吉井理人
現在 | 2007年引退 |
所属球団 | 千葉ロッテマリーンズ |
国籍 | 日本 |
出身地 | 和歌山県有田郡有田川町 |
生年月日 | 1965年4月20日(59歳) |
身長 体重 |
188 cm 95 kg |
血液型 | B型 |
守備位置 | 投手 |
投球・打席 | 右投右打 |
プロ入り年度 | 1983年 |
ドラフト順位 | 2位 |
背番号 | 24 |
英語表記 | YOSHII |
初出場 | 1985年9月16日 |
最終出場 | 2007年9月21日 |
経歴 | 和歌山県立箕島高等学校- 近鉄バファローズ- ヤクルトスワローズ- ニューヨーク・メッツ- コロラド・ロッキーズ- モントリオール・エクスポズ- オリックス・バファローズ- 千葉ロッテマリーンズ |
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吉井 理人(よしい まさと、1965年4月20日 - )は、和歌山県出身の元プロ野球選手(投手)。現在は北海道日本ハムファイターズ投手コーチ。
来歴・人物
和歌山県立箕島高等学校で甲子園に2回出場し、1983年のドラフト2位で近鉄バファローズへ入団。1年目は二軍暮らしだったが、2年目の1985年に一軍初登板。4年目の1987年に初勝利を挙げると、5年目の1988年には抑え投手として活躍し、10勝24セーブで最優秀救援投手のタイトルを獲得。「10.19」でも登板した。翌年にも5勝20セーブの好成績を残した。1993年から先発に転向した。
1995年に西村龍次とのトレードでヤクルトスワローズに移籍。初めて規定投球回数に到達し、3年連続で2桁勝利を記録。後輩にあたる野茂英雄の助言によりフォークボールを習得したために成績が伸びたと言われている。
1997年オフにFA宣言後、読売ジャイアンツが獲得に名乗りをあげたが、後に断りを入れ1998年にニューヨーク・メッツに入団。先発投手としてメジャー1年目は6勝、翌年は12勝を挙げた。メジャー通算では32勝。2000年にコロラド・ロッキーズ、2001年にモントリオール・エクスポズに移籍した。2002年9月には左肩を手術した。
2003年にはオリックス・ブルーウェーブで日本球界に復帰し、初の開幕投手を務めた。しかし8月には左足首を手術するなどわずか2勝に終わった。2004年には3試合の登板に終わったことから戦力外通告を受けた。他球団との交渉はまとまらなかったが、球団合併により陣容が一新されたことから、近鉄入団時のヘッドコーチである仰木彬監督が「彼を必ず残せ」と球団に進言。合格すれば再契約という異例の条件で2005年2月にオリックスのキャンプにテスト参加。仰木監督から高評価を得て、500万+出来高で再入団し、2005年は開幕6連勝を飾った。
2006年3月29日の東北楽天ゴールデンイーグルス2回戦(フルキャストスタジアム宮城)で勝利投手となり、プロ野球5人目となる12球団(但し近鉄が含まれていないため全球団勝利ではない)から勝ち星を挙げた。この日は吉井がマウンドに違和感を感じると伝えたところ、マウンドの中から「クレイベース」[1]が出て約45分間の中断があり、さらには気温5℃で雪が降るという厳しい環境の中での勝利だった。後半は苦しむものの、先発ローテーションの一角として活躍した。
2007年4月1日の楽天2回戦(フルスタ宮城)で、3回に1イニング2本の満塁本塁打(ホセ・フェルナンデス、山崎武司)を被弾してしまう。しかしこの回、1本目の本塁打を被弾する前に二死で三塁手のグレッグ・ラロッカにエラーがあったため、吉井は失点8ながら自責点0という成績となった。4月25日の楽天戦(京セラドーム大阪)では、42歳の吉井と楽天の18歳・田中将大の24歳差の先発対決となり、吉井は5回まで1失点で勝利投手となった。42歳以上で勝利投手となったのは、浜崎真二(阪急)、若林忠志(毎日)、佐藤義則(オリックス)、大野豊(広島)、工藤公康(横浜)に次いで6人目。
シーズンも先発としてスタートしたが、成績不振のためコリンズ監督から中継ぎ降格を命じられ、先発へのこだわりを持っている吉井はそれに応じず他球団への移籍を求め、6月28日に平下晃司との交換トレードで千葉ロッテマリーンズへ移籍した。だが、移籍後も絶不調で打たれては二軍落ちを繰り返し、4試合に先発して防御率が13点台という期待を大きく裏切る成績で、結局1勝も出来ないままシーズンを終えてしまった。10月27日にマリーンズから戦力外通告を受けた時、現役続行に強い意欲を持ち、国内がダメなら、アメリカ、台湾、韓国でもプレーする機会を求めるつもりだったと言う。日本ハムの投手コーチ就任の話があったが、最初はまったく興味がなかったと言う。しかし現役を続けると家族に迷惑がかかる、梨田昌孝監督がコーチとしての素質を高く評価していることを聞いて、現役続行を断念して、佐藤義則の後任として北海道日本ハムファイターズ投手コーチに就任した。なお11月30日にロッテから自由契約公示された。
背番号
- 36(1984年~1988年)
- 11(1989年)
- 21(1990年~1994年、1996年~1997年、2006年~2007年途中)
- 24(1995年、2007年途中~引退)
- 55(2003年~2004年)
