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利用者:要塞騎士/sandbox/5

下書き:富山・長野連続女性誘拐殺人事件 > 富山・長野連続女性誘拐殺人事件の刑事裁判 本項目では、1980年昭和55年)に富山県長野県で発生した富山・長野連続女性誘拐殺人事件の刑事裁判の経緯について述べる。

概要

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第一審

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富山地方裁判所における第一審公判は、初公判から結審まで192回にわたって開かれ、審理期間は約7年間を要した[1]。このような長期裁判となった原因として、以下の点が挙げられる。

  • 事件当時の捜査に不十分な点が多かったこと[2]。捜査機関側がMの供述を過信し、物証の捜査が後手に回ったため、殺害実行犯や殺害場所の特定に3年以上を要した(後述[3]
  • 決定的な物証がなく、事件解明を両被告人の供述に頼らざるを得なかったこと。また、両被告人が事件への関与を(全部または一部)否認し、両者の間で主張内容が食い違ったり、捜査段階で供述内容を大きく変遷させたりしたことも、裁判長期化の原因となった[1]
  • 事件の関係者・関係場所が富山県外にも多く、出張尋問や泊まりがけの検証を多く必要としたこと[2]。初公判から判決公判までに、現場検証は12回[注 1]、出張尋問は30回におよび、証人として出廷した人数も239人に達した[4]

また、事件発生当初から公判段階にかけ、かつて愛人同士だった両被告人が互いに(特に殺害の実行行為について)「相手が行った」と主張したことがマスコミなどによって報道されたことで、社会的な関心が寄せられた[1]。富山地裁は審理促進を図り、第27回公判(1982年〈昭和57年〉2月)以降、それまで月2回開かれていた公判を月3回に増やし、丸1日を本事件の審理に充てる訴訟指揮を採用したが、被告人Mが自律神経失調症で倒れ、尋問が大幅に遅延するなどした[5]

検察官は公判で、Mの捜査・公判における供述を重要な拠り所として、北野の関与を証明しようとした[6]

両被告人の供述内容の変遷
被告人M 北野
段階 拘置場所 富山事件 長野事件 拘置場所 富山事件 長野事件
第一審 訴因変更前 富山刑務所拘置区 関与を否定(北野の単独犯と主張)[7]
  • 「2月25日23時30分ごろ、事務所で北野にAを託して帰宅したが、翌日(26日)4時前に北野から電話で『北陸企画』に呼び出され、予想もしていなかった殺害・死体遺棄の事実を知らされた」と供述[8](捜査段階ではこのような弁解はしていない)[9]
共謀を認めたが、「実行は北野」と主張[7]
  • 北野が「日興」から殺害現場に向かった手段については、途中の「木戸交差点[注 2]までタクシーや通りすがりのトラックを使い、その後は徒歩で移動することを決めていた(捜査段階と同様の供述)[10]。Bを殺害・遺棄後、北野を「日興」付近までフェアレディZで送り届け、3月6日6時 - 6時30分の間に別れてから、単身で県道更埴明科線に引き返した[10]
富山刑務所拘置監[11] 全面的に無罪を主張。
  • 富山事件 - Aが殺害・遺棄された時間帯は自宅で妻とともにテレビを見ていた[12]
  • 長野事件 - 当時はホテル「日興」でテレビを見ていた[13]
訴因変更後 1986年(昭和61年)1月13日の第151回公判で、「長野事件の前、北野が深夜にテレビを視聴していたようにアリバイ工作を図るため、ポータブルテレビを北野宅から持参した。3月5日夜、北野は長野駅周辺で路上駐車している自動車を一次盗用し、自身との合流場所まで来る間に、その車内でポータブルテレビを使ってテレビ番組を見ていた」と供述[13]。また、殺害・遺棄後についても「矢越隧道[注 3]から木戸交差点[注 2]までの途中で北野と別れた」と供述[10]
控訴審 初公判 金沢刑務所拘置区[15] 釈放
第22回公判 誘拐の実行を認める[16] 「北野と共謀した上で、自ら誘拐・殺害・死体遺棄を実行した」と認める[17]

初公判

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1980年9月11日に富山地裁(岩野寿雄裁判長)で本事件(被告人:Mおよび北野)の初公判が開かれた[18]。当時の公判担当判事(1981年3月31日まで)は岩野裁判長と浅野正樹(右陪席)・松本久(左陪席)だった[19]。同日、検察官は北野弁護団から共謀の日時・場所および実行犯についての釈明を求められ、以下のように釈明した[20]

富山事件
共謀日時・場所 - 2月23日ごろ、富山市の喫茶店「小枝」[注 4]
実行犯 - 誘拐はM、殺害は北野、死体遺棄は両名
長野事件
共謀日時・場所 - 3月4日ごろ、長野市のホテル「志賀」
実行犯 - 誘拐はM、殺害は北野、死体遺棄は両名、身代金要求はM

続く罪状認否[20]、Mは長野事件について、共謀・実行行為とも認めた一方、富山事件については全面的に否認し、「北野の単独犯行」と主張。また、北野は富山・長野の両事件とも、全面的に関与を否定した[21]。その後、検察官は冒頭陳述で[20]、事件の経緯について以下のように主張した[22]

富山事件
Mは2月25日18時ごろ、睡眠薬「ネルボン」4錠と腰紐を持ち、フェアレディZの助手席にAを乗せて「北陸企画」を出た後、途中でAに睡眠薬を飲ませて眠らせようとしたが、「錠剤は飲めない」と言われたため、疲労させて眠らせた。20時30分ごろに古川町の「エコー」[注 5]に立ち寄り、21時ごろに店の電話ボックスから北野に電話して、神岡町[注 6]内で待ち合わせる約束をした。23時ごろ、Mは待ち合わせ場所に到着し、20分後にバンでやってきた北野と合流。古川町数河のドライブイン「すごう峠」付近の駐車場で、北野が熟睡していたAを腰紐で絞殺した。
長野事件
誘拐までの経緯
Mと北野は3月2日、「北陸企画」事務所の明け渡しで現金72,000円を手に入れると、山が多くて死体を捨てるのに適している長野県での犯行を決意。3月3日に富山を出発すると、ホテル「志賀」に投宿。翌4日に松本市のレストラン「新橋元庄屋」で食事をし、同所へ誘拐した女性を誘い込むことにしたほか、殺害・死体遺棄場所も下見した。2人は男である北野に嫌疑が掛かることを恐れ、アリバイ工作のため、北野をホテル「日興」で待機させ、深夜に同ホテルを出入りすることにした。そしてMは3月5日にBを誘拐し、「新橋元庄屋」へ連れて行くと、北野に電話した。
殺害と死体遺棄
その後、MはBを「長野に送る」とフェアレディZに乗せたが、「疲れて運転できないから、車で寝ましょう」と言い、Bに睡眠薬をジュースと一緒に飲ませて眠らせ、北野と合流。6日2時ごろに北野が到着し、4時30分ごろに殺害現場(修那羅峠付近)に至ると、Mは車外に出て、周りに人気がないことを確認。北野が熟睡していたBを絞殺し、2人で死体を遺棄した。その後、北野がフェアレディZを運転し(Mは助手席に同乗)、6時30分ごろに打ち合わせ通り、北野だけ「日興」付近で下車し、非常階段から自室に戻った。
身代金要求
3月6日14時前ごろ、2人は長野市内(国道18号国道19号の交差点付近)で合流して東京方面に向かい、同日 - 翌7日にかけ、高崎駅付近の喫茶店「ポンテ」に呼び出したBの姉を「ナポリ」に移動させ、警察官を同店に引きつけている間に富山へ逃走しようと考えた。7日22時ごろ、再び「ナポリ」に電話し、Bの姉に「翌8日正午までに『ナポリ』へ来い」と指示したが、警察官の張り込みの気配を感じ、高崎での身代金の入手を断念。2人で富山方面へ戻る途中、身代金の入手方法について相談し、「機会を見てBの姉を名古屋方面に呼び出そう」と話し合ったが、8日6時ごろに富山に到着して以降、警察の取り調べが行われたため、身代金入手には至らなかった。

検察は初公判前、「Mは犯行を全面的に認め、北野は全面否認する」と予想しており、両被告人の公判を分離することで、Mの審理を早期結審する方針を立てていたというが、Mが富山事件への関与を否認したことから、公判は併合して進められることになった[25]。北野の弁護人を務めた大坪健は、「(もしMが検察の主張通り、富山事件の関与を認め、公判が分離されていれば、検察とMの『北野が実行犯』という主張は共通していることから)Mの裁判でも、北野の裁判でも『北野が実行した』という判決が出ていた可能性が大きい」と指摘している[25]。また、Mの弁護人を努めた澤田儀一は、「Mは裁判の審理場所や、北野の公判での態度・主張に影響を受けていた。もし長野地裁で審理されていれば、Mはそこまで争わなかっただろう」と考察している[25]

同年9月16日の第2回公判で、検察により「主犯」と位置づけられていた北野被告人の冒頭陳述が行われた[26]。同日、北野は「富山・長野の両事件とも、自分は事件当時は現場にいなかった」と全面的に無罪を主張した上で、捜査本部による取り調べで長野事件における共謀を一部認めたとされる点についても「取調官による暴力的・高圧的な取り調べや、でっちあげによるものだ」と主張した[26]

公判の推移

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富山事件では、北野が待機していたとされる自宅(小杉町)から殺害現場(数河峠)まで、長野事件では同じく待機場所(長野市内のホテル)から殺害現場(修那羅峠)までの「足」が最大の争点となったが、検察はそれを立証できず、Mが富山事件への関与を否定したこともあって、「北野が殺害を実行した」という主張を立証することが困難な状況に追い込まれていった[27]

1981年(昭和56年)4月1日付で、裁判長を務めていた岩野が岡山地裁家裁へ転出したため、第12回公判(同年4月23日)以降は、大山貞雄[注 7](前任地:岐阜地家裁大垣支部長)が裁判長を務めた[注 8][31]

一方、被告人Mは1981年10月 - 11月にかけ、未決拘置されていた富山刑務所で2度にわたり自殺を図った(いずれも未遂)[32]ほか、第24回公判(1982年2月23日)から第92回公判にかけ、再三にわたって体調不良を訴え、公判が中断する出来事もあった[33]。1982年11月には裁判長が職権で、Mが公判に耐えられるかを判断するため、富山医科大学に精神診断を依頼[34]。その結果、「Mは軽い抑うつ状態で、ヒステリーが起きる」「全体的な知能指数 (IQ) は138[注 9]」と診断された[34]。また、遠藤正臣(富山薬科大学教授)は、1983年2月17日付で富山地裁に提出した鑑定書で、Mについて挿間性の意識変化状態(急に頭が茫として倒れるが、短時間で自然に回復する)の既往症や、ヒステリー性人格障害の存在などを挙げ[35]、「ヒステリー反応そのものの性質から、出廷が不能となることは十分考えられる」と指摘している[36]

また、北野の妻は夫の逮捕後も無実を信じて支援を続け、1982年10月31日には富山地裁へ夫の保釈請求書を提出した[37]が、同年11月2日付で却下された。当時、彼女の母親はノイローゼで、彼女は「宏さんが側に居てくれなければ、私はどうにもならないんです」と訴えていたが、保釈が認められなかったことから、北野と離婚している[38]。しかし、その後も彼女は元夫である北野の無実を主張するため、2回にわたり法廷で証言した[39]

北野の足取り

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初公判後、検察側は証拠として物証33点[注 10]、書証355点[注 11]を申請したが、被告人・弁護人がほとんどの採用に同意しなかった[注 12]ため、多数の証人申請を行った[40]。被告人Mは、両事件で「殺害実行犯は北野」と主張していたが、富山事件・長野事件それぞれの被害者の死体を司法解剖した解剖医は、ともに「紐で首を絞められた際に被害者が抵抗した痕跡がない。かなり強い力で首を絞められているが、女性にも不可能ではない」と証言した[41]

第一審の段階で、両事件の現場検証は、1981年10月(長野事件)以降[42]、併せて12回にわたって行われた[注 1][48]。富山事件の発生当時、遺棄現場の道路脇には雪の壁(約1 m)があり、「女1人で死体を捨てられるか?」と疑問視する声があった[49]が、発見時の実況見分(1980年3月6日)当時の写真により、実際には遺棄現場の真上の雪の壁は50 cmないし70 cm(凹んだところを選べば、女性1人でも死体を遺棄できる高さ)だったことが判明した[50]。この「女1人でも死体遺棄は可能」という実況見分調書は、起訴前には既に作成されていたが、捜査機関側は「女1人でできるはずがない」という予断のもと、「実行犯は北野」という筋書きを組み立てていたため、この調書が証拠申請されたのは、公判の途中で検察側が「実行犯はM」と主張を翻した時だった[51]。また、捜査段階におけるMの「北野がフェアレディZを、自分がバンを運転して(遺棄現場の)町道に入った」という証言も、1982年2月26日に実施された現場検証の結果、車2台を連ねて狭い雪道に800 m入り、Uターンして国道に引き返すという、不自然なものである点が判明した[50]

1984年(昭和59年)3月5日には、修那羅峠など3か所の現場検証が実施された[52]。この現場検証は、Mの「Bを殺害した当時、北野は夜の山道を歩いて来て、自身と合流した」という供述内容があり得るか否かを調べるためのものだったが、当時、Mが「北野が歩いてきた」と説明する道は氷点下にまで冷え込み、道端の林には雪が残っている状態で、同日深夜に実際に現場を歩いた大山は、「重い内臓疾患を患っていた北野が、カーディガンに革靴という軽装でこのような寒い山道を歩き続けることは不可能だろう」と考え、Mの供述に疑念を持った[53]

