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大友工

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大友工司から転送)
大友 工
1956年
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県出石郡出石町(現・豊岡市
生年月日 1925年2月19日
没年月日 (2013-04-12) 2013年4月12日(88歳没)
身長
体重
175 cm
71 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1949年
初出場 1950年3月15日
最終出場 1960年8月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

大友 工(おおとも たくみ、1925年2月19日 - 2013年4月12日)は、兵庫県出石郡出石町(現・豊岡市)出身のプロ野球選手投手)・コーチ1960年登録名大友 工司(おおとも こうじ)。

経歴

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プロ入りまで

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五人兄弟の末っ子として生まれ、父親は小学校の教員で、師範学校時代は野球テニスをしていた。大友も弘道館尋常高等小学校の頃から野球に親しみ、熱心な大阪タイガースファンであった[1]旧制大阪逓信講習所を卒業後、神戸中央電信局に電信技師として就職。第二次大戦中は応召により電信兵となり伍長まで昇進するが、内地勤務であったことから無事に終戦を迎えた[2]。戦後は故郷に戻り、一時は炭焼きをして生計を立てた時期もあった。その後、但馬貨物(のち新日本運輸)で軟式野球をプレー[3]1948年秋の全国車輛軟式野球大会の近畿大会でベスト4まで進出する。その速球が大会で審判長を務めていた関西のアマチュア野球界の重鎮であった本田竹蔵の目に止まり、本田が当時二軍を作ろうとして選手を集めていた読売ジャイアンツの宇野庄治球団代表に紹介して、1949年5月に巨人へ入団[2]

現役時代

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巨人入団後、これまで軟式球しか握ったことがなかったため硬式球に慣れるのに苦労する[4]。硬くて重い硬式球に慣れるために、蒲団に入る時もボールを握り、翌朝に目を覚ますと球を握ったままということもしばしばあった[5]。入団当時はスリークオーターであったが投法をサイドスローに変更。これは意図的な転向ではなく、変化球の威力を増すためでもなかったという点が変わっている。実際には、直球の球威を増そうとして投球時のステップを出来るだけ広げようとした結果、自然に身体が右へ傾くようになり、サイドスローになった。本人によれば「身体を傾けて上から投げている感じだった」という。

1年目は制球力に課題がありその年から出来た二軍暮らしとなるが、既にブルペンでは当時のエース格であった別所毅彦藤本英雄に勝るほどの速球を投げていたという[6]1950年春先に一軍に昇格し、3月15日西日本戦(八幡桃園)に初先発するが2回2失点でノックアウトされ、その後も成績を残せず6月に二軍に落とされる。イースタン・リーグでは好調でたちまち10勝を重ねると、9月に再び一軍に呼ばれる。26勝の藤本英雄の手術、22勝の別所毅彦が怪我で投げられない中で、大友は10月以降9試合に先発を任されるなど積極的に起用されて4勝を挙げる[7]1951年スライダーを会得したこともあって、11勝4敗、リーグ3位の防御率2.41と3年目で巨人の主戦投手となる[8]1952年には7月26日の松竹戦(大阪)でノーヒットノーランを達成するなど17勝(8敗)を挙げ、防御率も2.25とリーグ4位に入った。

1953年には春季キャンプで右を痛めたことからランニング中心のトレーニングを行ったところ、シュートの制球力が改善し、スライダー・シュートのコンビネーションで投球を組み立てることができるようになり、投球の幅が広がった[9]。シーズンでは27勝6敗、防御率1.85で最優秀防御率最多勝利最優秀勝率の投手三冠で沢村賞ベストナインを獲得し、さらには最高殊勲選手にも選ばれるなど個人タイトルを総なめにした。また、南海との日本シリーズでは、10月13日の第4戦(後楽園)で完封、同16日の第7戦では別所をリリーフして胴上げ投手となるなど2勝を挙げ最優秀投手賞を獲得する[10]。オフシーズンにはニューヨーク・ジャイアンツ日米野球で来日し、10月31日の試合を1失点で投げ抜き、日本人投手として初めてメジャーリーグ球団相手に完投勝利を挙げた。メジャーリーガー達から「地面から浮き出す球は打てない」と驚かれ[4]レオ・ドローチャー監督からもメジャーで十分通用するので連れて帰りたいと言われたという[11]。ジャイアンツの遊撃手は後に阪急に入団するダリル・スペンサーであったが、大友は4三振を奪っている[12]。3万人の観客は、大友の快挙に歓喜した[12]1954年も21勝、リーグ2位の防御率1.68を記録する。

