標
北緯35度34分37.43秒 東経137度32分13.23秒 / 北緯35.5770639度 東経137.5370083度 / 35.5770639; 137.5370083座標: 北緯35度34分37.43秒 東経137度32分13.23秒 / 北緯35.5770639度 東経137.5370083度 / 35.5770639; 137.5370083
日付 2005年平成17年)2月27日
7時35分ごろ[2] – 13時30分ごろ[3] (UTC+9)
攻撃手段 ネクタイおよび手で首を絞める・包丁で腹部を突き刺す[4]
攻撃側人数 1人[1]
武器 ネクタイ[2]・包丁(刃体の長さ約19.5 cm)[3]
死亡者 5人[1]
負傷者 2人(被害者1人+自殺を図った加害者1人)[1]
犯人H・T
対処 加害者Hを岐阜県警が逮捕[5]・岐阜地検が起訴[6]
刑事訴訟 無期懲役上告棄却により確定[7]
管轄
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中津川一家6人殺傷事件(なかつがわしいっかろくにんさっしょうじけん)は、2005年平成17年)2月27日岐阜県中津川市坂下261番地4号[注 1]の民家で発生した大量殺人無理心中)事件である[1]

加害者H・T(以下「H」と表記 / 事件当時57歳)が同居していた母A・長男Cに加え、別居していた長女Dと2人の孫(計5人)を絞殺し、Dの夫も包丁で刺して重傷を負わせた[1]。さらに包丁で自殺を図ったが失敗に終わり[1]、回復後に逮捕起訴された[5][6]

事件の経緯[編集]

加害者Hは1947年(昭和22年)11月20日に長野県で生まれた[3]

Hは事件当時、中津川市の職員[注 2]として老人保健施設「はなのこ」の事務長[注 3]を務め[8]、実母A(85歳没)や妻B・長男C(33歳没)と4人で暮らしていた[8]。また、2000年(平成12年)4月からは地元の中津川警察署岐阜県警察)では初となる県警嘱託警察犬の指導員を委任され、自宅内で大型の檻を設けて警察犬のシェパード2匹を飼育していた[注 4][11]

犯行に至るまで[編集]

Hは2003年(平成15年) - 2004年(平成16年)ごろにかけ、「通帳が盗まれた」と騒いだり、妻Bを泥棒扱いするなどした母親Aに怒りを抑えきれず、「Aを殺してしまいたい」という気持ちがこみ上げ、思わずAの首を絞めそうになったことが2度ほどあった[12]。この時は「Aを殺害したら家族に迷惑がかかる」などと考え、必死にその思いを抑えていたが、その後もAの挙動に強い腹立ちを覚え「Aを殺して妻Bを楽にしたいし、自分も楽になりた」という衝動に駆られることが多くなっていった[13]。しかし、「もしAを殺せば、自分も残された家族も、世間から一生白い目で見られて嫌な思いをするから、Aを殺すなら家族を皆殺しにしなければいけない。そんな恐ろしいことは到底できない」と考え、思いとどまっていた[13]。一方で2004年4月ごろ、長女Dが第二子を妊娠していることが判明した[13]

2005年(平成17年)1月上旬、Aは「月1回やってくる次男(Hの弟)のため、家の庭に駐車場を作ろう」と言い出したが、これを聞いたHは「弟は駐車場所に困っていないし、家の裏は自分が大切にしている犬の遊び場だ。それをわかっていながら、Aは弟ばかりを可愛がり、自分に嫌がらせをするためにそのようなことを言い出した」と激しく立腹し、Aの殺害を強く意識するようになった[13]。そして、「自分なら『殺人犯の家族』と言われながら生きることは耐え難いし、死んだほうがましだ」という考えから、「Aを殺すなら、家族も殺害しなければならない」という思いを抱くようになり、このころからは夜に布団に入るとAや家族全員を皆殺しにし、最後に自分が自殺する場面を度々頭に思い描くようになった[13]。しかし、妻Bに対しては「ずっと苦労をかけてきた最愛の妻を殺すことなどできない」と考え、「犯行に及ぶなら、Bがいない時になる」と考えるようになった[13]