また、長野[54]・岐阜[43]や、上市簡易裁判所(証人は北野の元妻)[38]東京地方裁判所での出張尋問も実施され[52]、出張尋問の回数は30回以上を数えた[2]。長野での出張尋問の際には、北野が長野事件の発生時に投宿していたホテル「日興」のフロント係・警備員とも、事件当日(3月5日深夜 - 6日未明)に北野が外出する姿を見ていないことが判明した[55]

1985年(昭和60年)1月8日の第118回公判では、1980年3月31日に行われた北野への取り調べの録音テープ(取調官:遠藤定彦)が法廷で再生された[56]。その概要は、北野が遠藤からの尋問に対し、「自分はMと付き合って2年半、彼女の言いなりになっていた。高崎駅近くの喫茶店で警察官を見た時は、『Mは自分のためにそういうことをしたのか』と思ったが、今でもまだ彼女を恨みきれない。両事件の被害者のことは知らなかった」というもので、弁護団はこの録音テープを「法廷における(北野の)供述と一致しており、無実を証明する貴重な証拠だ」と位置づけていた[57]

秘密の暴露か否か

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第17回公判(1981年7月14日)では[33]、検察官が新たな証拠として、警察庁科学警察研究所の鑑定書2通などを申請したが、同鑑定書によれば、Aが着用していたジーパンや下着から、睡眠薬の成分の代謝物が検出された一方、Bが着用していたカーディガンの左肩・襟の裏からはMの毛髪が検出されたが、北野の毛髪は検出されていなかった[58]。これは、検察官による冒頭陳述の「富山事件ではAに睡眠薬を飲ませるつもりだったが、『錠剤は飲めない』というので、睡眠薬を飲ませるのではなく、疲れて寝入ったところを絞殺した」「長野事件では、北野がMとともに殺害・死体遺棄を実行した」という主張とは矛盾するものだった[59]

一方で検察官は、北野が長野事件で取り調べを受けていた際の調書に、「北野はMから『富山事件でAを殺した際、睡眠薬でAを眠らせた上で絞殺した』と聞いた」という記載がある一方、Mの調書には富山事件での睡眠薬使用に関する記載がないことについて触れ、「後に判明した事実に言及した北野の供述は、『秘密の暴露』に当たる」と主張した[3]。これに対し、北野はその調書について、「取調官から『Mが富山事件の際、Aに睡眠薬を飲ませたことは間違いない』と教えられ、誘導されたものだ」と供述し、北野側は「捜査本部は当時、Mが富山事件前に睡眠薬を購入していた事実を把握していた。また、長野事件で被害者Bに睡眠薬が使用されたことを疑い、鑑定を進めていたことから、Aにも睡眠薬が使用されたことは容易に推認し得たもので、秘密の暴露(犯人しか知り得ない情報で、捜査機関が全く知らなかったことが自白によって初めて明らかになったもの)[注 13]には該当しない」と反論した[3]

1983年7月には、フェアレディZ助手席に付着していた尿の鑑定が行われ、血液型からAのものと判明。失禁量などから、(それまで不明だった)Aの殺害場所は、フェアレディZの車内と特定された[注 14][3]。1984年7月には、Bに付着していたMの毛髪の位置が再鑑定された結果、Mが殺害実行犯であることが裏付けられた[3]

「第三の男」の存在

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第14回公判では、2月24日20時30分ごろにMが被害者Aとともに立ち寄り、翌25日にも再び立ち寄った[注 15]細入村[注 16]の「キャニオン」の経営者が証人として出廷。検察官による主尋問に対しては、「24日11時過ぎにMが現れ、30分後に北野らしい男と落ち合った」と証言した一方、弁護人の反対尋問に対しては以下のように証言した(以下、漢数字はアラビア数字に置き換えている)。

「25日午前8時30分ごろ、北野とは違う男が、裾を折り曲げたジーパンをはいた娘と現れた。(中略)間もなくMらしい女が現れ、娘が沈んだ様子だったので、男が声をかけた。“大丈夫だから、すぐ慣れるから”。これを聞いて、バーテンがホステスを勧誘していると思った」 — [65]

証人はその男について、「30歳ぐらいでスポーツ刈り、身長160 cm前後」と証言した[66]一方、北野の身長は175 cmであった[67]。この証言を受け、検察官は「Mと北野が接触している」と主張した一方、弁護人は「第三の男が介在している」と主張[68]。1983年3月22日には北野の弁護団が、「両事件ともMの単独犯で、北野は利用されただけだ」とする冒頭陳述書を提出し[52]、第36回公判(同年7月)で以下のように陳述した[50]

(Mは)借金の返済を迫られるうちに、 (19) 80年1月ごろ、「身代金目的誘拐なら女でもできる」と思い立った。北野に対しては、『大宮の仲間と作った詐欺会社で大金を作る、金沢でも土地代金が入る』と話しておいた。2月23日、Mは「土地の話で金沢へ行きカネを受取ってくる」と北野に言った。富山駅へ行きAを誘い、アルバイトの話を持ちかけ、「北陸企画」に泊めた。

24日午前11時ごろ、Aを紹介するため“某男性”に連絡を取った。そして30分後に、細入村の「キャニオン」で落ち合い、3人でアルバイトの話をした。夜になって、MとAと“某男性”の3人は、岐阜県古川町の「大樹」で、ラーメンを食べた。

25日の午前8時30分すぎ、3人は「キャニオン」で会った。このとき“某男性”が、Aに「すぐ慣れるよ」と言った。25日夜、フェアレディZにAを乗せ、Mは岐阜県高山市の方向へ連れ出した。途中でMは、4回にわたって“某男性”に電話をかけたが、不在でつながらない。午後8時すぎ、数河峠の「エコー」[注 5]に入った。このときMは、Aがトイレに立った隙に、睡眠薬ネルボン1錠を、飲み物の中に入れた。

その後ようやく、“某男性”と電話が通じた。100円玉を2回も両替えする長話で、店を出て車に乗ったら、睡眠薬が効いてAが寝たので、用意のヒモで絞殺した。 — [69]

弁護団は、この“某男性”を「北野以外の複数の男性」と主張した[70]。また、第38回公判で被告人Mは、北野弁護団からの質問に対し、「富山事件後、(後述の)タイヤ業者から『警察で調べを受けた』と言われ、『2月24日夜、フェアレディZに女の子を乗せて「北陸企画」へ帰ったのを目撃した人がいる。その子はあなたの知り合いの女の子だと警察で証言してほしい』と頼み、引き受けてもらった」と証言した[71]

1983年1月の第54回公判で、その“某男性”のうち1人(Mと結婚相談所で知り合い、金を貸していた富山市内のタイヤ業者)が出廷した[70]。彼は、富山事件で逮捕される前のMと交際しており、捜査段階でも強い嫌疑を掛けられていた[72]が、2月25日夜に自宅にいたアリバイが証明されていた[73]。彼は法廷で、「2月24日 - 25日ごろは、M以外の女性とは会っていない」と証言した[74]が、「3月10日ごろ、Mから口裏合わせを頼まれたか?」という質問に対しては「『女の子を北日本新聞社の前から北陸企画へ送れ』と私が指示したことにしてくれと(Mから)頼まれ、引き受けた」と証言した[72]。同年8月2日以降、長野事件の尋問が開始される[52]

法廷闘争

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第93回公判(1984年4月11日)から第137回公判(1985年)まで、北野への被告人質問が行われた[注 17][33]。しかし、起訴事実に関する被告人質問が続いていた第103回公判(7月24日)の終了直前、大山裁判長は検察官に対し、(弁護側が初公判で不同意とした)「北野調書」43通の提示命令を出し、閉廷後にそれらを閲読した[78]。これに反発した北野弁護団の黒田主任は、第104回公判[79](1984年8月21日[52])の冒頭で、「我々による被告人質問がほとんど終わっていない段階で調書を閲読する裁判官は、『北野有罪』の予断を抱いていると言わざるを得ない」として、大山貞雄(裁判長)・川原誠山田知司の3裁判官を忌避する旨を申し立てた[79]。富山地裁は刑事部の担当裁判官が3人(+民事部3人の計6人)しかいないことから、申立を却下したが、「北野調書」は検察官に返却した[80]

佐木 (1991) はこの出来事について触れ、「(北野の)弁護側は、裁判官が調書を見ながら、被告人質問をする事態を恐れ、忌避申立をした」と[76]、『北日本新聞』 (1988) は「北野の弁護団は1983年 - 1984年にかけ、Mの調書が相次いで採用されたのに続き、両事件の深夜検証が行われたことを受け、『裁判官の心証が「北野実行」へ傾いているのではないか』と危機感を抱いていた」と述べている[81]

また、第107回公判では検察官が、公判を傍聴していた北野の母親(弁護人によって証人申請されていた)について、「被告人(北野)の供述を聞くと、後の証言に不当な影響を与える」として、退廷を要求。それに対し、北野弁護団も富山県警の刑事や、被害者Aの父親(いずれも証人として出廷が予定されていた)を退廷させるよう求めたが、裁判長はいずれも却下した[82]

両被告人の直接対決

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一方、北野の関与を主張するMと、無実を主張する北野の間で、応酬も繰り広げられた[83]

第27回公判(1982年4月13日)の冒頭で、北野は約40分間にわたって意見陳述した[84]が、その際に拘置所内で書いた日記を読み上げ[83]、Mを「この清い静粛な法廷に、場違いな悪魔の心を持つ女、Mがいる。悪魔とは知らずに一緒にいたことが恥ずかしい」と非難し、M側の宇治弁護士からの異議や、大山裁判長による制止が入っても「ウソつきの女」「冷酷な女」と激しい非難の言葉を続けた。これに対し、Mは激しく動揺したが、約2か月後の第33回公判(6月7日)で、長野地検の坂井検事による被告人質問の途中で、自由な発言を認められると、泣きながら「自分は初公判以来、北野弁護団から『自分が助かりたいために、北野さんに罪をかぶせている』と言われ続けているが、そんなことは考えていない。富山・長野の両事件とも、自分が罪を被るつもりで自供した」「(北野に対し)少しでも被害者に申し訳ないと思ったら、真実を話して、被害者の冥福を祈ってほしい」と陳述した[85]

一方、第103回公判では、北野が被告人質問で、「富山市内の土地探しや、フェアレディZの購入は、全てMの希望で、自分は交渉役を頼まれただけ」と供述したところ、Mが「あんたの言っていることは、皆ウソじゃないの!」と叫ぶハプニングが起こった[86]

1984年2月8日の第89回公判で[87]、北野が初めて被告人Mに対する対質尋問を行った[52](第92回公判まで)[88]が、互いの主張は平行線をたどった[83]。第180回公判(1986年12月10日)以降[89]、第183回公判(1987年1月14日)まで[90]、Mが北野を尋問した[89]が、北野と共謀したことを前提に質問を繰り返すMに対し、北野が憤慨する一幕があった[91]

冒頭陳述変更

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1985年3月5日に開かれた第125回公判で、北野弁護団による北野への被告人質問の終了後、次席検事の松井永一が発言を求め[77]、冒頭陳述の大幅な変更を行った[27]。その内容は以下の通り(全18か所)で[92]、「殺害・死体遺棄の実行行為はMが実行したが、北野も犯行の前や途中に共謀した共謀共同正犯である」と位置づける内容だった[27]

冒頭陳述の新旧対照表
訂正前 訂正後
富山事件
  • 殺害 - 北野が単独で実行[93]
  • 死体遺棄 - 2人(Mと北野)が共同で実行[93]
2月25日夜、Mは高山に向かう途中でAに睡眠薬を飲ませようとしたが、「錠剤が飲めない」というので断念し、疲れを待って自然に眠らせることを考えた[93]。遺留品は翌日(2月26日)14時ごろに処分した[93]
殺害現場はドライブイン「すごう峠」の駐車場[22]
殺害・死体遺棄ともMが単独で実行[93] 2月25日夜、MはAに睡眠薬「ネルボン」を飲ませ、神岡町内で北野を待っていたが、北野が来なかったため、単独で殺害を決意[93]。自らAを殺害して死体を遺棄し、富山市の自宅に帰り、遺留品は翌日朝に処分した[93]
殺害現場は数河高原スキー場の駐車場[94]
長野事件 2人は事前の謀議で、誘拐後に松本市内で待ち合わせることや、殺害後にMがフェアレディZで北野をホテルへ送り、Mは現場付近に引き返すことを決めた。その後、Bを誘拐することに成功したMは、Bにネルボンを2錠飲ませ、合流した北野が3月6日4時30分ごろにBを絞殺した[95] 3月3日夜、2人は殺害場所を下見しながら話し合った。この時、北野が「自分も殺害に加わる」と申し出たが、Mは北野の対応の鈍さを指摘し、「自分1人の方が成功するから、ホテルで待っていて」と言った。Bを誘拐したMは、3月5日22時ごろにBに睡眠薬を飲ませ、深夜 - 早朝にかけて殺害・遺棄に適した場所を探して回り、青木村の林道で殺害・死体遺棄を実行。その後、翌日(3月6日)14時ごろに北野と合流し、2人で東京方面に向かった[96]

