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利用者:Bletilla/第四作業室

プロジェクトYen:Project Y(2021年1月27日、Steago47他)より翻訳)

ロスアラモス研究所
1945年10月16日のロスアラモス牧場学校英語版においてロスアラモス研究所に陸海軍「E」賞英語版を授与する式典でのロバート・オッペンハイマー(左)、レズリー・グローヴス(中央)、ロバート・スプラウル英語版(右)
設立1943年1月1日 (1943-01-01)
研究種類機密組織
予算5788万ドル
研究分野核兵器
理事ロバート・オッペンハイマー
ノリス・ブラッドベリー英語版
所在地アメリカ合衆国、ニューメキシコ州、ロスアラモス
北緯35度52分32秒 西経106度19分27秒 / 北緯35.87556度 西経106.32417度 / 35.87556; -106.32417座標: 北緯35度52分32秒 西経106度19分27秒 / 北緯35.87556度 西経106.32417度 / 35.87556; -106.32417
運営機関
カリフォルニア大学
ロスアラモス科学研究所
Bletilla/第四作業室の位置(ニューメキシコ州内)
Bletilla/第四作業室
Bletilla/第四作業室の位置(アメリカ合衆国内)
Bletilla/第四作業室
所在地ニューメキシコ州ロスアラモス中央通
座標北緯35度52分54秒 西経106度17分54秒 / 北緯35.88167度 西経106.29833度 / 35.88167; -106.29833
建設1943年
建築様式バンガロー・職人、現代運動
NRHP登録番号66000893[1]
NRHP指定日1966年10月15日

プロジェクトYProject Y)としても知られるロスアラモス研究所Los Alamos Laboratory)は、第二次世界大戦マンハッタン計画により設立されカリフォルニア大学が運営した秘密研究所であった。その任務は最初の原子爆弾を設計・製造することであった。ロバート・オッペンハイマーが初代長官で、1943年からノリス・ブラッドベリー英語版に引き継ぐ1945年12月まで務めた。情報漏洩しないようにしながら科学者が自由にその任務について討論できるように研究所はニューメキシコ州の遠隔地にあった。戦時の研究所は、嘗てロスアラモス牧場学校英語版の一角であった建物を利用した。

開発活動は当初Mark 2と呼ばれるプルトニウムを用いたガンバレル型に特化した。1944年4月、ロスアラモス研究所は原子炉で増殖するプルトニウムの自発核分裂の割合がプルトニウム240があるために大きすぎが十分に集まらない内に連鎖反応する不完全核爆発の原因となると判断した。オッペンハイマーはこの時研究所を再編し、ジョン・フォン・ノイマンが二者択一のデザイン(ファットマンと呼ばれる内部崩壊型核兵器英語版)として完全で最終的に成功した活動を組織化した。リトルボーイとして知られる別種のガンバレル型の設計は、ウラン235を用いて開発された。

ロスアラモス研究所の化学者は、ウランとプルトニウムを精製する手法を開発し、後者はプロジェクトYが始まった時は僅かしかなかった金属であった。冶金学者はプルトニウムが予期せぬ量があることを発見したが、それにもかかわらず金属領域に組み込めた。研究所は運用可能な世界で3番目の炉である水性均質炉として沸騰水型を建造した。重水素三重水素核融合反応に点火する核分裂爆弾を用いる水素爆弾スーパーも研究した。

ファットマン型は1945年7月にトリニティ実験として実験が行われた。プロジェクトY要員は日本への原子爆弾投下に向けたピット要員と組み立て班を形成し、爆弾製造班と観測班として爆撃に参加した。戦後研究所はビキニ環礁クロスロード作戦を支援した。サンディア基地英語版に集約された新しいZ部が実験や備蓄、観測活動を管理するために創設された。ロスアラモス研究所は1947年にロスアラモス国立研究所になった。

始まり

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核分裂と原子爆弾

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1938年の化学者オットー・ハーンフリッツ・シュトラスマンによる核分裂の発見が続く1932年のジェームズ・チャドウィックによる中性子の発見と[2][3][4]間もなくの物理学者リーゼ・マイトナーオットー・ロベルト・フリッシュによる爆発(そして命名)は[5][6]ウランを用いた連鎖反応を管理できる可能性を開いた。この時アメリカ合衆国の殆どの科学者は核兵器は実用的でないと考えたが[7]フランクリン・ルーズベルトに警告するアインシュタイン=シラードの手紙の起草に代表されるナチス・ドイツなどのファシスト国からの難民科学者は、ドイツの原子爆弾開発が原子爆弾を開発する可能性を憂慮した。1939年後半に入る頃にアメリカ合衆国で予備調査が開始された[8]

核分裂反応において重い元素の原子核は、中性子が捉えられると2つ以上の軽い元素に分裂する。更に多くの中性子が放たれると、連鎖反応が可能となる。

アメリカ合衆国では進行は遅かったが、イギリスではバーミンガム大学でドイツ出身の二人の難民物理学者オットー・ロベルト・フリッシュとルドルフ・パイエルスが原子爆弾を開発し製造し使用することに関わる理論上の問題を検証した。純粋なウラン235の領域に起こることを検討し、連鎖反応が起こるだけでなく数百トン分のトリニトロトルエンのエネルギーを解き放つのに1キログラム (2.2 lb)のウラン235で十分かも知れないことを見出した。上司のマーク・オリファントは、科学的防空調査委員会英語版(CSSAW)がウラン研究の責任者として委任したのと同様にジョージ・パジェット・トムソンに伝えたCSSAW議長ヘンリー・ティザード英語版卿にフリッシュ・パイエルス覚え書き英語版を渡した[9]。CSSAWは調査の為にMAUD委員会を創設した[10]。1941年7月の最終報告でMAUD委員会は原子爆弾は実現可能なだけでなく1943年中には製造できるかも知れないと結論づけた[11]。対してイギリス政府はチューブ・アロイズとして知られる核兵器計画を起ち上げた[12]

いまだにイギリスが第二次世界大戦で交戦していないのと違いアメリカ合衆国に依然として緊急性は殆どなく、そこでオリファントはアメリカ合衆国に飛び、カリフォルニア大学の友人のアーネスト・ローレンスなどのアメリカの科学者に語りかけた。原子爆弾が実現可能であることを納得させようとしただけでなく技術者のオリファントが1934年に開発の音頭を取った同位体分離英語版の為に巨大な質量分析機に37-インチ (94 cm)のサイクロトロンをローレンスが転換するよう促した[13][14]。同様にローレンスは友人で同僚のロバート・オッペンハイマーに1941年10月21日にニューヨーク州スケネクタディゼネラル・エレクトリック研究所英語版の会合で討論された委員会報告の物理学をダブルチェックさせた[15]

1941年12月、科学研究・開発庁英語版S-1ウラン委員会は、爆弾の設計担当にアーサー・コンプトンを任命した[16][17]。爆弾の設計と中性子の温度英語版(臨界質量と爆発を計算するに当たっての鍵)に関する研究を「高速破裂の責任者」の肩書きを与えられたグレゴリー・ブライトと助手としてオッペンハイマーに委任した。しかしブライトは保安計画に関して冶金研究所で働く他の科学者特にエンリコ・フェルミと共に同意せず[18]、1942年5月18日に辞任した[19]。コンプトンはすると代わりにオッペンハイマーを任命した[20]。冶金研究所の物理学者ジョン・ヘンリー・マンレー英語版が全国に散らばった実験物理学団体と接触し調整することでオッペンハイマーを助けるように選任された[19]イリノイ大学のオッペンハイマーとロバート・サーバーは、中性子が核連鎖反応でどのように動くかという中性子拡散の問題と核反応で起こる爆発がどのように作用するかという流体力学を検証した[21]

爆弾設計に当たっての概念

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核融合反応では軽い物質の核は、重い物質を作るために融合する。

この作業と分裂反応の一般理論を見直すために、オッペンハイマーとフェルミは、理論物理学者のハンス・ベーテジョン・ヴァン・ヴレックエドワード・テラーエミル・コノピンスキ英語版、ロバート・サーバー、スタン・フランケル英語版、エルドレッド・C.ネルソン(後の3人はオッペンハイマーの元学生)、実験物理学者エミリオ・セグレフェリックス・ブロッホフランコ・ラゼッティ、ジョン・マンレー、エドウィン・マクミランと共に6月にシカゴ大学で7月にバークレーのカリフォルニア大学で会議を招集した。原子爆弾が理論的には可能であることを一応確認した[22]

依然として分からない要素は多かった。手元の純粋なウラン235は、相対的に分からず、更に1941年2月にグレン・シーボーグとそのチームにより発見されたばかりの元素だが理論的には核分裂性物質プルトニウムにおいては尚更であった。バークレー会議の科学者は、分裂するウラン235から中性子を吸収するウラン238から原子炉でプルトニウムを増殖することを予想した。この時点で原子炉は建造されておらず、サイクロトロンで製造された極僅かのプルトニウムがあるだけであった[23]

臨界質量に核分裂する物質を組み込む方法は多かった。最も簡単な方法は、「中性子反射体」(内部の中性子に焦点を当て能力を上げる共に反応質量を保つ高密度物質)と共に「活動的な物質」の領域に「円筒形のプラグ」を打ち込むものである[24]回転楕円体リチャード・トルマンが提案した「内部崩壊」の単純な形態、爆発する爆弾の能力を上げる自触媒反応に関わる設計も開拓した[25]

少なくとも経験値が得られるようになるまで理論的に解決される原子爆弾の考えを考慮に入れながら、バークレー会議はそこで異なる方針に転じた。エドワード・テラーは強力な爆弾(重水素三重水素の間で核融合反応を起こさせる原子爆弾を爆発させる破壊力を用いる今日「水素爆弾」と普通呼ばれる「スーパー」)に関する議論を推し進めた[26]。テラーは計画につぐ計画を提案したが、ベーテはそれぞれに反対した。核融合の考えは、原子爆弾を製造するために濃縮するのに使うことになった[27]。テラーは窒素の核の仮想の融合反応の故に原子爆弾が大気を燃やす理論上の可能性も提起したが[28]、ベーテは起こり得ないと判断し[29]、テラーと共同執筆した報告で「核反応の自己増殖する連鎖は始まらないようである」と記した[30]