1955年開幕67試合目となる7月10日の中日戦に完封勝利を挙げて早くも20勝(3敗)に達する。シーズンでは30勝6敗、勝率.833を挙げ、2度目の最多勝利と最優秀勝率を獲得したが、30勝以上かつ敗戦数が一桁であった投手は2リーグ分裂後は大友を含めて3人のみであり(1957年稲尾和久1959年杉浦忠)、セ・リーグでは大友のみである。また、同年6月12日大洋戦(後楽園)では当時のプロ野球タイ記録の15奪三振を記録している[13]

1956年も4月下旬まで、5勝1敗、防御率1.37と好調であったが、4月22日の大阪戦(後楽園)で大崎三男から利き腕である右手親指死球を受け骨折[14]。全治2ヶ月の重傷で戦列を離れた。6月下旬には復帰するが、親指が曲がらないため球威がすっかり無くなってしまっていた。7月は勝ち星無しの3連敗を喫するが、8月以降は本来の力を取り戻し、シーズンでは12勝を挙げる[15]西鉄との日本シリーズでは、10月10日の第1戦(後楽園)で完封勝利するが、同14日の第4戦(平和台)では6回2失点で敗戦投手となり、チームも2勝4敗で敗れた。オフシーズンに行われたブルックリン・ドジャースとの日米野球では、10月19日の第1戦に堀内庄の後を受けて大友は4回からリリーフして4安打10三振に抑えて再びメジャー相手に勝利投手に輝いている[16]

1957年になると、この死球禍の後遺症によって以前の制球力と球威が失われていく[17]。開幕戦の3月31日の対国鉄スワローズ戦では4安打に抑えて完封勝利するが、右に水が溜まり、右足首捻挫するなどの故障もあって投球フォームを崩して全く勝てなくなる。6月30日には得意としていた広島戦で先発するも、打者3人に対して2安打1四球で1死も取れずにノックアウト。防御率は5.14まで下がり、自ら志願して二軍に降格する。7月中旬に一軍に復帰してペナントレース終了までに3勝するが、シーズンを通して5勝4敗、防御率3.89の成績にとどまった。1958年は僅か2勝に終わるが、西鉄との日本シリーズでは初戦で藤田元司をリリーフして勝利投手になるなど4試合に登板、巨人が王手をかけていた10月17日の第5戦(平和台)では稲尾にサヨナラ本塁打を浴びている。1959年は登板機会がなく、日本シリーズの前に南海のエースであった杉浦対策として打撃投手を務めた[18]

同年オフに10年選手制度により、かつてのチームメイトであった千葉茂監督を務めていた近鉄バファローに移籍する。1960年は登録名を大友 工司(おおとも こうじ)に改めるが、1勝に終わり同年で現役を引退した。

引退後

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引退後は近鉄の二軍投手コーチ(1961年)を経て、中日二軍投手コーチ(1965年 - 1966年, 1968年)・一軍バッテリーコーチ(1967年)・寮長[19]を務める。

中日退団後は花島電線(現在の茨城テクノス[20])に勤務。当時の自宅の近くには王貞治が住んでいた。1977年に王がハンク・アーロン本塁打世界記録(755本)に迫っていた頃、王の自宅の前にはマスコミファンが押しかけ、空き缶空き瓶を飲み散らかしていたが、大友は仕事の帰り道に必ず王の家の前に寄り、ゴミを片付けて帰っていたという[21]

1979年7月には山田潔団長の下、大橋勲二宮忠士と共に「日本プロ野球コーチ団」団員として中国で野球指導を行う[22]1987年には吉友商事を設立し、東京ドームキャラクターグッズの販売業を営んだ[23]

