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1517年にルターが95ヶ条の論題を城教会の門に貼りだしたことで宗教改革が始まった、とされている。
95ヶ条の提題(1522年に刊行されたもの)

95ヶ条の論題』(95かじょうのろんだい、ドイツ語: Die 95 Thesen)、または『贖宥の効力を明らかにするための討論』(しょくゆうのこうりょくをあきらかにするためのとうろん、ラテン語: Disputatio pro declaratione virtutis indulgentiarum)は、1517年10月31日[注釈 1]マルティン・ルターが発表したとされる文書である。テーゼは、論題以外にも、提題や意見書とも訳されるので、『95個条の提題』や『95か条の意見書』などとも言う。

ルターがこの文書をヴィッテンベルクの城教会ドイツ語版の門扉に貼り出し、これが一般的には宗教改革の発端になったとされている。内容は序文と95ヶ条の命題から構成されており、討論を求めたものであったが、カトリック教会による贖宥状(免罪符)販売、特にそれを委託されていた贖宥説教者の所業を強く批判することで、間接的に教会をも批判し、改革を志向したものだと解釈されている。

原文は全文がラテン語で書かれ、すぐにドイツ語訳版がつくられて、活版印刷で大量に印刷されて、ドイツ中に知れ渡ることになった。

概要[編集]

ヴィッテンベルクの諸聖人教会は、ヴィッテンベルクの聖マリエン市教会ドイツ語版(町の教会)の300メートル西にある。これらはすべてアイスレーベンとヴィッテンベルクにあるルター記念建造物群として世界遺産に指定されている。

『95ヶ条の論題』は、中近世のヨーロッパ史における重大事件である宗教改革の契機になった文書である。この文書はマルティン・ルターが1517年10月31日[注釈 1]に、自身が神学教授を務めていたヴィッテンベルクの城教会の門扉に貼りだしたとされている。なお、城教会は、ヴェッティン家ザクセン選帝侯フリードリヒ3世の所有物で、ヴィッテンベルク大学の礼拝堂としても用いられていたが、1760年7年戦争の戦乱で破壊され、現在はヴィッテンベルクの諸聖人教会英語版として再建されているが、多くの遺物は焼失によって現存していない。(ただし諸聖人教会はしばしば城教会とも呼ばれる。)

この文書で提示された95条の命題(下掲)は、2つの根本的な主張に要約できる。つまり「教皇は人間の罪を赦し得る権利を持っていない」こと、「教皇が免じ得る罰は、ただ教皇自身が課した罰に留まる」ことである。これによって金銭の寄進によって全贖宥が付与されるという贖宥状が、人々を大罪から救ってくれるものではないことをルターは論証しただけでなく、むしろ贖宥状を売ったり買ったりする行為は、キリスト者の精神とは相容れないものであると厳しく糾弾した[4]

ルターの批判は、教会というよりも、直接的には贖宥説教者たちに向けられていた。彼がこの議論を公に始めようとした動機も、ヴィッテンベルクの近くでドミニコ会の説教師ヨハン・テッツェルのような人物が贖宥状の販売を始めたことと直接的な関係がある。16世紀、ドイツ地方は世俗化した教会の金蔵のように扱われており、


この文書がその後のドイツの宗教改革の契機になったと言ったが、ルター自身には(少なくとも当初は)大きな運動を起こそうといった意思はなかった。彼は問題を喚起して宗教界での神学的な議論を深めることを希望しただけで、

後の著作がドイツ語でも書かれたのとは異なり、これはラテン語で書かれていて、一般市民には内容は伝わらないはずでもあった。ルターの行為は、当時の学術界(神学)における所定の手続きに則った討論会の告知であるとされ、「門扉に文書を貼った」という歴史的伝承が、実際の事実であったかどうかも結論が出ていない。

ところが、ルターの希望に反して『95ヶ条の論題』についての討議に参加しようという者は1人も出てこなかった[5]。しかもドイツ語に翻訳されて印刷が多数出回ると、すぐにドイツ中で大きな論争を巻き起こした。

ルターが指摘した贖宥状の問題は、カトリック教会の体質と様々な病弊に繋がっており、社会的な問題に対しての導火線の役割を果たしたのである[6]。こうしてルターの意図しないところで事態は進行し、突如として、宗教改革は始まったのである。

掲示がされた期日には異説もあるが、ドイツでは1668年[7]に10月31日を宗教改革記念日Reformationstag)とすると決めて以来、この日を毎年祝っており[7]、ドイツのプロテスタントの多い州では現在も休日とされている。



カトリックプロテスタントを分裂させた端緒になったというイメージは、今も一般的である。



通説では、ルターがこの掲示によって教会を批難したのは勇気ある大胆な行動であり、すぐさまと説明される。

しかし歴史家たちは、ルターがやったことはと指摘している。


この時点では、ルター自身も一般庶民に大きな影響を及ぼすことになるとは考えていなかっただろうというのが現代の学術界の定説である。しかも、

にも関わらず、この文書が、

背景[編集]

贖宥状の歴史[編集]

教皇クレメンス4世から販売を承認されたドム大聖堂の建設のための贖宥状(1265年)
1516年の贖宥状の実物。(シュトラールズント歴史博物館所蔵)

贖宥ということは原始教会から伝えられてきた慣行ではない[8]。ローマ教皇による贖宥で今日知られているものの最古は1091年ウルバヌス2世が公布したものだと言われている[8]1095年、この教皇は第1回十字軍(1096-1099年)を召集するに際して、これに参加する者に対して全面的な贖宥(全贖宥)を与えた[8]。これが贖宥状が大規模に発行された最初の例である[9][注釈 2]十字軍兵士に与えられる贖宥は、その後、人を雇って代理を参加させる者にも、金銭を献納して参加に代える者にも与えられるようになり、その適用は拡大されていった[8]

また、悔悛の刑罰の赦免だけでなく、煉獄における刑罰の赦免をも可能とされ、インノケンティウス3世の下で、この教皇の赦しの特権が永遠の制度となった[11]。十字軍以外に関しても、1265年にはクレメンス4世ユトレヒトドム教会の建設費用を集めるために贖宥状を販売することを許可している。

十字軍運動の情熱が冷めた後でも、霊的なものを金銭に換えることの誘惑(シモニア)は、教会を動かした。ボニファティウス8世は、1300年聖年と定める際に、聖年の贖宥(聖年大赦, Jubilee Indulgence[12]をも制定して、信徒にローマ巡礼を奨励し、ペテロパウロの聖堂へ、ローマ在住者は30日間毎日1回、地方から来た者は15日間毎日1回、詣でる者に完全な贖宥を付与するとした[13]

当時、人口が中小都市程度まで減少していたローマに、多数の巡礼者と巨額な金が流入したことは、都市を大いに発展させたが、一方で市民生活に多大な影響を及ぼした。聖年は創設当初から信仰の証を立てさせるためというよりも、巡礼者をローマに誘致して聖ペテロの墓所に進物をさせる[11]という都市の商業振興策として意図されており、ローマ市民の誰もがこの巡礼に関係した金儲けに勤しむようになったことの信仰面での悪影響への批判は、(教皇の憤死の数年後に書かれた)ダンテの『神曲』(地獄編第19歌)でボニファティウス8世が地獄に堕ちた教皇の列してることによって、すでに表されていた。このようにこの制度は最初から非宗教界からの批判を受けており、宗教心の厚い人々も快く思ってはいなかった。

しかも、この聖年と大赦は100年に1度と定められていたが、教会大分裂期の対立教皇クレメンス6世によって、1343年には[14]ユダヤ教ヨベルの年のように50年に一度とすぐに改変され、本人はアヴィニョン捕囚でローマにいないにもかかわらず、早くも1350年に2回目の聖年が設けられた。ローマの教皇ボニファティウス9世は、1389年にさらに短縮して33年に一度[14]としたが、財政上の理由から周期とは関係のない1390年に3回目の聖年を設け、クレメンス6世の死後には1400年を4回目の聖年とすることを強行した。ボニファティウス9世は収入的な成功に味を占めて、販売網は代理人を通じて全ヨーロッパに拡大された[11]。周期は100年から50年、33年となった後、1470年[14]ついには25年に一度と間隔が短縮された[11]が、(トリエント公会議によって廃止されるまで)これら全ての度に贖宥が出されることになった。さらには巡礼という行為によって贖宥されるべきであったのが、1390年以後は(対立教皇側の妨害などによって)ローマへ巡礼に来られない者にも金銭によって贖宥状が与えられるようにまでなった[13][14]

贖宥状の効能は、最初は限定的であり、「教会が定めた罰」をいくらか減免させるというものだった[15][10]。しかし、特にシクストゥス4世は、バチカン図書館を改造し、システィーナ礼拝堂を建てる費用として、贖宥状を乱発すると同時に、(従来より言われていたように)その効能が現世での罰の減免だけでなく煉獄にいるぶんにまで対象であるとして[3][10]1476年、煉獄の死者のための贖宥状を発行した[11][14]。贖宥の正しい適用範囲については教会法にも明確な規定はないが、法令のような価値を持つ歴代の教皇勅書によって制度化され、合法性が主張されるに至ったのである[16]