爆弾研究所に関する概念

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オッペンハイマーの7月会議の巧みな運営は、同僚に感銘を与え、最も困難な人々さえ扱える見識と能力は、良く知る人々にさえ驚きを与えた[31]。会議の冒頭、オッペンハイマーは人々が物理学に真剣に取り組んできたとはいえ重要な作業は依然として原子爆弾製造に当たっての工学や化学、冶金学、軍需に依存していると見ていた。爆弾の製造は人々が自由に問題を討論できる環境が必要であり従って無駄な努力の繰り返しを減らすのに熱心になった。隔離された場所に中央研究所を造ることで情報保護に最も合致できると論じた[32][33]

レズリー・グローヴス准将英語版が1942年9月23日にマンハッタン計画の代表になった[34]。ローレンスのカルトロンを見にバークレーを訪れ、10月8日に爆弾設計に関する報告を提出したオッペンハイマーに会った[35]。グローヴスは別個の爆弾設計研究所を創設するオッペンハイマーの提案に興味を持った。1週間後に再びシカゴで会うと、問題を討論するためにオッペンハイマーを招待した。グローヴスはニューヨーク行きの列車に乗らなければならず、討論を続けるために同行するようオッペンハイマーに頼んだ。グローヴスやオッペンハイマー、ジェームズ・C.マーシャル英語版大佐英語版ケネス・ニコルス中佐英語版は全員どのように爆弾研究所を創設するか、どのように機能させるかを語る単一コンパーメントに割り込んだ[32]。グローヴスは続いてOSRD長官ヴァネヴァー・ブッシュ国防研究委員会(NDRC)議長ジェイムス・コナントと問題を討論するワシントンD.C.にオッペンハイマーに来て貰った。10月19日、グローヴスは爆弾研究所の創設を承認した[33]

オッペンハイマーはプロジェクトYとして知られることになる新しい研究所を監督する論理的な人物と見られたとはいえ、管理経験は殆どなく、ブッシュやコナント、ローレンス、ハロルド・ユーリーは全員この件について不安を口にした[36]。加えて他のプロジェクトリーダーと違い(ローレンス・バークレー国立研究所のローレンスやシカゴの冶金計画のコンプトン、ニューヨークのK-25英語版のユーリー)、有名な科学者と交際する名声がないのではないかとの憂慮を与えるオッペンハイマーは、ノーベル賞がなかった。保安上の憂慮もあり[37]、妻のキティー英語版[38]や女友達のジーン・タトロック英語版[39]、兄弟のフランク英語版、フランクの妻ジャッキーなどオッペンハイマーの身近な関係者の多くは、共産党の現役党員であった[40]。遂にグローヴスは1943年7月20日にオッペンハイマーの嫌疑を晴らす指示を個人的に発した[37]

用地選定

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ニューメキシコ州ロスアラモスの地図(1943年-1945年)

シカゴの冶金研究所かテネシー州オーク・リッジクリントン技術工場英語版にプロジェクトを置く案が検討されたが、最終的に離れた場所が最も良いという結論になった[41]ロサンゼルス周辺の土地は、安全上の理由から除外され、交通の便が悪としてネバダ州リノ周辺の土地は、却下された。オッペンハイマーの要請により対象はオッペンハイマーがサングレ・デ・クリスト山脈に牧場を所有するアルバカーキ周辺に絞られた[42]。気候は温暖で、アルバカーキへの空路と鉄路があり、日本攻撃のためのアメリカ合衆国西海岸から十分距離があり、人口密度は低かった[41]

1942年10月、マンハッタン管区(マンハッタン計画の軍事領域)のジョン・H.ダドリー英語版少佐は、ギャロップ英語版ラスベガス、ラヴェンタナ、ジェメススプリングス英語版オトウィ英語版周辺の土地を調査し[43]、ジェメススプリングス近くの土地が良いとした[41]。11月16日、オッペンハイマーとグローヴズ、ダドリーらはこの場所に向かった。オッペンハイマーは技術者が洪水が起こる可能性を心配する一方で高い崖が人々に閉所恐怖を感じさせることを恐れた。一行はその際ロスアラモス牧場学校英語版付近のオトウィに移動した。計画のために働く人々に活力を与える(と望む)サングレ・デ・クリスト山脈の自然美と眺めを引き合いに出してオッペンハイマーは感動し強い好意を示した[44][45]。技術者は貧弱な交通網と水の供給が十分なのか心配したが、その他の点においては理想的な場所だと感じた[46]

連邦政府が既に所有している8,900エーカー (3,600 ha)を除く全てである54,000エーカー (22,000 ha)の土地の取得に44万ドルを支出することを認可しながら、アメリカ合衆国戦争省次官英語版ロバート・ポーター・パターソンは1942年11月25日に用地取得を承認した[47]クロード・レイモンド・ウィッカードアメリカ合衆国農務長官は「軍事上の必要性が続く限り」約45,100エーカー (18,300 ha)のアメリカ合衆国国家森林局英語版の土地の使用を戦争省に承諾した[48]。新しい道路用の用地の必要性や後には25-マイル (40 km)の送電線用地の権利の必要性は、結局45,737エーカー (18,509.1 ha)の戦争用地の取得に繋がったが、最終的に414971ドルが使われただけであった[47]。大きなところでは35万ドルを費やした学校や2万5000ドルを費やしたアンカーランチがあった[49]。共に政府との合意事項を交渉するために弁護士を雇ったが、ヒスパニック系の代表は、1エーカーあたりわずか7ドルを支払われただけであった(2023年時点の$123と同等)[50]放牧用先取権英語版は取り消され、私有地は買い取られるか1941年の戦時電力法英語版の権限を行使する土地収用により収容された[51]。土地収用反対の請願は、全ての鉱物や水、材木などの権利を包括するよう文書化され、その為にこの地域に入る理由は全くなくなった[52]。用地はバンデリア国立記念物英語版と先住民の神聖な埋葬地に隣接するために不揃いな形を手に入れた[51]

建設

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用地獲得に関する重要な問題点は、ロスアラモス牧場学校の存在であった。ここには46,626平方フィート (4,331.7 m2)の収容能力のある家や寮などの地域が27ある54棟があった。他の建物には全部で29,560平方フィート (2,746 m2)の製材工場英語版氷室納屋、木工所、厩舎車庫があった。近くのアンカーランチには家が4棟と納屋があった[53]。建設作業はマンハッタン技術管区が担当した1944年3月15日までアルバカーキ技術管区が管轄した[51]ニューメキシコ州サンタフェウィラード・C.クルーガー英語版は、建築と技術を担当した。ブラック&ヴィーチ英語版は1945年12月に公共施設の設計に動員された。前者は743706.68ドルが支払われ、後者は1946年末にマンハッタン計画が終わるまでに164116ドルが支払われた[54]。アルバカーキ管区はロスアラモスの930万ドルの建設を請け負い、もう一つのマンハッタン管区は、3040万ドルの建設を請け負った[51]。当初の作業は、1942年12月に始まった作業と共にツーソンのM.M.サント社と契約した。グローヴスは当初1943年3月15日に完成させる計画で建設にオッペンハイマーの想定の3倍の30万ドルを割り当てた。プロジェクトYの範囲が予定より広いことが間もなく明らかになり、サントが1943年11月30日に完了するまでに700万ドルを超える金額が費やされた[55]。ジア社が1946年4月に維持管理を担当することになった[56]

ロスアラモスの4家族用アパート

オッペンハイマーは当初作業は科学者50人と技術者50人で行えると見積もった。グローヴスはこの数を300人に3倍とした[55]。家族を含めて実際の人口は、1943年末までに約3500人、1944年末までに5700人、1945年末までに8200人、1946年の閉鎖までに10000人であった[57]。殆どの望ましい収容設備は、嘗て校長やロスアラモス牧場学校の教員の住宅であった現存するログハウスと石造のコテージであった。バスタブのあるロスアラモス唯一の住居で、「バスタブ通り」として知られることになった[55][58]。オッペンハイマーはバスタブ通りに暮らし、隣人は軍需品及び技術部部長ウィリアム・スターリング・パーソンズ英語版大佐英語版であった[59]。パーソンズには子供が二人いてオッペンハイマーはこの時点で独身であったためにパーソンズの家の方がいささか広かった[60]。バスタブ通りの次に最も望ましい収容設備は、サントが建てたアパートであった。典型的な二階建てビルが4家族を収容した。サントのアパートはそれぞれ2-3室の寝室、不安定な黒炭ストーブのある台所、小さな浴室があった。J.E.モーガン&サンズは「モーガンビル」として知られることになる組み立て式の住居56棟を供給した。ロバート・E.マッキー社は「マッキービル」として知られる町の一部を建造した[55]。1943年6月から10月にかけて、1944年6月から7月に再び人口は収容可能人数を上回り人々は一時的にフリジョールスキャニオンに収容された[61]。CEWとHEWの住居は、標準的だがロスアラモスの住居より高水準の住居であったが(ニコルスが具体的に挙げるように)、ニコルスはロスアラモスの科学者にグローヴスの問題があった家は二コルスにはなかったと語った[62]

賃貸料は賃借人の収入に応じて決められた[63]。ロスアラモスを一時的に訪問する人は、嘗てロスアラモス牧場学校の一部であったフラーロッジ英語版かゲストコテージ、ビッグハウスに宿泊した[64]。小学校と中・高等学校に対応する学校は、1943年に創立され、140人の子供が入学し、1946年までに350人が入学した。働く母親のための保育園であったために教育は無料であった[65]。小学校教諭18名と中・高等学校教諭13名、校長を擁して、素晴らしい教員:学生の比率を享受した[66]。沢山の技術棟が建設された。殆どは石膏ボードを用いた半永久的なものであった。セントラルヒーティング設備から熱を供給された。当初これは二つの石炭を動力とする蒸気発生機英語版のある第1ボイラーハウスであった。石油を燃料とした蒸気発生機6機のある第2ボイラーハウスに置き換わった。ロスアラモスの主要な用地に加えて中心から離れた土地約25か所が実験作業用に開発された[67]