そして,被告人は,自分であれば殺人犯の家族と言われながら生きることは耐え難く,死んだ方がましであるという考えから,aを殺害するのであれば家族も殺害しなければならないという思いを抱くようになった。このころから,被告人は,夜布団に入ると,aや家族全員を殺して,最後に自分が自殺する場面を度々頭に思い描くようになった。もっとも,bについては,ずっと苦労などと考え 犯行に及ぶとしたら bの不在時になると考えるようになった , , 。 ( )3 同年1月24日から26日にかけてのころ,被告人は,bから「2月27日に日帰り旅行に誘われたが 行ってもいいか , 。」と相談されたことから, - 12 - これを了承し,犯行を行うことができる日ができたと思った。 ( )4 同月26日,被告人は,甲郵便局長からaの貯金のことで話があると言われたため,翌27日の午後にaと一緒に行くと伝えた。そして,当日,aに家で待っているようにと言い渡して出勤し,同日昼ころ,aを迎えに帰宅したところ,aは家にいなかった。被告人は,近所を探し回っていたところ,aが先に一人で郵便局に行ってしまったことを知り,被告人は自分の言うことを聞かないaに対して激しく腹を立てた。さらに,aは,郵便局長からの貯金の限度額超過分を預け替えしたらどうかという説明に対し 「この人に騙されてお金を取られた 」などと郵便局長を泥棒扱いし出 , 。し,被告人や郵便局長がいくら説明しても耳を貸さずに郵便局内で騒ぎ続けた 被告人は これが顔見知りの多い郵便局内での出来事であったため 。 , ,世間に顔向けできないほど恥をかかせられたと思うとともに,ぼけてもいないaがこのようなことをするのは 自分に対する嫌がらせであると考え , ,aを激しく憎悪した。そして,これまで家庭内にとどまっていたaの嫌がらせが,地域社会にまで広がったことから,これ以上aと一緒に生活するのは限界だなどと思い,bが旅行に行く2月27日に,aと家族を殺害して自殺することを現実に実行することを意識した。 ( )5 被告人は,それから犯行日までの約1か月間に,繰り返し殺害の場面を頭に思い描くようになり,徐々に殺害する順番やその方法などの犯行の具体的手順についてイメージを固めていった。同年2月7日に,dが長女gを出産したことから 最終的な計画としては 以下のようなものとなった , , 。まず最初に,aを殺害する邪魔をされないように,同居しており最も力の強いcを,就寝中にネクタイで首を絞めて殺し,次にaを同様の方法で殺害する,次に,aがgを見たがっているなどの口実でd,e及びgだけ自宅に呼び寄せ,hと引き離した上で,同人らも同様の方法で殺害する,最後に,力の強いhをネクタイで首を絞めて殺すのは困難なので,包丁で刺 - 13 - して殺害する,また,飼育していた2頭の犬についても,自分が死ねば世話をする者がいなくなることから 包丁を使って殺害し そして 最後に , , , ,ネクタイで首を吊って自殺しようというものであった。他方で,gが生まれ,dが入院中の同月11日に,珍しくaがdの見舞いに行きたいと言い出し,見舞いに連れて行った際,aがご祝儀を出し,gを抱いて「女の子でよかったね」などと言って嬉しそうにしていたことがあり,aを殺害する気持ちが揺れ動いたり,生まれたばかりのgや懐いているeを殺害するのはあまりにもかわいそうではないかなどと殺害を思いとどまろうとする気持ちになることもあり,葛藤を続けていた。 ( )6 このころから,被告人は,夜布団に入ると,殺害の場面が頭の中をぐるぐると巡り,よく眠れなくなった。もっとも,一晩中眠れないということはなく,食事は普通に取れており,日常生活に支障を感じることはなかった。また,被告人は,仕事中に一家殺害のことを考えてぼんやりとすることが増え,職場の同僚や部下は,同年2月に入ってから,被告人が事務所で考え事をしていることが多くなり,以前は決断が早く,即断で指示を与えてくれていた被告人が,指示を仰いでも曖昧な返答をしたり,優柔不断な態度を取ることが多くなったと感じていた。もっとも,被告人は,仕事が手に付かず困難を感じるなどのことはなく,客観的にも,被告人の業務が停滞することはなかった。また,同年1月中旬から2月中旬頃まで,bはdの出産に伴いd宅に手伝いに行くことが多く,被告人も頻繁にd宅に顔を出して一緒に食事をするなどしていたが,その際も普段通りに振る舞っていた。bは,同年1月以降,被告人のタバコの本数が増えたり,無言で嫌な顔をしていることが度々見られたり,以前はeに対して怒ることはなかった被告人が,eを注意するときに怖い顔をして少しきつい言い方をするようになったりといった被告人の変化を感じたが,全体としては特に大きな変化を感じることは - 14 - なかった。ただ,タバコの本数が増えたことについては,ノートに書き留めていた。 ( )7 犯行前日の同年2月26日,被告人は,知人に預けていた2頭の犬を引き取りに行き,自分によく懐いている犬の様子を見て殺すことが忍びなくなり 「明日みんなを殺すのをやめようか。いや,やっぱり明日やるしかな ,い 」などと葛藤した。また,その夜も布団の中で殺害方法に思いを巡らせ 。ながらも,犯行をためらう気持ちや 「本当に殺せるのか 」という不安を , 。抱き,葛藤を続けていた。しかしながら,最終的には,殺害を決行しようと思い直し,その前に旅行に出掛けるbと最後の時間を過ごしたいという思いから,bが旅行仲間との待ち合わせ場所まで知人に送ってもらう予定であったのを,電話をかけさせて断らせ,自分で送って行くことにした。 3 犯行当日の状況 ( )1 同月27日,被告人は,朝6時ころに起床し,車を運転してbを旅行仲間との待ち合わせ場所まで送り届けた。それまでの間も被告人は葛藤を続けていたが,bを送り届けた瞬間,葛藤がなくなり,犯行を実行する気持ちが異常に高ぶり,最終的に家族を殺害する決意を固めた。 ( )2 被告人は,帰宅後,訪問客に犯行を邪魔されないように玄関の鍵を閉めて居間から出入りをした。すると,aが,かねてより新聞の購読を申し込んでは断るということを繰り返して新聞販売店に迷惑をかけていたにもかかわらず,また新聞を購読したいなどと言い出したり,gを出産して間もないdがaにgを見せにこないことについて嫌味を言ったりしたため,このような自分勝手なaを今すぐにでも殺害したいという衝動に駆られ,殺害の決意は揺るぎないものになった。しかし,庭に出している犬が気になったことや,ここでaを殺害すると,騒ぎに気付いたcが起きてきて邪魔されるかもしれないなどと考え,思いとどまった。 4 犯行状況 - 15 -

事件発生[編集]

しかし、同居していた母Aが妻Bを長年にわたり泥棒扱いするなどしていじめ続けていたため、これを「自分自身への嫌がらせ」と考えていた[2]。さらに2005年1月27日、Aが預金の預け替えを勧めた郵便局長を泥棒呼ばわりしたことから「これ以上Aと同居することには耐えられない」などの重いから、Aを殺害して自殺することを企てた[2]。さらに長男C・長女D(30歳没)とDの長男E(2歳没)および長女F(0歳没)[注 5]、Dの夫である男性G(当時39歳)に対しても、殺人犯の家族として生きていくのは耐えられないだろうとの考えから殺害を企てた[2]