メディチ家の教皇[編集]

教皇ユリウス2世は、(再び周期とは異なる)1510年を聖年として全贖宥を公布して、そこから得られた資金を、サン・ピエトロ大聖堂の建設の費用に充てようとした[13]。ユリウス2世はすでに1503年にはドナト・ブラマンテに大聖堂の設計を依頼し、1505年の春にはフィレンツェからミケランジェロ・ブオナローティを呼んで霊廟に造られる自分の墓碑の製作を依頼し、着工は1506年から始めていた。しかし彼はその完成を見ることはなかった。

教皇レオ10世(中)とジュリオ・デ・メディチ枢機卿(右、後の教皇クレメンス7世)。ラファエロ・サンティ作。

次の教皇レオ10世[注釈 3]は、メディチ家ロレンツォ・デ・メディチ[注釈 4]の次男、ジョヴァンニ・デ・メディチその人であった。彼は13歳で枢機卿となった後、1494年のメディチ家のフィレンツェ追放によって亡命を余儀なくされるが、1500年よりローマでユリウス2世に庇護されており、1511年に教皇特使となって、1512年にブルゴーニュ公シャルル2世(後のスペイン王カルロス1世にして神聖ローマ皇帝カール5世)の後ろ楯でスペイン軍(カスティーリャ・アラゴン軍)と共にフィレンツェに帰還し、翌1513年、ユリウス2世が亡くなったことで、若干38歳にして教皇となったという経緯がある。

レオ10世は、前教皇ユリウス2世が始めた事業のほとんど引き継いた。大聖堂建設は、1514年にブラマンテが亡くなった後も、装飾や設計の変更を繰り返して、その建設費用は莫大な額に膨れあがっていた。また同じく前教皇ユリウス2世が残した対フランス戦争イタリア戦争)も、レオ10世は引き継いでおり、1515年に新たにフランス王となったフランソワ1世ミラノに侵攻して戦争に勝利すると、1516年ボローニャの政教条約英語版を結んで、フランス国内では大司教、司教、修道院院長など高級聖職者の任命は王が候補者を指名して教皇が叙階することを容認し、ガリカニスムの要求(ガリア教会の自立[17])を受け入れざるえなかった。

ジョヴァンニが持っていたメディチ家の当主の地位は、甥のウルビーノ公ロレンツォ2世・デ・メディチ[注釈 5]に引き継がれたが、レオ10世は引き続きメディチ家の再興をも助け続けた。前ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレが1517年に教皇領を攻めた時には1万もの傭兵を甥に送って援助したので、トルコ戦争のために教会が集めた戦費を甥のために融通したとの噂もたつほどだった[18]

他方で、レオ10世は、前教皇ユリウス2世と同じかそれ以上に浪費家であり、芸術や文化に惜しみなく財を投じたので、教皇庁の財政は就任から僅か2年にして破綻に瀕した[19]とされ、これらのことから、前任者から引き継いだ諸々の方針・政策によって、何らかの財政的手段を講じることは避けられない状況であった。

ローマの雌牛[編集]

ザクセン選帝侯フリードリヒ3世


中世末期においては、王権がローマ教皇権をそれぞれの国から排除して絶対王政国家へと成長していくのが歴史の趨勢であったが、これの例外ともいうべき地域が、ドイツであった。ドイツは300以上の領邦国家帝国都市に分裂し、神聖ローマ皇帝が君臨するもののその権力は弱く、それぞれの領邦や都市は事実上の独立に近い自治権を持っていた[20]


当時のザクセン選帝侯フリードリヒ3世は、レオ10世とドミニコ修道会の贖宥状販売には異を唱え、ザクセン領内での贖宥状の販売を禁止した[3][21]。と言っても、ザクセン選帝侯が贖宥状の販売を禁じたのはルターのような敬虔さからくる動機ではなく、領内の経済を慮ってのことだったと考えられている[22]

ザクセン選帝侯自身、以前はさかんに贖宥状を販売していて、その売上で聖遺物を収集していた。ザクセン選帝侯の聖遺物コレクションは当時のヨーロッパを代表するものであり[23][注釈 6]、聖遺物を拝むことは、それだけで贖宥になるとされていたので、各地から参拝のために巡礼者が集まってきていた[22]。巡礼者が領内で費やす金はザクセン選帝侯領内の経済を潤していたのだが、贖宥状の販売はこれを妨げる危険性があった[22]

また、領民が稼いだ金が、贖宥状の売上としてローマに送られるということは、ザクセン選帝侯領の富がローマへ流失していることにほかならなかった[22][注釈 7]。当時のドイツは「ローマの雌牛」(乳を絞られる存在)と蔑まれており、ドイツ諸侯はこれを苦々しく思っていた[28][29]

この贖宥状はドミニコ修道会の修道士が販売を請け負っていたので、ザクセン選帝侯はドミニコ会の修道士を全員領内から追放したのだった[22]。しかしテッツェルはザクセン領地のギリギリまで行って贖宥状販売を行ったので、ザクセンの領民の中からも数多くの者が贖宥状を買いに行った[30]


大聖堂建設と大司教座位[編集]

ホーエンツォレルン家出身のマインツ大司教アルブレヒト(1526年、ルーカス・クラナッハ作)

一方、ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム1世の弟で、ホーエンツォレルン家出身のブランデンブルクのアルブレヒト英語版は、すでにハルバーシュタット司教座英語版マクデブルク大司教座英語版の司教職を占めていたが、選帝侯の聖界諸侯の1つで、より大きな聖座であるマインツ大司教座を望んで、



レオ10世の贖宥状のからくり


ルターの批判の対象になったレオ10世による贖宥状は「聖ペテロ大聖堂の再建費用を集める」という名目で発行されていた。が、実はその本当の使途は違っていた。この贖宥状の売上は、最終的にはフッガー家という金貸しのところに入ることになっていた。これはローマ教皇レオ10世と、マインツ大司教アルブレヒトドイツ語版英語版の借金返済のためのものだった。ただし、当のルターはそのような仕組みは全く知らなかった。一般庶民と同じように、「大聖堂の再建」に使われると考えていた[31][3][15][32][33]


贖宥状批判[編集]

一般指導要綱(Instructio summaria


贖宥状を売る聖職者が悪魔として描かれている。ルター登場前(1490年から1510年頃)のもの。


こうした贖宥状を批判したのはルターが初めてではない。14世紀にはウィクリフ、15世紀にはフスが贖宥状の販売を批判している[10][注釈 8][注釈 9]



贖宥状批判を突然始めたわけではない

ルターは、アウグスティヌス修道会出身で、ヴィッテンベルク大学に招かれ、そこで神学博士号を取得した人物である[22]。自身の体験に基づく一風変わった授業を行い、ヴィッテンベルク大学の神学講義の改革を行っており、学内では有名な人物だった[22]。しかしこの時点ではドイツ全体としてはまだ無名の存在だった[32]

ルターは掲示を貼りだす以前から、贖宥状批判を繰り返していた[3]。記録の残るところでは、1516年7月27日の説教で贖宥状の有効性に疑問を呈し、これが招く倫理の退廃を指摘している。これはちょうどテッツェル一行がザクセン領にもっとも近づいた時期である。ザクセン領を出て贖宥状を買い求めてきた庶民たちは、贖宥状売りの様子をルターに話して聞かせた。それはルターを怒らせるものだったという[3][注釈 10]

ルターが「掲示」を行ったのは、それから1年3ヶ月後のことである。10月31日当日の昼間の説教でも、ルターはこの問題を発言していたという[3]


贖宥説教者[編集]

ジョバンニ・アンジェロ・アルチンボルディドイツ語版

内容[編集]

序文[編集]

ルターの「九十五か条の論題」(抄) 日本大百科全書』 - コトバンク
AMORE ET STUDIO ELUCIDANDAE, veritatis haec subscripta disputabuntur Vuittenbergae, Praesidente R. P. Martino Luther, Artium et S. Theologiae Magistro eiusdemque ibidem lectore Ordinatio. Quare petit, ut qui non possunt verbis praesentes nobiscum disceptare agant id literis absentes. In nomine domini nostri Iesu Christi.Amen.