ロスアラモスの技術区域。研究所全体を囲む防御柵があったが、技術区域周辺にもここで見られる内部の柵があった。

町の成長は、下水処理をしのぎ[67]、1945年までに停電があった。日中と午後7時から10時の間は消灯しなければならなかった。水も不足した。1945年の秋に消費量は1日あたり585,000米ガロン (2,210,000 l)であったが、水は475,000米ガロン (1,800,000 l)供給できたに過ぎない。12月19日、1943年に時間を稼ぐために地表に設置した水道管が完全に供給が止まって凍結した。住民は1日あたり300,000米ガロン (1,100,000 l)を運ぶ給水車15両から水を受け取らなければならなかった[68]。名称は秘匿されたので、ロスアラモスは「Y用地」とされ、住民には「丘」として知られた[69]。国有地に住んだので、州に所得税を支払う必要はなかったが、ニューメキシコ州ではロスアラモスの住民に選挙権はなかった[70][71]。ロスアラモスの住民が1949年6月10日にニューメキシコ州のれっきとした市民になる前に時間の掛かる一連の法的な戦いがあった[72]。戦時中にロスアラモスで生まれた子供の誕生証明は、誕生地はサンタフェの私書箱1663号とされた。手紙や小包は全てこの住所を通じて来た[73]

当初ロスアラモスは軍が管轄するオッペンハイマーなどの研究者のいる軍事研究所であることとなっていた。オッペンハイマーは自ら中佐の制服を着るところまで行ったが、二人の主要な物理学者ロバート・べーチャー英語版イジドール・イザーク・ラービは、躊躇した。コナントやグローヴス、オッペンハイマーは、その際研究所がカリフォルニア大学により運営されていることによって妥協することを考えた[74]。財務活動や調達活動は、1943年1月1日のOSRDの意思の手紙英語版に基づいてカリフォルニア大学が担当していた。これは1月1日に遡って1943年4月20日にマンハッタン軍管区との正式契約に取って代わった。財務活動は住民経済官J.A.D.マンシーが管轄した[75]。決定は最終的に爆弾を組み立てる時期が来たら軍事化するというものであったが、危険な任務に従事する文民について想定される困難が生じた程に[75]この時までにロスアラモス研究所は非現実的かつ不必要と看做されるほどに拡大していた[36]

組織

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軍部

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ジョン・M.ハーマン大佐がロスアラモスの初代司令官であった。1943年1月19日に中佐としてサンタフェの事務所に参加し、2月15日に大佐に昇進した[76]。ロスアラモスは正式に1943年4月1日に軍事部門となり、4月19日にロスアラモスに異動した[76][77]。1943年5月にロスアラモス牧場学校卒業生[78]C.ホイットニー・アッシュブリッジ中佐が引き継いだ。続いてアッシュブリッジの後任は、1944年10月にジェラルド・R.タイラー中佐が[76][79]、1945年11月にライル・E.シーマン大佐が、1946年9月にハーブ・C.ジー大佐がなった[76]。司令官は直接グローヴスに答申できる立場で、管区や国有地、軍の人事を担当した[80]

ロスアラモスの正門

役職が割り当てられたのは、軍部の4部であった。第4817軍務司令部として憲兵派遣隊が1943年4月にフォートライリー英語版から到着した。当初の兵力は、将校7名と下士官196名であったが、1946年12月までに将校9名に下士官486名となり、1日24時間衛兵44名を配置していた[81]。第4817軍務司令部として暫定技術派遣隊(PED)が1943年4月10日にクレイボーン英語版で活動態勢になった。この部隊はボイラープラントやモータープール、大食堂で勤務するような立場の仕事を担当した。建物や道路の維持管理も担当した。最大兵力は465名で、1946年7月1日に解散した[82]

第1暫定婦人陸軍予備部隊(WAAC)派遣隊が1943年4月17日にフォートシル英語版で活動態勢になった。当初の兵力は、僅かに将校1名に補助員7名であった。WAACは1943年8月24に婦人陸軍部隊(WAC)になり、派遣部隊は兵力が将校2名に下士官43名の第4817軍務司令部の一部となった。アッシュブリッジによるアメリカ合衆国陸軍に属することを宣誓した。最大兵力は1945年8月の約260名であった。WACはPEDよりも広範な任務を担当し、他の人が司書や事務官、病院技師として勤務する一方で、一部は料理人や運転士、電話交換手になった。一部は技術区域で高度に専門化した科学研究に従事した[82]

特別技術派遣隊英語版(SED)が1943年10月に第9812工兵部の一部として活動態勢になった。技術に関する資格を有する者や高等教育を受けた者で構成され、殆どは現存しない陸軍特別訓練計画英語版を受けた者であった[82]。戦争省の政策は、22歳以下の男性に徴兵を延期することを禁じたために、SEDに宣誓した[83]。最大兵力は1945年8月の1823名であった。SED隊員はロスアラモス研究所のあらゆる分野で働いた[82]

文官

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技術区域のA棟とB棟を繋ぐ通路

ロスアラモス研究所代表としてオッペンハイマーは最早コンプトンに答申することはなく、直接グローヴスに報告した[77]。プロジェクトYの技術分野と科学分野を担当した[80]。中性子予測で働いていたグループからスタッフの核を集めた[84]。ここには秘書のプリシラ・ダフィールド英語版[85]自分のグループのサーバーとマクミラン、カリフォルニア大学のエミリオ・セグレとジョゼフ・W.ケネディー英語版ミネソタ大学ツインシティー校ジョン・ハリー・ウィリアムズ英語版のグループ、ウィスコンシン大学マディソン校ジョゼフ・ローズ・マッキベン英語版のグループ、スタンフォード大学のフェリックス・ブロックのグループ、パデュー大学マーシャル・ハロウェイ英語版のグループがあった。マサチューセッツ工科大学MIT放射線研究所英語版のハンス・ベーテとロバート・べーチャー、エドワード・テラー、ロバート・F.クリスティー英語版ダロル・フロマン英語版、マンハッタン計画の冶金研究所のアルヴィン・C.グレーヴス英語版とジョン・H.マンリーとそのグループ、リチャード・P・ファインマンを含むプリンストン大学でマンハッタン計画研究を実行していたロバート・ラスバン・ウィルソンとそのグループがあった。大量の貴重な科学的機材をもたらした。ウィルソンのグループは、ハーバード大学のサイクロトロンを分解し、ロスアラモスに運び、マッキベンのグループは、ウィスコンシンからヴァンデグラフ起電機2台をもたらし、マンリーのグループは、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校からコッククロフト・ウォルトン回路をもたらした[84]

外部との連絡は、陸軍の電話線5本に置き換えられる1943年4月まで単一のフォレストサービス線を通じて行った[86]。この線は1945年3月に8本に増加した[87]。符号機付きのテレタイプ端末3台もあった。1台目は1943年3月に設置され、他の2台は、1943年5月に追加された。1台は1945年11月に取り除かれた[87]。事務所に電話があったが、陸軍が保安上の問題と看做したために居住者用の物はなかった。緊急用に群区に公衆電話があった。通信が盗聴されるのを防ぐ手段がなかったので、機密情報は電話で話すことができなかった。十分なWACが丸一日交換手として配置されるまで当初電話は勤務時間だけ使用可能であった[88]

1944年にロスアラモスのオッペンハイマーの家でイジドール・イザーク・ラービドロシー・マッキビン英語版ロバート・オッペンハイマーヴィクター・ワイスコフ

労働の不足や地元の労働者に委ねることへの保安上の憂慮からロスアラモスの女性は労働が奨励された。科学者の妻約60人が1943年9月までに技術区域で働いた。研究所や病院、学校で働く670人の内の200人が1944年10月には女性であった。大半の女性は管理部門で働いたが、リリ・ホーニグ英語版[89]ジェーン・ハミルトン・ホール英語版[90]、ペギー・ティタートンのような多くの女性は、科学者や技術者として働いた[91]シャーロット・サーバー英語版はA-5(図書館)グループを率いた[92]。大人数の女性がT-5(計算)グループで計算に関わった[89]ドロシー・マッキビン英語版は1943年3月27日に東パレス通り109に開設したサンタフェ事務所を運営した[93]

ロスアラモス研究所には運営理事会があり、理事はオッペンハイマー、べーチャー、ベーテ、ケネディー、D.L.ヒューズ(人事担当理事)、D.P.ミッチェル(調達担当理事)、ディーク・パーソンズであった。マクミラン、ジョージ・キスチャコフスキー英語版ケネス・ベインブリッジが後に追加された[94]。研究所は管理部(A)、ベーテの理論部(T)、べーチャーの実証物理部(P)、ケネディーの化学及び冶金部(CM)、パーソンズの軍需品及び技術部(E)の5部に組織された[95][96]。5部全てが1943年から1944年にかけて拡張したが、E部が最大の部に成長した一方で、T部は三倍になりながら最小のままであった。機密委任の許可は問題であった。科学者は(第一にオッペンハイマーを含む)適切な許可を受けずに技術区域に入らなければならなかった。能率の重要性からグローヴスはオッペンハイマーが上級の科学者であると保障することで手続きを短縮することに賛成し、他の3人は下級の科学者または技術者と保障することで足りるとした[97]

ロスアラモス研究所はジェームズ・チャドウィックの下でイギリスの使節英語版により強化された。第一陣はオットー・フリッシュとアーネスト・ティタートン英語版で、後にニールス・ボーアと息子のオーゲ・ニールス・ボーアレイリー・テイラー不安定性の理解で大いに貢献した流体力学の専門家ジョフリー・テイラーらが到着した[98]。異なる密度の二つの流体間の界面におけるこの不安定性は、軽い流体が重い流体を押すと起こり[99]、爆発の効果を予測する爆発物や調節済中性子起爆剤英語版の設計、原子爆弾自体の設計を伴う実験の解釈にとって不可欠であった。チャドウィックは数か月だけ留まり、イギリスの使節の代表は、ルドルフ・ペイアーズが引き継いだ。グローヴスが好んだ原案は、チャドウィックのグループに仕事を外注するイギリスの科学者がグループとして働くというものであった。この案は暫くしてイギリスの使節が完全に研究所に統合されたために放棄された。プルトニウム化学や冶金を除いて殆どの分野で働いた[100][98]。マクマホン法として知られる1946年の原子力エネルギー法英語版の可決でイギリス政府の職員は全員出国しなければならなくなった。特別な免除を承諾されたティタートンを除いて全員が1946年末までに出国し、ティタートンは1947年4月12日まで残った。イギリスの使節は、同氏が出国して完了した[101]