これは、それまでの公判・証拠調べで富山事件・長野事件とも、発生現場付近で北野の目撃証言が得られなかったことから、北野が実行に加担していたことを立証することが困難となった検察側が、Mの単独実行を積極的に立証する方針で行ったものだった[97]。検察は冒頭陳述変更と同時に、Mの実行を立証するため、71点の証拠(フェアレディZの目撃証言や、長野事件発生時に北野が見ていたテレビ番組の内容など)を証拠申請したが、それらの証拠は、1984年春ごろから洗い直しを進めていたものだった[98]

それでも富山地検(次席検事:松井永一)は、「北野が共謀共同正犯である(事件に加担している)ということに変わりはなく、北野の量刑がMより軽くなるとも限らない」という姿勢を崩していなかった[注 18][97]が、北野弁護団と北野の母親は、「冒頭陳述訂正は、(初公判から)丸5年経っており、遅きに失し、共謀に関する主張を残している点は遺憾だが、Mの供述を嘘と認めるもので、この姿勢は英断と認められる」という声明を出した[注 19][100]。一方、Mの弁護団は「事件から5年が経過し、反証材料を探すのが難しい今になって冒頭陳述を変更するのは甚だ遺憾で、Mの防御権を侵害するものだ」として、冒頭陳述訂正を批判するコメントを出し[101]、続く第126回公判(同年3月19日)でその撤回を求める意見を述べた[102]。しかし、裁判官3人の合議により、冒頭陳述の訂正は認められ[28]、富山地検は同月28日、訴因の変更申請書を富山地裁へ提出[103]。第127回公判(同年4月15日)で[104]、新主張に沿うような訴因変更を請求し[1]、許可された[104]

一方、Mは自身を実行犯とする冒頭陳述変更に反発[33]1986年(昭和61年)1月13日に開かれた第151回公判で、M側は「北野は車にテレビを持ち込み、アリバイ工作をした」などと新主張を展開し、続く第152回公判(翌14日)では、Mの弁護人が「事件は特異かつ悲惨なもので、常人の理解を超えている。少なくとも長野事件に関与したMには精神障害があった疑いがある」として、Mの精神鑑定を申請した[注 20][105]。しかし、Mは体調不良を訴え、後に子宮筋腫および卵巣嚢腫と診断されたため、第162回公判(同年4月30日)以降は一時出廷できなくなり、八王子医療刑務所へ移送されて手術を受けた[106]。第170回公判(同年8月25日)で、捜査当時に北野が捜査当時に弁護人と接見した際の録音テープが[33]、法廷で再生され[106]、証拠採用された[33]。接見時の録音テープの証拠採用は、日本の裁判史上極めて珍しいケースだった[107]

第187回公判で、検察官は北野側が不同意としてきた「北野調書」30通について、「任意性あり」として改めて証拠請求したほか、「北野調書」と「M調書」17通についても「特信性あり」として証拠請求した[108]。北野弁護団は、いずれの調書についても「北野は取り調べを受けた当時、ネフローゼで体調を崩し、思考力・判断能力とも減退していた中で『男の責任を取れ』などと高圧的な取り調べや、不当な利益誘導を受けるなどして自白しており、『北野調書』に任意性はない。M調書も、共犯者として北野の名を引き出そうとした取調官に迎合したMが、自分の罪を軽くしようと作り話をしたもので、信用性に欠ける」として、証拠請求の却下を求めたが、1987年(昭和62年)3月30日の第189回公判で、大山裁判長は「いずれの調書も任意性がある。北野への取り調べは、医師の診断結果も踏まえて適切に行われていた。また、公判で両被告人の利害が対立しており、Mについては公判での供述より、検察官の面前調書のほうが信用できる」として、調書を全面的に証拠採用することを決定。一方、M弁護団が被告人Mの情状面から請求していた精神鑑定については却下した[109]

論告求刑

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1987年4月30日に開かれた第190回公判で[110]、検察官による論告求刑が行われ、検察官は被告人Mに死刑、北野に無期懲役をそれぞれ求刑した[111][112]。富山地裁での死刑求刑事件は当時、1970年2月に発生した幼稚園児の誘拐殺害事件以来だった[注 21][113]

論告書は295ページ(約14万字)にわたるもので、髙橋晧太郎(主任検事)・山﨑基宏・門西栄一の3検事が交代で朗読した[114]。検察側はその論告書で、「両事件とも、被害者の死亡推定時刻直前にMと被害者が目撃されていた一方、北野を目撃した人物はおらず、北野は事件当時、居場所(富山事件当時は自宅、長野事件当時は長野市内のホテル『日興』)から殺害現場へ赴くことは不可能だった。富山事件ではMの自供によって被害者の遺留品が発見されたほか、長野事件では被害者の着衣にMの毛髪が付着していたことから、両事件ともMが実行犯と認められる」と指摘し[115]、Mの「富山事件は無罪、長野事件は北野が実行犯」とする主張に反論した[112]。最大の争点となった北野の共謀については、以下のように捜査段階における両被告人の供述調書の信用性を強調した[111]上で、「2人は単なる愛人関係ではなく、共同事業を続け、心身ともに一体の関係にあった」と主張[115]

北野の自白の信用性について
富山地検は、「北野が自白に至った経緯(逮捕後に取調官から説得・矛盾点の追及を受け、共謀を自白した)は自然で信用でき、その内容も合理的だ」とした上で、その内容について検討。以下の点から、「自白の内容は合理的で、『秘密の暴露』も認められる。『Mの犯行に全く気づかなかった』という北野の弁明は信用できず、捜査段階の自白は信用できる」と主張した[115]
  • 北野が富山事件の直前、Mと再三ホテルなどで接触し、Aの誘拐後も再三連絡を取り合っていた点[115]
  • Mと2人で富山を出発する前、Aの両親から娘が行方不明になった経緯を説明され、Aが北陸企画に連れ込まれ行方不明になった事実を把握していたにもかかわらず、それ以降もMとともに行動していた点[115]
  • 富山事件における睡眠薬の使用(公判では1981年5月に初めて判明した)について、北野が捜査段階(1980年4月15日)で自白している点[115]
  • Mが北野との共謀を認め、その自白内容も各証拠と符合しており信用できる点[115]
各種証拠について
富山事件の際、Aが北陸企画事務所から母親にかけた2回の電話の内容や、Mおよび目撃者の話などから、北野がAと接触していた可能性を指摘したほか、長野事件の際には北野が偽名で「日興」の宿泊予約を取り、事件前に2人で聖高原に出向いたことや、B殺害後にMと合流し、(MがBの家族へ身代金要求電話を掛けている間も)埼玉・東京方面を転々としていたことや、ともに身代金受け渡し現場(高崎駅)に同行し、警察官の張り込みの気配を感じて逃げたことなどを挙げ、「北野が共謀共同正犯であることは明らかだ」と主張した[115]
北野の弁解について
北野は「富山事件・長野事件とも自分は無関係で、誘拐殺人のことは知らなかった。Mと同行したのは、彼女から持ち掛けられた金儲けの話を信じたからで、事件が起きている最中に彼女から電話連絡を受けたのも、その儲け話に関する内容だ」と弁解するが、その金儲けの話は全くの虚偽で、北野の弁解も虚偽である。もし、Mがそのような作り話をしてまで、北野に対し誘拐を隠していたなら、なぜ北野を金沢や長野まで同行したのか不可解だ。特に長野事件で、Mが「東京に行く」と言って富山を出発しながら、途中で行き先を長野に変更したり、松本市・聖高原をドライブしてから「東京の男に会う」と外出したのに、まもなく戻ったり、その後、埼玉・東京・高崎などを転々としながら電話したりなどの行動は奇妙で、それに対しなんの説明も求めず、Mの言葉をただ信用して同行したという北野の弁解は不自然・不合理で、明らかに虚構である[115]

その上で、2人を「改悛の情は全く認められず、反社会的性格が顕著だ」と非難し、事件についても、犯行態様の残忍・悪質さ、被害者の無念、遺族の処罰感情、社会的影響の重大さなどを指摘した上で、「犯罪史上まれにみる極めて悪質かつ重大な犯罪。同種事犯防止の見地からも厳罰が必要である」と主張[115]。Mについては「各犯行の首謀者かつ実行正犯で、その罪責は誠に重大だ。罪刑の均衡の見地からも、一般予防の見地からも極刑がやむを得ない」として、死刑を求刑したほか、北野についても、「いずれもMとの事前共謀の下、各犯行に加担した共謀共同正犯で、刑事責任はMに迫る極めて重大なものだ」として、無期懲役を求刑した[115]。一方、井口泰子や板倉宏日本大学教授)は、検察が北野を共謀共同正犯と位置づけつつ、量刑ではMと差をつけた点[注 22]について、「(北野有罪の)自信がないからではないか」と指摘していた[117]

結審

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1987年7月28日・29日の両日に2被告人の弁護人による最終弁論が行われた。

第191回公判(28日)[118]ではまず、被告人Mの弁護人が、約2時間半にわたって弁論を行った[119]

富山事件(無罪を主張)
「誘拐ではなく、北野から頼まれた通り、Aを富山駅へ迎え行っただけだ。事件当夜、Aを北野に引き渡して帰宅したが、翌日未明に北野から電話で呼び出され、殺害を打ち明けられた。このようなMの供述は、初公判の2か月前から弁護人に述べていたもので、信用できる」[119]
長野事件(北野との共謀を主張)
「北野は現場付近でテレビを見てアリバイ工作をした。Bのカーディガンに付着していたMの毛髪は、実行行為中に付着したとは限らない」[119]
量刑などについて
「Mは謝罪の気持ちから読経を学ぶなど、反省を深めている。死刑廃止論が高まっていることなどから、懲役刑が妥当だ」[119]

次いで、北野の弁護人は「北野は両事件とも関与しておらず、無罪だ」とした上で[119]、続く第192回公判(7月29日)まで[110]、2日間にわたって弁論を行い、以下のように陳述した。その中では、事件を題材にした小説を書いた佐木隆三・井口泰子がそれぞれ執筆した原稿の一部も朗読された[120]

北野弁護団の主張
「検察が有罪主張の根拠としている北野の自白調書や、Mの供述はいずれも信用できない。北野はネフローゼで衰弱している中、連日夜遅くまで取り調べを受けたり、取調官から『男として責任を取れ』『認めても懲役3年で済む』など、脅迫を交えた甘やった説得を繰り返し受け、調書をM供述と合わせながら作文させられた。Mへの取り調べも、『北野が関与している』との予断を持った取調官と、北野に罪をなすりつけようとしたMが迎合し合い、Mが取調官を騙していく形で進められたものだ」[119]
「北野の『Mから嘘の金儲け話を聞かされ、それを信じて行動をともにしていただけで、誘拐は知らなかった』という主張は、一貫しており信用できる。それを裏付ける第三者の証言も多数得られている」[120]

その後、両被告人がそれぞれ最終意見陳述を行い、Mは「自分は両事件とも、殺害の実行行為はしていない」と訴えた一方、北野は全面的に無罪を訴えた[120]。これをもって、公判は初公判から6年10か月ぶりに結審した[120]

第一審判決

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1988年(昭和63年)2月9日10時から、判決公判が開かれた[121][122]。富山地裁刑事部(大山貞雄裁判長)[注 7]被告人Mを死刑とする一方、北野は無罪とする判決を言い渡した[121][122][124][125]

本判決は、富山地裁では戦後2件目の死刑判決(本庁では初)[注 21]だった[126]。身代金目的誘拐殺人による一審での死刑宣告は、Mが戦後11人目で[注 23]、女性としては初めてだった[129]。また戦後、1987年末までに第一審で死刑を宣告された被告人の総人数は全893人(うち、死刑確定は628人)だったが、女性の被告人はわずか10人(893人中1.12%)[注 24]で、Mは第一審で死刑を宣告された戦後11人目の女性となった[130]。一方、身代金・営利目的の誘拐殺人事件で起訴されていた被告人が無罪判決を言い渡され、釈放された事例は、北野が戦後初だった[122]。佐木隆三 (1995) は、「自分は頻繁に裁判所に通って傍聴取材をしているが、無罪判決を聞いたのはこのときが初めてだった」と述べている[131]

死刑判決を言い渡す際、裁判所は主文宣告を後回しにして判決理由から朗読し始める場合が多いが[132]、大山裁判長は10時の開廷直後[133]、死刑事件では異例となる冒頭での主文宣告を行った[132]。このように富山地裁が冒頭で主文を言い渡した理由について、『読売新聞』 (1988) は「公判中、しばしば自律神経失調症によるヒステリー発作を起こしていたMの健康状態に配慮したため」と報道した[130]ほか、佐木 (1995) は「無罪を言い渡されるべき被告人(北野)への配慮」と述べている[134]。判決文は言い渡しの2日前に完成した[135]が、富山地裁は当日、Mの体調を考慮して要旨と全文の一部だけを朗読し、判決全文(B5判用紙551ページ)は後日、関係者へ配布された[136]

富山地裁 (1988) は、主文朗読に次ぐ判決理由のうち、第1部で被告人Mに対する判断を示し[137]、量刑理由まで述べた上で、第2部(北野に対する判断)に入った[6]。事実認定に関しては、北野の主張の大半を取り入れた「完全無罪」に近い認定で[122]、『北日本新聞』は同判決を「疑わしきは罰せずなどという灰色(無罪)ではない。実に明快な白の断定だった」と評している[138]。公判は0時34分に閉廷[133]。その後、無罪判決を受けた北野は逮捕から約8年ぶりに釈放された[124]。一方、Mは刑務官に付き添われ、護送車で1人富山拘置所に戻った[133]