—第1頁の表題部(ラテン語)

真理への愛と、それを明らかにしようとする願いから、ヴィッテンベルクにおいて、文学修士、神学修士、同地の神学正教授である司祭マルティン・ルター司会のもとに、以下のしるされたことについて討論することにする。したがって、出席して私たちと口頭で論議することのできない者は、欠席のまま書面でこれをしていただくようにお願いする。私たちの主イエス・キリストの御名において、アーメン[34]

—ルター著作集分冊 1『九十五個条の提題 キリスト者の自由』

命題[編集]

『95ヶ条の論題』は、ウィキソースにラテン語の原文の他、英語訳やドイツ語訳など多言語の翻訳版が収録されており、日本語訳については、聖文舎からルター & 緒方 訳 (1983)[注釈 11]などや教文館からルーテル学院大学・ルター研究所 (2005)などが出版されている他に、コトバンクルーテル教会のサイト[36]でも、全文が公開されており、誰でも自由に参照することが可能である。以下は条々を多少簡略化した要約および引用である。

1520年のルターの肖像(銅版画)。
『煉獄より魂を救済する天使』。ルドヴィコ・カラッチ作。


テッツェルの風刺画。「So bald der Gülden im Becken klingt, Im huy die Seel im Himel springt(グルデン金貨がチリンと鳴れば、魂はポンと天国へ飛び上がる)」との謳い文句で贖宥状を売りさばいていたとされている。
「贖宥状の販売」。ハンス・ホルバイン作。左では不虞の貧者にも贖宥状が売りつけられており、右では箱に投げ込んだ金がチャリンと鳴る様子が肥え太った贖宥説教者と共に描かれ、背後の教皇は売り上げの報告を受けている。
教皇からの委任状を貼り付けた十字架を背にして贖宥状を売る説教者テッツェル。(ヨハン・ワーグナー作)


ミケランジェロが教皇レオ10世にサン・ロレンツォ大聖堂 (フィレンツェ)英語版のモデルを示す」。ヤコポ・ダ・エンポリ英語版作。メディチ家出身の教皇は文化・芸術を愛して芸術家を庇護した反面、大変な浪費家で、教皇庁の財政を破綻させた。
「楽しみを販売している教皇」。教皇を反キリストであると暗示する内容の免罪符の販売を批判したルーカス・クラナッハ作の風刺画で、1521年のルターの著作『Die Rolle des Passional Christi und Antichristi』の挿絵[37]
  1. 主は人々に全生涯の悔い改め[注釈 12]を求めた[34]
  2. それを秘跡としての悔悛[注釈 13]告解と償罪)であると解することはできない[39]
  3. しかも単に内的な悔い改めをさしているのではない。外的な苦行のない内的な悔い改めは無に等しい[39]
  4. 天国に入るまでは罰(ポエナ)は続くものである[39]
  5. 教皇は、自身または教会法が課した罰を除いて、どのような罰をも赦免できない[39]
  6. 教皇は、神から罪責(クルパ)が赦免されたと宣言して赦免する以外、どのような罪責も赦免できない[39]
  7. 神は、人が全てのことにおいて神の代理人である司祭に従っていなければ、罪責を赦免し給わない[39]
  8. 悔悛についての教会法は死に臨んでいる人に課されてはならない[40]
  9. そのために聖霊は、教皇をよって私たちによいことをし給うている[40]
  10. 死に臨む人に、教会法による悔悛を煉獄にまで留保する司祭は、無知で悪い行いをしている[40]
  11. 教会法による罰を転じて煉獄による罰とまでしているのはあの毒麦[注釈 14]によるものと思われる[40]
  12. かつては、教会法による罰は、赦罪(アプソルティオ[注釈 15]の後ではなく前に課さられていた[40]
  13. 死に臨む人たちは、死によってすべてを支払うのであり、教会法からは当然解放されている[40]
  14. 死に臨んでいる人たちの不完全な信仰や愛は必ず大きな恐れを伴う[40]
  15. この恐れとおののきは、それだだけで煉獄の罰をなしている[42]
  16. 地獄、煉獄、天国の異なりは、救いのたしかさ(セクリタス)の異なりと同じように思われる[42]
  17. 煉獄にある魂にとって、おののきが減じられるに応じて愛が増し加えられる[42]
  18. 煉獄にある魂が、功徳や愛の状態の外に置かれているということは、聖書で証明されていない[42]
  19. 煉獄にある魂が、自分の救いについて確信し、安心しているということは証明されていない[42]
  20. 従って、教皇が全ての罪の完全赦免と言っても、ただ彼自身によって課された罪の赦免とだけ解される[42]
  21. 従って、教皇の贖宥[注釈 16]によって人間は全ての罪から赦免され、救われるというあの贖宥説教者たちは誤っている[44][注釈 17]
  22. 教皇は、煉獄にある魂に対して赦免することはできない[44]
  23. もし全ての罪の赦免が誰かに与えられるならば、それはごく僅少な最も完全な人だけである[44]
  24. つまり、大部分の人は罰の免除についてのけじめない約束によって欺かれたことになる[44]
  25. 教皇が一般的に煉獄に持っている権限は、どの司教も主任司祭も持っている[44]
  26. 教皇は代祷の方法によって魂の赦免を与えるのが至当である[44]
  27. 箱の中へ投げ込んだ金がチャリンと鳴るや否や、魂が煉獄から飛び上がるという人たちは、人間を宣べ伝えている[注釈 18]のである[44]
  28. 金が箱の中でチャリンと鳴ると、利得と貪欲は増すが、教会のなすべきところではない[45]
  29. 煉獄で魂の全てが贖われることを願っているか知るよしもない[45]
  30. 自分の痛悔(コンチリサン)[注釈 19]が真実であるか、誰も確かではない。まして完全赦免を得たかどうかはなおさらである[45]
  31. 真に悔い改める者がまれであるように、真に贖宥を買う者もまれである[45]
  32. 贖宥状で自分たちの救いが確かであると信じる人たちは、その教師たちと共に、永遠の罪を定められるであろう[45]
  33. 教皇のするあのような贖宥は、人間を神と和解させる神の賜物であるという人を、警戒せよ[45]
  34. なぜなら、あの贖宥の恵みは人間によって制定された償罪の罰にだけかかわるからである[45]
  35. 魂を煉獄から買い出し、あるいは、告解証を買おうとしてる者に、痛悔が不要であると教える人たちは、非キリスト教的なことを説いている[47]
  36. 真に痛悔したキリスト者なら、贖宥状がなくても、罪と罪責より完全赦免を持っている[47]
  37. 真のキリスト者なら、生死に関わらず、贖宥状がなくても、神が彼に与え給うたキリストと教会の宝に与っている[47]
  38. しかし、教皇からくる赦免と伝達とは決して侮蔑してはならない。なぜなら神の赦免の宣言であるからである[47]
  39. 最も博学な神学者たちにとっても、贖宥の寛大さと痛悔の真実さを同時に褒めることは、最も困難である[47]
  40. 痛悔は罰を求め、これを愛する。しかし贖宥の寛大さは罰をゆるめ、これを憎むようにしむける[47]
  41. 使徒的贖宥[注釈 20]は、誤解されないように説かなければならない[48]
  42. 贖宥を買うことが、憐れみのわざに比肩するものだということは、教皇の考えではないことを、キリスト者は教えられなければならない[注釈 21][49]
  43. 貧者への施し、困窮者への貸与は、贖宥を買うよりも、より良い行いをしているのである[49]
  44. なぜなら、愛のわざによって愛は成長し、人間はより良くなるが、贖宥によっては人間はより良くならず、ただ罰から自由となるに過ぎないからである[49]
  45. 困窮している者を見て、彼を無視して贖宥に金銭を払う人は、教皇の贖宥ではなく、神の怒りを自分に招いているのである[49]
  46. 有り余るほどの金持ちでない限り、贖宥のために浪費してはならないのである[49]
  47. 贖宥を買うのは自由であって、命じられたことではないのである[49]
  48. 贖宥を与える場合、教皇は金銭の額以上に、自分のために熱心な祈りを、より求め、より望んでいるのである[50]
  49. 教皇の贖宥は、人々がこれを信じないのであれば有益であるが、これによって神への恐れを捨てるのであれば最も有害である[50]
  50. もし教皇が贖宥説教者たちのする取り立てを知っていたならば、彼は聖ペテロ聖堂[注釈 22]が、灰と消えることを選ぶ[50]
  51. 教皇は(もし必要ならば)聖ペテロ聖堂を売ってまでも、(取り立てにあった)あの人々に、自分の金のうちから与えるべきであるし、そのように欲している[50]
  52. たとえ、委任された者、否、教皇自身が自分の魂をかけて保証したとしても、贖宥状による救いを信頼することは虚しいことである[50]
  53. 贖宥を説教するために、他の諸教会では神の御言が全く沈黙するうように命ずる人たちは、キリストの敵、教皇の敵である[51]
  54. 同一説教の中で、贖宥が神の御言と同等かそれ以上に時間を割かれるならば、それは神の御言に対する不正である[51]
  55. 贖宥が一ならば、福音は百でもって、説教されねばならないというのが、必ずや教皇の考えである[51]
  56. 教会の宝から教皇は贖宥を与えているのであるが、それはキリストの民には述べられてもいないし、知られてもいない[51]
  57. 説教者の多くがこの宝を放出しないで、ただ集めることだけをしている[51]
  58. また、それらの宝はキリストと聖徒たちの功績でもない[51]
  59. 聖ラウレンティウスは、彼の時代の語法で、教会の宝は教会の貧者たちであると語っている[52]
  60. 私たちは、教会の鍵が教会の宝であると言うが、無思慮に言っているのではない[52]
  61. なぜなら、罰と教皇の留保事項との赦免については、ただ教皇の機能だけで十分であることが明らかだからである[52]
  62. 教会の真の宝は、神の栄光と恵みと最も聖なる福音である[52]
  63. しかし、この宝は、第一の者を最後の者とするので[注釈 23]当然最も憎まれるものである[52]
  64. 他方、贖宥の宝は、最後の者を第一の者とするので、当然最も喜ばれるだろう[52]
  65. 従って、福音の宝は、かつて富める人々を漁った網である[52]
  66. 贖宥の宝は、今の人々の富を漁っている網である[52]
  67. 説教者たちが最大の恵みだと呼びたてている贖宥は、利得を増大させる限りにおいて、真に最大の恵みだと解される[53]
  68. しかし、贖宥は神の恵み十字架敬虔とに比較すると、実際最も小さいものである[53]
  69. 司教や主任司祭は、使徒的贖宥を委任されている者たちを敬意を尽くして認める義務がある[53]
  70. しかし、彼らは、これら委任されている者たちが教皇の委任の代わりに、自分たちの夢を説教することがないように注意する義務がもっともっとある[53]
  71. 使徒的贖宥の真理に反して語る者には、アナテマ呪いとあれ[53]
  72. しかし、贖宥の説教者のことばの欲と放恣とに対して、真に用心する者には祝福あれ[53]
  73. どのような方法であれ、策謀して贖宥の売買に害を加えようとする者たちを、教皇が雷で打つのが正当であるのと同様に[53]
  74. それより更に教皇は、策謀して贖宥を口実として聖なる愛と真理とに害を加えようとする者たちを、雷で打とう意図するのである[54]
  75. たとえ神の母を犯したとしても、教皇の贖宥がその人間を解放しうるほどに大きいと考えるのは、狂っているのである[54]
  76. これに反して私たちは、教皇の贖宥は、小罪(ヴェニアリア・ペッカタ)のうちの最も小さいものでも、罪責に関する限りでは、これを除去できないと言うのである[54]
  77. もし聖ペテロが今教皇であったとしても、彼はそれより大きい恵みを与えることができないと言うことは、聖ペテロと教皇に対する冒涜である[54]
  78. これに反して私たちは、現教皇も、またどの教皇も贖宥よりも大きいもの、福音、諸力、癒やしの恵みを持っている[注釈 24]と言うのである[54]
  79. 教皇の紋章を付けて立てられた十字架が、キリストの十字架と同じであるというのは、冒涜である[54]
  80. このような説教を許している司教、主任司祭、神学者たちは、釈明しなければならないだろう[55]
  81. 贖宥についてのこのような気ままな説教のせいで、教皇への敬意を救ってやることが、博学の人たちでさえ容易ではないようにしている[55]
  82. すなわち、「もし教皇が大聖堂建設のための最も汚れた金、すなわち、最も卑し理由によって無数の魂を贖うとすればなぜ教皇は最も聖なる愛や魂が最大に必要とするもの、すなわち、全てのうちでも最も正しい理由によって煉獄をからにしないのであろうか[55]
  83. また、「贖われた者のために祈ることはすでに不正であるのに、なぜ死者のための葬式や記念がいつまでも続くのであろうか。また、なぜ教皇は死者のために捧げられた献財を返さなかったり、回収することを許さなかったりするのであろうか[55]
  84. また、「不敬虔な者、敵対する者には、金を出せば敬虔で神の愛する魂を買うことを認めながら、敬虔で愛される魂自身の必要のためであるなら、これを無償の愛によって贖うことをいないような神と教皇との新しい敬虔とはなんであろうか」[55]
  85. また、「すでに長い間、死物となっていた悔悛の教会法規が今になっても、贖宥の許可のため、金でもって請け出されているのはなぜであるか」[56]
  86. また、「もっと富める階級よりも、今日では豊かな財を持つ教皇が、なぜ貧しい信者の金よりむしろ自分の金で、この聖ペテロ教会一つ建てないのか[56]
  87. また、「全き痛悔によって完全赦免と恵みに与る権利と十分に持つ者に対して、教皇は何を赦免し、何を分かち与えるのであろうか」[56]
  88. また、「教皇はいま一回だけしているが、もし一日百回どの信者にもこれらの赦免と伝達を与えるなら、それよりも大きなよいことが教会に加えられるであろうか」[56]
  89. 「教皇が贖宥によっては、金よりもむしろ魂の救いをもとめていることからすれば、彼は、すでに有効である以前に与えられた文書と贖宥とを、なぜ停止させるのか」[56]
  90. 以上のような信徒の議論を、力だけで抑えたり、理由をあげて解かなかったりすることは、教会と教皇とをの嘲笑にさらすことである[57]
  91. 従って、もし贖宥が教皇の精神と意図に従って説教されるとするならば、これら全てのことは容易に解消するであろう[58]
  92. だから、キリストの民に「平安、平安」という[注釈 25]、全ての(偽りの)預言者は立ち去るがよい、そこに平和はない[58]
  93. キリストの民に「十字架、十字架」という、全ての(偽りの)預言者は幸いである、そこに十字架はない[58]
  94. キリスト者はその首であるキリストに、罰、死、地獄を通じて、従うことに励むように、勧められねばならない[58]
  95. そしてキリスト者は平安の保証によるよりも、むしろ多くの苦しみによって、天国に入ることを信じなければならない[58][注釈 26]