ガンバレル型兵器設計

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調査

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ロスアラモス技術区域
印の付いた建物のある技術区域の写真。無作為に散在しているようである。アシュリー池とフューラーロッジが背景にある。
技術区域の地図

1943年、開発の動きは、Mark 2と呼ばれるプルトニウムを用いたガンバレル型に向かった[102][103]ファットマン、Mark 2、リトルボーイというこの3つの原子爆弾全ての設計における命名は、形状に基づきサーバーにより選ばれた。Mark 2は長い爆弾で、その名前はダシール・ハメット探偵小説英語版影なき男に由来する。ファットマンは球形で太った形で、マルタの鷹シドニー・グリーンストリート英語版扮する「カスパー・ガッツマン」にちなんでいる。リトルボーイは最後にハンフリー・ボガートにより委ねられた同名の映画のエリシャ・クック・Jrの配役にちなんでいる[104]

1943年4月と5月の一連の会議は、6月以降の研究所の計画を明確にした。オッペンハイマーはスタン・フランケルとE.C.ネルソンによりバークレーで見出された拡散理論を基に公式のあるウラン235の臨界量を見積もった。ここから25kgの完全な改変を行ったウラン235の価値が与えられたが、これは近似値に過ぎなかった。特に中性子は全て同じ速度であり衝突は全て弾性であり等方に散乱し核と改変における中性子の平均自由行程が同じという単純化した前提に基づいた。ベーテのT部、特にサーバーのT2(拡散理論)グループとフェイマンのT4(拡散理論)グループは、次の数か月を改善したモデルについて作業することに費やすことになる[105][106]。ベーテとフェイマンも、反応の能率化に向けた公式を開発した[107]

公式はそこで得られる値より正確であることはできず、断面積で得られる値は疑わしく、プルトニウムとしてはまだはっきりしていなかった。この値の測定法は、優先事項となるものであったが、研究所は僅かに1グラムのウラン235しか所有しておらず、プルトニウムは僅かに数マイクログラムしか所有していなかった[105]。この任務はベーチャーのP部に割り振られた。ウィリアムズのP-2(発電機)グループは、ウラン235に対してプルトニウムの核分裂毎の中性子の割合を計測する大きい方のファンデグラーフ発電機2基を用いた1943年7月に最初の実験を行った[108]。このことは1943年7月10日にロスアラモスで受け取ったプルトニウム165μgを得ようと冶金研究所と行った交渉と関係があった。ベーチャーはプルトニウム239の核分裂毎の中性子の数がウラン235の約1.2倍の2.64±0.2であったと報告できた[109]。ウィルソンのP-2(サイクロトロン)グループのティタートンとボイス・マクダニエル英語版は、核分裂する際にウラン235から放たれるプロンプト中性子英語版に要する時間を計測しようとした[110]。殆どが1ナノ秒以下で放出されることを算出した。次の実験は、核分裂も4ナノ秒以下で起こることを示した。核分裂毎に放出される中性子の数が中性子が遅かれ早かれ同じであるとする理論家の主張の確認は、更に時間が掛かり、完了したのは1944年8月であった[108]

ジョン・フォン・ノイマンは1943年9月にロスアラモス研究所を訪れ、原子爆弾が与える損失に関する討論に参加した。小さな爆発で起きる損失が力積(継続する爆発時間の平均圧力)に比例する一方で原子爆弾のような大きな爆発による損失はエネルギーの立方根により異なる最大の圧力に左右されると説明した。ベーテはその際10 TNT換算キロトン (42 TJ)の爆発で3.5 kilometers (2.2 mi)で0.1標準気圧 (10 kPa)押し上げ従ってその範囲で深刻な損失を与えると算出した。フォン・ノイマンも衝撃波が固い物質に反射する際に圧力が増すので損失を与える範囲に爆弾が爆発するなら約1 - 2 kilometers (3,300 - 6,600 ft)で損失は増すことを示唆した[107][111]

開発

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パーソンズはブッシュとコナントの要請により1943年6月に兵器及び技術部部長に任命された[112]。部に配置するために銃開発の調整役であったトルマンがアメリカ国立標準技術研究所のジョン・スタイブやチャールズ・クリッチフィールド英語版セス・ネッダーマイヤーを連れて来た[113]。部は当初初めのグループ長がE-1(実験場)グループのマクミランやE-2(運転器具)グループのケネス・ベインブリッジ、E-3(ヒューズ開発)グループのロバート・ブロード英語版、E-4(発射体、目標、発射口)グループのクリッチフィールド、E-5(内部崩壊)グループのネッダーマイヤーである5グループで組織された。ノーマン・ラムゼーのE-7(輸送)グループとジョゼフ・O.ハーシュフェルダー英語版のE-8(内部弾道学)グループの2グループが1943年秋に加わった[112]

Long, tube-like casings. In the background are several ovoid casings and a tow truck.
Mark 2の外装の列。ファットマンの外装が背景に見える。移動用牽引トラックが第216陸軍航空隊基地部隊英語版により使われた。

実験場はアンカーランチに作られた。銃は非日常的な物になるもので、決定的な質量についての決定的なデータがない状況で設計しなければならなかった。設計基準は銃には3,000フィート毎秒 (910 m/s)の発射速度があり管はそのエネルギーで管に在来型の5ショートトン (4.5 t)の代わりにたった1ショートトン (0.91 t)の重さがあり結果として合金製の鋼鉄で作られ75,000ポンド毎平方インチ (520,000 kPa)の最大銃尾圧力があり3つの独立した雷管装着器英語版を持つべきものとした。ただ一回発射する必要があるために銃身は在来型の銃より軽く作れた。あるいはライフリングや跳ね返り装置は必要なかった。圧力曲線はロスアラモス研究所に参加するのに先立ち地球物理学研究所でハーシュフェルダーの監督の下で計算された[114]

ワシントン海軍工廠で組み立てられる銃を待つ間、様々な発射火薬が試験された。ハーシュフェルダーは発射火薬と点火装置を試験するペンシルベニア州ブルーストン英語版鉱山局英語版実験鉱山英語版にジョン・L.マジーを送った[115]。試験発射は3-インチ (76 mm)/50弾径銃でアンカーランチで行われた。これは試験用機械一式を微調整するものであった。最初の管2本が1944年3月10日にロスアラモスに届き、試験発射はバージニア州ダールグレン英語版海軍実験場でこのような仕事に経験のあるトーマス・H.オルムステッドの監督の下アンカーランチで始まった。雷管装着器が試され、80,000ポンド毎平方インチ (550,000 kPa)に圧力を上げることで機能することが見出された。ブロードのグループは、電波高度計近接信管高度計信管を試しながら信管機能を調査した[116]

試験はAYDとして知られる周波数変調型レーダー高度計や718として知られる波動型で行われた。AYD修正はOSRD契約に基づきノーデン研究所会社により行われた。718の製作者RCAが契約すると、後にアーチーと綽名されるレーダー高度計として使えるように改造された新しい後部警報レーダー英語版モニカ英語版がすぐに製作に取り掛かった。三番目の部品は、1944年4月にロスアラモスに移送された。5月にAT-11を投下することで試験が行われた。これは6月と7月の実物大投下試験に引き継がれた。AYDが問題のあおりを受け続ける一方でこちらは非常に成功した。1944年8月の部品の不足で全面的な破壊試験が不可能になったが、従ってアーチーが採用された[116]。Mark2を搭載したシルバープレートB-29の試験が1944年3月と6月にエドワーズ空軍基地で行われた[117]

プルトニウム

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1942年11月14日のS-1幹部委員会の会議でチャドウィックは同様にプルトニウム内で分裂を引き起こし核が十分に集まる前の連鎖反応である事前爆発の原因となるプルトニウムにより放たれたアルファ粒子が不純物として現れる軽い成分の中に中性子を作れる恐れを表明した。このことはオッペンハイマーとシーボーグにより1か月前に考えられていて、後者はホウ素のような中性子放出原子を1億分の1に制限しなければならないと計算していた。化学過程がこの水準の純度を保証できる開発ができるか疑問があり、チャドウィックは更に考慮するS-1幹部委員会の注意にこの物質を提供した。しかし4日後にローレンスとオッペンハイマー、コンプトン、マクミランは厳格な純度要求は合致できる自信があるとコナントに報告した[118]

電気精製したプルトニウムの輪。純度は99.96%で重さは5.3kg、直径約11cmである。1個の原爆の核を作るのに十分なプルトニウムである。輪の形は、臨界に達しないようにするのに与っている。

唯一の極僅かなプルトニウムは、クリントン技術作業所のX-10黒鉛炉英語版が1943年11月4日につながるまで手に入ったが[119][120]、既に憂慮すべき兆候があった。フッ化プルトニウム英語版が冶金研究所で製造されると、化学過程は同じであったが、時に明るい色であり、時に暗かった。1943年11月にプルトニウム金属に変形させようとすると、密度は15g/cm3を示し、X線散乱技術英語版を用いた計測では13g/cm3を示した。これは酷く、密度はウランと同じ約19g/cm3と推定されていた。この指標が正しければ、遥かに多くのプルトニウムが原爆に必要となる。ケネディーはシーボーグの野心的で注意をひこうとする態度を嫌がり、アーサー・ウォール英語版とシーボーグのグループとは独立してプルトニウム精製のための手法を考案した。2月に標本を手に入れると、この手法が試された。この月に冶金研究所は明るい色の四フッ化プルトニウム(PuF4)と暗い三フッ化プルトニウム(PuF3)の2つの異なるフッ化物があることを発見したと発表した。化学者は暫くして入念に選んで作る方法を発見し、前者は金属に改造しやすくなった。1944年3月の計測で密度は19-20g/cm3を示した[121]