Mに対する判決理由

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正犯性
富山地裁 (1988) は以下のように指摘し、「両事件とも、Mが単独で実行したものであることは証拠上、優に認定できる」と結論づけた[139]
富山事件
「殺害・死体遺棄は被告人Mが単独で実行可能な行為である一方、北野やその他の第三者がMの下に赴いたり、犯行を実行したりした形跡は全くなく、実行犯がMであることに合理的な疑いを容れる余地はない」[140]
長野事件
「Mが身代金獲得の一環として計画し、実行現場にも居合わせたことは本人が認めており、事件前後を含むMの行動状況に関する客観的証拠もその信用性を裏付けている。犯行はMが単独で実行することが十分可能である一方、Mの『北野が途中で合流して実行した』という供述は信用できず、それを裏付ける証拠もない」[139]
Mへの量刑理由
「罪質・結果のみに照らしても、稀に見る凶悪・重大な事案で、動機に酌量の余地はない。被告人Mは、読経写経に勤しみ被害者の冥福を祈る日々を送っている旨を法廷で供述しているが、捜査・公判を通じ、種々の虚言を弄しては北野に自己の責任を転嫁しようと試みており、真摯な反省・悔悟の情を読み取ることは困難だ。連続誘拐殺人事件として本件が社会に与えた不安と衝撃に目を向ければ、同種事件の再発を防止するためにも、Mには極刑をもって臨むほかない」と判示した[141]

北野に対する判決理由

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Mの自白調書の信用性
Mの自白調書については、「検察官の主張する通り、『北野と共謀した』という点では一貫性が保たれてはいるが、捜査の最終段階や公判における供述は、いずれも北野を共犯者として名指しし、自らの実行正犯性を強固に否定するもの(=北野に責任を押し付けようとするもの)だ。つとに指摘されてきた共犯者の自白の危険性が一部現実化していることが明らかである」[注 25]と指摘し、「共謀を認める部分についてのみMの供述を信用できる点が存在するか、という角度から問題点を掘り下げるべき」と判示した[143]
その上で、検察官の「Mは取り調べの当初、愛する北野をかばおうとしたが、説得を受けて共謀に関する真実を告白した」とする主張については、「その愛情を抱いている相手に責任を押し付けるような供述に転じた理由に関する疑問を解消する事情は窺われず、押しつけ供述を始める以前から、Mの供述内容は著しく不自然で、共謀に関する供述内容にも看過できない不合理な点が残されている」と指摘[144]。Mが「自身の単独犯」「北野(および、彼以外の男)と共謀した」「自身は関与していない」などと、次々と供述内容を変遷させている[145]ことなどを挙げ、「Mの供述内容には、北野の有罪認定のための証拠として用いるだけの信用性は認められない。虚偽供述と残余部分とを区別して評価できる特段の事情も見いだせない」「捜査時点におけるMの供述全体について、取調官の心証を考慮しつつ自己の供述を巧みに操作し責任の転嫁、軽減を図ろうとする意図に支配されたものであった疑いが極めて濃厚である」と判示した[146]。そして、「このような理解に立脚するときは、Mは、事件後程なく、極刑も予想される犯罪の実行責任を北野に転嫁させようと考えていたということになるから、犯行時点のMが、北野との間に心身の一体性を強く感じていたとする検察官の主張には多大の疑問を禁じ得ない。むしろ、北野の『Mは情を知らない自分を利用し、M自身の刑事責任を免れる意図で、事前の下見や各犯行の前後に自分を伴って行動していた』という主張を、現実的な可能性を帯びたものとして受け止めざるを得ない」と結論づけた[147]
両名の一体性
上述の考察に加え、検察官の「Mと北野は事件前から愛人関係にあり、共同で『北陸企画』を経営するなど、心理面および日常生活面で強固な一体性があった。実行者であるMが、犯行の意図を北野に告知しなかったはずはない」とする主張に対しては、Mが北野と知り合って以降も他の男性と関係を持っていた点や、フェアレディZ購入による借金の推移(Mは金融機関などからの借り入れ分を返済するため、サラ金に手を出すなど困窮していた一方、北野にはそこまで困窮していた事情はなく、Mに助力しようとした様子も窺われない点)および、借金に対する相互認識の差異(Mが多額の借金をしていたことを、北野が知らなかったこと)などから、「2人が事件当時まで、愛人関係を継続し、経済的にも一定限度で利害関係を共通にしていたことは認められるが、Mが北野に対し、一心同体と評価できるまでの一体感を抱いていたとまでは認められない」と結論づけ、検察官の主張を退けた[148]
また、その「検察官の『Mと北野は一体的になり、共謀していた』という旨の主張の論拠は、『北野の自白』を除くと『富山事件の誘拐場所として、北野も経営者として使用していた北陸企画事務所が使用されたこと』『長野事件の際、北野がMと行動をともにしていたこと』に尽きる。それ以外は何の批判的検討もなく、Mの供述に依拠したり、信用性に欠ける関係者の証言内容を根拠にしている」と指摘し[149]、共謀立証の在り方についても厳しい批判を展開した[125]
北野の自白の信用性
#2人の供述内容の変遷に照らし、長野事件では「否認→自白→供述拒否」という経過を辿っており、否認後自白に転じる契機として過剰自白(「自分がBを殺害した」という明白な虚偽自白)が混在していたり、富山事件でも自白と否認との動揺の跡が歴然としており、自白状況が著しく不安定である点を指摘[150]。以下の点も含めて、「自白内容の合理性に関する検察官の主張はいずれも論拠を欠き、かえって供述の真摯性に疑問を抱かざるを得ない事情が少なからず認められ、供述の変遷過程をたどると、その疑いは一層深まるばかりである」と総括した[151]
また、北野が自白に至った経緯についても検討し、「愛人関係にあったMが利得目的に重罪を引き起こし、その間自身がMと行動をともにしていたことや、利得が自分にも還元される可能性が強かったことが要因となり、道義的責任(北野の言う「男の責任」)を抱いていた北野が、捜査官側から心情論的な追及を受けたこともあって、その道義的責任を承認する意味であえて虚偽の不利益事実を自認した疑いが濃厚である」とも指摘した[152]
秘密の暴露の有無
検察官の「富山事件における北野の自白には、睡眠薬の使用に関する『秘密の暴露』が認められる」という主張については、「北野がそのような供述をした当時(1980年4月15日)、Aに対する睡眠薬使用の事実は、鑑定などによって確認はされていなかったが、捜査官が事前にそのような疑いを抱くことなく尋問に臨んだとは思えない。『秘密の暴露』とは、『あらかじめ捜査官の知り得なかった事項で捜査の結果客観的事実であると確認されたもの』のこと[注 13]であり、事前に明確な事実確認ができていなくても、捜査官が当該事実の存在について疑いを抱いていた事項についての供述は、『秘密の暴露』には当たらない」と指摘[153]。先行して捜査が進んでいた長野事件について、Bの遺体に防御創が認められなかったことから、4月4日の時点で薬物使用の痕跡があったかについての鑑定が嘱託され、同月13日にはMがBに対する睡眠薬の使用を認めたこと、翌14日には長野県警の警察官が富山市内の薬局から、富山事件前にMが睡眠薬を購入したことを記録した要指示薬帳面を領置したことを挙げた上で、「捜査機関が両事件の状況的類似性に思い至らなかったはずがなく、宮﨑恪夫警部も『Aも睡眠薬を使って殺されていたと思った』と証言していることから、Aに対する睡眠薬の使用は、(北野が4月15日に自白するより前から)単なる想像の域を越え、具体的な証拠に裏付けられた疑念に高まっていたことが推認される」として、「北野の供述について、秘密の暴露性を肯定し、自白全体に高度の信用性を付与することはできない」と判断した[155]
自白内容の合理性・変遷
北野の供述内容について、「共謀に加わった者であれば当然体験・記憶していると考えられる事項に関する説明の欠落」「共謀を疑わせる客観的事実について、疑問を解消させるに足りる説明が加えられていない点」「共犯関係があったにしては不自然な状況の存在」といった不自然性を指摘した[156]。また、共謀の本体的部分(殺害実行者・身代金額・受け取り場所など)について説明の困難な変遷が見られたり、共謀に加わったなら当然知っているだろう事項について、いったん具体的・詳細な供述をしたのに撤回している点や、極めて短期日の間に具体的説明が変転したりする点などの存在を指摘し、「本件における供述変遷状況は、自白全体の体験供述性を強く揺るがすものである」と判示した[157]
北野の弁解について
一方、北野の「自分はMを『金儲けの上手な女性』と思い込み、彼女から持ち掛けられた(政治資金や土地絡みの)嘘の儲け話を信じて、事件前から(特に、長野事件の発生時期に)行動をともにしていた」という供述の信用性について、「Mからその儲け話の取引相手の素性を説明されていなかったり、政治資金の具体的な集め方[注 26]や、金沢の土地の具体的な所在地・所有者などについても、不明瞭なままMの説明を受け入れていたことになったりなど、北野の弁解にはにわかには信じ難いがある点は否定できないが、それらの儲け話が失敗に終わったとしても、北野にとって失うものは多くなく、Mの動きに便乗していたに過ぎないため、北野の『騙されていた』という弁明も一応成り立たないわけではない。また、北野の『騙されていた』という旨の供述は、逮捕された直後からほぼ一貫して具体的に供述されており、逮捕直後になって思いついた創作とみなすのはいささか困難だ」と指摘[159]。その上で、「北野の弁解を直接裏付ける客観的証拠はほとんどないが、Mの供述内容の不自然性や、長野事件の捜査段階では北野が『政治資金』に関する弁解を(同時期に、『大宮の男から、まともとは言えない種類の金を受け取る』と言って北野を同行させたとする旨の弁解をしたMより)具体的に行っている点を併せて考えれば、Mと事前に口裏合わせが行われたとも考え難い」と指摘し、「Mと北野の供述が符合することは、北野側にとって有利な事情として分類することが可能となる」と判示した[160]

控訴

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死刑を宣告された被告人Mは、同日14時5分に名古屋高等裁判所金沢支部控訴[133]。控訴審に当たり、人権派弁護士として著名だった遠藤誠に弁護を依頼したが、断られたため、倉田哲治[注 27]を弁護人に選任した[164]。私選弁護人選任は、Mの元夫が「息子(長男)の母親 (M) が死刑囚では可哀相」と考え、弁護人を探したことによるものだった[165]

また、富山地検も名古屋高等検察庁と協議した上で、「北野を無罪とした第一審判決には重大な事実誤認がある」として、北野について控訴期限の2月23日付で控訴した[166]。『朝日新聞』 (1988) によれば、富山地検や最高検は控訴に慎重な態度だったが、控訴審を担当する名古屋高検は「2人はいつも一緒に行動しており、北野が犯行計画を知らなかったはずがない」と強気な態度で、両被告人の自白調書を精査し、「2人の供述には一致点・矛盾点が多くあり、信用性を突き詰めれば、北野の有罪(2人の共謀)を立証できる」として控訴に踏み切った[167]。しかし、この控訴に対し北野は「検察は反省しておらず、良心もない」と怒りを露わにし、北野を支援していた佐木も「仮に検察の意地、メンツだけの控訴なら、言語道断だ。百歩譲って、被害者感情、県民感情を考慮しての控訴としても、司法の専門家としてあまりにも情けないのではないか。」というコメントを出した[166]

検察の控訴を受け、北野弁護団は第一審と同じ4人(浦崎威[注 28]・黒田勇[注 29]・近藤光玉・大坪健)に加え、新たに松波淳一(富山県弁護士会)、吉村悟(福井弁護士会)、西村依子(金沢弁護士会)の3弁護士が新たに加わり、7人体制となった[174]。また、北野本人は「北野宏を救う会」のメンバーや弁護人らとともに、最高検や名古屋高検(本庁および金沢支部)に対し、支援者らの賛同署名を添えた控訴取り下げを求める請願書を提出していた[175]

控訴審

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1989年(平成元年)3月29日付で、被告人Mと富山地検の検察官はそれぞれ控訴趣意書を提出した[176]