解説[編集]

ルターの行動[編集]

掲示[編集]

ユリウス・ヒューブナーの1878年の宗教画。見守る群衆の眼前で論題の掲示が行われてる様子が描かれているが、これは伝説を具現化したもの。

ルターが、ヴィッテンベルクの城教会の門扉に『95ヶ条の論題』を貼りだしたのは、1517年10月31日の正午[59][60][61](または夜中[3][注釈 27]であったとするのが、400年以上[62]も一般に信じられてきた通説であった。そして翌11月1日はカトリック教会の諸聖人の日(万聖節)と城教会の献堂記念日とにあたり、この貼り紙は祭りに集まる人々の目に留まることになった[3]という解説が付加されてきた。

ところが、ルター自身の言葉を信じるならば、論題を掲げたのは、諸聖人の日当日であったと考えるしかない。しかも、ルターの言葉からは論題を書いたことは確かめられるが、ヴィッテンベルクの門扉に掲げたとは、彼が63歳の生涯を終えるまでただの一度も言ったり書いたりしたことがないということが、史料から判明しているのである[63]。このため、1960年代から現在にかけて、神学者や歴史家の間でこれが大きな議論となっている。

多くの研究にも関わらず、ルターが本当にこのような文書を掲示したのか、その事実性には論争があって解決していない[3][64][65]。カトリック側の研究が史実ではなく伝説に過ぎないとする一方で、プロテスタント側の研究は史実を否定するような確信を得るほどの根拠はないと反論する[62]。日付が違うという説もあれば、ルター自身が自分で門に打ち付けたのか、人にやらせたのではないかという議論もある[59]

掲示は史実か伝説か[編集]

「テーゼンの扉」と呼ばれる諸聖人教会の門扉。当時は木造だったが、実物は城教会と共に戦禍で焼失し、現在は扉を模した青銅板が貼られている[66]

論題提示に関する論争の発端となったのは、ルター文献学者ハンス・フォルツドイツ語版[注釈 28]の研究であった。彼は無批判に伝承されてきた誤謬や見当違いの憶測を取り除いて、史料だけに基づく検討で、前後の事情を明らかにしようとした最初の人物であった。そして彼は1959年にそれを著書として出版し、ヴィッテンベルクの城教会の門扉に論題が掲示されたことは事実であると推認したものの、ルター本人が「1517年の諸聖人祝日の当日であった」と度々述べていることを根拠に、その日は11月1日であったと主張した[67][注釈 29]

論題提示の期日に関する問題は、クルト・アーラント英語版ハインリヒ・ボルンカムドイツ語版が証明したように、ユダヤ人の間において安息日はその前夜から始まっていたのと同じように、カトリック教会においても歴史的に主要な祝日は長らく前夜祭を伴って行われていたことから、諸聖人の祝日も10月31日夜から11月1日までをさしていたのだ[68]という反論もされた。

この問題はプロテスタントの神学者や歴史家の間だけで議論されてきたが、論題掲示の事実そのものを否定するカトリックの神学者が参加したことで論争は異なる展開に発展した。1961年、カトリックの教会史家エルウィン・イーゼルロードイツ語版は『ルターの論題提示は史実か伝説か』と題する論文を発表して、論題掲示はなかったと主張して、ドイツ学会に衝撃を与えた[69]。この後の1964年10月8日に開かれた第26回ドイツ歴史家学会ドイツ語版では、フォルツ、イーゼルロー、アーラントが議論を戦わせた[70]