エリック・ジェットのCM-8(プルトニウム冶金)グループは、グラム単位の量を1944年3月にロスアラモス研究所で受け取るとプルトニウム金属の実験を始めた。温めることで冶金学者は温度の上昇がなく突然熱を吸収し始める137 - 580 °C (279 - 1,076 °F)の5つの温度を発見した。このことは複数のプルトニウムの同素体の強い兆候であったが、当初は事実とするには奇怪過ぎるとみなされた。更に試験することで135 °C (275 °F)付近の状況変化を確認し、16g/cm3でδ領域に入った。シーボーグはウランの場合について950 - 1,000 °C (1,740 - 1,830 °F)付近の溶融点がプルトニウムにあると主張していたが、ロスアラモス研究所の冶金学者は、暫くして約635 °C (1,175 °F)で溶融することを発見した。当時の化学者は、プルトニウムから軽い不純物を取り除く技術に向かったが、1944年7月14日にオッペンハイマーはケネディーにこれは最早必要ないと伝えた[122]

A graph showing change in density with increasing temperature upon sequential phase transitions between alpha, beta, gamma, delta, delta' and epsilon phases
プルトニウムには周囲の圧力によりアルファ(α)、ベータ(β)、ガンマ(γ)、デルタ(δ)、デルタダッシュ(δ')、イプシロン(ε)の6つの同素体がある[123]

自発核分裂の概念は、1939年の核分裂体系の扱いでニールス・ボーアやジョン・ホイーラーにより提起されていた[124]。ウランで自発核分裂を発見する最初の試みは、ウィラード・リビーにより行われたが、発見に失敗した[125]。イギリスでフリッシュとティタートンにより観察され、独立して1940年にゲオルギー・フリョロフコンスタンティン・ペトルジャック英語版によりソビエト連邦で観測され、後者は一般に発見の功績が認められている[126][127]。コンプトンもフランス人物理学者ピエール・オージェからフレデリック・ジョリオ=キュリーポロニウムの自発核分裂の可能性を発見したと聞いた。本当なら中性子起爆剤のポロニウムの使用を不可能にするかもしれず、プルトニウムで本当ならガンバレル型の設計は使えないことを意味する可能性があった。ロスアラモス研究所での合意は、本当ではなく、ジョリオ=キュリーの結果は不純物で歪められたというものであった[128]

ロスアラモス研究所ではエミリオ・セグレのP-5(放射能)グループがウラン234やウラン235、ウラン238、プルトニウム、ポロニウム、プロトアクチニウムトリウム内のものを計測する試みをした[129]。プルトニウム自体についてはそれほど憂慮せず、主な関心は、チャドウィックが軽い不純物との相互作用について提起した問題であった。セグレと若い物理学者のグループは、ロスアラモス研究所の他の研究で生じる背景輻射を最小化するために技術区画から約14マイル (23 km)のパハリトキャニオンの古いフォレストサービス小屋での実験を準備した[130]

1943年8月までに手元の唯一のサンプルがバークレーの60インチサイクロトロンで作られた20μgのサンプル5つであったために正確に十分計測できないプルトニウムを除いて試験した全成分で良い成果を上げた[131]。海抜7,300フィート (2,200 m)のロスアラモスの方が多い宇宙線に帰するロスアラモスで行った計測がバークレーで行った計測よりも多いことに気づいた[132]。この計測は高いが容認できるグラム当たり1時間当たり40回の分裂の内の自発的な分裂率を示した一方で誤差は容認しがたいほどに大きかった。1944年4月にX-10黒鉛原子炉からサンプルを受け取った。試験は暫くして容認しがたいほどに高いグラム当たり1時間当たり180回の分裂を示した。コンプトンに伝える任務が明らかに動揺するベーチャーに与えられた[133]。疑いは中性子を吸収するプルトニウム239の核で簡単に作られるまだ発見されていないが存在は疑われていた同位体プルトニウム240に投げかけられた。疑われていないものは、高い自発的な分裂率であった。セグレのグループは、プルトニウム239を使ってグラム当たり1時間当たり40回の分裂と比べてグラム当たり1時間当たり160万回の分裂で計測した[134]。このことは原子炉で生成したプルトニウムがガンバレル型で使うのに適していないことを示していた。プルトニウム240は十分なプルトニウムが反応する前に臨界量を分散させる十分なエネルギーを解き放つ前爆発を引き起こして早過ぎる動きで連鎖反応を開始した。早い銃が提案されたが実用的でないことが分かった。その為にウラン238からウラン235を分けるよりもプルトニウム240をプルトニウム239から分ける方が大変なので同位体を分ける可能性も同様であった[135]

内部崩壊型兵器設計

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爆薬レンズが内部崩壊型核兵器内部の核分裂する核を圧縮するのに使われている。

内部崩壊として知られる爆弾設計の代わりの方法についての作業は、ネッダーマイヤーのE-5(内部崩壊)グループにより始められていた。サーバーとトルマンは、臨界量を形成する核分裂する物質の部品を組み立てる手法として1943年の会議で内部崩壊を共に考え出していた。固形のバーに空洞のシリンダーをぶつけることを意図しながらネッダーマイヤーは異なる方針を採用した[136]。この考えは小さく密集した型に核分裂する物質の準臨界状態の総体をぶつけて爆発させるものであった。核分裂する原子が共に近接して詰め込まれると、捕えられる中性子の割合が増え、臨界量を形成した。金属は非常に短い距離を移動する必要があり、その為に臨界量はガンバレルの手法で行うより短い時間で組み立てられる[137]。当時この方法で爆発させる考えは、全く奇抜なものであった。作業を促進するために小さな施設が爆発の形を描くためにアンカーランチに作られた[136]

1943年を通じて内部崩壊はある理由でガンバレル型が非現実的であると証明された場合の代替計画とみなされた[138]。ベーテやオッペンハイマー、テラーのような理論物理学者は、核分裂物質を能率的に使用する原子爆弾の設計思想に興味を持ち、低い純度の物質を使用することを許した。このことはグローヴスに特定の魅力を与えるのに好都合であった。しかし内部崩壊に関するネッダーマイヤーの1943年と1944年前半の研究が期待を示した一方で問題がガンバレル型の設計より理論的・技術的観点から困難であることは明らかであった。1943年7月、オッペンハイマーはジョン・フォン・ノイマンの助力を求め「この多少バック・ロジャーズ英語版的事業の良案」が得られるロスアラモスを訪れるよう提案する手紙を書いた[139]

当時フォン・ノイマンは海軍軍需品局英語版やプリンストン大学、陸軍のアバディーン性能試験場、NDRCで働いていた。オッペンハイマーやグローヴズ、パーソンズは、トルマンとウィリアム・P・パーネル英語版海軍少将英語版にフォン・ノイマンを手放すよう要請した。フォン・ノイマンは1943年9月20日から10月4日までロス・アラモスを訪れた。装甲貫徹砲弾を用いた爆風成型炸薬に関する最近の研究を活かしながら、球形の核を内部崩壊する高性能成形炸薬を使うことを提案した。9月23日の運営理事会の会合は、ロス・アラモス研究所に参加するようOSRDで当時働いていた爆弾の有名な専門家ジョージ・キスチャコフスキと交渉を始めることを決議した[140]。不承不承だったが、11月に受け入れた。1944年2月16日に常勤の職員になり、パーソンズの爆弾に関する補佐官になり、マクミランはガンタイプについてキスチャコフスキの補佐官になった。この時爆弾は最も大きくてB-29の5-by-12-フート (1.5 by 3.7 m)の爆弾搭載室の大きさから決定された[141]

Diagram showing fast explosive, slow explosive, uranium tamper, plutonium core and neutron initiator.
内部崩壊型核爆弾。中央に調整済み中性子起爆剤英語版(赤)がある。プルトニウム半球体で覆われている。小さな空気のずれが(白、当初のファットマンの設計にはなかった)あり、この時はウランが破壊する。その周りにはアルミニウム推進器がある(紫色)。これは爆破レンズに包まれている(金色)。色は反対側の図でも同じである。

1944年7月までにオッペンハイマーはプルトニウムがガンタイプに使えないと結論を下し、内部崩壊型に使うことを決めた。暗号名をファットマンとした内部崩壊型設計に関する加速する活動は、オッペンハイマーが内部崩壊に焦点を当てたロスアラモス研究所の全面的な再組織化に取り組んだ1944年8月に始まった[142]。キスチャコフスキを部長とする(爆発物担当の)X部とロバート・バッヒャーが部長の(機械装置担当の)G部という二つの新しい部門が内部崩壊型兵器を開発するためにロス・アラモスに作られた[143][144]。テラーは(内部崩壊とスーパー担当の)T-1グループの代表であったが、ベーテはベーテとオッペンハイマーから低い優先順位を与えられたスーパーに時間を掛けすぎるとみなした。1944年6月、オッペンハイマーはオッペンハイマーが直接管轄するテラーの下に専用のスーパーグループを創設し、パイアールズが(内部崩壊担当の)T-1グループの代表になった[145][146]。9月、テラーのグループは、エンリコ・フェルミの新しいF(フェルミ)部の一部であるF-1(スーパーと一般理論)グループになった[147]

The new design that von Neumann and T Division, most notably Rudolf Peierls, devised used en:explosive lenses to focus the explosion onto a spherical shape using a combination of both slow and fast high explosives.[148] A visit by Sir Geoffrey Taylor in May 1944 raised questions about the stability of the interface between the core and the en:depleted uranium tamper. As a result, the design was made more conservative. The ultimate expression of this was the adoption of Christy's proposal that the core be solid instead of hollow.[149] The design of lenses that detonated with the proper shape and velocity turned out to be slow, difficult and frustrating.[148] Various explosives were tested before settling on en:composition B as the fast explosive and en:baratol as the slow explosive.[150] The final design resembled a soccer ball, with 20 hexagonal and 12 pentagonal lenses, each weighing about 80ポンド (36 kg). Getting the detonation just right required fast, reliable and safe electrical en:detonators, of which there were two for each lens for reliability.[151][152] It was therefore decided to use en:exploding-bridgewire detonators, a new invention developed at Los Alamos by a group led by Luis Alvarez. A contract for their manufacture was given to en:Raytheon.[153]

To study the behavior of converging en:shock waves, Robert Serber devised the en:RaLa Experiment, which used the short-lived en:radioisotope en:lanthanum-140, a potent source of en:gamma radiation. The gamma ray source was placed in the center of a metal sphere surrounded by the explosive lenses, which in turn were inside in an en:ionization chamber. This allowed the taking of an X-ray movie of the implosion. The lenses were designed primarily using this series of tests.[154] In his history of the Los Alamos project, David Hawkins wrote: "RaLa became the most important single experiment affecting the final bomb design".[155]

Within the explosives was the 4.5-インチ (110 mm) thick aluminum pusher, which provided a smooth transition from the relatively low density explosive to the next layer, the 3-インチ (76 mm) thick tamper of natural uranium. Its main job was to hold the critical mass together as long as possible, but it would also reflect neutrons back into the core. Some part of it might fission as well. To prevent predetonation by an external neutron, the tamper was coated in a thin layer of boron.[151]

Norris Bradbury, group leader for bomb assembly, stands next to the partially assembled Gadget atop the Trinity test tower. Later, he became the director of Los Alamos vice Oppenheimer.

