太田藤太郎
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太田 藤太郎(おおた とうたろう、1889年〈明治22年〉3月10日[1] – 1973年〈昭和48年〉10月26日[1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将[1][2][3]。
人物
[編集]明治44年(1911年)、陸軍士官学校・第23期・歩兵科を卒業し、任官後弘前歩兵第31連隊 に入隊。大正14年(1925年)から山形及び秋田の諸学校で配属将校として勤務する。満州出征後の昭和12年(1937年)に陸軍歩兵大佐となり、以後、敦賀連隊区司令官、歩兵第16旅団長、新潟連隊区司令官、浦和連隊区司令官兼地区司令官、等を歴任。この間、陸軍少将まで進級した。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]。
昭和48年(1973年)卒去し新潟の起願寺に葬られた。
経歴
[編集]- 山形県東田川郡藤島村藤岡に生まれる[1]。
- 1907年(明治40年) - 山形県立荘内中学校(後の山形県立鶴岡南高等学校)卒業[1]。
- 1911年(明治44年)
- 弘前歩兵第31連隊 勤務[1]。
- 1925年(大正14年) - 山形県立鶴岡中学校 配属将校となる[1]。
- 山形高等学校 配属将校となる[1]。
- 秋田鉱山専門学校 配属将校となる[1]。
- 満州に出征する[1]。
- 1937年(昭和12年)11月 - 陸軍歩兵大佐となる[1]。
- 1938年(昭和13年)7月15日 – 敦賀連隊区司令官に就任[1][3]。
- 1942年(昭和17年)
- 1944年(昭和19年)7月14日 – 留守第2師団兵務部長[2][3]
- 1945年(昭和20年)3月31日 – 浦和連隊区司令官 兼 地区司令官に就任[1][2][3]。
- 1973年(昭和48年)10月26日 - 卒去。墓は新潟の起願寺[1]。
栄典
[編集]- 位階
- 1912年(明治45年)3月1日 - 正八位 [5]
- 1915年(大正4年)2月20日 - 従七位[6]
- 1920年(大正9年)3月20日 - 正七位[7]
- 1925年(大正14年)5月1日 - 従六位[8]
- 1930年(昭和5年)5月16日 - 正六位[9]
- 1935年(昭和10年)6月15日 - 従五位[10]
- 1940年(昭和15年)7月1日 - 正五位[11]
- 1945年(昭和20年)9月1日 - 従四位[11]
- 勲章等
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[12]
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[13]
- 1923年(大正12年)7月24日 - 勲六等瑞宝章[14]
- 1928年(昭和3年)10月16日 - 勲五等瑞宝章[15]
- 1933年(昭和8年)10月5日 - 勲四等瑞宝章[16]
- 1934年(昭和9年)4月29日 - 旭日小綬章・功四級金鵄勲章[1][2][3]・昭和六年乃至九年事変従軍記章[17]
- 1939年(昭和14年)4月13日 - 勲三等瑞宝章[18]
- 1940年(昭和15年)11月10日 - 紀元二千六百年祝典記念章[19]
- 外国勲章佩用允許
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『庄内人名辞典』 大瀬欽哉(編)
- ^ a b c d e f g h 『日本陸軍将官総覧』太平洋戦争研究会(編著)
- ^ a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧・陸軍篇』外山操(編)
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」123頁。
- ^ 『官報』第8608号「敍任及辞令」1912年3月2日。
- ^ 『官報』第765号「叙任及辞令」1915年2月22日。
- ^ 『官報』第2289号「叙任及辞令」1920年3月23日。
- ^ 『官報』第3848号「叙任及辞令」1925年6月22日。
- ^ 『官報』第1046号「叙任及辞令」1930年6月26日。
- ^ 『官報』第2539号「叙任及辞令」1935年6月21日。
- ^ a b 「陸軍少将太田藤太郎外六名叙位の件」 アジア歴史資料センター Ref.A20040428000
- ^ 『官報』第1405号・付録「辞令」1917年4月11日。
- ^ 『官報』第3089号・付録「辞令」1922年11月16日。
- ^ 『官報』第3297号「叙任及辞令」1923年7月26日。
- ^ 『官報』第547号「叙任及辞令」1928年10月20日。
- ^ 『官報』第2031号「叙任及辞令」1933年10月6日。
- ^ 『官報』第2374号・付録「辞令」1934年11月29日。
- ^ 『官報』第3683号「叙任及辞令」1939年4月18日。
- ^ 『官報』第4474号・付録「辞令二」1941年12月5日。
- ^ 『官報』第3416号・付録「辞令二」1938年5月26日。
- ^ 『官報』第3340号・付録「辞令二」1938年2月23日。
参考文献
[編集]- 『庄内人名辞典』 大瀬欽哉
- 『陸海軍将官人事総覧・陸軍篇』外山操(編)
- 『日本陸軍将官総覧』太平洋戦争研究会(編著)