利用者:Kimchi1616/華影 (雑誌)下書き
華影(はなのかげ)は、明治時代に刊行された華族による写真同人誌である。
明治35年頃から41年頃までに25冊発行され568点の写真が収録されており、写真は全て華族の同人による投稿である[1][2]。 刊行の趣旨や奥付などの文字情報がほとんどなく関係者間で回覧・閲覧することが目的と考えられ、発行部数が少なかった[1][2]。
同人には徳川慶喜、三条公美、山内豊尹など46人が名を連ねる[1]。
明治40年以降は写真家の小川一真と洋画家の黒田清輝による印画評と採点により順位が付けられていた[1][2]。
体裁
[編集]縦18.5センチ、横26.3センチで、一紙に一枚の写真がコロタイプで印刷され[1]、その横に作品名と撮影者の名前が記載されている[2]。 また巻頭に画題が記載されている[3]。
小川と黒田による採点と印画評は会合で批評された内容を収録したと考えられ巻末にまとめて掲載されている[4]。
明治36年よりも前に発行された4冊の表紙には「はなのかけ」とかなで表記されていた[3]。以降は漢字で「華影」と表記されており読みはこの通りと考えられる[3]。
変遷
[編集]冊子は延べ47冊が確認され、重複分の除くと25冊である[3]。
発行団体
[編集]「徳川慶喜邸日誌」に誌名を冠した華影会の名前が見られる。 明治37年、40年に同会から写真帖が届けられた記載もあるので華影会が発行団体であると考えられる[5]。
華影会は明治38年に深勝会と合併し華光会と名前を変更した[6]。 資料によっては活動時期に関わらず華光会と記載しているものもある[7][8]。
戸田忠雄、井伊直方、松平直之が幹事として中心的に活動している[6]。
華光会は『華影』の発行が確認されてなくなった以降も『富岳集』『韓国集』を発行している[6]。
同人一覧
[編集]写真を投稿した同人は46名確認されていて、全て華族である[9]。
名前 | 掲載時期 | 作品数 | 掲載回数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
青木信光 | 明治36年2月より前 | 9 | 3 | |
青山幸宜 | 1期から明治36年9月 | 4 | 3 | |
浅野養長 | 明治39年3月以降 | 10 | 7 | |
阿部正桓 | ほぼ全期間 | 39 | 17 | |
有馬頼萬 | 明治39年9月 | 1 | 1 | |
安藤直行 | 1期から明治37年2月 | 14 | 8 | |
井伊直方 | 明治38年3月以降 | 20 | 11 | |
井伊直安 | ほぼ全期間 | 27 | 13 | |
伊集院兼知 | 明治38年6月から明治38年9月 | 3 | 2 | |
稲垣太祥 | 明治36年2月から明治36年9月 | 4 | 2 | |
稲葉順通 | 明治36年5月から明治38年12月頃 | 9 | 7 | 稲葉久通の長男。子爵[10] |
内田正學 | 明治37年9月 | 1 | 1 | 子爵[11] |
正親町實正 | 1期から明治39年6月 | 20 | 8 | |
大村徳敏 | 明治37年2月から明治40年3月 | 12 | 8 | |
岡部長職 | 1期から明治37年5月 | 8 | 2 | |
小笠原長幹 | 明治38年9月から明治39年9月 | 6 | 4 | |
清浦保恒 | 明治38年3月 | 4 | 1 | 清浦奎吾の三男。父は男爵だが本人の爵位は不明[12] |
清棲家教 | 1期から明治37年9月 | 14 | 7 | |
酒井忠興 | 明治37年5月から明治38年3月 | 10 | 3 | |
三条公美 | 1期から明治38年12月頃 | 11 | 7 | |
新庄直陳 | 明治36年9月から明治41年3月 | 13 | 8 | |
伊達宗陳 | 明治37年9月から明治38年12月頃 | 3 | 3 | |
土井利與 | 1期から明治39年6月 | 27 | 15 | |
徳川昭武 | 明治39年6月以降 | 8 | 6 | |
徳川厚 | 明治38年3月以降 | 13 | 8 | |
徳川達道 | 明治38年6月以降 | 22 | 12 | |
徳川慶喜 | 明治36年2月から明治38年12月頃 | 9 | 4 | |
戸田忠雄 | 1期から明治40年6月 | 27 | 13 | 戸田忠行の長男。二男とも。子爵[13] |