A polonium-beryllium en:modulated neutron initiator, known as an "urchin" because its shape resembled a sea urchin,[156] was developed to start the chain reaction at precisely the right moment.[157] This work with the chemistry and metallurgy of radioactive polonium was directed by en:Charles Allen Thomas of the en:Monsanto Company and became known as the en:Dayton Project.[158] Testing required up to 500 curies per month of polonium, which Monsanto was able to deliver.[159] The whole assembly was encased in a en:duralumin bomb casing to protect it from bullets and flak.[151]

The ultimate task of the metallurgists was to determine how to cast plutonium into a sphere. The brittle α phase that exists at room temperature changes to the plastic β phase at higher temperatures. Attention then shifted to the even more malleable δ phase that normally exists in the 300 - 450 °C (572 - 842 °F) range. It was found that this was stable at room temperature when alloyed with aluminum, but aluminum emits neutrons when bombarded with en:alpha particles, which would exacerbate the pre-ignition problem. The metallurgists then hit upon a en:plutonium–gallium alloy, which stabilized the δ phase and could be hot pressed into the desired spherical shape. As plutonium was found to corrode readily, the sphere was coated with nickel.[160]

The work proved dangerous. By the end of the war, half the experienced chemists and metallurgists had to be removed from work with plutonium when unacceptably high levels of the element appeared in their urine.[161] A minor fire at Los Alamos in January 1945 led to a fear that a fire in the plutonium laboratory might contaminate the whole town, and Groves authorized the construction of a new facility for plutonium chemistry and metallurgy, which became known as the DP-site.[162] The hemispheres for the first plutonium pit (or core) were produced and delivered on 2 July 1945. Three more hemispheres followed on 23 July and were delivered three days later.[163]

Little Boy

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Following Oppenheimer's reorganization of the Los Alamos Laboratory in July 1944, the work on the uranium gun-type weapon was concentrated in Francis Birch's O-1 (Gun) Group.[164][165] The concept was pursued so that in case of a failure to develop an implosion bomb, at least the enriched uranium could be used.[166] Henceforth the gun-type had to work with enriched uranium only, and this allowed the Thin Man design to be greatly simplified. A high-velocity gun was no longer required, and a simpler weapon could be substituted, one short enough to fit into a B-29 bomb bay. The new design was called Little Boy.[167]

A Little Boy unit on Tinian connected to test equipment, possibly to test or charge components within the device

After repeated slippages, the first shipment of slightly enriched uranium (13 to 15 percent uranium-235) arrived from Oak Ridge in March 1944. Shipments of highly enriched uranium commenced in June 1944. Criticality experiments and the Water Boiler had priority, so the metallurgists did not receive any until August 1944. [168][169] In the meantime, the CM Division experimented with uranium hydride.[170] This was considered by T Division as a prospective active material. The idea was that the hydrogen's ability as a neutron moderator would compensate for the loss of efficiency, but, as Bethe later recalled, its efficiency was "negligible or less, as Feynman would say", and the idea was dropped by August 1944.[171]

Frank Spedding's Ames Project had developed the Ames process, a method of producing uranium metal on an industrial scale, but Cyril Stanley Smith,[172] the CM Division's associate leader in charge of metallurgy,[173] was concerned about using it with highly enriched uranium due to the danger of forming a critical mass. Highly enriched uranium was also far more valuable than natural uranium, and he wanted to avoid the loss of even a milligram. He recruited Richard D. Baker, a chemist who had worked with Spedding, and together they adapted the Ames Process for use at the Los Alamos laboratory.[172] In February Baker and his group made twenty 360 gram reductions and twenty-seven 500 gram reductions with highly enriched uranium tetrafluoride.[174]

Two types of gun design were produced: Type A was of high alloy steel, and Type B of more ordinary steel. Type B was chosen for production because it was lighter. The primers and propellant were the same as those previously chosen for Thin Man.[175] Scale test firing of the hollow projectile and target insert was conducted with the 3-inch/50 caliber gun and a 20 mm (0.79 in) Hispano cannon. Starting in December, test firing was done full-scale. Amazingly, the first test case produced turned out to be the best ever made. It was used in four test firings at the Anchor Ranch, and ultimately in the Little Boy used in the bombing of Hiroshima. The design specifications were completed in February 1945, and contracts were let to build the components. Three different plants were used so that no one would have a copy of the complete design. The gun and breech were made by the Naval Gun Factory in Washington, D.C.; the target, case and some other components were by the Naval Ordnance Plant in Center Line, Michigan; and the tail fairing and mounting brackets by the Expert Tool and Die Company in Detroit, Michigan.[176][175]

Birch's tidy schedule was disrupted in December by Groves, who ordered Oppenheimer to give priority to the gun-type over implosion, so that the weapon would be ready by 1 July 1945.[177] The bomb, except for the uranium payload, was ready at the beginning of May 1945.[178] The uranium-235 projectile was completed on 15 June, and the target on 24 July.[179] The target and bomb pre-assemblies (partly assembled bombs without the fissile components) left Hunters Point Naval Shipyard, California, on 16 July aboard the cruiser Template:USS, arriving 26 July.[180] The target inserts followed by air on 30 July.[179]

Although all of its components had been tested in target and drop tests,[179] no full test of a gun-type nuclear weapon occurred before Hiroshima. There were several reasons for not testing a Little Boy type of device. Primarily, there was insufficient uranium-235.[181] Additionally, the weapon design was simple enough that it was only deemed necessary to do laboratory tests with the gun-type assembly. Unlike the implosion design, which required sophisticated coordination of shaped explosive charges, the gun-type design was considered almost certain to work.[182] Thirty-two drop tests were conducted at Wendover, and only once did the bomb fail to fire. One last-minute modification was made, to allow the powder bags of propellant that fired the gun to be loaded in the bomb bay.[175]

The danger of accidental detonation made safety a concern. Little Boy incorporated basic safety mechanisms, but an accidental detonation could still occur. Tests were conducted to see whether a crash could drive the hollow "bullet" onto the "target" cylinder resulting in a massive release of radiation, or possibly nuclear detonation. These showed that this required an impact of 500 times that of gravity, which made it highly unlikely.[183] There was still concern that a crash and a fire could trigger the explosives.[184] If immersed in water, the uranium halves were subject to a neutron moderator effect. While this would not have caused an explosion, it could have created widespread radioactive contamination. For this reason, pilots were advised to crash on land rather than at sea.[183]

Water boiler

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Water Boiler

The Water Boiler was an aqueous homogeneous reactor, a type of nuclear reactor in which the nuclear fuel in the form of soluble uranium sulfate is dissolved in water.[185][186] Uranium sulfate was chosen instead of uranium nitrate because sulfur's neutron capture cross section is less than that of nitrogen.[187] The project was proposed by Bacher in April 1943 as part of an ongoing program of measuring critical masses in chain-reacting systems. He saw it also as a means of testing various materials in critical mass systems. T Division were opposed to the project, which was seen as a distraction from studies related to the form of chain reactions found in an atomic bomb, but Bacher prevailed on this point.[188] Calculations related to the Water Boiler did take up an inordinate amount of T Division's time in 1943.[186] The reactor theory developed by Fermi did not apply to the Water Boiler.[189]

Little was known about building reactors in 1943. A group was created in Bacher's P Division, the P-7 (Water Boiler) Group, under the leadership of Donald Kerst,[190] that included Charles P. Baker, Gerhart Friedlander, Lindsay Helmholz, Marshall Holloway and Raemer Schreiber. Robert F. Christy from the T-1 Group provided support with the theoretical calculations, in particular, a calculation of the critical mass. He calculated that 600 grams of uranium-235 would form a critical mass in a tamper of infinite size. Initially it was planned to operate the Water Boiler at 10 kW, but Fermi and Samuel K. Allison visited in September 1943, and went over the proposed design. They pointed out the danger of decomposition of the uranium salt, and recommended heavier shielding. It was also noted that radioactive fission products would be created that would have to be chemically removed. As a consequence, it was decided that the Water Boiler would only run at 1 kW until more operating experience had been accumulated, and features needed for high power operation were shelved for the time being.[188]