検察官の控訴趣意書
両被告人に対する第一審の論告(約300ページ)を大幅に上回る506ページにおよんだものだったが、新証拠はなく、以下のように第一審で提出された証拠の再評価を求める趣意だった[177]
M供述の信用性について
原判決は「最終的に北野に自身の責任を転嫁しようとするもので、北野共謀の根拠としての証拠価値はない」と判示するが、それ以前に「Mが北野をかばう供述をするはずがない」という認識に立つ原裁判所(富山地裁)が、Mの供述変遷の理由を説明するために考え付いた仮説に過ぎず、非現実的だ。捜査段階におけるMの「北野と共謀し、自身が実行した」という供述は、その供述に至る過程に原判決が問題とするような不自然・不合理な点はなく、多くの間接事実に照らしても合理的な内容で信用できる[178]
間接事実について
事件前後および、事件の最中に北野はMと行動をともにしていたり、別行動時にもMに電話を掛けたりしている数々の間接事実から、北野とMの共謀は十分推認できる。Mが重大犯罪を行いながら、その犯行意図を隠して情を知らない北野を欺き、将来の責任転嫁を企図して北野を利用するというようなことは、可能性からしてあり得ない[179]
北野自白の信用性について
原判決は「北野はMに対する心理的な負い目から、道義的責任を取るつもりで嘘の自白をしたが、その内容は過程・内容に照らして不自然・不合理だ」として、信用性を否定したが、その判断は実態に則さない単なる推論だ。自白変遷の理由はいずれも理解可能で、自白に至る経緯は自然であり、内容的にも多くの間接事実に照らして合理的で、秘密の暴露もあり、自白は十分に信用できる[180]
北野の公判弁解の虚構性
原判決は「北野の弁解を裏付ける客観的証拠はなく、その内容に当たる話(Mから持ちかけられた儲け話)も虚偽である」と認めながら、「北野がその話を誤信したかが問題で、一概に排斥できない」と判示したが、その弁解に出てきた話そのものが非現実的で、もしMが北野に知られずに本件各犯行を遂行するならば、当初から北野を同行せずに実行すれば良いだけだ。Mと北野の密接な男女関係から言えば、Mがそのような内容の虚言を北野に話す必要はなく、北野がMからその金儲けの話を聞かされていたこと自体が信用できない。(富山事件における)「金沢の土地」の話がもし事実なら、富山事件直後にAの両親と会った際、そのことを話していなかったり、取り調べでもそれに関する主張をしていなかったり、(長野事件における)政治資金の弁解も、取り調べ当初や逮捕直後にそれに関する弁解がなされていない点からも、北野の弁解は信用できない[180]
被告人M自身の控訴趣意書
一連の犯行は北野と共謀して行った。両事件とも誘拐・身代金要求は自身が行い、長野事件でも殺害・死体遺棄は自身が単独で実行したが、富山事件では北野が殺害・死体遺棄を実行しており、自分は直接は関与していない[181]。自身は北野と密接な関係にあり、北野の弁解は虚構で[176]、量刑も不当である[182]
M側弁護人の控訴趣意書
Mの私選弁護人4人(倉田哲治[注 27]・尾嵜裕・野田政仁・西徹夫)は、同月27日付で連名による控訴趣意書を提出した[183]
犯罪事実に関する事実誤認の主張
事件はMの単独犯行ではない。
  1. 検察官の「Mと北野の間には、共同して犯行を行って当然と考えられる一心同体の関係があった」という主張は常識に根拠を置いた有力的なものであり、Mが北野に対し心身ともに捧げ尽くす愛情を抱いていたのは事実で、その一心同体論を簡単に排斥した原判決は、北野の弁解に耳を傾けすぎた誤りがある[181]
  2. 原判決は「北野は捜査官から『男の責任』を取るよう不当に追及され、やむなく自白したと考えられる」としているが、捜査の実情として仮説を立てた追及・心情に訴えての説得は日常的なもので、北野が道義的責任を引き受けるつもりだけで事実に反した自白をしたとは考えられない[181]
  3. 原判決は、一連の事件前にMが実行しようとした保険金殺人未遂を「一連の犯行とは連続しておらず、北野は無関係」としているが、双方事件の類似性と関連性は否定し難い。しかも北野は同事件について、富山・長野両事件とは違い、捜査段階から進んで自白し、その後も一貫して認めていたため、信用性は排除できない。もし北野が同事件に関与していれば、それに続く各犯行について北野が事情を知らなかったことはありえず、北野の共同加功の事実は明らかである[181]
  4. 富山事件では、Mが2月23日夜にAを「北陸企画」に連れて行ってから、25日夜に殺害に至るまでの間、Aが1人で同所に放置されていた時間帯も相当にあり、その間母親に電話する余裕もあったことから、Aが逃げ出して助けを求めることは容易で、誘拐というにそぐわない支配の断続があり、継続して監視下に置かれていたことには疑問がある[184]
  5. 原判決は、犯行動機を「Mが高価なフェアレディZを欲しがって買い、その代金支払いのために負担した借金返済などに給したこと」と認定しているが、購入経緯・代金支払い状況からすれば、(MがフェアレディZを欲しがったにせよ)Mは北野の名義・計算の下に購入しており、原判決の「Mが1人でフェアレディZを購入した」という認定は、「Mの単独犯行」という辻褄を合わせるために事実を歪曲したものである[178]
心神耗弱の主張
原判決は「Mは知能指数が高く、犯行時も責任転嫁を目論んで冷静な打算をできる奸智に長けた女」とするが、犯行は極めて杜撰かつ発作的・衝動的としか言いようがない無計画性が目立つ。その間の落差と、Mが原審(第一審)公判中にしばしば挿間性の異常状態を繰り返した事実を重ねれば、Mは犯行時、心神耗弱状態だったと疑われる。原審で行われた精神鑑定と別に、改めて専門医による精神状態の解明が必要で、そのようなMの症状を無視した原判決には重大な事実誤認がある[注 30][178]
量刑不当の主張
現在は先進文明国のほとんどが死刑を廃止し、それが世界の潮流にもなっている。たとえMの刑責が免れ難いとしても、死刑は過酷・不当である[178]

その後、検察はMへの答弁書を作成し、提出[185]。北野も同年9月28日付で、検察側が提出した控訴趣意書に対する答弁書を提出した[186]。同年11月初め、被告人Mは富山刑務所から金沢刑務所へ身柄を移された。また、富山・石川・東京などの女性らが、Mを支援し、死刑廃止や公正な裁判の実現、獄中での人権擁護を求めることを目的とした組織「Mさんを支える会」を発足させた[187]

控訴審初公判

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1989年11月28日に[188]名古屋高等裁判所金沢支部第二部[189](濱田武律裁判長)[190]で控訴審の初公判が開かれた[188]。同日の審理に先立ち[188]、両被告人の弁護人は「被告人の防御権が相反する」「死刑と無罪では裁判構造が異なる」として、分離公判を請求したが、同高裁支部は「重大事件なので時間を費やして審理しなければならず、(両被告人の)証拠も共通している」として請求を却下し[191]、2人の審理を併合して進めることを決めた[188]

同日、検察官は控訴趣意書朗読で、「2人は一心同体で、共通の借金返済に苦しんでいた。北野が両事件に加担することは十分認定できる」と主張し[192]、(北野を無罪とした)原判決の事実誤認を訴えた。次いで、被告人Mの弁護人が控訴趣意書を朗読し、事実誤認・量刑不当を訴えた[193]

その後、北野側は検察官の控訴趣意に対し、「共謀を認めた北野の自白は取調官に強要されたものだ。また、Mの供述は北野に責任を転嫁しようとしたもので信用できない。検察の控訴は控訴権の乱用で、違法である」と答弁し、控訴棄却を求めた[193]。次いで、検察官はMの控訴趣意について「北野の存在でMの刑事責任が軽減されるものではなく、心神耗弱の主張も認められない」と答弁した[193]上で、証人11人(うち新証人は2人)[注 31]および5か所の現場検証などを請求した[194]

公判分離

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1990年(平成2年)1月23日に開かれた第3回公判から、検察官による被告人Mへの質問が実施されたが、同年8月18日付で[195]、被告人Mは弁護団を結成していた弁護人4人(主任弁護人:倉田哲治)の解任届を提出した[注 27][196]。その後、第13回公判(同月28日)までに新たな弁護人が選任されなかったため、刑事訴訟法の規定[注 32]により、Mについては控訴審の審理ができなくなった[注 33][197]。しかし、続く第14回公判(9月11日)・第15回公判(9月25日)でも弁護人不在の状況が続き[198][199]、第16回公判(10月9日)で、高裁支部はそれ以上の審理の遅延を防ぐため、「次回公判(10月23日)からMと北野の審理を分離する」[注 34]と決定した[200]

第17回公判(同年10月23日)および、第18回公判(同年11月13日)では、北野に対する検察官の質問が行われたが、北野は検察官に対し「不当な控訴により、自分は家族ともども苦しめられている」と訴えた以外、検察官の質問には一切答えなかった[注 35][202]。一方、10月26日には名古屋高裁金沢支部により、Mの国選弁護人[注 36]が選任された[204]

第19回公判(1990年11月27日)では、検察官が申請していた証人(「1980年2月25日早朝、『北陸企画』前に白いライトバンが駐車してあった」と証言した新聞配達員の女性とその母親)[注 37]が「10年前のことで、(事件当時の)記憶が不正確」として、出廷を拒否[207]。同日、北野の弁護人は裁判官(濱田および井垣敏生・秋武憲一の両判事)[注 38]に対する忌避申立書[注 39]を提出したが、名古屋高裁刑事第2部(本吉邦夫裁判長)は申立を却下した[211]。一方、検察官は「殺害・死体遺棄の実行者を特定し、2被告人の共謀の有無を判断するために必要」として、事件当時と同じ積雪時に現場検証を実施するよう申請[206]。これを受け、名古屋高裁金沢支部は1991年(平成3年)2月13日には富山事件の現場で[注 40][212]、6月4日 - 5日には長野事件の現場で、それぞれ現場検証を実施した[213]

再併合後

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第21回公判(1991年5月28日)で、新たに選任された被告人Mの国選弁護人2人が、それまで無関与を主張していた富山事件について、「北野と共謀した。殺害実行犯は北野」とする内容の控訴趣意補充書を朗読した[213]。その後、両被告人の審理が再び併合され[214]、北野の弁護人は「北野に対する検察の控訴と、Mによる控訴を分離し、新たな証拠調べを行わず、直ちに前者の控訴を棄却する判決を求める」とする意見書を朗読した[215]。一方、Mが長野事件について、第一審から一転して「北野と共謀した」と供述を一転させたため、検察官は長野事件の現場検証を申請[216]

第22回公判(1991年6月25日)で、被告人Mは長野事件について、「北野と共謀した上で、誘拐・殺害・死体遺棄をいずれも自らが単独で実行した」とする新たな証言を展開[17]。また、全面的に関与を否認していた富山事件についても、誘拐の実行を認める旨を供述した[16]。11年間にわたり、長野事件について偽証し続けてきた理由について、Mは第23回公判(7月9日)で、「逮捕前に北野と打ち合わせをし、『自分が両事件とも実行し、北野は無関係』という口裏合わせをしていたが、第一審の意見陳述の際、北野から聞くに堪えない中傷や悪口を言われたから」と述べた[217]

1991年8月31日までに、北野の弁護人は、「なぜ、殺害現場に行かなかったのか-北野の一貫した『嘘話の存在』主張」と題した最終弁論の要旨(3部に分けたうちの第1部)を名古屋高裁金沢支部に提出[218]。この要旨で弁護人は、「Mと北野は、検察官が主張するような『一心同体』の関係にはない。北野はMの金儲けの話に騙され、振り回されていただけで、事件には関与していない」と主張した[219]。その後、「辛酸な冤罪の原因は何か」と題する第2弾と、第3弾(検察主張に対する反論とまとめ)を提出した[218]

控訴審は1991年11月12日の第28回公判で結審[220]。同日の最終弁論で、検察官は改めてM・北野両被告人の共謀を主張し、両被告人への有罪(北野について第一審判決の破棄、およびMの控訴棄却)を求めた一方、北野の弁護人は無罪(検察側の控訴棄却)を、被告人Mの弁護人は死刑判決の破棄(量刑の減軽)をそれぞれ求めた[221]

控訴審判決

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1992年(平成4年)3月31日に控訴審判決公判が開かれた[222]。名古屋高裁金沢支部第二部[189](濱田武律裁判長)[190]は、Mを死刑、北野を無罪とした第一審判決を支持し、北野について有罪を訴えていた検察と、自身への死刑を不当としていた被告人Mの双方からなされていた控訴をいずれも棄却する判決を言い渡した[222][223]

名古屋高裁金沢支部 (1992) は、Mが第一審から引き続き殺害を否認した富山事件を中心に事実認定を行った[222]。また、以下の通り、2人が密接な関係にあったことに着目した上で、「Mは事情を知らない北野を利用して犯行におよんだ。その上で、北野が白になるだろうことを利用し、彼と一心同体関係にあった自分自身も白になることを狙った」という判断を示した。『北日本新聞』社会部記者の吉倉和彦や、富山大学教授の駒城鎮一、井口は、本判決を「原判決(第一審判決)以上に、北野の無実を明確に浮かび上がらせた判決」と評価した[224]