Hは事件当日(2005年2月27日)6時ごろに起床し、7時ごろには旅行へ行く妻Bを投票所経由で坂下駅JR中央本線)まで送った[15]。そして、犬2頭を車の荷台の中のケージに入れ[注 6]、7時35分ごろには自宅2階で就寝していた長男Cの首をネクタイで絞めて殺害し[16]、約10分後(同45分ごろ)には母親Aも同様に殺害[2]。その後、Hは飼い犬2頭を殺害するため、台所から包丁2本を持って犬を連れて公園[注 7]に赴き、包丁で相次いで首・胸などを刺して犬を殺害した[16]

そして、自分が自殺した後に勤務先の施設に迷惑をかけないようにと施設へ向かい、施設に入る前に額に付着した血を拭き取り、血の付いた衣服を着替えた[注 8][17]。同日8時30分ごろ、Hは職員と挨拶を交わして施設内に入り[注 9]、今後の仕事に支障がないように借りていた書類・鍵などが入った鞄を事務所に置き、自分の机などに入れていた警察犬関係の書類を取り出して持ち帰る準備[注 10]などをしてから施設を出て自宅に戻った[注 11][17]。そして帰宅すると、犬の血が付いた包丁2本を洗い、包丁の上に衣服をかぶせて隠した[注 12]上で、昼近くになってからDたちを迎えに行くことにした[注 13]が、時間を潰している間に自分の行為を振り返り「なんて恐ろしいことをしてしまったんだろう」「どうして殺してしまったのか」などと後悔する気持ちを抱いていた[17]。しかし「始まったのだからもう後戻りはできない」などと、犯行を継続する気持ちを奮い立たせながら時間が過ぎるのを待ち、11時45分ごろに車でD宅へ赴いた[17]。そしてDとその子供(自身の孫)である長男E・長女Fの母子3人を[15]「AがFの顔を見たがっているから来てほしい」などと言って自宅に連れ出し[注 14]、3人を車に乗せて自宅へ連れ、Aの部屋へ行くよう促した[17]。そして12時10分ごろには長女Dを[注 15]、20分ごろには孫Eも同様にネクタイで絞殺[注 16]し、30分ごろには孫Fの鼻・口を手で押さえた[注 17]上で、右手で首を絞めて殺害[4]。その後、HはDの左腕にFを、右腕にEの頭を乗せ、Fのおくるみとして使っていた毛布を広げて3人の遺体に掛けた[18]

そして13時ごろ、台所から犬を殺害した際に切れ味が鋭かった方の包丁を選び、衣服で包み隠して車に乗せ、Dの夫Gを迎えに行った[18]。そしてGを連れて自宅に到着すると、同様にAの部屋へ行くよう促し、背後から近づきながら衣服に包んでいた包丁を取り出した[18]。Hはテーブルの上に置いてあったタオルを包丁の柄の部分に巻き付け[注 18]、背中に包丁を隠したままAの部屋に続くドアを開け、Gに部屋へ入るよう促したが、Gが部屋の様子に異変を感じて振り向いた[18]。そのため、Hは同日13時30分ごろ、「Gさん死んでくれ」と言いながら[18]、Gの腹部[注 19]を包丁(刃体の長さ約19.5 cm)で一突きしてGを刺殺しようとした[3]。しかしGは揉み合いの末にHから包丁を奪い取って放り投げ、H宅から逃げたため[19]、HはGに全治約2週間の怪我を負わせるにとどまった[3]

捜査[編集]

13時50分ごろ、被害者男性Gが「義父 (H) に刃物で刺された」と岐阜県警に110番通報し、これを受けて中津川署の署員が現場に駆け付けた[1]。署員は14時5分ごろ[15]、殺害された被害者5人の遺体を発見し、重傷を負った男性Gも発見した[1]。一方でHはGを襲撃した後、1階の風呂場にてGが放り投げた包丁を用い[19]、自ら首の左側を突き刺して自殺を図った[注 20][1]。Hはすぐに人に見つからないよう空の浴槽内に身を隠したが[19]、その後駆けつけた警察官により、包丁が首に深く突き刺さったままの状態で発見された[20]。包丁が頸動脈を外れていたため、Hは一命を取り留めたが、大量に出血したショックで意識を失い[20]国民健康保険坂下病院へ収容された[21]。Hは翌日(2月28日)に意識を回復し[22]、3月7日からは入院先の病室で事情聴取を受けた[23]。そして3月11日には担当医師が「留置に耐えられる程度まで回復した」と県警に連絡したため、被疑者Hは以下の罪状で逮捕送検起訴された。

捜査経緯
容疑 逮捕日 送検日 起訴日
殺人未遂
(被害者:G)[5]
3月12日[5] 3月14日[注 21][25] 4月23日[6]
殺人
(被害者:A・C)[24]
4月2日[24] 4月4日[26]
殺人
(被害者:D・E・F)[6]
4月23日[6] 4月25日[27] 5月13日[28]

※捜査担当は岐阜県警(捜査一課・中津川署)[5][6]、送検先は岐阜地検多治見支部[25][26][27]。これは中津川市が岐阜地裁家裁多治見支部の管轄に属するためだが、合議事件は岐阜地裁(本庁)で取り扱われるため[29]、起訴先は岐阜地裁(本庁)となる[6][28]

