大黒寺 (京都市伏見区)
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大黒寺 | |
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所在地 | 京都市伏見区鷹匠町4 |
位置 | 北緯34度56分13.2秒 東経135度45分38.9秒 / 北緯34.937000度 東経135.760806度座標: 北緯34度56分13.2秒 東経135度45分38.9秒 / 北緯34.937000度 東経135.760806度 |
山号 | 円通山 |
宗派 | 真言宗東寺派 |
本尊 | 大黒天 |
創建年 | 元和元年(1615年) |
開基 | 島津義弘 |
正式名 | 円通寺(圓通寺) |
別称 | 薩摩寺 |
札所等 |
京都六大黒天霊場(第6番札所) 伏見五福めぐり 伏見七福神 |
法人番号 | 4130005001786 |
大黒寺(だいこくじ)は、京都府京都市伏見区鷹匠町にある、真言宗東寺派の寺院である。通称は薩摩寺(さつまでら)[1]。
歴史
[編集]開創は空海[2]とも真如[3]とも伝えられる真言宗の寺で、もとは長福寺と称した。
元和元年(1615年)、薩摩藩主島津義弘が、薩摩藩邸からも近いこの寺を藩の祈祷所とすべく、伏見奉行山口駿河守に懇願したことで、寺名は薩摩の守り本尊「出世大黒天」にちなみ「大黒寺」とされ、本尊は大黒天となった。ただ、当時より一般には「薩摩寺」の通り名で呼ばれていたという。爾来、薩摩藩ゆかりの寺となる。
幕末期には志士達の密儀がたびたび寺内で行われていたという[2]。寺田屋事件の九烈士もこの地に葬られており、遺品や書・歌などが今でも寺内に保管されているほか、西郷隆盛、大久保利通らの会談の部屋もそのまま残されている[3]。また、近代になり平田靱負の墓所が移設されている。1752年から1755年に薩摩藩が担当した木曽川・長良川・揖斐川の治水工事では工事途中で流されたこと影響などもあり300万両もの巨額な費用がかかった。その責任をとって薩摩藩家老の平田靱負は自刃した[3]。
屋根瓦には、藩主島津家の家紋である丸に十字があしらわれている。
幽霊子育飴伝説がある。幽霊とは八代美津女(やしろ・みつめ)(田尻稲次郎の兄嫁)のことであり、大黒寺ではその位牌を祀っている[4]。
境内
[編集]伽藍ほか
[編集]- 本尊:秘仏の大黒天は、金張の厨子の中の小さな御仏で甲子の年に開帳(弘法大師空海の作と伝えられる)[5]。
- 脇:不動明王、毘沙門天
- 脇段:観世音菩薩
- 金運清水:霊験あらたかな水
- 西郷隆盛、大久保利通の会談の部屋、ゆかりの書や歌、肖像なども保存。
- 屋根瓦:ご本尊の大黒天を模した像と、丸に十字が入った紋。
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本尊
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門の屋根瓦と大黒像
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金運清水
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丸に十字紋の屋根瓦
墓所、札所
[編集]- 薩摩藩家老平田靱負(ゆきえ):木曽川治水工事の責任をとり、詰め腹を切った。
- 薩摩9烈士[6]:文久2年(1862年)、寺田屋事件で犠牲となった薩摩藩勤王党有馬新七等九士の墓。墓石の横にある碑文は、西郷隆盛筆。
- 天明の伏見義民の遺髪塔(文殊九助ら7名)[7]
- 京都六大黒天霊場第6番札所
- 伏見五福めぐり、伏見七福神
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平田靱負翁之墓
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伏見寺田屋殉難九烈士之墓
交通アクセス
[編集]周辺
[編集]- 金札宮
- 京都市伏見区役所
- 京都市伏見中央図書館
脚注
[編集]- ^ 竹村俊則『昭和京都名所図会』駸々堂出版株式会社、1986年、114頁。ISBN 4-397-50132-7。
- ^ a b 全日本仏教会・寺院名鑑刊行会『全国寺院名鑑 近畿篇』寺院名鑑刊行会事務局、1960年8月1日、159頁。
- ^ a b c 山本眞嗣『京都伏見歴史紀行』山川出版社、1983年9月20日、17頁。
- ^ 第46回研究発表会(12.12.20)NPO法人京都観光文化を考える会・都草
- ^ a b 石田孝喜『幕末京都史跡大辞典』杉本惇、2009年、315頁。ISBN 978-4-404-03593-6。
- ^ 尊皇派6人(有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵)死亡、2人(田中謙助・森山新五左衛門)が重傷を負い、切腹。討手(道島五郎兵衛)の9烈士である。
- ^ “御大礼記念京都府伏見町誌| 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号62”. 2019年11月23日閲覧。
- ^ 「THE 伏見」編集部編『京都を愉しむ 歴史でめぐる伏見の旅』淡交社、2015年、78頁。ISBN 9784473040428。
外部リンク
[編集]- ウィキメディア・コモンズには、大黒寺 (京都市伏見区)に関するカテゴリがあります。