Christy also calculated the area that would become contaminated if an accidental explosion occurred. A site in Los Alamos Canyon was selected that was a safe distance from the township and downstream from the water supply. Known as Omega, it was approved by the Governing Board on 19 August 1943. The Water Boiler was not simple to construct. The two halves of the 12.0625-インチ (306.39 mm) stainless steel sphere that was the boiler had to be arc welded because solder would be corroded by the uranium salt. The CM-7 (Miscellaneous Metallurgy) Group produced beryllia bricks for the Water Boiler's tamper in December 1943 and January 1944. They were hot pressed in graphite at 1,000 °C (1,830 °F) at 100ポンド毎平方インチ (690 kPa) for 5 to 20 minutes. Some 53 bricks were made, shaped to fit around the boiler. The building at Omega Site was ready, if incomplete, by 1 February 1944, and the Water Boiler was fully assembled by 1 April. Sufficient enriched uranium had arrived by May to start it up, and it went critical on 9 May 1944.[188][191] It was only the third reactor in the world to do so, the first two being the Chicago Pile-1 reactor at the Metallurgical Laboratory and the X-10 Graphite Reactor at the Clinton Engineer Works.[185] Improved cross-section measurements allowed Christy to refine his criticality estimate to 575 grams. In fact, only 565 grams were required. The accuracy of his prediction surprised Christy more than anyone.[188]

In September 1944, the P-7 (Water Boiler) Group became the F-2 (Water Boiler) Group, part of Fermi's F Division.[192] On completion of the planned series of experiments in June 1944, it was decided to rebuild it as a more powerful reactor. The original goal of 10 kW power was discarded in favor of 5 kW, which would keep the cooling requirements simple. It was estimated that it would have a neutron flux of 5 x 1010 neutrons per square centimeter per second. Water cooling was installed, along with additional control rods. This time uranium nitrate was used instead of uranium sulfate because the former could more easily be decontaminated. The tamper of beryllia bricks was surrounded with graphite blocks, as beryllia was hard to procure, and to avoid the (γ, n) reaction in the beryllium,[193] in which gamma rays produced by the reactor-generated neutrons:[194]

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The reactor commenced operation in December 1944.[193]

Super

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From the first, research into the Super was directed by Teller, who was its most enthusiastic proponent. Although this work was always considered secondary to the objective of developing a fission bomb, the prospect of creating more powerful bombs was sufficient to keep it going. The Berkeley summer conference had convinced Teller that the Super was technologically feasible. An important contribution was made by Emil Konopinski, who suggested that deuterium could more easily be ignited if it was mixed with tritium. Bethe noted that a tritium-deuterium (T-D) reaction releases five times as much energy as a deuterium-deuterium (D-D) reaction. This was not immediately followed up, because tritium was hard to obtain, and there were hopes that deuterium could be easily ignited by a fission bomb, but the cross sections of T-D and D-D were measured by Manley's group in Chicago and Holloway's at Purdue.[195]

A group of men in shirtsleeves sitting on folding chairs
The April 1946 colloquium on the Super. In the front row are (left to right) Norris Bradbury, John Manley, Enrico Fermi and J. M. B. Kellogg. Robert Oppenheimer, in dark coat, is behind Manley; to Oppenheimer's left is Richard Feynman. The Army officer on the left is Colonel Oliver Haywood.

By September 1943, the values of the D-D and T-D had been revised upwards, raising hopes that a fusion reaction could be started at lower temperatures. Teller was sufficiently optimistic about the Super, and sufficiently concerned about reports that the Germans were interested in deuterium, to ask the Governing Board to raise its priority. The board agreed to some extent, but ruled that only one person could be spared to work on it full-time. Oppenheimer designated Konopinski, who would spend the rest of the war working on it. Nonetheless, in February 1944, Teller added Stanislaw Ulam, Jane Roberg, Geoffrey Chew, and Harold and Mary Argo to his T-1 Group. Ulam calculated the inverse Compton cooling, while Roberg worked out the ignition temperature of T-D mixtures.[195][196] Maria Goeppert joined the group in February 1945.[197]

Teller argued for an increase in resources for Super research on the basis that it appeared to be far more difficult than anticipated. The board declined to do so, on the grounds that it was unlikely to bear fruit before the war ended, but did not cut it entirely. Indeed, Oppenheimer asked Groves to breed some tritium from deuterium in the X-10 Graphite Reactor. For some months Teller and Bethe argued about the priority of the Super research. In June 1944, Oppenheimer removed Teller and his Super Group from Bethe's T Division and placed it directly under himself. In September, it became the F-1 (Super) Group in Fermi' s F Division.[195][196] Over the following months, Super research continued unabated. It was calculated that burning 1 cubic meter (35 cu ft) of liquid deuterium would release the energy of 1 TNT換算メガトン (4.2 PJ), enough to devastate 1,000平方マイル (2,600 km2).[198] The Super Group was transferred back to T Division on 14 November 1945.[199]

A colloquium on the Super was held at the Los Alamos Laboratory in April 1946 to review the work done during the war. Teller gave an outline of his "Classic Super" concept, and Nicholas Metropolis and Anthony L. Turkevich presented the results of calculations that had been made concerning thermonuclear reactions. The final report on the Super, issued in June and prepared by Teller and his group, remained upbeat about the prospect of the Super being successfully developed, although that impression was not universal among those present at the colloquium.[200] Work had to be curtailed in June 1946 due to the loss of staff.[201] By 1950, calculations would show that the Classic Super would not work; that it would not only be unable to sustain thermonuclear burning in the deuterium fuel, but would be unable to ignite it in the first place.[200]

Trinity

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Herbert Lehr and Harry Daghlian loading the assembled tamper plug containing the plutonium pit and initiator into a sedan for transport from the McDonald Ranch House to the Trinity shot tower

Because of the complexity of an implosion-style weapon, it was decided that, despite the waste of fissile material, an initial test would be required. Groves approved the test, subject to the active material being recovered. Consideration was therefore given to a controlled fizzle, but Oppenheimer opted instead for a full-scale nuclear test, codenamed "Trinity".[202] In March 1944, responsibility for planning the test was assigned to Kenneth Bainbridge, a professor of physics at Harvard, working under Kistiakowsky. Bainbridge selected the bombing range near Alamogordo Army Airfield as the site for the test.[203] Bainbridge worked with Captain Samuel P. Davalos on the construction of the Trinity Base Camp and its facilities, which included barracks, warehouses, workshops, an explosive magazine and a commissary.[204]

Groves did not relish the prospect of explaining the loss of a billion dollars worth of plutonium to a Senate committee, so a cylindrical containment vessel codenamed "Jumbo" was constructed to recover the active material in the event of a failure. Measuring 25フィート (7.6 m) long and 12フィート (3.7 m) wide, it was fabricated at great expense from 214ロングトン (217 t) of iron and steel by Babcock & Wilcox in Barberton, Ohio. Brought in a special railroad car to a siding in Pope, New Mexico, it was transported the last 25マイル (40 km) to the test site on a trailer pulled by two tractors.[205] By the time it arrived, confidence in the implosion method was high enough, and the availability of plutonium was sufficient, that Oppenheimer decided not to use it. Instead, it was placed atop a steel tower 800ヤード (730 m) from the weapon as a rough measure of how powerful the explosion would be. In the end, Jumbo survived, although its tower did not, adding credence to the belief that Jumbo would have successfully contained a fizzled explosion.[206][207]

Men stand around a large oil-rig type structure. A large round object is being hoisted up.
The explosives of "the gadget" were raised to the top of the tower for the final assembly.

A pre-test explosion was conducted on 7 May 1945 to calibrate the instruments. A wooden test platform was erected 800ヤード (730 m) from Ground Zero and piled with 108ショートトン (98 t) of TNT spiked with nuclear fission products in the form of an irradiated uranium slug from the Hanford Site, which was dissolved and poured into tubing inside the explosive. This explosion was observed by Oppenheimer and Groves's new deputy commander, Brigadier General Thomas Farrell. The pre-test produced data that proved vital for the Trinity test.[207][208]

For the actual test, the device, nicknamed "the gadget", was hoisted to the top of a 100-フート (30 m) steel tower, as detonation at that height would give a better indication of how the weapon would behave when dropped from a bomber. Detonation in the air maximized the energy applied directly to the target, and generated less nuclear fallout. The gadget was assembled under the supervision of Norris Bradbury at the nearby McDonald Ranch House on 13 July, and precariously winched up the tower the following day.[209] Observers included Bush, Chadwick, Conant, Farrell, Fermi, Groves, Lawrence, Oppenheimer and Tolman. At 05:30 on 16 July 1945 the gadget exploded with an energy equivalent of around 20 kilotons of TNT, leaving a crater of Trinitite (radioactive glass) in the desert 250フィート (76 m) wide. The shock wave was felt over 100マイル (160 km) away, and the mushroom cloud reached 7.5マイル (12.1 km) in height. It was heard as far away as El Paso, Texas, so Groves issued a cover story about an ammunition magazine explosion at Alamogordo Field.[210][211]

Project Alberta

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Project Alberta, also known as Project A, was formed in March 1945, absorbing existing groups of Parsons's O Division that were working on bomb preparation and delivery. These included Ramsey's O-2 (Delivery) Group, Birch's O-1 (Gun) Group, Bainbridge's X-2 (Development, Engineering, and Tests) Group, Brode's O-3 (Fuse Development) Group and George Galloway's O-4 (Engineering) Group.[212][213] Its role was to support the bomb delivery effort. Parsons became the head of Project Alberta, with Ramsey as his scientific and technical deputy, and Ashworth as his operations officer and military alternate.[214] In all, Project Alberta consisted of 51 Army, Navy and civilian personnel.[215] The 1st Technical Service Detachment, to which the personnel of Project Alberta were administratively assigned, was commanded by Lieutenant Colonel Peer de Silva,[216] and provided security and housing services on Tinian.[217] There were two bomb assembly teams, a Fat Man Assembly Team under Commander Norris Bradbury and Roger Warner, and a Little Boy Assembly Team under Birch. Philip Morrison was the head of the Pit Crew, Bernard Waldman and Luis Alvarez led the Aerial Observation Team,[214][213] and Sheldon Dike was in charge of the Aircraft Ordnance Team.[217] Physicists Robert Serber and William Penney, and US Army Captain James F. Nolan, a medical expert, were special consultants.[218] All members of Project Alberta had volunteered for the mission.[219]

Deak Parsons (right) supervises loading the Little Boy bomb into the B-29 Enola Gay. Norman Ramsey is on his left, with his back to the camera.