鳥尾光 | 1期から明治40年9月 | 17 | 9 | 鳥尾小弥太の長男。鳥尾敬光の父[14]。子爵[15] |
中川久仁 | 明治38年3月 | 1 | 1 | 伯爵[15] |
鍋島直柔 | 明治36年12月から明治37年2月 | 2 | 2 | |
鍋島直映 | 明治40年3月 | 1 | 1 | |
二条基弘 | 1冊目 | 1 | 1 | |
細川利文 | 1期から明治40年6月 | 18 | 10 | |
堀田正亨 | 明治36年9月から明治36年12月 | 6 | 2 | 堀田正養の養子。子爵[16] |
堀河護麿 | 明治38年3月から明治40年12月 | 7 | 6 | |
本荘宗義 | 明治38年3月から明治41年3月 | 11 | 8 | |
牧野忠篤 | 1期から明治36年12月 | 12 | 6 | |
牧野康強 | 1期から明治38年6月 | 13 | 8 | |
松平直之 | ほぼ全期間 | 33 | 15 | |
松平乗長 | 明治36年2月以降 | 49 | 19 | |
松平康荘 | 1期から明治38年6月 | 23 | 10 | |
松平康民 | 1期から明治36年12月 | 18 | 7 | |
松平頼安 | 明治38年3月から明治38年9月 | 2 | 2 | |
万里小路通房[注釈 1] | 明治36年5月 | 1 | 1 | |
山内豊尹 | 明治36年12月 | 2 | 1 |
小川と黒田による批評
[編集]華族と写真の関係
[編集]関連項目
[編集]- 清水中央図書館 - 徳川文庫に含まれる『華影』14冊を所蔵する[17][18][19]。
- 日本カメラ博物館(JCIIフォトサロン) - 『華影』13冊を所蔵する[17]。
- 松戸市戸定歴史館 - 『華影』3冊を所蔵する[17]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 出典では「萬里小路通(までのこうじみちふ)」と記載されているが生年と没年から判断するに脱字だと思われる。
出典
[編集]- ^ a b c d e 齊藤 2014, p. 372.
- ^ a b c d JCII 2019, p. 3.
- ^ a b c d 齊藤 2014, p. 377.
- ^ 齊藤 2014, p. 381.
- ^ 齊藤 2014, pp. 378–380.
- ^ a b c 齊藤 2014, p. 380.
- ^ 岡塚 2014.
- ^ 田中 2014.
- ^ 齊藤 2014, pp. 375–376.
- ^ 人事興信録 稻葉順通
- ^ 齊藤 2014, p. 375.
- ^ 人事興信録 清浦保恒
- ^ 人事興信録 戸田忠雄
- ^ 人事興信録 鳥尾敬光
- ^ a b 齊藤 2014, p. 376.
- ^ 人事興信録 堀田正亨
- ^ a b c 齊藤 2014, p. 387.
- ^ “徳川文庫-慶喜家コレクション-”. 静岡市立図書館. 2025年1月2日閲覧。
- ^ 戸定歴史館、静岡市美術館 2013, p. 144.
参考文献
[編集]- 齊藤洋一「華族写真同人誌『華影』考 : 明治末期華族写真愛好家の活動と小川一真・黒田清輝との交流を巡って」『美術研究』第411号、国立文化財機構東京文化財研究所、2014年2月21日、372-408頁、CRID 1520572359121568256、ISSN 00219088、NAID 40020125849、2025年1月1日閲覧。
- 井桜直美 著、目良夏菜子 編『明治の写真展 “華影(はなのかげ)” 華族たちの絵画主義 ピクトリアリズムを追って』JCIIフォトサロン、2019年2月5日 。2024年12月25日閲覧。
- 岡塚章子「研究資料 明治期の写真団体と華族―小川一真の事績からの考察」『美術研究』第412号、2014年3月25日、71-82頁、CRID 1050001201683436928、NAID 120006480250、2025年1月1日閲覧。
- 田中淳「研究資料 黒田清輝宛小川一真書簡の翻刻と黒田清輝の写真観」『美術研究』第412号、2014年3月25日、60-70頁、CRID 1050282676665442432、NAID 120006480249、2025年1月1日閲覧。
- 松戸市戸定歴史館、静岡市美術館 編『没後100年 徳川慶喜』松戸市戸定歴史館、静岡市美術館、2013年5月15日。