富山事件に関する疑問と考察
名古屋地裁金沢支部 (1992) は、被害者Aが2月23日、自宅に帰宅のバス便まで連絡しておきながら「北陸企画」に無断外泊していた点や、24日朝に自宅の母親に電話していた(その時点でMがAを殺害して身代金を得ることまで気としていたならば、その計画が破綻しかねない)点、MがAを「北陸企画」に1人残して外出していたのに、Aが「北陸企画」を出ず、24日朝 - 25日昼まで家族に電話もせずもう一晩外泊したことを「この事実を殺人までも予定していたという誘拐事犯における被拐取者の取扱いとしてどのように解釈したらいいのであろうか。Aにはその間、脅迫、暴行等の外的圧力を加えられ意思に反して自由が拘束されていたような形跡は窺えない」と指摘。さらに、MがAと2人で外出してドライブインなどで食事をするなどしていた点について、「余りにも不用心で大胆にみえるが、これを単に甲の無神経さや杜撰さというような理由で説明することができるだろうかなど、疑問とされる問題点は多いのである。」と判示した[225]
その上で、原判決が「Aは帰宅や待ち合わせの約束を守るつもりだったが、Mによって引き留められていた」と結論づけた点について、Aの電話内容と行動・態度の点から疑問を呈した上で、電話のやり取りについて分析[226]。「Aが無断外泊をしたのは、進学に伴って臨時収入を欲しがっていたところ、Mから非常に魅力的なアルバイト話を斡旋されるなどしたことが考えられる。MはそのAに対し、そのアルバイト話しの成否の鍵を握る『社長』なる人物[注 41]を餌とし、その社長の都合がつかないことを理由にAを引き留めていたと十分考えられる。その間、Aが強制された気配もないのに2日も無断外泊し、家族の心配も知りながら1日以上も電話連絡しなかった不自然・不合理な態度も、Mが自分の犯罪計画を悟られることなくAを事務所に引き留めつつ、自宅への電話連絡を封ずるため、Aに対し『自分で家の方に所在を明らかにしたり、アルバイト話を勝手に喋ったりしたら、折角のうまい話が壊れてしまう』として『自分と社長が直接家までついていって話してやるまで待つように』などと指示していたものと考えれば、Aの態度に関する不審も解消する」「Aが『北陸企画』に連れ込まれてから同所を出て殺害されるまでの間に、北野と直接接触したことを窺わせる状況は電話内容からは認められない。むしろ、仮にMの単独犯で、北野の存在を利用する工作を考えたならば、北野の存在に信憑性を持たせるため、Aに対し(25日の電話までに)何らかの方法で北野の姿を垣間見せるような工夫をしたことも考えられる」と指摘した[229]。また、Mが身代金目的で誘拐したはずのAと2人で外出して食事をするなどした点については、「MはAを誘拐した後も、しばらくは殺害を逡巡していたが、25日夜、Aを『北陸企画』から連れ出す直前ころになってようやく殺害を決意した」と判断した[230]
Mの実行正犯性
原判決の「一連の犯行はすべてMが単独で実行した」とする判示について、控訴審で新たに実施した事実取り調べの結果を合わせ再検討したが、「原判決が挙示する関係証拠から、Mの単独犯行は十分に認定できる。それに反するMの捜査段階および原、当審公判における供述は信用できず、他にこれを左右する証拠や状況もない」と判断した[231]。Mが反論材料としていた以下の点についても、「有力な根拠になりえない」として、主張を退けた。
Mの母親によるアリバイ証言
Mの母親による「娘は2月25日22時ごろに帰宅し、26日早朝に北野からの電話で北陸企画に出掛けた」というM自身の弁解に沿う証言については、「Mの母親は捜査段階ではそのようなことは供述しておらず、公判でもそれを秘匿していたことについて納得できる理由を説明できていない」[232]「本件各犯行を通じて疑われるMの罪証隠滅工作の可能性も考慮すれば、Mが母親に本件の真相を明かさないまでも、自己の罪責を免れるために偽装的供述を頼んだこともありえなくはない」と指摘し、「補強証拠としての価値は認められない」と結論づけた[233]
フェアレディZの燃費と走行距離の関係
M側は「フェアレディZの当時の燃費は、同型車での走行実験によって得られた結果を信用すべき数値として計算すべきなのに、原判決はそれを否定した上で、Mの『いったん北陸企画まで引き返した』という弁解を排斥し、25日の給油から26日までの間に北陸企画から約125 km離れた死体遺棄現場(数河高原)まで1回しか走行していない旨を認定している」と主張していたが、「自動車の燃費は同一車種でも多少の個別差があったり、運転者の技量や当時の具体的な運転方法によって相当の誤差が出てくるのもやむを得ない」と判断し、論旨を退けた[234]
両事件での殺害方法(紐の絞め方など)の違いなどについて
M側は「富山事件と長野事件では、各被害者の死体の状況を見れば、殺害に用いた紐の絞め方や、その後の処置方法が著しく異なっている(富山事件では一重の紐を2周巻き、正面できれいに2回小間結びをした一方、長野事件では2つ折りした帯を左側頸部で乱雑に1回縦結びしている)」と指摘した。しかし名古屋高裁金沢支部は、捜査段階で2人の紐の結び方を知るため、風呂敷を結ばせるなどして観察した結果(Mは小間結び、北野は縦結び)と、殺害実行犯に関するMの自白内容(「富山事件では北野、長野事件では自分」と供述)が逆の結果になることを指摘。「小間結びも縦結びも、決して特異な形態ではなく、2人の結び癖だけでは殺害実行犯は特定できない。一般的に考えても、人を絞殺するという異常な犯行におよぶ際には、当然極度の緊張・興奮状態になるだろうから、その時の犯人が必ずしも日常的な同一行動を取るとは限らない」として、「それぞれ時期・場所・被害者など異なった状況下で行われた本件各犯行における所論指摘程度の食い違いをもって、両事件の犯人を別人と結論づけることはできない」と結論づけた[235]
供述の信用性
以下のように、「両者の供述とも、各事件での共謀を証明するだけの証拠価値はない」とする原判決の判断を追認した[236]
Mの供述の信用性について
Mの弁解内容が捜査段階から二転三転し、内容自体にもいくつもの不自然・不合理な点がある点に加え、Mが控訴審で改めて(それまで否定していた)誘拐を認めた点から、「従前の弁解の虚構性を自分から一部暴露している」と指摘し、その誘拐を「北野との共謀による身代金目的の犯行計画の一環」と言いつつ、当のAを北野に預けたまま「北陸企画」から一時帰宅し、その後に北野が単独でAの殺害におよんだとする主張は変えていない点を挙げ、「逆に事実の流れを不自然なものにしているものだ。いずれにしても、Mの弁解の信用性に消極的評価をする原判決の判断は正当である」と指摘した[232]
その上で、検察官の「Mは捜査当初こそ、北野をかばって自身の単独犯行を主張していたが、やがて『北野と共謀し、自身が実行した』という自白をするようになってから、共謀の存在に関しては一貫した供述をしており、少なくともその点は信用できる」という主張については、Mの供述内容が捜査段階以降大きく変遷し続けたことを踏まえ、「その供述には作為的に虚偽を交える工作された疑いがある上、起訴事実に沿う自白や不利益供述の部分も、供述内容が様々に変動して安定性に欠け、内容的に見ても不自然・不合理なものであり、体験供述性にも欠け、客観的事実にも符合せず、北野の供述とも齟齬する。中には明らかに虚偽の供述も交じるなど、信用性は甚だ乏しい」として、信用性を否定し、「Mは自己の罪責を免れようとして、作為的な供述操作を行ったことが疑われる」と判断した[237]
一方、原判決が「Mが捜査当初に単独犯行を自白したのは、最終的に、北野に責任転嫁する供述を捜査官に信用させるため、捜査当初から意識的に供述を少しずつ変遷させるなど、巧みな操作をしたものであり、北野を愛情ゆえにかばったわけではない」と判示した点については、「全面的には同調できない」として、「最終的に北野が実行犯であるとする責任転嫁供述を行うようになったのは、取り調べを受けるうちに、捜査官の北野への予断の強さを察知し、自らが極刑に処されることへの恐れから、改めて自己保身のために虚偽供述をしたと考えても不自然ではない」という判断を示した[238]
北野の供述の信用性について
北野の供述については、「内容自体が著しく不自然・不合理である。仮にその供述が真実の共謀事実を述べているなら、捜査官は当然疑問点を追及して理由を明らかにするはずだが、それらの不審点の説明は調書にほとんど録取されておらず、『自白そのものが虚構であったため、合理的理由付けが出来なかった』という疑念が生ずる。特に長野事件の場合は、富山事件の失敗を踏まえての再犯行である以上、より緻密かつ周到に計画が練られるはずだが、もし2人で共謀して実行したとなれば、それぞれの役割分担があらかじめ相談され、具体的に決められて当然なのに、そのような形での謀議がなされたことの供述もまるで欠けており、不可解である」と指摘し、信用性に疑問を呈した[236]
そして、「捜査官の取り調べ方法と、2人の密接な男女関係や、本件各犯行の在り方などの中に、本来の刑事責任とは別に道義的責任を取るといった意味での制裁を甘受しようとする心情が形成されていく背景事情も認められるなど、供述の真実性を歪める要因も存在する」と指摘した[237]
北野との共謀の可能性
間接事実
原判決の間接事実に関する事実認定とその評価について、以下のように判示し、「一部について必ずしも同じ見解に立てないものもあるが、全体的に、それらの間接事実が共謀を推認させるには足りないものであるという結論には同調できるし、逆に共謀による犯行に疑問を抱かせる他の状況も認められる」と結論づけた[239]
富山事件の際、北野が「北陸企画」に出向いた事実の有無について
2月25日早朝、北野が「北陸企画」に出向いたか否かの点について、原判決は「共謀の存在に決定的な意味を持つ」としつつ、その可能性を否定する旨を認定していたが、その点については「原審で『北野のバンが北陸企画前に駐車してあった」と証言した女性の証言・供述内容を鑑みれば、北野がMの電話に応じて北陸企画に出向いた事実は否定し難い。しかし、北野の『その時は、事務所では誰にも会わなかった』という供述(=当時、誘拐したはずのAがいる場所まで行ったが、何もせずに帰ってきたことを意味する)も考えれば、これはかえって北野が犯行には関与していなかったことを推認させる情報とみなさざるを得ない」と判断した[239]
Mと北野の関係性について
Mと北野の関係性(検察官が「一心同体性」があったと主張していた)については、原判決の「北野は長野事件の際、一緒に富山を出てから富山に帰るまで終始Mと行動をともにし、Mが身代金要求電話を掛けた際にその近くにいたり、高崎駅(身代金受領現場)まで同行して警察官の気配で逃げ出すなどしたのは、一般的に見れば、両者の共謀を示す間接事実とも取れるが、Mは警察の目をくらましたり、責任を転嫁するなどの目的で、情を知らない北野を利用するために同行させていた可能性がある」という判示について、「これは検察官も反論するように不自然・不合理に過ぎる推論で、(最終的に極刑も予想される重罪の刑責を)無実の北野に被せることは、北野本人の了解なしにはまず不可能で、そのように見込みがない企みをMが画策していたとは信じ難い」と指摘した[240]
その上で、「検察官が主張するように、本件は『Mは一切北野と無関係に犯行におよぶか、情を明かして共同で行うかのどちらかであって、その中間(北野を終始同行させ、欺き続けながら犯行におよぶ)といった事態は考えられない』という主張にも賛成できない。2人の密接な男女関係を前提に、証拠上認定できる多くの間接事実や、捜査段階におけるMの言動、北野の発言(弁護人との接見時や、公判での弁解で述べられた『Mから聞かされた嘘の儲け話』)などを総合して勘案すると、原判決の推論とは違った意味合いで、Mが『情を知らない北野の利用』を企んだ可能性は十分に存在すると考えられる。つまり、検察官が否定するところの『北野はMの策謀により、その存在や行動を利用された』という疑いが濃厚だ」と指摘[241]
その内容については、「Mは北野に対し、犯罪計画を打ち明けることなく、他の口実で同行を求め、運転の便宜や心身の安らぎを求めることなどの協力をさせる以外にも、自身とほとんど同一行動を取らせはするが、肝心の犯行は自身が単独で実行し、北野には関与させないでおく。その後、犯行が発覚しそうになったら、2人の男女関係や行動から、『当然、2人が共同で犯行におよんだはずだ』と思い込み、疑って掛かるだろう捜査官の常識的な余談を利用し、北野に容疑を向けさせる。当然、何も知らない北野は『全く身に覚えがない』と本気で弁明することが期待されるし、現実に事件にも関与しておらず、彼の犯行を裏付ける直接証拠も存在しないばかりか、完全なアリバイさえも成立する場合もあり、最終的に有罪にされる心配はない一方、Mの方は『北野と一体的な関係にある』と思い込ますことで、捜査官の追及を言い逃れる……といった策謀をもって行動したことが、極めて強い可能性を持って浮かび上がってくる。つまり、原判決が推論する『無実の北野を犯人に陥れる(黒)代わりに自身が罪を免れる(白)』という形での罪証隠滅工作(「犯人工作」)ではなく、逆に自分たち2人の一体性を利用し、犯行に直接関係していない北野を容疑者に仕立てて注目させ、彼に影武者的役割を果たさせて捜査陣を惑乱させ、最後には北野が無実になるだろうこと(白)に乗じて、M自身も刑責を免れよう(白)という効果を狙った二個一戦術ともいえるような企み(「容疑者工作」)を狙った余地もある。諸般の状況を合理的に推理すると、むしろその可能性は非常に高いものと思われる」という判断を示した[241]
また、「原判決は、Mと北野の共謀を否定し、Mの単独犯であることをいうため、犯行の背景・動機面でMの独自性を強調し、当時の2人の男女関係の実態を消極的に眺めすぎたきらいがある。富山事件以前の2人の愛情・日常生活面での関係は、(一心同体か否かは別にして)相当に密接な男女関係にあったことは否定できず、Mが動機の1つとして、北野のため(病気治療費の捻出など)や、彼との関係の維持継続にも役立てる必要資金を手に入れる意図でもあったことはあながち排斥もしにい。両者の借金も、互いに解決すべき問題と意識していたことが推認でき、原判決の犯行動機に関する判示(M自身の借金返済のみが理由)は必ずしも支持できない」と、原判決の判断と異なる判断も示したが、その点についても「事実誤認とまでは言えない」と結論づけた[242]
以上のような判示を踏まえ、「いずれの事件もMの単独犯として、北野を無罪とした原判決は相当である」と結論づけ、Mや検察官の論旨を退けた[243]
心神耗弱および量刑不当の主張について
公判中、Mが健康状態を損なったことを認めた一方で、原審で行われた精神鑑定の結果や、Mの犯行時および捜査官からの取り調べを受けている段階の言動から、「心身の異常を示すものは認められず、犯行時から現在に至るまで、心神耗弱状態だったとは認められない」と判示した[244]
量刑面については、最高裁が示した死刑選択の是非に関する基準を踏まえ、「この基準に基づき、死刑を選択することに異論の余地がないほど犯情が悪質な者に対し、ことさらその運用を避け、運用面で事実上の死刑廃止を図ることは許されない」とした[244]上で、「各犯行の罪質、動機、態様その他すべての量刑因子を見ても、悪質さ重大さの度合いは、それ自体凶悪犯罪とされる同種類型の中でも際立っており、もはや情状酌量の余地は全く認められない極悪の犯行と位置づける以外にない。死刑制度そのものを否定しなければ、本件のような事案につき、死刑の選択を避ける量刑を妥当とする立場があるとは思えず、近時の量刑動向が死刑の選択に慎重の度合いを深めている現状を参酌しても、本件で被告人 (M) を死刑に処するのは誠にやむを得ない」として、M側の論旨を退けた[245]

