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O'Neill pictured ca. 1907
生誕 ローズ・セシル・オニール Rose Cecil O'Neill
(1874-06-25) 1874年6月25日
Wilkes-Barre, Pennsylvania, U.S.
死没 1944年4月6日(1944-04-06)(69歳没)
Springfield, Missouri, U.S.
国籍 アメリカ合衆国
役割
  • 漫画家
  • イラストレーター
  • 画家
主な作品
キューピー
配偶者
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ローズ・セシル・オニール (Rose Cecil O'Neill 1874年6月25日〜1944年4月6日) は、アメリカ合衆国の漫画家、イラストレーター、画家、作家。雑誌や本のイラストレーターとして成功し、世界中の人々に愛され、ミッキー・マウスが登場するまでアメリカのポップカルチャーのアイコンだった キューピー の生みの親である。[1] 若くして、アメリカで最も収入が多い女性イラストレーターとして有名になった。

書店員の娘として生まれ、ネブラスカ州で育った。幼い頃から芸術への関心が高く、15歳の時ニューヨークでイラストレーターとしてのキャリアをスタートした。

オニールが35才出会った1909年、女性誌『レディース・ホーム・ジャーナル』にキューピーを初めて登場させ、好評を博した。1912年にドイツの玩具会社J.D.ケストナーがキューピーのビスク・ドールを製造し、その後セルロイド製の人形が作られた。人形は20世紀初頭に世界的な人気となり、米国で最初に量産されたおもちゃの1つと考えられている。

オニールは小説や詩集も執筆しており、女性参政権運動 にも積極的だった。キューピー人形が世界に広まった当時、女性イラストレーターとして全米一の収入を得ていた。[2]また、全米女性殿堂(National Women's Hall of Fame)入りした。[3]

生い立ち、若年期[編集]

ローズ・セシル・オニールは、1874年6月25日、ペンシルベニア州ウィルクス・バリで生まれた。父はウィリアム・パトリック・ヘンリー。母はアリス・セシリア・アセナート・セニア・スミス・オニール、愛称「ミーミー」。2人の妹リーとカリスタ、3人の弟ヒュー、ジェームズ、クラレンスの6人家族だった。

父親はアイルランド系の文学、芸術と演劇を愛する書店員、母親は才能ある音楽家、女優、教師だった。[1]オニールは小さな頃から芸術への情熱と才能を発揮し、想像力豊かな子供であった。 13歳の時、新聞社オマハ・ワールド・ヘラルド[4]主催の児童画コンテストに出品。「地獄への誘惑 (Temptation Leading to an Abyss) 」で最優秀賞を受賞した。[5]

その後2年間オマハ・ワールド・ヘラルド社の新聞、雑誌にイラストを提供。編集者とアートディレクターの助けを受け、継続的な仕事を得ていた。仕事による収入で、書店の資金繰りに苦しんでいた父親を援助した。[6]オニールはオマハの修道院に通っていた。[7]

経歴、仕事[編集]

ニューヨークへの移住[編集]

オニールの父親は娘の才能を伸ばすため、1893年に彼女をニューヨークへ連れて行き、イラストレーターとしてのキャリアがスタートした。ニューヨークへ向かう途中でシカゴに立ち寄り、万国博覧会を訪れ、それまで本でしか見たことがなかった絵画や彫刻を初めて目にした。その後、ニューヨークのセント・レジス修道院の修道女と暮らした。[8]修道女たちと共に様々な出版社へ行き、多くの作品集を販売した。イラストの注文も受け始めた。[5]オニールのイラストは1896年9月19日発売の雑誌「True」に掲載され、彼女はアメリカで最初に出版された女性イラストレーターとなった。[9] [10]

オニールがニューヨークに住んでいる間、父親はミズーリ南部オザークに渡り廊下のある2つの丸太小屋(1つは食事のため、もう1つは眠るため)を建てた。 1年後オニールが訪れた時、この小屋は「ボニーブルック」と呼ばれていた。[11]オニールは大成功を収め、雑誌『パック』の唯一の女性スタッフになった。[12] 1909年、ゼリー菓子「Jell-O」の広告イラストを描き[13]、『ハーパー』誌『ライフ』誌にイラストを寄稿した[14]。

Page 757, Scribner's Magazine 1908. Extract from scan of illustration for the story "Phyllida" by Temple Bailey.


初期の作品[編集]

"サイン", ローズオニールの パック誌掲載イラスト 1904.
Ethel: "He acts this way. He gazes at me tenderly, is buoyant when I am near him, pines when I neglect him. Now, what does that signify?"
Her mother: "That he's a mighty good actor, Ethel."