起訴前、岐阜地検は被疑者Hの刑事責任能力の有無を調べる目的で簡易鑑定を行い[30]、「刑事責任を問える」と判断した上で起訴に踏み切った[24]。また事件後、加害者Hは中津川市から同年4月22日付で懲戒免職処分となった[31]

事件の背景[編集]

被害者Aは1920年(大正9年)2月1日・広島県生まれ[3]。Aの実家は昔は裕福な名家だったが、Aの代には既に財産がなく、Aは幼少期から経済的に苦労していた[3]

その後、Aは(Hの父親と)結婚後、夫の実家のある長野県に引っ越したが、慣れない土地で近所に友人もなく、舅や姑にもきつく当たられるなど、辛い思いをして過ごしていた[3]。そのような中、Aと夫(Hの両親)は共働きで家計を支えていたが、経済的な理由でよく喧嘩をしていた[32]。また、Aは八つ当たり的にHを革ベルトで叩いて叱ったり、家の中で「自分の物がなくなった」といい、子供たちのせいにしたりなど、Hやその弟に口うるさく干渉していた[33]。そのため、Hは怒ったときの口調がきつく、自分の言い分に耳を貸さない母Aを恐れ、次第に言いたいことを言えなくなっていったため、小学校高学年ごろからはAを嫌うようになっていった[33]。やがてAもHにあまり話しかけなくなり、母子関係は一層悪化していった[注 22][33]

Hは中学校に入学すると、周囲からの目を気にするようになった[35]。同時に身長が低い事へのコンプレックスを抱くようになり、その原因を「身長の低い母Aのせいだ」と思うようになり、さらにAへの反発を強め、家族ともほとんど口を利かなくなった[35]。Hは高校に進学すると部活動で活躍した一方、家の中では暗く無口だった[35]。また当時は不良グループのリーダー格として、喫煙・他校生徒との喧嘩をしていたが、高校3年時に進路について父親と話し合い、真面目に仕事をして苦労してきた父への尊敬の念を強め、進学の決意を固めた[35]。そして1966年(昭和41年)に東京の大学附属のX線技師の学校へ進学すると、1968年(昭和43年)に同校を卒業して長野県松本市の病院に就職し、直後に診療エックス線技師の資格を取得し、エックス線技師として稼働するようになった[35]。このころに後の妻となる女性B(同病院の准看護婦)[注 23]と知り合って好意を抱き、Bと交際するようになった[35]。Hは自身の低身長をコンプレックスとしていたが、Bは高身長ながら明るく飾らない性格で、Hの身長を気に掛けなかったため、一層Bに強い好意を抱き、彼女から良く思われようと仕事のできる頼りがいのある男を演じるようになった[35]

Bと知り合ってから約1年後、Hは結婚相手として両親にBを紹介したが、母AはBの出身地を聞いただけでBの家柄などについて思い込みを抱き、Bを毛嫌いして結婚に猛反対した[注 24][36]。そのころ、Hは恵那郡坂下町[注 25]所在の[36]国民健康保険坂下病院[注 26][8]の事務長として誘いを受け、「Aと別居できる」と考えたこともあって同病院へ移ることを決意[注 27][36]。Hは1970年(昭和45年)6月12日にBと結婚し、同年7月1日に坂下町へ引っ越すまでの間、両親とともに4人で同居したが、Aは当初から義娘Bを泥棒扱いするような言葉をHに浴びせていた[36]。その後、Aと別居するようになったH・B夫婦の間には1971年(昭和46年)4月1日に長男Cが[注 28]、1975年(昭和50年)1月31日に長女Dがそれぞれ誕生した[36]

一方、Hの父親はかねてから「退職したらH一家と同居したい」と話していたため、1978年(昭和53年)にHとともに頭金を出し合い、犯行現場となった2世帯住宅を新築し、1980年(昭和55年)からH一家はHの両親とともに同居するようになった[36]。しかし、Aは依然として、Hに対しBを泥棒扱いするような言葉を言っており[注 29]、やがて夫(Hの父親)[注 30]が肺癌により入退院を繰り返すようになると、Bを突然怒鳴りつけて頬を叩くなどするようになった[36]。そしてHの父親が1982年(昭和57年)に死亡すると、AのBへの態度はエスカレートし、「最初から嫁と認めていない」「通帳がなくなった」などと毎日のように怒鳴りつけたり、嫌味を言ったりするようになった[37]。また、Aは息子Hに対しても「Bが自分のものを盗んだ」などの悪口を頻繁に言っており、Hが仕事を終えて帰宅すると、Bが部屋で泣いていたり、ふさぎ込んでいたりすることが多くなった[10]。このため、Hは「これ以上母Aと同居したら家庭崩壊してしまう」と思い、1984年(昭和59年)ごろには事情をよく知っている弟[注 31]神奈川県在住)に相談し、Aを弟に引き取ってもらうことにしたが、Aはその後も月1, 2回はH宅に帰宅し、Bに嫌味を言うなどしていた[10]。そして1998年(平成10年)ごろになると、Hの弟は「物がなくなった」と自分を泥棒扱いしたり、「泥棒が入った」と騒いだりする母親Aとの同居生活を苦痛に感じるようになった[注 32]ため、面倒を見切れなくなり、兄Hに「母親Aを引き取ってほしい」と頼んだ[39]。H・B夫婦は内心ではAとの同居を拒否したかったが、Bは悩む夫Hの様子を見て「なんとか義母 (A) とうまくやっていこう」と決意し、HにAを引き取ることを勧めた[38]。これを受け、Hも長男としての責任・世間体などを考え、Bに背中を押される形で母親Aを引き取ることを決め、1999年(平成11年)4月ごろからAとの同居を再開した[38]。Bはそれまでのことを忘れて義母Aとうまくやっていこうとし、Aを買い物・旅行に誘ったり、Aが喜びそうな献立を考えるなどして一緒に食事も摂っていたが、Aはその後も義娘Bに辛く当たるような言動[注 33]を繰り返した[38]。Bは義母Aとうまくやっていくため、義弟(Hの弟)に助言を求め、「Hに間に入ってもらったほうが良い」と言われたため、その旨をHに伝えたが、Hは「放っておけ。自由にさせておくのが一番いいんだ」[注 34]と言ったため、BはAからの冷たい仕打ちに黙って耐え、Aとなるべく顔を合わせないようにした[38]。しかし、それでもAからBへの泥棒扱いなどの嫌がらせは止まらず、AはHに対してもBの悪口を言ったり、H自身のことも泥棒扱いすることがあった[40]。このころ、Hの弟(Aの次男)は母親Aの様子を心配し、月1回定期的にAの部屋に泊まりに来たが、Aは次男に対してもBを悪く言ったり泥棒扱いした[注 35][9]