晩年は妻を亡くしたため、東京都内で一人暮らしをする。妻を亡くしたのがきっかけで台所仕事を覚え、朝食と昼食は自分で支度をして済ませ、夜は近所のスナックで過ごしていた[24]大相撲中継は好きであったが、プロ野球中継はほとんど見なかった。馴染みの常連達と、のんびり雑談をしながら飲むのが日課であったが、を患った影響から歩くのが不自由になっており、2本のが手放せなかった[24]。そのためが衰えないようにと毎日、杖をついての中を歩いていた。歩きやすいようにを外して部屋と部屋をつなげ、足の調子と相談しながら、歩けるだけ歩いた[24]。多い日で6000歩余りにもなり、チラシの裏をメモ帳にして、毎日の歩数と時間、食事の内容、体調などを克明に記録していたという[24]

2013年4月12日、急性白血病のため死去[25]。88歳没。

プレースタイル

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  • 小柄な体格のサイドスローでありながら、当時の球界を代表する速球投手であった。日本プロ野球史上、直球のみで打者を牛耳ることの出来たサイドスロー・アンダースローの投手は10人といないが、大友はその一人であった。当時球速では金田正一と大友が双璧をなしていたが、金田も「大友さんの球が一番速い」と一目置いていたという[26]。その投球の威力は、当時の正捕手であった広田順が取り損なった際に、キャッチャーミットを填めた左手骨折させてしまうほどであった[27]。その剛速球のほかに、長い中指を利用した右打者の外角へ鋭く曲がりかつ浮き上がるスライダー、内角を捻れるように抉るシュート[3]を武器とした。
  • 全盛期には、投球の際の身体を倒す角度で、スリークォーター・サイドスロー・アンダースローと投げ分けたという[4]
  • サイドスローでありながら左打者を苦手としなかったことも特徴で、左打者の懐をスライダーで突き、バットの根っこに当てさせることで、内野ゴロやポップフライに打ち取った。大友は、サイドスローであってもコントロールが良ければ左打者には打たれない、と語っていた[28]
  • 敗戦数が少なく、別所・中尾碩志安原達佳などがいた当時の巨人投手陣の中では最も安定度の高い投手であった。
  • チーム創成期の広島カープに滅法相性がよく、18連勝の後1敗を挟んでさらに12連勝、7年間で41勝3敗、防御率0.93の記録が残っている[28]

人物

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  • 筋骨隆々の力持ちで、金太郎あるいはキングコングのイメージから、二軍時代につけられたニックネームの「キンさん」と巨人OBの間では呼ばれていた[29]
  • 評論家三宅大輔は、真面目で、勤勉で、熱心で、不言実行派で、そして慢心しないという、野球選手として最も望ましい性格と評した[30]
  • いつも笑顔の優しい性格で、エースでありながら驕ったところがなく、他の選手との距離が無かった[6]。晩年は不調になると自ら志願して二軍に行ったが、元エースであったことに拘らず、多摩川で若手選手相手に打撃投手ノッカーを務めていたという[18]

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1950 巨人 15 11 5 0 0 4 4 -- -- .500 356 85.0 71 3 39 -- 0 44 1 0 41 35 3.71 1.29
1951 29 14 3 0 0 11 4 -- -- .733 556 137.2 114 11 43 -- 3 51 1 3 44 37 2.41 1.14
1952 40 24 9 4 2 17 8 -- -- .680 827 207.1 158 10 51 -- 4 120 2 1 78 52 2.25 1.01
1953 43 29 22 3 4 27 6 -- -- .818 1076 281.1 199 13 63 -- 1 173 1 1 65 58 1.85 0.93
1954 48 30 17 5 4 21 15 -- -- .583 1081 278.2 202 13 62 -- 9 199 0 0 63 52 1.68 0.95
1955 42 34 25 7 3 30 6 -- -- .833 1164 303.2 213 15 54 1 9 206 0 0 73 59 1.75 0.88
1956 29 16 6 2 1 12 7 -- -- .632 585 155.0 100 8 32 1 1 84 1 0 33 28 1.63 0.85
1957 21 10 3 2 2 5 4 -- -- .556 327 81.0 78 10 13 1 3 46 0 0 39 35 3.89 1.12
1958 12 2 0 0 0 2 1 -- -- .667 160 41.2 28 0 7 1 0 11 1 0 10 9 1.93 0.84
1960 近鉄 15 0 0 0 0 1 2 -- -- .333 86 20.1 20 3 4 0 1 14 0 0 9 9 3.98 1.18
通算:10年 294 170 90 23 16 130 57 -- -- .695 6218 1591.2 1183 86 368 4 31 948 7 5 455 374 2.11 0.97
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