Project Alberta proceeded with the plan to have the Little Boy ready by 1 August, and the first Fat Man ready for use as soon as possible after that.[220] In the meantime, a series of twelve combat missions were flown between 20 and 29 July against targets in Japan using high-explosive pumpkin bombs, versions of the Fat Man with the explosives, but not the fissile core.[221] Project Alberta's Sheldon Dike and Milo Bolstead flew on some of these missions, as did the British observer Group Captain Leonard Cheshire.[222] Four Little Boy pre-assemblies, L-1, L-2, L-5 and L-6 were expended in test drops.[223][224] The Little Boy team had the live bomb completely assembled and ready for use on 31 July.[225] The final item of preparation for the operation came on 29 July 1945. Orders for the attack were issued to General Carl Spaatz on 25 July under the signature of General Thomas T. Handy, the acting Chief of Staff of the United States Army, since General of the Army George C. Marshall was at the Potsdam Conference with President Harry S. Truman.[226] The order designated four targets: Hiroshima, Kokura, Niigata, and Nagasaki, and ordered the attack to be made "as soon as weather will permit after about 3 August".[227]

Assembly of a Fat Man unit was a complex operation involving personnel from the High Explosive, Pit, Fusing and Firing teams. To prevent the assembly building from becoming overcrowded and thereby causing an accident, Parsons limited the numbers allowed inside at any time. Personnel waiting to perform a specific task had to wait their turn outside the building. The first Fat Man pre-assembly, known as F13, was assembled by 31 July, and expended in a drop test the next day. This was followed by F18 on 4 August, which was dropped the next day.[228] Three sets of Fat Man pre-assemblies, designated F31, F32, and F33, arrived on B-29s of the 509th Composite Group and 216th Army Air Forces Base Unit on 2 August. On inspection, the high explosive blocks of F32 were found to be badly cracked and unserviceable. The other two were assembled, with F33 earmarked for a rehearsal and F31 for operational use.[229]

Fat Man bomb, with liquid asphalt sealant sprayed on the casing's seams, is readied on Tinian.

Parsons, as the weaponeer, was in command of the Hiroshima mission. With Second Lieutenant Morris R. Jeppson of the 1st Ordnance Squadron, he inserted the Little Boy's powder bags in the Enola Gay's bomb bay in flight. Before climbing to altitude on approach to the target, Jeppson switched the three safety plugs between the electrical connectors of the internal battery and the firing mechanism from green to red. The bomb was then fully armed. Jeppson monitored its circuits.[230] Four other members of Project Alberta flew on the Hiroshima mission. Luis Alvarez, Harold Agnew and Lawrence H. Johnston were on the instrument plane The Great Artiste. They dropped "Bangometer" canisters to measure the force of the blast, but this was not used to calculate the yield at the time.[231] Bernard Waldman was the camera operator on the observation aircraft. He was equipped with a special high-speed Fastax movie camera with six seconds of film in order to record the blast. Unfortunately, Waldman forgot to open the camera shutter, and no film was exposed.[232][233] Other members of the team flew to Iwo Jima in case Enola Gay was forced to land there, but this was not required.[234]

Purnell, Parsons, Paul Tibbets, Spaatz and Curtis LeMay met on Guam on 7 August, the day after the Hiroshima attack, to discuss what should be done next. Parsons said that Project Alberta would have a Fat Man bomb ready by 11 August, as originally planned, but Tibbets pointed to weather reports indicating poor flying conditions on that day due to a storm, and asked if it could be readied by 9 August. Parsons agreed to do so.[235] For this mission, Ashworth was the weaponeer, with Lieutenant Philip M. Barnes, of the 1st Ordnance Squadron as assistant weaponeer on the B-29 Bockscar. Walter Goodman and Lawrence H. Johnston were on board the instrumentation aircraft, The Great Artiste. Leonard Cheshire and William Penney were on the observation plane Big Stink.[236] Robert Serber was supposed to be on board but was left behind by the aircraft commander because he had forgotten his parachute.[237]

Health and safety

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A shack surrounded by pine trees. There is snow on the ground. A man and a woman in white lab coats are pulling on a rope, which is attached to a small trolley on a wooden platform. On top of the trolley is a large cylindrical object.
Remote handling of a kilocurie source of radiolanthanum for a RaLa Experiment at Los Alamos

A medical program was established at Los Alamos under Captain James F. Nolan of the United States Army Medical Corps.[238][239] Initially, a small five-bed infirmary was established for civilians, and a three-bed infirmary for military personnel. More serious cases were handled by the Army's Bruns General Hospital in Santa Fe, but this was soon regarded as unsatisfactory due to the loss of time due to the long trip, and security risks. Nolan recommended that the infirmaries be consolidated and expanded into a 60-bed hospital. A 54-bed hospital was opened in 1944, staffed by Army personnel. A dentist arrived in March 1944.[240] A Veterinary Corps officer, Captain J. Stevenson, had already been assigned to look after the guard dogs.[238]

Laboratory facilities for medical research were limited, but some research was conducted into the effects of radiation, and the absorption and toxic effects of metals, particularly plutonium and beryllium, mainly as a result of accidents.[241] The Health Group began conducting urine tests of laboratory workers in early 1945, and many of these revealed dangerous levels of plutonium.[242] Work on the Water Boiler also occasionally exposed workers to dangerous fission products.[243] There were 24 fatal accidents at Los Alamos between its opening in 1943 and September 1946. Most involved construction workers. Four scientists died, including Harry Daghlian and Louis Slotin in criticality accidents involving the demon core.[244]

Security

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On 10 March 1945, a Japanese fire balloon struck a power line, and the resulting power surge caused the Manhattan Project's reactors at the Hanford site to be temporarily shut down.[245] This generated great concern at Los Alamos that the site might come under attack. One night found everyone staring at a strange light in the sky. Oppenheimer later recalled this demonstrated that "even a group of scientists is not proof against the errors of suggestion and hysteria".[246]

With so many people involved, security was a difficult task. A special Counter Intelligence Corps detachment was formed to handle the Manhattan Project's security issues.[247] By 1943, it was clear that the Soviet Union was attempting to penetrate the project.[248] The most successful Soviet spy was Klaus Fuchs of the British Mission.[249] The 1950 revelation of his espionage activities damaged the United States' nuclear cooperation with Britain and Canada.[250] Subsequently, other instances of espionage were uncovered, leading to the arrest of Harry Gold, David Greenglass and Ethel and Julius Rosenberg.[251] Other spies like Theodore Hall remained unknown for decades.[252]

Post-war

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After the war ended on 14 August 1945, Oppenheimer informed Groves of his intention to resign as director of the Los Alamos Laboratory, but agreed to remain until a suitable replacement could be found. Groves wanted someone with both a solid academic background and a high standing within the project. Oppenheimer recommended Norris Bradbury. This was agreeable to Groves, who liked the fact that as a naval officer Bradbury was both a military man and a scientist. Bradbury accepted the offer on a six-month trial basis. Groves announced this at a meeting of division leaders on 18 September.[253] Parsons arranged for Bradbury to be quickly discharged from the Navy,[254] which awarded him the Legion of Merit for his wartime services.[255] He remained in the Naval Reserve, though, ultimately retiring in 1961 with the rank of captain.[256] On 16 October 1945, there was a ceremony at Los Alamos at which Groves presented the laboratory with the Army-Navy "E" Award, and presented Oppenheimer with a certificate of appreciation. Bradbury became the laboratory's second director the following day.[257][258]

Bradbury (left) examines plans for new laboratory sites and permanent housing with Leslie Groves of the Armed Forces Special Weapons Project (center) and Eric Jette (right) in April 1947; Colonel Lyle E. Seeman stands behind Bradbury, second from the left.

The first months of Bradbury's directorship were particularly trying. He had hoped that Atomic Energy Act of 1946 would be quickly passed by Congress and the wartime Manhattan Project would be superseded by a new, permanent organization. It soon became clear that this would take more than six months. President Harry S. Truman did not sign the act creating the Atomic Energy Commission into law until 1 August 1946, and it did not become active until 1 January 1947. In the meantime, Groves' legal authority to act was limited.[259]

Most of the scientists at Los Alamos were eager to return to their laboratories and universities, and by February 1946 all of the wartime division heads had left, but a talented core remained. Darol Froman became head of Robert Bacher's G division, now renamed M Division. Eric Jette became responsible for Chemistry and Metallurgy, John H. Manley for Physics, George Placzek for Theory, Max Roy for Explosives, and Roger Wagner for Ordnance.[257] Z Division was created in July 1945 to control testing, stock piling, and bomb assembly activities. It was named after Jerrold R. Zacharias, its leader until 17 October 1945, when he returned to MIT, and was succeeded by Roger S. Warner. It moved to Sandia Base between March and July 1946, except for its Z-4 (Mechanical Engineering) Group, which followed in February 1947.[260]

The number of personnel at the Los Alamos Laboratory plummeted from its wartime peak of over 3,000 to around 1,000, but many were still living in substandard temporary wartime accommodation.[259] Despite the reduced staff, Bradbury still had to provide support for Operation Crossroads, the nuclear tests in the Pacific.[261] Ralph A. Sawyer was appointed the Technical Director with Marshall Holloway from B Division and Roger Warner from Z Division as associate directors. Two ships were assigned for Los Alamos Laboratory personnel, the Template:USS and Template:USS. Operation Crossroads cost the Los Alamos Laboratory over one million dollars, and the services of 150 personnel (about one-eighth of its staff) for nine months.[262] As the United States had only about ten atomic bombs in mid-1946 about one fifth of the stockpile was expended.[263]

The Los Alamos Laboratory became the Los Alamos Scientific Laboratory in January 1947.[264] The contract with the University of California that had been negotiated in 1943 allowed the University to terminate it three months after the end of hostilities, and it served notice. There were concerns about the university operating a laboratory outside the state of California. The university was persuaded to rescind its notice,[265] and the operating contract was extended until July 1948.[266] Bradbury would remain director until 1970.[267] The total cost of Project Y up to the end of 1946 was $57.88 million (equivalent to $900 million in 2023).[64]

Notes

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