一方で1999年ごろ、Hの長女(Aの孫娘)D[注 36]は男性G(後の夫)と知り合って交際を始め、2001年(平成13年)3月に入籍し[注 37]、同年9月に挙式した[9]。D・G夫婦は当初、Gの実家に住んでいたが、2か月後にはHらと同居するようになった[9]。しかし、このことについてAが嫌味を言ったことなどから、その2か月後にはH宅付近の借家に住むようになった[9]。しかしAは同年、Hに相談せず、2世帯住宅の自分の居住部分とH夫婦の居住部分との間に扉を設け、自室にも南京錠を取り付けるなどし、常時自室に施錠するようになったため、H夫婦はAの部屋に出入りできなくなった[41]。一方でAはH夫婦がいないと思って、こっそり夫婦の居住部分に来たり、入浴中に風呂を覗いたりしてHらの様子を窺ったり[注 38]、Bへの嫌がらせ[注 39]、HへのBに関する悪口などを続けていた[42]。これらの嫌がらせを受けていたBは「夫Hに不満を言うと、Hもストレスを溜め込んでしまう」と思い、ノートに殴り書きするなどしてストレスを発散させていたが、2002年(平成14年)ごろには精神的に不安定になった[注 40][42]。また、このころにはHが「年寄りだから放っておけ」などと余裕を持って構えているようなふりをし、(後述の態度から)自分の訴えからも逃げているように感じたことから、Bは次第にHに失望して不満を募らせるようになった[42]。Hは当時、「Bから『Aに何も言えない不甲斐ない男だ』と思われたくない」と考え、犬の散歩・訓練で家を空けるなどしていたが、やがてAへの嫌悪感を強め、同時にAの問題から逃げている自分への自己嫌悪に陥り、Bに失望されることにも耐え難くなったことから、次第には漠然と「母がいなくなればいい」と思うようになった[43]

2002年(平成14年)4月にはHの長女Dが長男E(Hの孫)を出産した[44]。H夫婦とD一家は頻繁に互いの家を行き来し、Eも祖父Hによく懐くなど、関係は良好だったが、D夫婦(およびDの兄C)もAとの交流や、Aの部屋に入ることはほとんどなかった[44]。2003年(平成15年)12月ごろ、妻BはHに対し「家を出ていきたい」と告げたため、HはAとの別居を提案し、知人に借家がないか聞いたり、Bとともに物件を見て回ったりしたが、Hがこのことを弟に伝えたところ、弟からそれを聞きつけたAは「私を見捨てるのか」などと激しい剣幕でH夫婦を怒鳴りつけた[44]。そのため、Hは気持ちが萎え、結局は別居を断念した[注 41][44]。また長男Cは宮崎の大学に進学し、卒業後に大阪で就職したが、その2年後には「都会生活が合わない」として退社し、実家に戻ってアルバイトをしながら、2002年8月からカイロプラクティックの学校に通い始めた[44]。そして、2003年10月には実家(H宅)でカイロプラクティック院を開業していた[注 42][44]

刑事裁判[編集]

第一審[編集]

刑事裁判の初公判は2005年7月1日に岐阜地方裁判所(土屋哲夫裁判長)で開かれ、被告人Hは罪状認否で起訴事実を「間違いない」と認めた[45]。一方で被告人Hの弁護人は責任能力について争う構えを見せ[45]、第2回公判(2005年9月5日)では検察官により提出された供述調書・簡易鑑定結果について、「事件後、Hの記憶があやふやな状態で誘因的に取り調べた」などの理由からいずれも証拠採用に同意しなかった[46]

第3回公判(2005年9月30日)では被告人質問が行われ、被告人Hは殺害方法・経緯などについて質問を受けたほか、現在の心境について「(被害者には)申し訳ない。罪を償いたいと思っているが、早く死にたいとは思わない」などと述べた[47]。一方で弁護人はHについて、「十分な判断能力はなかった」として精神鑑定を申請することを決め[47]、第4回公判(2005年11月4日)で精神鑑定を申請[注 43][50]。その結果、2006年6月19日には「被告人Hは犯行前、妄想性障害・軽度の鬱病に陥り、犯行時は母親への被害妄想があった。善悪を判断し、行動を制御する能力も著しく弱っており、責任能力は限定的(=心神耗弱状態)だった」とする鑑定結果が採用されたが[51]、岐阜地検は同年9月12日に再度の精神鑑定を申請[52]。岐阜地裁(土屋哲夫裁判長)は第9回公判(2006年10月20日)で地検の申請を受けて再度の精神鑑定を決定し[52]、2007年(平成19年)8月10日までに「被告人Hは精神障害ではなく、(事件当時は)完全な責任能力があった」とする鑑定結果が出された[53]。同年12月3日に岐阜地裁(田邊三保子裁判長)で公判が約1年ぶりに再開され、被告人Hの弟が出廷して死刑回避を求めたほか、同じく証人として出廷したHの知人も自ら集めた死刑回避を望む1,000人分の署名(嘆願書)を提出した[54]