北野の無罪確定

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名古屋高検は北野の無罪判決について最高検と協議した結果、適法な上告理由(憲法違反および最高裁判所の判例への違反など)が見当たらないことから、上告を断念[246]。これにより、上告期限が切れた1992年4月15日0時をもって北野宏の無罪が確定した[247]

無期懲役以上が求刑された重大事件で、一審・二審とも無罪になった事件は、「日石・ピース缶」爆弾事件(検察側が上告を断念し、無罪が確定)以来、2例目だった[248]

上告審

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一方、被告人Mの弁護人は1992年4月2日付で、M本人も翌日(4月3日)付で、それぞれ最高裁判所上告[249][250]。Mは同年8月5日、金沢刑務所拘置区(金沢市)から名古屋拘置所へ移送された[15]。Mの弁護側(弁護人:浦部和子、成田龍一、野田房嗣)は1994年12月26日付で[251]最高裁第二小法廷に上告趣意書を提出した[252]。全359ページにおよぶ上告趣意書の内容は、事実誤認(Mの実行正犯性の不存在・北野との共謀の存在など:上告趣意書23 - 306ページ)[253]、審理不尽(同307 - 315ページ)、量刑不当(同316 - 318ページ)、死刑制度や死刑執行の違憲性(同319 - 359ページ)を主張するものであった[254]

1998年(平成10年)6月26日、最高裁第二小法廷河合伸一裁判長)で、被告人Mの上告審公判(口頭弁論)が開かれた[注 42][172]。上告審における新証拠はなく、弁護人(弁論要旨の陳述:成田龍一)は第一審・控訴審と同じく、北野との関係の緊密さや、経済面での一心同体性などを挙げ、北野との共謀を強調[172]。「富山事件は北野が殺人・死体遺棄の実行犯で、Mは被害者Aの遺品を捨てただけだ。長野事件も『北野との共謀はなく、Mの単独犯行』とした原判決(および第一審判決)には事実誤認がある」と主張した[256]ほか、死刑およびその執行方法を含む死刑制度についても[注 43][257]、「憲法の保証する生命権を害するもので、違憲である」と主張[172]。また、「Mは犯行時、心神耗弱状態で、多重人格の疑いもあったが、原審は精神鑑定を却下するなど、審理を尽くしていない」「Mは深く反省しており、死刑は重すぎる」と、審理不尽および情状面も訴え、無期懲役への減軽を求めた[172]

Mの死刑確定

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1998年9月4日、被告人Mは最高裁第二小法廷(河合伸一裁判長)で上告棄却の判決を言い渡された[259][260][261]。これを受け、判決の訂正を申し立てた[注 44][264]が、その申立も同年10月7日付の第二小法廷決定[判決訂正申立棄却決定 事件番号:平成10年(み)第54号]によって棄却され[265]、同月9日付[注 45]Mの死刑が確定した[266][104]

富山県内で発生した死刑確定事件は、本事件が戦後3件目で[注 21][261]、戦後の日本で女性の死刑が確定した事例は、Mが7例目だった[270]。また、永山判決(1983年7月8日:第二小法廷判決)以降に判決が確定した身代金目的誘拐殺人事件としては初めて、殺害された被害者が複数名にわたる事件でもあった[注 46][271]

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 現場検証が行われた年月は、富山事件では1981年12月[43]、1982年2月[44]、1984年2月[45]。長野事件では1981年10月[42]、1984年3月[46]、1985年6月[47]など。
  2. ^ a b 木戸交差点は、聖高原入口(国道19号と県道更埴明科線〈現:国道403号〉の交差点)[10]。Mとの「合流地点」まで約2.5 km以上離れている[10]
  3. ^ 「矢越隧道」は、県道更埴明科線(現在の国道403号)にあったトンネル。長野県東筑摩郡明科町大字東川手8002番地の1[14](現:長野県安曇野市明科東川手)に位置していた。
  4. ^ 「小枝」は、富山市久郷3038の1に所在していたレストラン[14]
  5. ^ a b Aが生前最後に(Mとともに)訪れた「レスト喫茶 エコー」は、岐阜県吉城郡古川町大字数河8の20番地[14](現:岐阜県飛騨市古川町数河8の20番地)にあった。
  6. ^ 吉城郡古川町は、2004年(平成16年)2月1日に同郡の河合村宮川村神岡町と合併し、飛騨市となった[23]。これに伴い、「古川町数河」は「飛騨市古川町数河」、「古川町戸市」は「飛騨市古川町戸市」となった[24]
  7. ^ a b 第一審判決公判で裁判長を務めた大山貞雄(退官後、愛知県弁護士会に所属)は、Mを死刑、北野を無罪とした同判決について「細かな事実を積み重ねていった末の必然的な結論だった」と回顧している[123]。大山を取材した『読売新聞』社会部 (2009) は、同判決を「大山が裁判官として担当した事件の中で、最も大きく、重い存在」と述べている[123]
  8. ^ また、同日付で右陪席も浅野正樹(転出)から川原誠に交代した[19]。その後、1985年4月15日(第127回公判)からは川原(名古屋高裁へ転出)に代わり、左陪席の山田知司が右陪席となり、村山浩昭大阪地裁から着任)が新たに左陪席となった[28]。そして1986年4月1日には、山田が東京地裁へ転出し[29]、山田の後任として大谷直人(前任:最高裁書記官研修所教官)が右陪席に着任[30]。最終的には大山(裁判長)・大谷(右陪席)・村山(左陪席)の3人により、判決が宣告された[2](ただし、村山は転補のため判決文に署名押印できなかった)[14]
  9. ^ 言語性IQは135、動作性IQは128と診断されている[34]
  10. ^ フェアレディZ、サニーバン、被害者の毛髪、凶器(帯紐)、被害者B宅に掛かった身代金要求の録音テープなど[40]
  11. ^ 死体遺棄現場の検証調書、死因鑑定、供述調書など[40]
  12. ^ 特に、北野側は152点の証拠採用に同意しなかった[40]
  13. ^ a b 最高裁昭57年1月28日判決(刑集36巻1号67頁)[153][154]
  14. ^ 科学警察研究所・化学第一研究室員の井上堯子(1996年当時:科学警察研究所・法科学研修所主任教授)は、事件から約2年後に富山地裁から「犯行に用いられた車(フェアレディZ)のシートに残された被害者の尿の痕から薬剤を検出できないか」と鑑定依頼を受け、シート内部のスポンジ片からわずか数マイクログラム(1 gの100万分の1)の化合物(犯行に用いられた睡眠薬「ニトラゼパム」の代謝物)を抽出することに成功した[60]。富山地裁 (1988) および名古屋高裁金沢支部 (1992) は、それぞれ「Mが2月25日当時、ニトラゼパム系の睡眠薬であるネルボン及びカルスミンを所持していた点に争いはない。」「Aはニトラゼパム系の睡眠薬を服用して熟睡中に腰紐を頸部に二重に巻かれて強く緊縛され絞殺されたものと推認されるところ、Mは当時、同系統の睡眠薬である『ネルボン』及び『カルスミン』を所持しており、(以下略)」と判示している。
  15. ^ 「キャニオン」は富山県婦負郡細入村庵谷52番地[14](現:富山市庵谷52番地)に所在していた。同店を訪れた時(2月24日)、Mは財布を忘れており、Aも手持ちの現金がなかったため、Mは経営者に飲食代金の借用書を書いて渡し、翌日(25日)に高山方面へ向かう途中で代金を支払いに行っている[61]
  16. ^ 2005年(平成17年)4月1日に富山市(旧市)と上新川郡(大沢野町・大山町)、婦負郡八尾町婦中町山田村細入村)の7市町村が[62]新設合併し、新たな富山市が発足[63]。これにより、「大沢野町笹津」は「富山市笹津」、「婦負郡八尾町」は「富山市八尾町」と、「婦負郡細入村○○」は(一部を除き)「富山市○○」となった[62]。また、旧富山市を管轄していた富山警察署も同年10月7日、「富山中央警察署」に改称(および管轄区域を変更)している[64]
  17. ^ 佐木 (1991) では、北野弁護団による北野への被告人質問は第98回公判(1984年6月)に始まり[75]、計29回におよんだ[76](第125回公判で終了した)とされている[77]
  18. ^ 関西大学教授の森井暲(刑事訴訟法)は「北野が実行に加担していないならば、『共同正犯の証明がない』として無罪になる可能性もある。有罪を主張するならば教唆か幇助程度の罪にしかならない」と指摘していた[97]
  19. ^ 公判を追い続けていた井口泰子は、検察官が「北野が実行犯」との従来からの姿勢を崩し、大幅な姿勢転換を行った背景について、「過去の検察は起訴事実に誤りがあっても認めようとしなかった。(方針転換は)免田財田川松山と続いた再審無罪判決の影響だろう」と指摘している[99]
  20. ^ これに対し、検察官は「精神鑑定は必要ない」と反対意見を表明した一方、(検察官の主張する「北野との共謀」の根拠である)Mによる供述の信用性を疑問視し、彼女について「一種の異常性格がある」と睨んでいた北野弁護団は、賛成寄りの意見を示していた[105]
  21. ^ a b c 本事件以前に富山県内で発生した死刑確定事件は2件ある[261]。1件目は1960年(昭和35年)3月、高岡市質屋の女性経営者が殺害され、現金などを奪われた事件で[261]、被告人の男(事件当時35歳:上告棄却)は第一審(富山地裁高岡支部)で死刑判決を宣告された[126]。2件目は、1970年(昭和45年)2月に富山市で幼女が誘拐・殺害された事件[261]だが、同事件では被告人の男は第一審(富山地裁本庁)で無期懲役を[267]、控訴審(名古屋高裁金沢支部)で死刑を宣告され[268]、上告取り下げによって死刑が確定している[269]。なお、富山地裁での死刑求刑事件は、本事件 (M) が後者の事件以来だった[113]
  22. ^ 富山地検の川崎謙輔検事正は、Mと北野で量刑に差をつけた理由について「Mが実行行為者であることを考慮した」と述べている[116][113]
  23. ^ M以前に第一審で死刑を宣告された身代金目的誘拐殺人犯としては、雅樹ちゃん誘拐殺人事件(以下、括弧内は事件発生年月:1960年5月)・吉展ちゃん誘拐殺人事件(1963年3月)・新潟デザイナー誘拐殺人事件(1965年1月)[127]正寿ちゃん誘拐殺人事件(1969年9月)[128]日立女子中学生誘拐殺人事件(1978年10月)・司ちゃん誘拐殺人事件(1980年8月)・名古屋女子大生誘拐殺人事件(1980年12月)・泰州くん誘拐殺人事件(1984年2月)などの例がある[127]。このうち、司ちゃん誘拐殺人事件の被告人は二審で無期懲役を言い渡され、確定したが、それ以外の被告人はいずれも死刑が確定した[127]
  24. ^ このうち、1987年末までに死刑が確定していた人物はわずか3人(菅野村強盗殺人・放火事件女性連続毒殺魔事件ホテル日本閣殺人事件それぞれの死刑囚)で、その他に3人の被告人(夕張保険金殺人事件の加害者や、連合赤軍事件永田洋子ら)が当時上訴中だった[130]が、後者3人はいずれもMより早く死刑が確定している。
  25. ^ 『中日新聞』 (1988) は社説で、「罪を軽くしようとする真犯人が、無実の人を共犯者に仕立てあげる恐れは常にあるし、八海事件のように過去にその実例もある。」と指摘した[142]
  26. ^ どのような選挙の際に、どのような名前の議員を使い、誰から手形などを入手するかについて[158]
  27. ^ a b c 控訴審の途中でMによって弁護人を解任された倉田哲治(東京弁護士会所属)は死刑廃止論者として知られ、死刑執行停止連絡協議会の代理世話人も務めており[161]免田事件土田・日石爆弾事件などで無罪判決を勝ち取った実績があった[162]。倉田は控訴審が始まって以来、死刑廃止論を弁護活動の基本に据えていた[163]が、Mは倉田について「(弁護活動は)情状論が主で、事実関係を争ってくれない」と不満を示していた[162]
  28. ^ 浦崎威は2003年(平成15年)、母校である富山大学からのインタビューに対し、印象に残っている担当事件として本事件を挙げている[168]
  29. ^ 黒田は控訴審係属中の1991年7月、私小説『原審八年の教訓 富山・長野連続誘拐殺人事件』を出し[169]自費出版[170]、2000年には640頁にわたる大冊子『二〇〇〇年改訂版富山・長野連続誘拐殺人事件』を完成させた(非売品)[171]。一方、Mについては捜査段階から弁護人がついていなかったことや、捜査が自白偏重だったことなどから、「死刑にすべきでない」と主張し[172]、上告審判決後には「歴史的には女性は3人殺して死刑になっている」として、M(殺害人数2人)への死刑適用に疑義を呈している[173]
  30. ^ 弁護団による控訴趣意書には、医師の中谷陽二(東京都精神医学総合研究所)が、第一審で(1983年に)実施された精神鑑定の結果が原判決に反映されていないことを問題視し、Mの犯行時の精神状態を精神医学的見地から再検討することを求める内容の意見書を付した[35]
  31. ^ ただし、この時に申請された証人11人のうち2人は、第一審で「証拠価値がない」とされていた[194]
  32. ^ 刑事訴訟法第289条
    1. 死刑又は無期若しくは長期3年を超える懲役若しくは禁錮にあたる事件を審理する場合には、弁護人がなければ開廷することはできない。
    2. 弁護人がなければ開廷することができない場合において、弁護人が出頭しないとき若しくは在廷しなくなったとき、又は弁護人がないときは、裁判長は、職権で弁護人を付さなければならない。
    3. 弁護人がなければ開廷することができない場合において、弁護人が出頭しないおそれがあるときは、裁判所は、職権で弁護人を付することができる。
  33. ^ 同日、濱田裁判長はMに対し「次の弁護人選任が予定されていない段階での弁護人解任は大変遺憾。私選弁護人にするならば、次回公判までに選任するか、選任状況を書面で裁判所に伝えるように」と指示した[197]
  34. ^ 北野側はかねてから公判の分離と早期結審を求めていたが、検察側が反対していた[197]
  35. ^ 結局、第18回公判で検察官の尋問内容に対し、北野の弁護人が「重複している」と異議を申し立て、裁判長がこれを認めたため、検察官は尋問を打ち切った[201]
  36. ^ 小堀秀行・押野毅の両名[17]。金沢弁護士会は25日に2人を推薦依頼し、裁判所が翌26日に選任した[203]
  37. ^ この2人は検察官にとって、北野が富山事件で共謀していたとする間接証拠だった[205]が、不出廷を受け、検察官は2人への質問を放棄し、証拠採用も取り消しになった[206]
  38. ^ 左陪席の秋武憲一は、金沢地裁家裁より補充裁判官として、初公判から審理に参加していた。その後、1991年4月には新たな右陪席裁判官として、大阪地裁から横田勝年判事が新たに着任。判決公判は濱田(裁判長)・横田(右陪席)・秋武(左陪席)の各判事が担当した[208]
  39. ^ その理由は、「裁判所は北野に対する単独公判を続ける一方、『判決の言い渡しは被告人Mと同時』として、迅速かつ公正な裁判憲法第37条)を阻んでいる上、刑事訴訟法第393条の解釈適用を誤り、第一審の証人を再度採用するなど、原判決の事実認定について『予断』を露にしている」として、「不公正な裁判をする虞がある」というものであった[209]が、名古屋高裁本庁は申立却下の理由で「審理の方法・態度への不満といった理由であり、そのような理由で忌避を申し立てるのは許されない」としている[210]
  40. ^ 第一審の証拠評価を争う控訴審で、現場検証が実施されることは異例とされる[212]
  41. ^ Aは母親への電話で、母親から北陸企画の「社長」なる人物の年齢について尋ねられると「34か35(歳)くらい」と答えていたが、実際にその「社長」なる人物に会ったと明確に語ってはいなかった[227]。富山地裁 (1988) はその点や、Mが捜査段階で北野とAが接触した事実を否定していた点を踏まえ、「Aが会ったのは女性 (M) だけで、その女性からの伝聞の話として社長のことが出ていたことも否定できない。なお、社長の年齢について言及していた点についても、当時事務所には、北陸企画の宣伝記事である新聞の切り抜きが額に入れて壁に掛けられていて、右記事には北野の顔写真も載っていたと認められ、前記(Aの母親)証言でも、女性の年齢の際にはAは直ぐに答えたのに対し、社長の年齢についてはだいぶ間をおいてから返答したというのであるから、右新聞切り抜きを見て北野の年齢を推測した可能性を捨象することも困難である。」と指摘している[228]
  42. ^ 弁論期日は当初、同年3月27日に予定されていたが、弁護側の要請によって延期されていた[255]
  43. ^ 死刑制度の合憲性に関する最高裁の判例として、死刑制度を合憲と認めた大法廷判決[1948年(昭和23年)3月12日宣告・昭和22年(れ)第119号/刑集第2巻3号191頁]があるほか、1961年(昭和36年)7月19日の大法廷判決[昭和32年(あ)第2247号/刑集第15巻7号1106頁]がある[257]。後者は、死刑の執行方法を規定した明治6年太政官布告第65条(絞罪器械図式)について、日本国憲法下においても有効である旨を判示した判決である[258]
  44. ^ 弁護人5人(浦部、成田、野田、瀬古賢二)および被告人M自身がそれぞれ判決訂正申立て期間の延長を申し立てたが、いずれも却下された[262][263]
  45. ^ 判決訂正申立棄却決定がMの下に送達された時点[264]
  46. ^ 永山判決以降に確定した身代金目的誘拐殺人事件は本事件以前に7件あり、5件(名古屋女子大生誘拐殺人事件など)で死刑、2件(司ちゃん誘拐殺人事件および甲府信金OL誘拐殺人事件)で無期懲役が確定していたが、いずれも被害者は1人だった[271]