フォルツは、期日に関して1517年のルターの証言が7点に限られる事[71]、ルター存命中の他の記述者の報告が8典[72]あることを示して、そのいずれもが1517年10月31日に掲示が行われたとは書かれていない事実を指摘した[73]。そしてルターが1517年10月31日にヴィッテンベルクの城教会の門扉に95ヶ条の論題を掲示したという伝統的見解が書かれてある最古の文献は、同僚だったフィリップ・メランヒトンが記述したもので、ルターが1546年2月に死去してから3ヶ月後に出版されたルターのラテン語著作集第2巻(1546年)の序文の中であることを[3][73]フォルツは発見した。ただし、メランヒトンが序文で述べているルターの簡単な伝記は、ハインリヒ・ベーマードイツ語版の研究によって間違いが多いことがすでに明らかになっており、記述は信憑性に疑問があった[73][注釈 30]。このためフォルツは、(ルターの証言と整合しない)日付はメランヒトンによる誤りであると判断したのである[73]

他方で、イーゼルローはフォルツが用いた全く同じ史料により異なる結論を導き出した。つまり、ルターが直属の上司にあたる宗教諸侯に手紙を送ってアルブレヒト大司教の一般指導要綱を撤回されるように願ったが、返事が得られないか、不十分な返事しか得られなかったので、あとになって論題を公表したと(ルター本人が)証言していたことに注目して、もし仮に1517年10月31日に門扉に論題を掲示してしまっていたら、ルターはアルブレヒトやヒエロニムス・シュルツドイツ語版[注釈 31]司教が手紙の返事を書く時間的余裕を全く与えなかったことになると、その矛盾を指摘したのである。さらにイーゼルローは、これらの史料のどこにもルターが城教会の門扉に論題を掲げたとは書かれておらず、前述のようにルターと同時代の他のどの史料においても論題提示ついて記述がないこととメランヒトンの記述の史料的価値の希薄さを併せて考えて、フォルツよりも一歩踏み込んで、これは根拠のない伝説であり、論題の掲示は行われなかったと史実性を否定するに至った[75]。イーゼルローは1966年に敢えてサブタイトルに『論題掲示は起こらなかった』と付けた書籍を出版しているが[76]、彼は1517年10月31日は確かに宗教改革の誕生日であるが、それは論題掲示の日ではなく、アルブレヒトに論題を同封したラテン語の手紙を送った日であると述べている[77]

これに対してプロテスタント側も反論した。1967年フランツ・ラウドイツ語版は、ルターのゲオルク・シュパラティンドイツ語版[注釈 32]宛の手紙を根拠に、論題が1517年の11月5日以前にすでに公にされていたと推定されると主張し[78]、1517年10月31日にアルブレヒトに宛てられた手紙においてルターが求めているのは一般指導要綱を撤回であって返事ではなく、よってルターは返事を待つ必要はなかったとした。各史料を検討したラウは、結論としてルターは論題を10月31日か11月1日に専門家との討論を求めて公表したと考えた[79]


掲示された文書[編集]

ルターが1517年10月31日に張り出したとされる文書を、印刷されたものだった[80]とする書籍があるが、

実際には印刷か手書きのものだったのかわかっていない[59]


一般に当時の大学の掲示板に貼りだされる文書は、手書き、印刷どちらの可能性もあった[59]が、ルターの論題の原本も、印刷前の版も現存しない[59]


印刷された論題が登場するのは1518年1月[81]で、

早くとも1517年12月20日。



カトリックの教会史家クレメンス・ホンゼルマンドイツ語版によれば、ルターの論題の原型はアルブレヒトの手紙に同封されたものであるとするが、これは散逸してしまった[75]


アルブレヒトはこれをそのままローマ教皇庁に回送した。



現存するのは、マインツ大司教アルブレヒトを経由してローマ教皇レオ10世に送られたものだけである[82]

ただしその中身は、1517年末にライプツィヒで印刷されたコピーと同じである[82]


実際に門に貼りだしたかどうかや正確な日付はわからないが、いずれにせよこの時期にルターがこの文書を公表したことは確からしい[65]

掲示の意義[編集]

教会の門扉に掲示を行うのはよくあることだった


諸聖人教会で展示されている95箇条の論題の全文。



このように、公の場で、壁新聞のように多くの人の目に触れるようなやり方で教会を告発してみせたというのは、現代の読者には果敢な行動であるという印象を与える[22]。しかし実際には、これは当時としては極めて一般的な出来事だった[22]

当時のヴィッテンベルクの人口は2,000人程度である[32]。人口規模は大きくないが、ザクセン選帝侯の本城であると共に、1502年に開設されたばかりのヴィッテンベルク大学があった[32]。町の西端にある選帝侯の居城に隣接して城教会があり[32]、その門は日常的に大学の掲示板として利用されていた[22]

ヴィッテンベルク大学の神学博士だったルターが掲示した文書は、全編にわたってラテン語で書かれており[3]、一般市民には読めないものであった[32]。つまり、ルターはこの文書を以って一般市民に問題提起しようという意図は全く無かった[3]

掲示板にこうした文書を貼りだすのは、当時の神学者が公開討論を申し入れる際の所定の手続きであり[22]、その決め事に沿った定型的な行動に過ぎない[32]。こうした公開討論は、当時の神学者が修練の一環として日常的に行っていたもので、特別なものではない[22]。討論を行いたい者は、議論のテーマをラテン語でまとめ、討論の希望日時や場所を明記して掲示板に貼るというのが、決められた手順だった[22]

そしてこの手順では、討論を申し入れた者は、掲出したのと同じ文書を聖職者としての上司・関係者に対して送付する義務がある[22]。写しを複数必要とするがゆえに、この文書は当時普及し始めたばかりの活字を用いて紙に印刷されたものだった[32][注釈 33]


ルターは手順にしたがって、この文書を当時のドイツの首座司教であるマインツ大司教にも送っている[83]


ところが当時のマインツ大司教アルブレヒトドイツ語版こそ、ローマ教皇やフッガー家と結託し、問題となっている贖宥状を売って利益をあげている張本人だった[3]。これは偶然であり[22]、ルター本人も自分が批判しようとしている贖宥状の利益がマインツ大司教アルブレヒトの懐に入る仕組みになっているとは知らないままに文書を送付したと考えられている[32]。ルターはマインツ大司教にこの文書を送るにあたり、「私の最良の父、私の牧者」と呼びかけている[84]。これについて、19世紀のイギリス女王ヴィクトリアが「アルブレヒトはさぞや面白くないことだったであろう」と評したと伝わっている[22]

100周年となる1617年に描かれた寓意画。ルターが門扉に直接文字を書き込んでいるように描かれ、そのペンはライオンの耳を通って教皇のティアラを揺るがす。右にはフリードリヒ3世が予知夢を見ている。

反響と事態の推移[編集]

宗教界は当初、あまり問題視しなかった[編集]

シュタウピッツ
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シュタウピッツ

ルターが95ヶ条の論題を貼りだしたのは、多くの一般市民に教会の不正を周知する目的ではなく、学問的な討論を呼びかけたに過ぎなかった[3]。ルターはアウグスティヌス修道会に属しており、ルターが討論を呼びかけた相手方はドミニコ修道会だった[22]。ドミニコ修道会こそ、贖宥状の販売を請け負ってドイツ中で売りさばいていた張本人だったからである[15]

しかしルターによる呼びかけにも関わらず、ドミニコ修道会との討論会は実現しなかった[22]。当時のヴィッテンベルクの支配者であるザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒは、領内での贖宥状を禁じる目的でドミニコ会修道士を領地から全員追放していた[22]。ドミニコ会修道士はそもそもヴィッテンベルクに立ち入ることができなかったのである[22]

ルターから「論題」の写しを受け取ったマインツ大司教アルブレヒトは、これをマインツ大学に委ね、周囲にはこの件について一切の言及を禁じた[85]。そのうえで自分の上席にあたる人物、すなわちローマ教皇レオ10世へ文書を回送した[82]。アルブレヒトはこれによって、この件についての自己の責任を免れると考えた[85]。そしてレオ10世こそ問題の贖宥状の販売の総元締めである[3]

そのレオ10世は、当時の大多数の人々と同じように、これをアウグスティヌス修道会とドミニコ修道会の小競り合いに過ぎず、「修道士どもの口喧嘩」程度のことと考えていた[86][87]。ルターは「酔っぱらいのドイツ人」であり、しらふに戻れば違うことを言うだろうと評したとも伝えられている[32][注釈 34]。この時点でのルターの主張は要するに、誤りを犯しているドミニコ修道会に対し、正しいカトリックの教義を説こうとしているものだった[22]。レオ10世はアウグスティヌス修道会のドイツの長ヨハン・フォン・シュタウピッツドイツ語版にこの件を委ねることにした[82]。シュタウピッツはルターの主張に理解を示し、1518年4月25日に開かれる修道会の総会で議題にするように提案した[82]

そのほかの聖職者たちも、表立った反応はさし控えた。ブランデンブルク司教のヒエロニムス・シュルツドイツ語版のところにもルターから文書が届いたが、シュルツは読みさえしなかった。それでいてルターに自筆で親切な返事を書き、ルターの主張にはカトリックの教義に反するものは見受けられないし、贖宥状の販売は自分も嘆かわしいと感じるが、今は口を噤んでおいたほうがいいだろう、と伝えている。シュルツには、とにかくルターのいるザクセンとマインツ大司教の本拠[注釈 35]であるブランデンブルクの対立に発展するのを避けたいという思いしか無かったと考えられている[89]