- 77(2005年)
- 81(2008年)
エピソード
- 1988年10月19日、近鉄のシーズン最後の2試合は川崎球場でのロッテとのダブルヘッダーであり、2連勝で近鉄優勝、1つでも負けるか引き分けると西武優勝というクライマックスであった。伝説の「10.19」である。その第1試合、抑えの切り札であった吉井は3-3の同点の8回裏から登板し、近鉄は9回表、待望の勝ち越し点を挙げる。しかし9回裏、吉井は先頭打者・丸山一仁への、ストライクゾーンギリギリの投球がボールと判定されて激高し、制球が定まらず四球を与えたところで、仰木彬監督はエース阿波野秀幸をマウンドに送った。辛くも第1試合を取った近鉄は、第2試合1点リードの8回裏、吉井に代えて阿波野をマウンドに送るも、高沢秀昭に痛恨の同点弾を浴び、結局試合は延長10回引き分けで近鉄は優勝を逃した(その結果、全日程を終了していた西武がリーグ優勝を果たすことになる)。
- そして翌1989年、2連敗すると西武が優勝という10月12日のvs西武ダブルヘッダーで連勝した近鉄は、優勝マジック1で10月14日のダイエー戦を迎える。仰木監督が終盤胴上げ投手としてマウンドに送ったのは、シーズンを通してストッパーを努めた吉井ではなく、阿波野であった。選手たちが優勝に沸く一方で怒りに震える吉井を理解者であった権藤博投手コーチが懸命に慰めた。権藤投手コーチはまだ契約年が残っていたにもかかわらず、シーズン終了後に退団した。吉井の仰木への不信は根深いと見られていた(2001年の日本シリーズ第2戦のTV解説に両者が並んだときも、よそよそしい雰囲気だった)が、吉井がオリックスに再入団したときの経緯にも見られるように、師弟関係は時を越えて修復されていた。2005年12月に仰木氏が逝去した際、吉井は「当時は若くてわがままだった。よく仰木監督から『個人のわがままを聞いていると、チームが成り立たない』とたしなめられた」と語り、また「仰木さんに要らないと言われた時が、自分の引退の時」とも語っている。
- 1995年、近鉄からヤクルトに移籍してきた吉井は、先発陣の一角として大活躍。シーズン前にはBクラス予想だったヤクルトが、いざ始まってみれば首位を快調に走る原動力となった。8月5日と8月6日の神宮球場における広島との首位攻防戦において、初戦を落としたヤクルトは、第2戦で吉井が先発。このシーズン、吉井はここまでセ・リーグで最も与四死球が少なく、抜群の制球力を誇っていた。ところが、試合開始早々、雷鳴が轟き稲妻が走る不安定な天候になるとともに、突然吉井の制球が乱れ始め、四球を連発。結局3回だけで7失点し早々とKOされて試合も4-15で大敗した(吉井は失点8、自責点8で負け投手)。試合後野村克也監督は「吉井は雷が怖いらしいな」と報道陣に語っている。また野村監督はマネージャーに「今度から吉井の登板する日は雷注意報が出てるか俺に報告しろ」と言ったという話がある。
- 1997年8月5日大阪ドームでの対巨人戦3回裏巨人攻撃中にネット裏にいたと思われる悪質な観客がレーザーポインターによると思われる電磁波を吉井投手の顔面に照射した。眼にレーザービームを受けた吉井投手はすぐさまマウンドを下りネット裏を指して抗議。その後、降板。犯人・狙った意図は未だ不明。
- 2000年のロッキーズ在籍時に打席で本塁打を2本打った事があるが、テレビ朝日の「朝までプロ野球」で番組に出演した際に本人は「覚えていなかった」と言っていた。
- 趣味はギター、競馬。野茂英雄に競馬を教えた見返りにフォークを教わったのは有名な話である。ラモン・マルティネス直伝というメキシカン・カーブなる変化球を操る。親指ではなく、人差し指に力を入れて投げるタイプのカーブの一種らしい。
- メジャーの記者会見のときに「僕のフォークは野茂直伝のものです。」と語っている。
- マリーンズ移籍後初登板でKOされた後のコメントで、記者のもう限界ではないのかと言う質問に対し、「まだまだワシはやれる。今日、打たれてメッチャ悔しかった。こう思えるってことは限界じゃない証拠やろ」と言ったという。
- 元西武ライオンズ監督の東尾修とは、卒業した小学校・中学校・高校が同じである。
- 一時期、俳優の赤井英和に似ていると言われていた。
通算成績
年度別成績(日本)
年 | 所属 | 登板 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | 完投 | 完封 | 投球回 | 奪三振 | 失点 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1984年 | 近鉄 | 一軍登板なし | |||||||||
1985年 | 近鉄 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 9 | 21.00 |
1986年 | 近鉄 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 1/3 | 2 | 7 | 23.14 |
1987年 | 近鉄 | 13 | 2 | 1 | 0 | 1 | 0 | 36 | 23 | 21 | 4.75 |
1988年 | 近鉄 | 50 | 10 | 2 | 24 | 0 | 0 | 80 1/3 | 44 | 27 | 2.69 |