2008年(平成20年)7月29日に岐阜地裁(田邊三保子裁判長)で論告求刑公判が開かれ[55]、岐阜地検は被告人Hに死刑を求刑した[56]。同日の論告で、岐阜地検は被告人Hには完全責任能力があった旨を主張した上で[56]、「自己の自尊心・虚栄心を満たすため、冷酷非道かつ残忍な犯行を繰り返した」と指摘した[55]。一方、弁護人は同年9月16日の最終弁論で「犯行は被害妄想などの精神障害によるもので、犯行時のHは心神耗弱状態だった。『長年にわたり母から嫌がらせを受けてきた妻に、母を殺害することで自分を認めてもらいたい』という欲求・自己愛だけでは、そのほかの家族を殺害した動機を説明できない」と主張し、死刑回避を求めた[57]

2009年(平成21年)1月13日に判決公判が開かれ、岐阜地裁(田邊三保子裁判長)は被告人Hに無期懲役判決を言い渡した[2][58]。岐阜地検は「結果(5人殺害・1人重傷)は重大で判決は軽すぎる」として、同月23日付で名古屋高等裁判所控訴した[59]

控訴審[編集]

2009年9月14日に名古屋高裁で控訴審初公判が開かれ、検察官は控訴趣意書で「結果は重大で、死刑を回避するだけの事情はない」改めて死刑適用を求めた一方、弁護人は「被告人Hは心神耗弱状態だった」として、量刑を軽減するよう訴えた[60]。第2回公判(2009年11月6日)で被告人質問などが行われ[61]、第3回公判(2009年11月24日)で結審[62]。検察官は「犯行は悪質で、被告人Hは控訴審で遺族に謝罪の手紙を書いていないなど、反省していないことも明らかになった」として死刑を求めた一方、弁護人は「無理心中事件で、生きて反省を深めていくことが必要だ」として懲役刑選択を求めた[62]

2010年(平成22年)1月26日に控訴審判決公判が開かれ、名古屋高裁(片山俊雄裁判長)は第一審判決(無期懲役)を支持し、検察官・被告人Hの控訴をいずれも棄却する判決を言い渡した[63]名古屋高等検察庁は2010年2月9日付で控訴審判決を不服として最高裁判所上告した[64]一方、被告人Hの弁護人も上告期限となる同日に上告した[65]

上告審[編集]

2012年(平成24年)12月3日付で、最高裁第一小法廷横田尤孝裁判長)は検察官および被告人Hからなされていた上告をいずれも棄却する決定を出し[7]、無期懲役が確定した[66]

同小法廷は、職権で量刑について判断し[67]、「相当に計画的な犯行で、5人が殺害されたという結果は誠に重大であり、被告人Hに対し死刑を選択することも十分考慮しなければならない事案だ。」と指摘した[67]。しかし、「実母Aを殺害した動機はAの言動によってHが苦悩し、追い詰められた心理状態に至ったという経緯を踏まえれば理解できないわけではない。子や孫らの殺害も理不尽としかいいようがないが、『Aを殺して自分も自殺しよう』とするにあたり、『殺人犯の家族という汚名を着せられて生きていくのは耐えられないだろう』という理由で道連れを図ったその心情は量刑上全く斟酌の余地がないものではない。被害者遺族も一同に死刑を望んでいるわけではなく、被告人Hは前科前歴ともなく57歳まで真面目に働いて社会生活を送っていた。Hは犯行を反省・悔悟しており、再犯の可能性は低い。」などとして、「被告人を極刑に処するほかないものとは断定し難く、被告人を無期懲役に処した第一審判決を維持した原判決は、破棄しなければ著しく正義に反するほどの量刑不当とまでは認められない」と結論付けた[68]