出典

[編集]
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  218. ^ a b 『富山新聞』1991年9月1日朝刊第一社会面27頁「富山・長野連続誘拐 北野被告側が第一部最終弁論要旨を提出 名高裁金沢支部」(北國新聞社富山本社)
  219. ^ 『日本経済新聞』1991年9月1日朝刊35頁「連続誘拐殺人の北野被告、最終弁論要旨を提出」(日本経済新聞社)
  220. ^ 『中日新聞』1991年11月13日朝刊第一社会面31頁「連続女性誘拐殺人 控訴審が結審 名高裁金沢支部 3月31日に判決」(中日新聞社)
  221. ^ 『読売新聞』1991年11月13日東京朝刊第13版富山地方版28頁「連続女性誘拐殺人控訴審結審 共謀の有無が焦点に 「明快な無罪判決を」 北野被告、検察側と対立 M被告側は減刑求める」(読売新聞北陸支社)
  222. ^ a b c 『北日本新聞』1992年4月1日朝刊一面1頁「富山・長野連続誘拐殺人控訴審 北野被告無罪 M被告は死刑 名高裁金沢支部 1審支持、共謀否定 単独犯行と認める M被告きょう上告」(北日本新聞社)
  223. ^ 読売新聞』1992年3月31日東京夕刊第一社会面19頁「連続誘拐殺人事件控訴棄却 北野被告再び無罪 M被告二審も死刑/名古屋高裁」(読売新聞東京本社
  224. ^ 『北日本新聞』1992年4月1日朝刊4頁「解説 『容疑者工作』の新判断 警察・検察に猛省迫る」(北日本新聞社 社会部 吉倉和彦記者)
  225. ^ 判例タイムズ 1993, p. 62.
  226. ^ 判例タイムズ 1993, p. 63.
  227. ^ 判例時報 1988, pp. 50–51.
  228. ^ 判例時報 1988, p. 51.
  229. ^ 判例タイムズ 1993, pp. 63–64.
  230. ^ 判例タイムズ 1993, p. 64.
  231. ^ 判例タイムズ 1993, p. 65.
  232. ^ a b 判例タイムズ 1993, p. 66.
  233. ^ 判例タイムズ 1993, p. 85.
  234. ^ 判例タイムズ 1993, pp. 66–67.
  235. ^ 判例タイムズ 1993, p. 70.
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  237. ^ a b 判例タイムズ 1993, pp. 73–74.
  238. ^ 判例タイムズ 1993, p. 74.
  239. ^ a b 『北日本新聞』1992年4月1日朝刊4頁「富山・長野連続誘拐殺人事件 控訴審判決要旨」(北日本新聞社)
  240. ^ 判例タイムズ 1993, p. 72.
  241. ^ a b 判例タイムズ 1993, p. 73.
  242. ^ 判例タイムズ 1993, p. 133.
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  245. ^ 判例タイムズ 1993, pp. 134–137.
  246. ^ 『中日新聞』1992年4月11日朝刊一面1頁「連続誘拐殺人 北野さんの無罪確定 12年ぶり 名高検が上告断念」(中日新聞社)
  247. ^ 『中日新聞』1992年4月15日朝刊第二社会面26頁「北野さんの無罪確定 連続女性誘拐殺人事件」(中日新聞社)
  248. ^ 『毎日新聞』1992年4月11日大阪朝刊一面1頁「北野さん無罪確定 名古屋高検が上告断念--富山・長野誘拐殺人事件」(毎日新聞大阪本社)
  249. ^ 『中日新聞』1992年4月2日夕刊第一社会面11頁「M弁護団が上告 連続誘拐殺人」(中日新聞社)
  250. ^ 『中日新聞』1992年4月4日朝刊第二社会面30頁「M被告が上告 連続誘拐殺人」(中日新聞社)
  251. ^ 集刑 1998, p. 555.
  252. ^ 『北日本新聞』1994年12月25日朝刊第二社会面24頁「富山・長野連続誘拐殺人事件 M被告弁護団 あす上告趣意書提出 「一、二審は事実誤認」」(北日本新聞社)
  253. ^ 集刑 1998, pp. 557–562.
  254. ^ 集刑 1998, pp. 562–564.
  255. ^ 『毎日新聞』1998年2月24日中部朝刊社会面27頁「最高裁、M被告の弁論を6月に延期--富山・長野の連続女性殺害事件」(毎日新聞中部本社)
  256. ^ 『中日新聞』1998年6月27日朝刊第一社会面35頁「富山・長野連続女性誘拐殺人 弁論開き上告審結審 M被告側 無期への減刑求める」(中日新聞社)
  257. ^ a b 最高裁第二小法廷 1998, p. 1.
  258. ^ 最高裁判所大法廷判決 1961年(昭和36年)7月19日 刑集 第15巻7号1106頁、昭和32年(あ)第2247号、『強盗殺人』「一 明治六年太政官布告第六五号の効力。 二 死刑の宣告は憲法第三一条に違反するか。 三 現在の死刑の執行方法の合憲性。」、“一 明治六年太政官布告第六五号絞罪器械図式は、現在法律と同一の効力を有するものとして有効に存続している。 二 絞首刑たる死刑を宣言することは、憲法第三一条に違反しない。 三 現在の死刑の執行方法が所論のように明治六年太政官布告第六五号の規定どおりに行われていない点があるとしても、それは右抗告で規定した死刑の執行方法の基本的事項に反しているものとは認められず、この一事をもつて憲法第三一条に違反するものとはいえない。”。
  259. ^ 集刑 1998, p. 551.
  260. ^ 最高裁第二小法廷 1998.
  261. ^ a b c d e 北日本新聞』1998年9月5日朝刊一面1頁「M被告の死刑確定 富山・長野連続誘拐殺人事件 最高裁が上告棄却 「両事件とも単独犯行」 発生から18年余」(北日本新聞社)
  262. ^ 最高裁判所刑事裁判書総目次 平成10年9月分 30頁「刑事雑(全)平成10年(す)第194号 身の代金目的拐取、殺人、死体遺棄、拐取者身の代金要求被告事件についてした判決に対する弁護人浦部和子、同成田龍一、同野田房嗣、同瀬古賢二から判決訂正申立て期間延長の申立て 旧姓M FT 1998年9月8日 第二小法廷 却下」
  263. ^ 最高裁判所刑事裁判書総目次 平成10年9月分 31頁「刑事雑(全)平成10年(す)第196号 身の代金目的拐取、殺人、死体遺棄、拐取者身の代金要求被告事件についてした判決に対する被告人から判決訂正申立て期間延長の申立て 旧姓M FT 1998年9月9日 第二小法廷 却下」
  264. ^ a b 東京新聞』1998年10月10日朝刊第一社会面27頁「M被告、死刑確定 富山・長野連続殺人」(中日新聞東京本社
  265. ^ 「判決訂正申立棄却決定 (平成10年)10月7日 第二小法廷 平成10年(み)54号」『最高裁判所刑事裁判書総目次 平成10年10月分』、最高裁判所事務総局、17頁。  - 『最高裁判所裁判集 刑事』(集刑)274号の付録。
  266. ^ 富山地裁 2015, 再審請求の趣意.
  267. ^ 『北日本新聞』1973年3月30日朝刊1頁「富山地裁 ××に無期懲役の判決」(北日本新聞社)
  268. ^ 『北日本新聞』1973年8月31日朝刊19頁「名高裁金沢支部 ××に死刑判決」(北日本新聞社)
  269. ^ 『富山新聞』1973年10月25日朝刊13頁「×× 上告を取り下げる」(北國新聞社富山本社)
  270. ^ 『読売新聞』1998年9月5日東京朝刊一面1頁「富山・長野の連続誘拐殺人 M被告の死刑確定 最高裁が上告棄却」(読売新聞東京本社)
  271. ^ a b 判例タイムズ 1998, p. 114.

参考文献

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