1989年 | 近鉄 | 47 | 5 | 5 | 20 | 0 | 0 | 84 1/3 | 44 | 28 | 2.99 |
1990年 | 近鉄 | 45 | 8 | 9 | 15 | 0 | 0 | 74 1/3 | 55 | 29 | 3.39 |
1991年 | 近鉄 | 21 | 2 | 1 | 2 | 0 | 0 | 26 1/3 | 13 | 11 | 3.42 |
1992年 | 近鉄 | 9 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 11 2/3 | 4 | 3 | 2.31 |
1993年 | 近鉄 | 22 | 5 | 5 | 0 | 2 | 1 | 104 2/3 | 66 | 38 | 2.67 |
1994年 | 近鉄 | 21 | 7 | 7 | 0 | 2 | 0 | 97 | 42 | 69 | 5.47 |
1995年 | ヤクルト | 25 | 10 | 7 | 0 | 7 | 2 | 147 1/3 | 91 | 53 | 3.12 |
1996年 | ヤクルト | 25 | 10 | 7 | 0 | 9 | 1 | 180 1/3 | 145 | 69 | 3.24 |
1997年 | ヤクルト | 28 | 13 | 6 | 0 | 6 | 2 | 174 1/3 | 104 | 61 | 2.99 |
1998年 | MLB在籍 | ||||||||||
1999年 | |||||||||||
2000年 | |||||||||||
2001年 | |||||||||||
2002年 | |||||||||||
2003年 | オリックス | 24 | 2 | 7 | 1 | 1 | 1 | 76 | 43 | 58 | 6.51 |
2004年 | オリックス | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 3 2/3 | 2 | 9 | 17.18 |
2005年 | オリックス | 15 | 6 | 5 | 0 | 0 | 0 | 73 2/3 | 33 | 35 | 4.03 |
2006年 | オリックス | 19 | 7 | 9 | 0 | 0 | 0 | 101 2/3 | 33 | 47 | 3.81 |
2007年 | オリックス | 10 | 1 | 6 | 0 | 0 | 0 | 40 2/3 | 14 | 39 | 5.75 |
2007年 | ロッテ | 4 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 12 1/3 | 4 | 19 | 13.14 |
通算(19年) | 385 | 89 | 82 | 62 | 28 | 7 | 1330 | 632 | 574 | 3.86 |
年度別成績(メジャー)
年 | 所属 | 登板 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | 完投 | 完封 | 投球回 | 奪三振 | 失点 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1998年 | メッツ | 29 | 6 | 8 | 0 | 1 | 0 | 171 2/3 | 117 | 79 | 3.93 |
1999年 | メッツ | 31 | 12 | 8 | 0 | 1 | 0 | 174 | 105 | 86 | 4.40 |
2000年 | ロッキーズ | 29 | 6 | 15 | 0 | 0 | 0 | 167 1/3 | 88 | 112 | 5.86 |
2001年 | エクスポズ | 42 | 4 | 7 | 0 | 0 | 0 | 113 | 63 | 60 | 4.78 |
2002年 | エクスポズ | 31 | 4 | 9 | 0 | 1 | 0 | 131 1/3 | 74 | 60 | 4.11 |
通算(5年) | 162 | 32 | 47 | 0 | 3 | 0 | 757 1/3 | 447 | 389 | 4.62 |
- 打撃成績記録 204打数 25安打 二塁打3 本塁打1 打率.123 13打点 9四球 1死球 33犠打 1盗塁
記録
- 初登板:1985年9月16日対西武ライオンズ22回戦(藤井寺球場)、9回表に救援登板・完了
- 初勝利:1987年8月18日対南海ホークス14回戦(藤井寺球場)、3回表に救援登板
- 初完投勝利:1987年10月13日対日本ハムファイターズ26回戦(後楽園球場)
- 初完封勝利:1993年6月17日対西武ライオンズ11回戦西武ライオンズ球場
- 初セーブ:1988年4月27日対ロッテオリオンズ2回戦(川崎球場)
- 初奪三振:1985年9月18日対南海ホークス25回戦(大阪球場)、2回裏に佐々木誠から
タイトル
- 日本
- 最優秀救援投手1回(1988年)
- メジャー
- グッドガイ賞1回(1999年)[1]
脚注
関連項目
外部リンク
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