なお同決定は審理を担当した最高裁判所裁判官5人のうち、4人(櫻井龍子金築誠志白木勇山浦善樹[69]の多数意見による結論だが[70]、裁判長を務めた横田は、「結果の重大性から極刑はやむを得ず、経緯・動機に酌むべき余地はない。死刑を回避すべき特段の事情は認められず、原判決の量刑は著しく不当で、破棄しなければ著しく正義に反する」として、「原判決を破棄し、本件において死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情があるかどうかにつき更に慎重な審理を尽くさせるため、本件を原裁判所(名古屋高裁)に差し戻すべき」と反対意見を表明した[71]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b 現場は旧:恵那郡坂下町(事件直前の2005年2月13日に中津川市へ編入合併)で、坂下駅から約数百メートル東に位置し、長野県境に近い木曽川右岸の住宅地[1]
  2. ^ 合併前の旧坂下町職員だった[8]
  3. ^ 2001年(平成13年)6月1日付で施設事務長に就任[9]
  4. ^ Hは子供のころから「シェパードを飼いたい」と考えており、高校を卒業した長女Dが犬の訓練士を目指して警察犬訓練所で住み込みで働き始めたが、1年で辞めて自宅に戻ったことをきっかけに、1993年(平成5年)ごろから2頭のシェパードを飼い始めた[10]。その後は訓練所の指導を受けて警察犬の訓練を始め、毎年実施される警察犬の大会に参加させたり、警察から嘱託を受けてしていたほか、毎日散歩や訓練に連れて行くなど、子供同然に可愛がっていた[10]
  5. ^ 女児Fは2005年2月7日に生まれたばかりだった[14]
  6. ^ 犬が騒いでCが目を覚ますことを恐れたため[16]
  7. ^ シェパード2頭の死骸は日ごろ、Hが訓練場として使っていた場所である「椛の湖」(はなのこ / Hの勤務先近く)付近の雑木林にて発見された[11]
  8. ^ 施設に入る前、トイレで血の付いた手を洗っていた際に額に血が付いていたことに気付いたため[17]
  9. ^ 事件当時の報道では、施設を訪れた時間は「9時ごろ」とされている[15]
  10. ^ 私用を職場でやっていたことが発覚しないようにするため[17]
  11. ^ この時、Hは途中で再び公園に寄り、殺害した犬2頭に手を合わせて最後の別れを告げている[17]
  12. ^ Dらに見つからないようにするため[17]
  13. ^ Hは普段、午前中は犬を訓練所に連れて行って遊ばせていたため、「あまり早い時間にDたちを迎えに行くと不審に思われる」と考えたため[17]
  14. ^ この時、(後で連れ出した)Gは就寝中だったため「後で迎えに来るで頼むな」と声を掛けていた[17]
  15. ^ HはDを殺害した際、DにAの近くへ行くよう言い、Aの様子を窺ったDが祖母Aの異変に気付いたところを背後から近づき、背後からネクタイで絞殺した[18]
  16. ^ この時、Hは自身に近づいて「ママ大丈夫なの。(妹)Fは大丈夫なの 」と心配そうに言うEの姿を見て殺害を躊躇したが、「もう後戻りはできない」と殺害を決意し、Eに「ごめんな」などと心の中で謝罪しながら絞殺した[18]
  17. ^ Fが突然泣き出したため、その泣き声で近隣住民が異変に気付くことを恐れたため[18]
  18. ^ 滑り止めとしての役割に加え、H自身の指にできた傷が痛んでいたことも包丁の柄にタオルを巻いた理由だった[18]
  19. ^ 腹部中央付近[18]
  20. ^ Hは当初、首を吊って自殺するつもりだったが、Gに逃げられたため「すぐに人が来るに違いないから、首を吊って自殺する時間はない」と考えた[19]
  21. ^ 岐阜地検は4月2日付(拘置期限)で「殺人罪との一括処理が相当」として処分保留[24]
  22. ^ その一方でHの弟(次男・1950年〈昭和25年〉生まれ)[3]はAに従順で、Aも次男を叱ることは少なかったため、Hは「母Aは弟ばかりを可愛がり、自分を嫌っている」と思うようになった[34]。また、Hは明るく社交的な父親のことは好いており、父子関係は良好だった[33]
  23. ^ 当時のBは美人で明るく、職場でも人気があった[35]
  24. ^ 一方、Hの父は息子の結婚を喜んだ[36]。Hは母Aの思い込みを正そうと何度も説明したが、Aは耳を貸さなかった[36]
  25. ^ 岐阜地裁 (2009) の判決文(裁判所ウェブサイト掲載判例)では「甲町」と表記されている[36]
  26. ^ 岐阜地裁 (2009) の判決文(裁判所ウェブサイト掲載判例)では「国民健康保険甲病院」と表記されている[36]。Hは1991年(平成3年)に同病院の放射線総括技師長、1993年(平成5年)に健康管理科長、1996年(平成8年)に総務課次長および地域医療科長と順調に昇任していき、住民の健康相談を担当したり、公会堂での健康教室で講師として講義をしたりするようになり、町の住民から「先生」と呼ばれるようになった[10]
  27. ^ 同年7月1日以降、妻Bとともに坂下町に引っ越したHは同町職員の身分で、坂下病院でエックス線技師として働き始めた[36]
  28. ^ C誕生以降、Bは仕事を辞め、それ以降は1992年(平成4年)4月 - 1998年(平成10年)3月に勤務した以外は家事などに専念していた[36]
  29. ^ ただし、それをBに直接言うようなことはなく、Aがbに直接話しかけることはほとんどなかった[36]
  30. ^ Hの父親は妻AからB(義理の娘)を庇うなどしていたため、彼が入院するまでは表面上、家庭内に大きな問題はなかった[36]
  31. ^ 弟が母親Aと同居している間、Hは一度も弟に年賀状を出したり、弟の家を訪れたりすることはなかった[10]
  32. ^ また、このころにはAが頭痛白内障などにより入通院するようになっていた[38]
  33. ^ Bを相変わらず泥棒扱いしたり、Bとともに食事をすることを拒み、Bが作った料理を自室に持ってきても全て捨てたり、自分が買ってきた花をBに頼んで庭に植えさせても、後日その花を全部抜いたり、台所のテーブルにBへの嫌味・悪口ばかりを書いた手紙をおいたりするなど[38]
  34. ^ 岐阜地裁 (2009) はこのHの発言について「AとBとの関係改善への努力を全くしなかった」と指摘しているが[38]、一方で「幼少期からの経験で、『Aには何を言っても無駄』と思っていた」とも指摘している[9]。実際、当時のHは妻Bと同様にAとの接触を避けていた[38]
  35. ^ 次男(Hの弟)は当初、Aに対し「そんなことはない」と反論し、兄夫婦との中を取り持とうとしたが、Aが全く聞く耳を持たないため、次第にうなずくだけにして相手にしないようにしていた[9]
  36. ^ Dは警察犬訓練所を辞めた後、エステの機械販売などをしていた[9]
  37. ^ Hは当初、離婚歴のあったḠと娘Dが結婚することに内心では反対していたが、「寛大な父親でありたい」という思いから結婚を認め、2人が抱えていた借金を肩代わりし、Dの結婚費用・家のリフォーム費用も出し、結婚後も折に触れて経済的に援助していた[9]。また、Hは自身の弟に対し「家族が増えた」と嬉しそうに話しており、結婚後のGと義父Hとの関係は良好だった[9]
  38. ^ このことから、H夫婦は「Aから自分たちの生活を監視されている」と恐怖心やストレスを感じていた[42]
  39. ^ 後から風呂に入るBへの嫌がらせのため、風呂に大小便やゴミを放置したり、Bが大切にしていた庭の花木を引き抜いたりするなど[42]
  40. ^ 暗くふさぎ込んだり、寝付きが悪くなったり、耳鳴り・頭痛がするなど体調にも変調を来たすようになった[42]
  41. ^ また、「老人保健施設の事務長である自分が、母親の面倒も見ないというのは世間体が悪い」という思いもあった[44]
  42. ^ この時、Hは開業資金の一部を援助するなどした[44]。Hは長男Cが定職に就いていないことについて「世間体が悪い」と思っていたが、同時に「Cには『寛大で心の広い父親』と思われたい」という思いから口には出さず、関係は良好だった[44]
  43. ^ 鑑定は2006年(平成18年)2月17日の公判以降に開始され[48]、同年5月11日までに終了[49]