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表彰

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記録

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初記録
その他の記録
  • 対同一チーム最多連勝:18、1952年10月8日から1954年9月15日の対広島カープ戦 ※当時のNPB記録(1956年に稲尾和久が22連勝で更新)、現在のセ・リーグ記録[33]
  • 1試合最多奪三振:15、1955年6月12日対大洋ホエールズ戦 ※当時のNPBタイ記録(1958年に土橋正幸が16個で更新)[34]
  • 最多連続奪三振:7、1954年9月15日対広島カープ戦 ※当時のNPBタイ記録(1967年に梶本隆夫が9個で更新)[35]

背番号

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  • 39(1949年 - 1950年)
  • 20(1951年 - 1959年、1961年)
  • 14(1960年)
  • 64(1965年 - 1968年)

登録名

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  • 大友 工(おおとも たくみ、1949年 - 1959年、1961年 - 1968年)
  • 大友 工司(おおとも こうじ、1960年)

参考文献

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脚注

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  1. ^ 『プロ野球 燃焼の瞬間』80頁
  2. ^ a b 『プロ野球 燃焼の瞬間』82頁
  3. ^ a b 『魔球伝説』222頁
  4. ^ a b c 『ジャイアンツ栄光の70年』46頁
  5. ^ 『魔球伝説-プロ野球不滅のヒーローたち』222頁
  6. ^ a b 『巨人軍の男たち』136頁
  7. ^ a b 『プロ野球 燃焼の瞬間』94頁
  8. ^ 『プロ野球 燃焼の瞬間』96頁
  9. ^ 『プロ野球 燃焼の瞬間』106頁
  10. ^ 『プロ野球 燃焼の瞬間』114頁
  11. ^ 『巨人軍の男たち』138頁
  12. ^ a b 大友工 死去|野球史 : 野球の記録で話したい
  13. ^ 『プロ野球 燃焼の瞬間』129頁
  14. ^ 『魔球伝説』225頁
  15. ^ 『プロ野球 燃焼の瞬間』132頁
  16. ^ 『プロ野球 燃焼の瞬間』133頁
  17. ^ 『プロ野球 燃焼の瞬間』134頁
  18. ^ a b 『プロ野球 燃焼の瞬間』138頁
  19. ^ 「もう一人の星野」星野秀孝さんが語る知られざる現役時代 - 中日新聞Web
  20. ^ (株)茨城テクノス | 日立金属株式会社
  21. ^ 『魔球伝説』225頁
  22. ^ 日中国交正常化による日中間の野球交流がその後の中国の野球活動へ及ぼした影響―1945年から1960年までと1972年から1989年までの両期間の野球活動の比較―
  23. ^ 『プロ野球人名事典』91頁
  24. ^ a b c d コラム:87歳の意志(2012/3/19) スポーツ千夜一夜:時事ドットコム
  25. ^ “元巨人投手の大友工さん死去=88歳、55年に30勝”. スポーツナビ (Yahoo!). (2013年4月13日). オリジナルの2013年4月13日時点におけるアーカイブ。. https://megalodon.jp/2013-0418-1025-45/sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/baseball/headlines/article/20130413-00000000-jij 2013年4月13日閲覧。 
  26. ^ 『プロ野球 燃焼の瞬間』125頁
  27. ^ 『魔球伝説』220頁
  28. ^ a b 『プロ野球 燃焼の瞬間』109頁
  29. ^ 『魔球伝説』223頁
  30. ^ 三宅大輔「快刀乱麻 大友のピッチング」『ベースボールマガジン』昭和30年8月号
  31. ^ 『魔球伝説』224頁
  32. ^ スポーツニッポン関西版2014年8月2日付3面
  33. ^ 『プロ野球記録大鑑』838頁
  34. ^ 『プロ野球記録大鑑』680頁
  35. ^ 『プロ野球記録大鑑』684頁

関連項目

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外部リンク

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