活版印刷術とドイツへの拡散[編集]

ドイツ語版(1557年刊)
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ドイツ語版(1557年刊)
1517年のニュルンベルク版。この写しは1891年にロンドンの古書店で発見され、現在はベルリン州立図書館に収蔵されている[90]。
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1517年のニュルンベルク版。この写しは1891年にロンドンの古書店で発見され、現在はベルリン州立図書館に収蔵されている[90]

ところが、何者かがこの文書をドイツ語に翻訳した[3]。ヴィッテンベルク大学の学生の仕業だとも言われている[22]。それがバーゼルニュルンベルクライプツィヒの印刷業者のもとへ持ち込まれ[3][90]、当時普及し始めた活版印刷によって複製された[83]。これが短い間にドイツの各地に広がっていき、さらにドイツ語以外にも翻訳されてヨーロッパ中に伝えられた[22]。ルターはこれを「天使ご自身が飛脚であったかのごとくに、14日間のうちに早くも全キリスト教界を一巡した」と評した[91]

なお、このとき3箇所で印刷されたラテン語の文書はそれぞれ300部ほどが出回ったと考えられているが、そのほとんどは現存しない[90]。ニュルンベルク版は1891年にベルリンの学芸員がロンドンの古本屋で発見し、現在はベルリンに収蔵されている[90]。このニュルンベルク版には、冒頭部に「真理に対する愛から、」で始まる長い題名が付けられている(本節最上部参照。)[90]。バーゼル版では文書にラテン語で「Disputatio pro declaratione virtutis indulgentiarum(贖宥の効力を明らかにするための討論[92])」という題名が付け加えられている[90]。各地の文書はいずれも無記名であり、出版者は不詳である[90]

このように、新技術である活版印刷術がルターの主張の普及に重要な役割を果たした、という見方は多くの歴史家たちが支持している[93]。とは言っても、当時のドイツの識字率は平均して4パーセントから5パーセント程度だった[93] [注釈 36]。当時の人口とルターの出版物の出版数の推計から逆算すると、実際にルターの著作物を手にしたのは43人に1人程度に過ぎなかった[93]。当時活躍したのは、図像や平易な韻文入りの木版画によるパンフレット[注釈 37]と、説教師である[96][94]。印刷物が果たした役割はそうした説教師を感化するところにあった[93]

各界の反応[編集]

ルターを悪魔のバグパイプに模した反ルター派による風刺画(1530年頃)。
ヨハン・テッツェル
異端者は三週間のうちに火に投げ込まれて、入浴用の帽子を被ってあの世行きだ。
ヨハン・テッツェル

この結果として、ルターの言説は大反響を巻き起こした[97]。しかし、純粋に学問的な討論を呼びかけたに過ぎないルターにとっては、これは予想外のことだった[32]。しかし肝心の神学者たちからはほとんど無視された格好になり[3]、ルターが望んだ学術的討論は実現しなかった[85]

ルターが名指しで批判したドミニコ修道会だけは敏感に反応した[88]。ルターには関係無いのだが、ドミニコ修道会には以前から敵がいて、自分たちは攻撃を受けて迫害されていると考えていた[注釈 38]。そこへ新たにルターという敵が増えたという格好になっており、深刻な事態だと受け止めたのである[88]

1518年1月20日、オーデル川のフランクフルトで開かれた修道士の総会で、ドミニコ修道会士で異端審問官でもあるヨハン・テッツェルがルターに反発して贖宥を認める論文を発表し、ルターを火刑にすべきだと気勢をあげた[82][88]

一方のアウグスティヌス修道会では4月25日の総会でルターが演説した[82]。この総会にはブツァーブレンツドイツ語版も出席しており、ルターに感銘を受けた彼らはのちに宗教改革の指導者となる[82]

当時の人々は、これを単なるドミニコ修道会とアウグスティヌス修道会のいつもの小競り合いだとみなして[87]、面白おかしく眺めていた。修道会そのものをよく思わない人々は、「修道会同士の喧嘩」を煽り立て、嘲笑し、対立の火が燃え上がるのを愉快に見物していた[99]

ウルリヒ・フォン・フッテン
―たぶんまだ何にも御存知ないでしょうか。ザクセンのヴィッテンベルクで一派が教皇の権威に反抗しようとしていますし、他の一派は教皇の贖宥を弁護しています。修道士たちが両陣営をあげて戦うようにさせています。両方の確乎たる修道会長は熱く、激しく、軽率に、どなったり、吠えたり、涙を流したり、天に向かって訴えたりしていますし、そのほかに両陣営ともに、何か書こうと思い、図書館に走りこんでいく者がいます。人々は提題や反対提題や、推論や条項を売りさばいています。……私は、彼らがたがいに殺しあってしまうだろうと思います[99]

人文学者ウルリヒ・フォン・フッテン(友人に宛てた書簡の中でより)



一件が妬みと悪意から起ったというのは、ほぼ確かなことでしょう。アウグスティヌス会士はドミニコ会士を妬んでおり、ドミニコ会士はアウグスティヌス会士を妬んでおり、両者はフランシスコ会士を妬んでいるのです[88]

—アントワープの人文学者(スペインの人文学社に宛てた書簡の中でより)

ルターの対応[編集]

この間、肝心の神学者たちからほとんど反応がなかったことに立腹したルターは、贖宥状の売り手を追撃するような小論『贖宥と恩恵とについての説教』を刊行した[3]。「95ヵ条の論題」と大きく違うのは、これがドイツ語で書かれたということである。このことはこの『説教』が、「論題」のように学者向けのものではなく、一般庶民向けに書かれたことを意味している。『説教』は20ヵ条に絞られていて、表現はより鮮明で過激になっていた。この中でルターは、相手方を「聖書の匂いをかいだこともない(中略)鈍い頭脳の持ち主」と攻撃した。この『説教』は20種類以上の版が作られたことがわかっている[100]


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ルターの意図[編集]

前述のように、少なくとも当初は、ルターは公に教会を攻撃することを意図していたわけではなかった[59]。ルターは神学者との討論を呼びかけただけであり、その討論を通じて、教会の枠内での穏やかな改革を意図していた[101]。だから、意図とは違う形で一般庶民を中心に大騒ぎになってしまった直後、ルターはブランデンブルク司教に対して、主張の訂正を行い、全面的な撤回すらほのめかしている[100]

しかしルターの意図とは裏腹に、「贖宥状批判」はドイツ中に知れ渡ったとされる。現代でも一般的には「ルターが贖宥状批判を行った」とされている。しかし、ルターが95ヵ条の提題を通じて論じようとしたのは、純粋な神学上の教理であった[102]。95ヵ条は全体として体系的でもないし、大半はルターの「独り言」のような文言だった[103]。贖宥状販売の問題はその中のほんの一部にすぎなかった[102]

ルターが特に議論を望んだのは、贖宥状の販売そのものではなく、救済と良心の概念についてだった[102]。教理では、告解、悔悛の後に罰が与えられ、その罰が贖宥されるという手順であって、告解や悔悛を省いて贖宥にたどり着くはずはない[104]。だからルターは贖宥状を販売する教会を批判しただけではなく、贖宥状を購入する民衆も批判した[91]

32 贖宥状によって自分たちの救いを得られたと信ずる者たちは、それを説いた説教師とともに、永遠の罪を受けるであろう。 — ルター、95ヵ条の論題の32[83](『世界の歴史6近代ヨーロッパ文明の成立』p67より)

しかし実際には、ルター自身は贖宥状について直接見聞きしたことはなく、すべて贖宥状を買った庶民からの又聞きでしかなかった。贖宥状を売りまわったドミニコ会修道士テッツェルが謳い文句にしていたという「グルデン金貨がチャリンと言えばたちまち魂は天国へポンと飛び上がる」という口上は、実際にテッツェルが言ったものではなく、ルターが「テッツェルはこう言っているらしい」として述べたものだった[注釈 39]。そしてルターはこの贖宥状のからくりまでは知らなかった[103]。マインツ大司教アルブレヒトのこともよく知らなかったし、まして教皇レオ10世のことは知らず、彼らがこの贖宥状の販売を企画した張本人であることは知らなかった[103][107]。ルターは、レオ10世は善良なる聖職者であり、無垢な教皇が悪い部下に騙されているのだと信じきっていた[103]

50 もし教皇が贖宥説教者たちのする取り立てを知っていたなら、彼は聖ペテロ聖堂が自分の羊たちの皮、肉、骨で建てられるよりむしろ、灰と消えることを選ぶということを、キリスト者は教えられねばならない。 — ルター、95ヵ条の論題の50[108](『宗教改革小史』p80より)

実際のところ、マインツ大司教もローマ教皇も、神学者として教理に通じた人物ではなかった。マインツ大司教アルブレヒトはホーエンツォレルン家の王子で金で地位を買っただけであり、メディチ家の人物であるローマ教皇レオ10世は外交に長けていたが神学者ではなかった[85]。だから彼らのところに文書が回ってきても自力で判断することはできず、専門の神学者に回して意見を聞くしかなかった[85]