1892年のオマハで、バージニア人グレイ・レイサムと出会い、1896年に結婚した。彼はニューヨークにいるオニールを訪れた。オニールが家族に会いにミズーリへ行った時には、手紙を送り続けた。 レイサムは彼の父親が映画を撮るためメキシコへ渡った1896年に、ボニーブルックを訪れた。オニールは家族を経済的に支えるため、多額の小切手を送っていた[15]。


オニールは徐々にレイサムへの不満を抱くようになった。ギャンブル好きでプレイボーイとして知られており、高価なものを好むレイサムが、オニールの小切手を自身のために使っていたことがわかった。その後、オニールはミズーリ州トーニーへ移り、1901年に離婚を申請し、ボニーブルックへ戻った。レイサムは同年亡くなった[14]。オニールは未亡人になった。

1901年、オニール宛に匿名の手紙と贈り物が届くようになった。『パック』誌の編集助手ハリー・レオン・ウィルソンが送っていたことを知った。2人はその後恋愛関係になり、1902年に結婚。コロラドでの新婚旅行の後、ボニーブルックで暮らした。ハリーは最初の3年間で、オニールがイラストを描いた2つの小説「神のライオンたち(1903)」「The Boss of Little Arcady(1905)」を書いた。[14]小説「人生は四十二から (Ruggles of Red Gap)」は人気を博し、無声映画、トーキーなど様々な形で映画化された。ハリーとオニールは1907年に離婚した。

1904年にオニールがイラストも手がけ、自身が執筆した最初の小説 『エドウィの愛』を出版。

1905年発行の「ブックニュース」誌では、オニールの挿絵は「人類への広く深い共感と理解がある」と評された[19]

キューピーと新しい女性運動[編集]

Kewpie 女性参政権への投票を促すポストカード, 1914

19世紀のアメリカでは女性にも教育機会が与えられるようになった。女性にとっても芸術は専門的な職業として認められるようになり、芸術団体が設立された。女性の美術作品は二流品と考えられており、こうしたステレオタイプを打破するために、女性は作品を宣伝するときに「自信を持ち、声を大にして言う」ようになった。教育を受け、現代的でより自由な「新しい女 (New woman) 」のイメージの一部になっていった。これはオニールが深く関わった運動であった。[20] [21]

芸術歴史家のローラ・プリエトによれば、芸術家が象徴となる作品を描くことや彼女ら自身の生活を通して「新しい女性」を表し、重要な役割を果たした[21]。 19世紀後半から20世紀初頭には、11,000部の雑誌等定期刊行物の購読者の約88%が女性だった。女性が芸術家コミュニティに参加すると、女性の視点から世界を描いたイラストを掲載するため、出版社は女性を雇うようになった。当時の主な女性作家はジェニー・オーガスタ・ブランズクーム、ジェシー・ウィルコックス・スミス、エリザベス・シッペン・グリーン、バイオレット・オークリーなど。[22]

オニールがオリジナル作品の制作に専念し始めた1908年は、「新しい女性」運動と女性参政権運動 の真っ最中であり、ちょうどこの時期にキューピーのキャラクターを生み出した。彼らの名前「キューピー」は、ローマ神話の愛の神キューピッドに由来する。オニールはこの無邪気なキャラクターに夢中になり、夢を見るようになった。「私はキューピーについてとても考えていたので、彼らが楽しそうないたずらをしている夢を見ました。ベッドや私の手に座っていました。」[25]キューピーは「陽気で困った人々を助ける小さな幸せの使者」だと説明した。[2]キューピーのキャラクターは、1909年に『レディース・ホーム・ジャーナル』誌でデビューした。[20]『ウーマンズ・ホーム・コンパニオン』『グッド・ハウスキーピング』で出版され、さらに人気を呼びました。[26] [27]

1912年、ドイツの磁器会社J.D.ケストナーはキューピー人形の製造を開始。オニールはヴァルタースハウゼンの工場で、人形製造を監督した。[2 ]その後、セルロイドで製造されるようになり、アメリカで最初に量産されたおもちゃの1つとなった。オニールが名声を博するにつれて、彼女はボヘミアンと評されるようになり、熱心な女性の権利提唱者となった。[2] [29]キューピーの成功により140万ドルの財産を得て[23]、ボニーブルック、ワシントンスクエアパーク、コネチカット、イタリア カプリ島などの不動産を購入した。[30]当時オニールは世界でもっとも収入の高い女性イラストレーターだった。[2] [31]オニールはニューヨーク市の芸術界でよく知られており、映画「ローズ・オブ・ワシントンスクエア」は彼女からインスピレーションを得ている。[26]