出典[編集]

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  2. ^ a b c d e f g 岐阜地裁 2009, p. 1.
  3. ^ a b c d e f g h i 岐阜地裁 2009, p. 2.
  4. ^ a b 岐阜地裁 2009, pp. 1–2.
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  9. ^ a b c d e f g h i j 岐阜地裁 2009, p. 8.
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  16. ^ a b c 岐阜地裁 2009, p. 15.
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  62. ^ a b 『読売新聞』2009年11月25日中部朝刊第二社会面32頁「中津川6人殺傷 検察死刑求め控訴審が結審=中部」(読売新聞中部支社)
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  70. ^ 最高裁第一小法廷 2012, p. 3.
  71. ^ 最高裁第一小法廷 2012, pp. 3–8.

参考文献[編集]

  • 岐阜地方裁判所刑事部判決 2009年(平成21年)1月13日 『TKCローライブラリー』(LEX/DBインターネット)文献番号:25440492、裁判所ウェブサイト掲載判例、平成17年(わ)第185号、『殺人、殺人未遂被告事件』「被告人方において,長男,実母,長女,長女の子2名の計5名を殺害し,長女の夫に対し,包丁で刺して殺害しようとしたが,これを遂げなかった事案について,完全責任能力を認めた上で,被告人を無期懲役に処した事例」、“【事案の概要】同居する実母の言動に耐えかねて同女への憎しみを募らせた被告人が、同女を殺害した上、子や孫を道連れにして自殺しようと企て、息子、実母、娘及び孫2名Bの計5名をネクタイ等で首を絞めて順次殺害し、その後、娘婿の腹部を包丁で刺して殺害しようとしたがこれを遂げず、最後に自殺を図ったが死にきれなかったという事案で、犯行前の被告人の生活状況・精神状態、犯行態様、犯行後の記憶・認識等、犯行後の状況、鑑定結果の事情によれば、本件犯行当時、被告人が精神障害に罹患しておらず、被告人の事理弁識能力及び行動制御能力が著しく減弱していなかったことは明らかに認められるとして、被告人を無期懲役に処した事例。 (TKC)”。
    • 判決主文:被告人を無期懲役に処する。未決勾留日数中1170日をその刑に算入する。押収してあるネクタイ1本(平成17年押第28号符号2)及び包丁1丁(同押号符号1)を没収する。(求刑:死刑、ネクタイ1本及び包丁1丁を没収)
    • 裁判官:田邊三保子(裁判長)・石井寛・田中篤子(田中は特別休暇中のため、署名押印できなかった)
  • 最高裁判所第一小法廷決定 2012年(平成24年)12月3日 集刑 第309号1頁、平成22年(あ)第402号、『殺人、殺人未遂被告事件』「家族に対する殺人5件,殺人未遂1件の事案につき,無期懲役の量刑が維持された事例(反対意見がある。)(岐阜中津川家族殺害事件)」。
    • 決定主文:本件各上告を棄却する。
    • 最高裁判所裁判官横田尤孝(裁判長)・櫻井龍子金築誠志白木勇山浦善樹
      • 多数意見:上告棄却 - 櫻井龍子・金築誠志・白木勇・山浦善樹の4裁判官。
      • 反対意見:横田尤孝 - 「死刑を回避するまでの特段に酌むべき事情は認められない」「原判決(無期懲役)は、量刑に当たって考慮すべき事実の評価を誤った甚だしく不当なもので、破棄しなければ著しく正義に反するため、審理を原裁判所(名古屋高等裁判所)に差し戻すべき」と主張。
    • 上告人:検察官および弁護人(大川隆之)

関連項目[編集]

  • 岩槻一家7人殺害事件 - 1959年(昭和34年)7月22日に埼玉県岩槻市(現:さいたま市岩槻区)で発生した一家心中事件。尊属殺人が死文化する前の事件で、加害者は父親とその義父を含む一家7人を殺害して家に放火した。第一審は無期懲役判決だったが控訴審で逆転死刑判決が言い渡され、最高裁で死刑が確定。
  • 岩手県種市町妻子5人殺害事件 - 1989年(平成元年)8月9日に岩手県九戸郡種市町(現:洋野町)で発生した殺人事件。第一審では「思い詰めた末の無理心中」として無期懲役判決が言い渡されたが、控訴審では「加害者は犯行後、真剣に自殺しようとしたわけではない」として逆転死刑判決が言い渡された。しかし上告中に被告人が死亡したため公訴棄却となった。