当時はそもそも「贖宥」については神学の中でしっかりと位置づけられてはいなかった。アウグスティヌス修道院でルターに神学を教えた聖職者たちも贖宥については知識をもっていなかった[85]

「贖宥」と「免罪」[編集]

ルターは、贖宥の概念について学術的な討議を求めていた。本来「贖宥」というのは、人が犯した「罪」に応じて、教会が人に与えた「罰」のうち、そのいくらかを免除するというものだった[10]。ルターの考えでは、カトリックの教理のなかでは、贖宥によって免じられるのは「罰」であって、「罪」自体が免れるわけではない。しかも教会が免じることができるのは、あくまでも教会が定めた「罰」のみであって、神が与えた「罰」は免じることができないはずである[15][10][注釈 40]

5 教皇は、自己の判断と教会法の規定によって課したものを除いては、いかなる罰をも赦そうとするものではないし、また赦すことはできない。 — ルター、95ヵ条の論題の5[3](『皇帝カール五世とその時代』p25より)

ところが、この贖宥状を売っている連中は、ありとあらゆる罪が無くなるかのようなことを言っており、ひどいものでは「あらかじめ贖宥状を買っておくと、そのあと悪事を行っても大丈夫」というような売り口上すらあったという。これはカトリックの教理に反しているはずであり、そこを議論ではっきりさせたい、というのがルターの主張だった[10]。贖宥状の有効な対象が適切な部分に留まっているならば、それは教理に適合しているのであり、ルターは贖宥状が全て不適切だと批判したわけではなかった。

34 かの贖宥の恵みは、人間によって定められた秘蹟による償罪の罰だけにかかわる。 — ルター、95ヵ条の論題の34[109](『ドイツ史1』p433より)

ただし実際問題としては、贖宥の概念についてそこまで詳しく理解している聖職者は当時ほとんどおらず、修道会におけるルターの師はもちろん、大司教や教皇でさえも、こうした教理を精確に知っているものはほとんどいなかった。大衆は「罪」と「罰」の区別もついておらず、贖宥状売りの口上を鵜呑みにしているだけだった[10]

その後[編集]

ライプツィヒ討論。

1518年の秋、教皇庁やザクセン選帝侯のとりなしで、カトリック教会とルターの討論が内々で行われた[82][注釈 41]。しかし両者の主張は並行のままに終わった[82]

この話し合いの後、アウグスティヌス修道会のシュタウピッツはルターを修道会から退会させることにした[82]。これによってアウグスティヌス修道会に対する責任問題を回避するとともに、ルターが自由に活動できるようにしたのである[82]

翌1519年にはライプツィヒ討論が行われる[86]。この討論会は決裂に終わったが、カトリック側はルターを異端とする言質をとることに成功した[111]。ルターは教会批判の急先鋒とみなされるようになり、ローマ教皇はルターを異端として破門した[97]。この観点では、討論会はルター側の敗北とみられたが、その後の影響を考えると、かえってルターにドイツの注目が集まることになった[86]


評価[編集]

通説による評価[編集]

怪物の姿をした教皇に立ち向かうルター。教皇は口から水を吐いてルターがもつ灯りを消そうとし、鉤爪でルターの書を引き破ろうとしている。左側では修道院の鼠を連れた贖宥状売りがスズメバチに追われて立ち去ろうとしている[97]。
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怪物の姿をした教皇に立ち向かうルター。教皇は口から水を吐いてルターがもつ灯りを消そうとし、鉤爪でルターの書を引き破ろうとしている。左側では修道院の鼠を連れた贖宥状売りがスズメバチに追われて立ち去ろうとしている[97]
ルターが投げた雷がおちた。ドイツ人すべてが動きだした。
フリードリヒ・エンゲルス

一般的に、世界史の教科書では、「宗教改革」は1517年にマルティン・ルターが「95ヶ条の論題」をヴィッテンベルクの城教会の門に貼りだすことで始まった、とされている[113][注釈 42]。そしてその背景として、中世以来のカトリック教会の腐敗があり、贖宥状の販売が引き金になったと説明される[113]。往々にして、このルターの行為は、一介の聖職者の身でありながら教会の組織と権威に敢然と挑戦した雄渾な行動であったとして描かれる[22]

この「ルターによる教会批判」は瞬く間にドイツ中の知るところとなり[97]、大きな論争を巻き起こし[83]、1560年頃のカトリックプロテスタントの分裂や、イングランド国教会の独立をもたらしたとされる[113]。すなわち、「宗教改革」は1517年に始まり、1560年頃に終わった、とするのが世界史の教科書における一般的な解説である[113]


ルターが95ヶ条の論題を掲示した日時は、1517年10月31日[注釈 1]の正午[59][60][61](または夜中[3][注釈 27]とされている。


翌11月1日はカトリック教会万聖節という祝日であると共に、ヴィッテンベルク城教会の献堂記念日でもあった[3]

歴史学上の評価[編集]

しかしながら現代の歴史家や宗教史家は、こうした通説は宗教改革にまつわる「神話」であり、後世に作られた見方ではないかと指摘している[64]。この指摘によれば、「宗教改革」という用語が使われるようになったのは17世紀以降のことである[64]。この術語を用いたドイツの政治家ファイト・ルートヴィヒ・フォン・ゼッケンドルフドイツ語版(1626 - 1692)は、「ルターの教会批判」「ルターの宗教改革」などと表現し、あくまでもルター個人の行動の範囲に限定する用語として用いた[64]。95ヶ条の論題によって始まったのは「ドイツの」宗教改革だとする文献もある[65]

実際にはルター以外にも宗教改革家は大勢いて、ルターと同時代の人々は「改革」の総てをルターに帰すようには考えていなかった[64]。改革は多元的に発生しており、多くの人物や都市が関わっていた[64]

教会史家のベルント・メラードイツ語版(1931 - )は、ルターを「偉大な賢人」「宗教改革の指導者」と描写する「よくある記述」は、完全に作り上げられたものであると批判した[64]。この見解は多くの歴史家に支持されている[64]。しかしながら「ルター生誕500周年」を迎えた1983年には、ルターを「歴史上の英雄の一人」「宗教改革を一人で成し遂げた人物」と扱う見方が依然として広汎に存在していることが実証されてしまった[64]


関連図書[編集]