パリでの生活とその後の活動[編集]

The Eternal Gesture (1922), a drawing by O'Neill

オニールは、裕福になってからも働き続けた。困難の多い自身の人生と、家族からの要求に突き動かされ、さまざまな芸術表現を試みた。オーギュスト・ロダンから彫刻を学び、パリとアメリカで彫刻や絵画の展覧会を開催した。作品は夢と神話に大きく影響を受けた実験的なものだった。1921年から1926年までパリに住んでいる間、フランスのソシエテ・デ・ボザール会員であった関係から、パリのドゥヴァンべ画廊で個展を開催した。1922年にはニューヨークのウィルデンシュタイン画廊で同じ内容の個展を開いた。

1927年にオニールはアメリカへ戻り、1937年までボニーブルックに住んだ。 家族や貧しい芸術家仲間、最初の夫への援助を続けていたため、1940年代までに財産の大部分を失っていた。大恐慌も影響を与え、彼女の作品が世の中から求められていないことを知り、落胆した。 30年間のキューピーブームの後人気は陰り、広告イラストは写真に取って代わった。それでもオニールは、新しい人形を作り実験を続けていたが、生産計画が決まる前に工場が火事にあい焼け落ちた。

私生活[編集]

オニールはミズーリ州ポイントルックアウトのアートカレッジに作品を寄贈し、また、地元のアートコミュニティで活動を続けた。[31]

1944年4月6日、オニールはミズーリ州スプリングフィールドにある甥の家で心不全により死亡。ボニーブルックの家族墓地に、家族と共に埋葬されている。[33] [34]

主要作品[編集]

作家、イラストレーターとして[編集]

  • The Loves of Edwy (Boston: Lothrop, 1904)[1]
  • The Lady in the White Veil (New York: Harper and Brothers, 1909)[2]
  • The Kewpies and Dottie Darling (New York: George H. Doran, 1912)[2]
  • The Kewpies: Their Book, Verse and Poetry (New York: Frederick A. Stokes, 1913)[2]
  • The Kewpie Kutouts (1914)[2]
  • The Kewpie Primer (1916)[2]
  • The Master-Mistress (New York: Knopf, 1922)[2]
  • Kewpies and the Runaway Baby (New York: Doubleday, Doran, 1928)[2]
  • Garda (New York: Doubleday, Doran, 1929)[2]
  • The Goblin Woman (New York: Doubleday, Doran, 1930)[3]

イラストレーター、画家として[編集]

  • The Lions of the Lord by Harry Leon Wilson (Boston: Lothrop, 1903)[4]
  • The Boss of Little Arcady by Harry Leon Wilson (Boston: Lothrop, 1905)[4]
  • The Hickory Limb by Parker Hoysted Fillmore (New York: John Lane Co., 1910)[2]
  • Our Baby’s Book (New York: Woman's Home Companion, 1914)[2]
  • A Little Question of Ladies’ Rights by Parker Hoysted Fillmore (New York: John Lane Co., 1916)[2]
  • Tomorrow's House; or The Tiny Angel by George O'Neil (New York: E. P. Dutton, 1930) – brother–sister collaboration[4]
  • Sing a Song of Safety by Irving Caesar (New York: I. Caesar, 1937)<ref name

出典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ O'Neill 1904, p. 1.
  2. ^ a b c d e f g h i j k Rose O'Neill”. The State Historical Society of Missouri. 2016年4月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年2月7日閲覧。
  3. ^ Library of Congress 1931, p. 2076.
  4. ^ a b c O'Neill, Rose Cecil (1874–1944)”. Women in World History: A Biographical Encyclopedia. Gale Research. 2017年2月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年2月7日閲覧。

文献[編集]

参考文献[編集]

  • Armitage, S. (1994) Kewpies And Beyond, the World of Rose O'Neill. University Press of Mississippi. ISBN 0-87805-711-0.
  • Brewster, L. (2009) Rose O'Neill: The Girl Who Loved to Draw. Boxing Day Books. ISBN 978-0-9798332-3-6.
  • Formanek-Brunell, M. (1997) The Story of Rose O'Neill. University of Missouri Press. ISBN 0-8262-1106-2.
  • Ripley, J. R. (2004) Bum Rap in Branson. Beachfront Publishing. ISBN 1-892339-89-7.
  • Goodman, Helen (1989) The Art of Rose O'Neill. Brandywine River Museum. Exhibition Catalogue.

外部リンク[編集]

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