大炊御門師経
『天子摂関御影』 | |
時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代中期 |
生誕 | 安元元年(1175年) |
死没 | 正元元年8月15日(1259年9月3日) |
改名 | 師経→顕空(法名) |
官位 | 正二位、右大臣 |
主君 | 後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇 |
氏族 | 藤原北家大炊御門家 |
父母 |
父:藤原経宗、母:橘政光の娘 養父:藤原頼実 |
兄弟 | 藤原頼実、師経、宗源、三条実房室、藤原兼房室 |
妻 | 藤原光雅の娘 |
子 | 家嗣、忠嗣、尊経 |
大炊御門 師経(おおいのみかど もろつね)は、平安時代末期から鎌倉時代中期にかけての公卿。藤原北家大炊御門家、左大臣・藤原経宗の子。官位は右大臣・正二位。大炊御門家4代当主。
経歴
[編集]兄・藤原頼実には実子はいたが、その養子になる。元治2年(1186年)に12歳で従五位下に初叙される。その後侍従、左近衛少将、加賀権介、中宮権亮、長門権守、右近衛中将を経て、建仁2年(1202年)7月23日に従三位となり公卿に列せられる(この時右近衛中将を辞任)[1]。
建仁3年(1203年)10月24日に正三位[1]。建仁4年(1204年)1月13日に左近衛中将。元久2年(1205年)11月24日に権中納言[1]。元久3年(1206年1月17日に従二位[1]、建永2年(1207年)1月5日に正二位[1]、承元2年(1208年)7月9日に中納言[1]と土御門朝において早い期間で昇進する。承元3年(1209年)4月14日には春宮大夫となったが[1]、順徳天皇即位に際してこれを辞している[1]。
承元5年(1211年)1月18日に権大納言[1]、建保7年(1219年)3月4日に大納言[1]、承久の乱の後も貞応元年(1222年)8月13日に太政大臣に転じた西園寺公経の後任として内大臣となる[1]。元仁元年(1224年)12月25日に右大臣[1]。なお、子・家嗣も父が大納言、内大臣、右大臣に昇進した年に、それぞれ権中納言、正二位、中納言に昇進しており、嘉禄3年(1227年)4月2日に上表により右大臣を辞任して九条教実に譲った直後の4月9日には権大納言に昇進している[1]。その後は長く太政官の官職に就く事なく、既に家嗣が出家した後の建長8年(1256年)7月に出家、正元元年(1259年)8月15日に薨御。享年85。
師経の日記などは伝存していないが、紙背に「因明入正理論義纂要中 自問言同品定有性 至金名俱不極成」とある仮名書状(もとは三帖以上あったもののうち中帖のみ)が伝存し、久曽神 昇(元愛知大学学長・理事長)が『中古中世仮名書状集』(風間書房)で紹介・解説している。