神聖ローマ帝国史

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b c 本当は11月1日(諸聖人の日)であったという説もある[1][2]。10月31日とする最初で唯一の史料は、ルターの同僚だったフィリップ・メランヒトン(1497-1560)によるものであり[3]、他に証拠はない[3]
  2. ^ ただし、贖宥状自体はそれ以前から存在していた[10]
  3. ^ 1513年の教皇教書アポストリキ・レギミニス英語版を公布して、ピエトロ・ポンポナッツィ神学教授の主張した「魂の可滅性」を否定し、世俗的(あるいは理性的)なアリストテレス主義を遠ざけたことでも知られる。
  4. ^ ロレンツォは神学や哲学の分野にも大きな影響を与え、神学者マルシリオ・フィチーノや哲学者ピコ・デラ・ミランドラ異端審問にかけられ後に病死)を庇護したことでも知られる。
  5. ^ ロレンツォ2世は1518年に急逝し、さらに(ロレンツォ・デ・メディチの弟ジュリアーノ・デ・メディチの子)ジュリオ・デ・メディチ枢機卿(後の教皇クレメンス7世)が継ぐが、この枢機卿はレオ10世の片腕だった。
  6. ^ そのコレクション数は1509年の5000点から、1520年には19,013点まで増えていた[24]。しかしのちに、ルターが聖遺物崇拝も偶像崇拝の一種であると批判を始めると、選帝侯はコレクションを手放さざるを得なくなった[25]。コレクションのうち現存するのは、ルターに与えられたガラス製の杯1点のみである[26]
  7. ^ ザクセン選帝侯領の富の源泉は、領内の銀鉱山にあった。当時の鉱山開発技術の発展によって、フリードリヒ3世の時代に鉱山収入は伸び、選帝侯を潤したのだった。フッガー家も鉱山収入で同時期に急速に発展したのであるし、ルターの父親はザクセン選帝侯の鉱山の監督官として財を築いた人物である[27]
  8. ^ 特にフスの場合には事情が込み入っている。当時は教皇を名乗る人物が3人いる教会大分裂期で、そのうちヨハネス23世が別の「教皇」を武力で討つための軍費を募って贖宥状を出したものを、フスが批判したのだった。結局ヨハネス23世自身がコンスタンツ公会議によって異端や聖職売買で有罪とされて全ての権威を失うが、フスはそのまま火刑に処された[10]
  9. ^ 1519年のライプツィヒ討論では、教会側はルターから「フスの主張に共感できる点がある」との発言を引き出すことで、ルターを異端と断定する論法をとった。
  10. ^ ルターがヴィッテンベルクの教会で庶民の告解を聞いていると、罪の告白をしながらも、反省の素振りも見せない者がいた。ルターがその者に対して悔悛の秘蹟を拒むと、その人物は買ってきた贖宥状をルターに見せびらかし、ルターを嘲ったという[30]
  11. ^ これと同じ物がコトバンクのルターの「九十五か条の論題」(抄)に掲載されている[35]
  12. ^ マタイ4章17節。「悔い改めよ。天の国は近づいた」
  13. ^ キリスト教徒が過去の罪を悔いて神の赦しを請うこと[38]。カトリックではゆるしの秘跡ともいう。
  14. ^ マタイ13章25節。「人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った」。ここでいう「彼の敵」は反キリストを意味する。
  15. ^ カトリックでは、司祭以上の聖職だけが持つもので、罪を痛悔した者のために罪とその罰のゆるしをキリストに代って告知する行為のこと[41]
  16. ^ 諸聖人の功徳によって、告解の秘跡後に残った有限の罰の償いに対して与えるゆるしのこと[43]
  17. ^ 贖宥状の購入によって全贖宥を得られると公示したのは教皇レオ10世自身であって、ルターは贖宥説教者の誤りであるという口調で批判しているが、この条ではかなり直接的に教皇の決定そのものに異議を唱えている。
  18. ^ 「宣べ伝える」は、宣べ伝える業、伝道の意で、本来伝えるべきは「神の言葉」であって「人間の」ではないということを示唆している。
  19. ^ カトリックにおける告解の秘跡の本質的部分で、神に対する愛または恐れから起こる悔い改め[46]
  20. ^ 使徒行伝8章18-24節。サマリア人シモン・マグスが使徒ペテロとヨハネに対して、金銭を提供することによって聖霊の降下を依頼した故事をさす。
  21. ^ キリスト者に対する教えあるいは訴えであるため、以下で続く「キリスト者は教えられなければならない」は省略した。
  22. ^ そもそも教皇ユリウス2世の事業を引き継いだレオ10世が、この聖堂の建設費を調達するために大々的にドイツで販売されることになったことから、贖宥状の問題が顕在化した。
  23. ^ マタイ20章16節。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」
  24. ^ 第一コリント12章28節。「神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた」
  25. ^ エレミヤ6章14節。「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている」、および、エゼキエル13章10節。「実に、彼らは、平安がないのに『平安。』と言って、わたしの民を惑わし、壁を建てると、すぐ、それをしっくいで上塗りしてしまう」、同16節。「エルサレムについて預言し、平安がないのに平安の幻を見ていたイスラエルの預言者どもよ。・・神である主の御告げ」
  26. ^ 使徒行伝14章22節。「弟子たちの魂を確立し、その信仰にとどまるよう彼らに勧め、『わたしたちが神の王国に入るためには、多くの患難を経なければならない』と言った」
  27. ^ a b 従来の通説は正午である。夜中とされるようになったのは、後述するように、前夜祭においてだったという1960年代前後からの説。
  28. ^ ハンス・フォルツは神学雑誌を発行する傍ら、ナチ党を支持して、そのプロパガンダに協力した編集者の1人でもあったが、戦後はルター研究などを表した。
  29. ^ フォルツは、ルターが1日の午後早めに、恐らく誰に伴わずに城教会に赴いたと考え、張り出されたものは、印刷されたものか書かれたものであったか、今日判断する手がかりはないとした[67]
  30. ^ ベーマーは、メランヒトンによるこの序文は、「やみくもに紙に書きなぐられたもので、史料的価値は全く認められない」と批判している[74]
  31. ^ ブランデンブルク司教で、ルターの属する教区の上長であった。
  32. ^ フリードリヒ3世(賢明侯)の宮廷付き司祭。ルターの協力者。
  33. ^ 後述の通り、手書きのものだったとする異説もある。
  34. ^ 18世紀のドイツ劇作家ゴットホルト・エフライム・レッシングは、レオ10世が「兄弟マルティンはよい頭を持っている。あれは修道士の喧嘩にすぎまい」と述べたと伝えている。しかしレッシングは全く根拠を示していない[88]
  35. ^ マインツ大司教アルブレヒトは、ブランデンブルクを治めるホーエンツォレルン家の出自である。マインツ大司教領はドイツの西部のライン川流域にあるのに対し、ブランデンブルクはドイツ東部のエルベ川流域にあるので、両者は大きく離れている。アルブレヒトは、実際には生涯のほとんどをブランデンブルクで過ごし、マインツにはほとんど赴かなかったと伝えられている。
  36. ^ 当時の識字率は都市部と農村部でも開きがあったと考えられている[94]。しかしドイツ全体の人口のうち、都市部が占める割合は10パーセント以下であり[95]、多くは文字の読めない農民だった[94]
  37. ^ 矛盾しているようだが、これらのパンフレット(ビラ)には、「文字が読めない者は、読める者にこれを見せて読んでもらえ」と印字されていた。
  38. ^ その頃、ドミニコ修道会の修道士で迫害を請けていた人物が何人かいる。教皇を批判して火刑にされたジロラモ・サヴォナローラ(1452-1498)や、人文主義者のヨハネス・ロイヒリン(1455-1522)である[88]。当時はキリスト教徒によってユダヤ人とユダヤ教への迫害が行われており、人文主義者としてヘブライ語の研究もしていたロイヒリンは、ユダヤの古典にも歴史的価値があると考え、ユダヤの古文書の焚書に反対した。その結果、ローマ教皇との対立を招き、自身が迫害されるに及んだ[98]
  39. ^ ルターが言うには、テッツェルは「お前が聖母マリアを犯して身篭らせたとしても、贖宥状を買えばその罪はたちまち許される」など豪語したという[105][15]。しかしこのルターの引用は、事実ではなかっただろうと考えられている[106]
  40. ^ たとえば聖戦であっても、人(敵の兵士であっても)を殺めること自体は神が定めた法に反することであり、罪が発生する。この罪に対し、神による罰と教会による罰が与えられる。ただし神による罰は告解によって神の赦しを得ることができる。一方、教会による罰は現世での罰でもあり、現世での善行によって贖わなければならない。例をあげると、ローマ教皇アレクサンデル2世の命によってヘイスティングズの戦い(1066年)に加わった騎士は、戦場で敵を1人殺すごとに10年の「罰」を背負うことになった[15]。存命中に善行を行ったり、巡礼に出て聖地を訪問したり聖遺物を礼拝したりすることで、溜まった「罰」はいくらかづつ贖われる[15]。これには代理を立てることもできるし、寄付によって済ますこともできる[10]。贖宥状は、溜まった「罰」のうち「7年」などの期間を免じるものである。もしも死ぬまでに罰をすべて贖い切れなかった場合には、死後、煉獄に落ち、罰が浄化されるまでの期間、焼かれることになる[15]
  41. ^ ちょうどこのとき、アウクスブルク帝国議会が開催されるので、諸侯や有力司教がアウクスブルクに集まることになった。そこで、非公式にルターと教会の学者の会談が行われた[110]。非公式であるがゆえに会場は私邸が使われたのだが、そこはフッガー家の屋敷だった[82]。この会談は、その後に行われる討論や審問に較べると、穏やかに行われた。教会側はルターに自説の撤回や、信徒を混乱させる説教の中止を要請したが、ルターは受け入れなかった。そこで、教皇の特使はルターがおおっぴらに問題発言をしなければ、教会側もルターを責めないという妥協案を示した。これには、そのかわりにルターを枢機卿に推薦するという条件も付与された。ルターはこれに同意し、この審問ののちしばらくのあいだは沈黙した。しかしドミニコ会がルターを攻撃し、ライプツィヒ討論を仕掛けることで、ルターはこの沈黙を破る羽目になった[82]。このアウクスブルク審問の裏側では、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と、ローマ教皇の政治的綱引きが行われていた。マクシミリアン1世は死期が迫っており(実際、この2ヶ月後に死んだ。)、身内のハプスブルク家から後継者を推そうとしていた。皇帝と対立するローマ教皇はそれを妨げようとしており、教皇は次期皇帝にはドイツ諸侯の最有力者であるザクセン選帝侯フリードリヒ3世を推そうとしていた。ルターはザクセン選帝侯のお膝元ヴィッテンベルクの神学者であるから、マクシミリアン1世は、ローマ教皇にルターを攻撃させることで、ザクセン選帝侯とローマ教皇の仲を裂ける狙いがあった。一方のローマ教皇側は、ザクセン選帝侯を抱き込むために、ルターを強く攻撃することは避けたかった。結局、この審問は物別れにおわったが、マクシミリアン1世も後継者を指名できないまま死んでしまい、皇帝選挙が行われることになる[82]
  42. ^ 東ドイツの義務教育で用いられていた歴史教科書には「1517年のルターによる95ヶ条の発表とともにドイツの宗教改革は始まった。」とある[112]

出典[編集]

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参考文献[編集]

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ドイツ史
神聖ローマ帝国史
宗教改革史
ルターの伝記等
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その他



関連項目[編集]

外部リンク[編集]