宝寿院 (津島市)
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宝寿院 | |
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所在地 | 愛知県津島市神明町2 |
位置 | 北緯35度10分43.94秒 東経136度43分08.26秒 / 北緯35.1788722度 東経136.7189611度座標: 北緯35度10分43.94秒 東経136度43分08.26秒 / 北緯35.1788722度 東経136.7189611度 |
山号 | 牛頭山 |
宗派 | 真言宗智山派 |
本尊 | 薬師如来像 |
創建年 | (伝)弘仁9年(818年) |
正式名 | 牛頭山 寶壽院 |
別称 |
元神宮寺 厄除け薬師 |
札所等 |
海東西新四国八十八ヶ所 62番 尾西七福神 毘沙門天 |
文化財 |
神仏分離顛末記宥三日記 天王社本地堂鰐口 |
公式サイト | 牛頭山 宝寿院 |
法人番号 | 7180005012958 |
宝寿院(ほうじゅいん)は愛知県津島市にある真言宗智山派の寺院。山号は牛頭山。
歴史
[編集]古代から近世
[編集]寺伝によれば、弘仁9年(818年)にこの地を訪れた空海(弘法大師)が蔓延する疫病に苦しむ人々のために津島牛頭天王社(現在の津島神社)の隣に堂を設けて薬師如来像を奉って祈祷したものが始まりとされる[1][2]。江戸時代、天王社には神宮寺として垣内に本地堂が置かれ、玉垣の西に実相院・明星院・宝寿院が並び建ち、神社から離れた場所に観音坊があった[3]
近代
[編集]明治時代をむかえ、神仏分離に伴って神宮寺は全て廃されることになり、1868年(明治元年)旧暦5月から7月にかけて垣内にあった本地堂と鐘楼・宝篋印塔は破却された[4]。この際、宝寿院の住職であった宥三ら社僧の要請によって本地堂にあった本尊や経文などは実相院に一旦移されたものの、実相院・明星院の社僧が還俗を決めたことから同年8月に本地堂から移された仏像や仏画・宝器に加えて実相院・明星院の仏像なども宝寿院に移されることとなった[5]。なお、この頃すでに観音坊は無住だったため宝寿院の管理下に移された[5]。宥三はその後、神社や本地堂の本寺であった宝生院に対して本地堂の再建運動を行ったが[6]、再建は叶わなかった。
この神仏分離の経過などを記したものとして「神仏分離顛末記宥三日記」が残されており、現在は津島市指定文化財となっている。
現代
[編集]1959年(昭和34年)の伊勢湾台風で大きな被害を受け、1974年(昭和49年)に地蔵堂、1981年(昭和56年)に本堂が再建された[1]。
宝寿院旧蔵の文化財
[編集]- 旧宝寿院宝篋印塔(重要文化財)
- 貞和3年(1347年)の刻銘のある石塔。1967年(昭和42年)に所有者が変わり、名古屋市内の個人邸宅内に移築。その後、滋賀県大津市坂本本町の南善坊に再移築[7][8]。
境内
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阿吽の像(入口)
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地蔵堂
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本堂
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水子地蔵尊
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降魔成道の釈迦如来
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涅槃寂静の像
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 津島市史編さん委員会 編、『津島市史(5)』、 津島市教育委員会、発行年:1975年