コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

小林正人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小林正 (野球)から転送)
小林 正人
中日ドラゴンズ 二軍投手・育成コーチ #86
現役時代
2009年4月2日 ナゴヤ球場
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 群馬県吾妻郡嬬恋村
生年月日 (1980-08-21) 1980年8月21日(44歳)
身長
体重
181 cm
86 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 2002年 ドラフト6巡目
初出場 2005年9月1日
最終出場 2014年10月1日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
派遣歴
コーチ歴
  • 中日ドラゴンズ (2025 - )

小林 正人(こばやし まさと、1980年8月21日 - )は、群馬県吾妻郡嬬恋村出身[1]の元プロ野球選手投手)、コーチ。左投左打。

経歴

[編集]

プロ入り前

[編集]

小学3年の時に野球を始める[1]桐生第一高等学校では、3年時に第80回全国高等学校野球選手権大会に群馬代表で出場[1]。一回戦で高知の明徳義塾に5―6でサヨナラ負けした[1]。1年下に翌夏全国制覇を遂げる同じ左腕の正田樹がいた。その後、東海大学に進学する。首都大学リーグ通算11試合登板し4勝1敗。久保裕也読売ジャイアンツ)の控えで4年春までは1試合しか登板できなかったが、大学4年の秋季リーグで4勝を挙げた[1]。社会人野球入りを目指していたが入社が決まらず2002年のドラフト会議中日ドラゴンズから6巡目指名を受けて入団した[1]。背番号は30

プロ入り後

[編集]

ルーキーイヤーの2003年2004年は一軍登板なしに終わった。2004年のオフには、背番号が69へ変更された。

2005年は、9月1日の阪神タイガース戦で3年目にしてプロ初登板を果たす。しかしこの試合でいきなり桧山進次郎に頭部死球を与え危険球退場というデビューとなった。4試合に投げたうち3試合で失点してしまい、防御率は7点台に終わった。

2006年からは、当時ヘッドコーチだった森繁和の勧めでサイドスローに転向(森が西武ライオンズの現役時代に同僚だった永射保のビデオ映像を小林に渡したのがきっかけだった)、左打者へのワンポイント登板で起用されるようになった[2]。序盤、一軍に上がるものの不調から登録抹消。再昇格すると、9月9日の対広島東洋カープ戦で5球でプロ初勝利を飾った。北海道日本ハムファイターズとの日本シリーズ第3戦では小笠原道大に対してワンポイントで登板したものの初球を死球にしてしまい1球で降板、登録も抹消された。

2007年は、シーズン前半で18試合に登板したが球宴直前に二軍落ちし、その後は一軍への再浮上は叶わず、クライマックスシリーズ・セ日本シリーズでも、ベンチ入り、登板の機会は与えられなかった。シーズン終了後は久本祐一吉見一起らと共にドミニカ・ウィンターリーグに派遣され、日本一パレードには参加できなかった。

2008年は、開幕から左のワンポイントリリーフとして起用された。

2009年は、開幕二軍スタートとなった。しかしネルソン・パヤノが右肩を故障した影響で昇格した4月24日の読売ジャイアンツ戦に登板し、プロ27人目の珍記録となる一球勝利を納めた。32試合に登板して防御率0.84を記録。育成枠で同姓の小林高也が入団したため、表記は「小林」から「小林正」になった。

2011年髙橋聡文の離脱もあり1年間一軍に帯同し、キャリアハイとなる58試合に登板し防御率0.87、5勝無敗と前年に続き安定した成績を記録。左のワンポイントリリーフとして文句なしの成績を残した(当初の開幕28人枠は逃したもののエンジェルベルト・ソトが体調不良を起こしたことから鳴尾浜で行われた4月12日のウエスタン阪神戦後に一軍帯同先の横浜スタジアムに招集がかかる)。

2012年より、同姓の小林高也が巨人に移籍したため、小林姓が1人になって区別する必要はなくなったが、登録名を「小林正」(山本昌と同じく姓と名の区別無し)に変更。理由について本人は「画数の関係で」と答えている[3]

2013年からは登録名を本名に戻したため、表記は「小林」となっている。登板数は昨年より減少し、防御率は4点台であった。

2014年はシーズン初登板となった4月2日の阪神戦で1イニング6失点と打ち込まれると、試合後の二軍降格が決まった[4]。2試合の登板に終わり、9月25日に球団から現役引退が発表された[5]10月1日の対横浜DeNAベイスターズ戦(ナゴヤドーム)を引退試合として、同じくこの年限りで現役引退する鈴木義広三瀬幸司と共に登板し、6回一死に鈴木のあとを受けて登板し、ギジェルモ・モスコーソから三振を奪った。試合後のセレモニーでは「最後、このような形で終われるとは思わなかった」とあいさつした[6]

引退後

[編集]

引退後の2015年より中日球団職員となり、広報部に所属[7]。主に球団公式Twitterでのツイートを担当する[8]

2017年11月29日、中日ドラゴンズ監督付広報への職務変更が発表された[9]

2025年より、現場でコーチを務めることとなった。役職は二軍投手・育成コーチ。背番号は86

選手としての特徴

[編集]

平均球速約129km/hのボールをサイドスローから投げこむ[10]。左打者に対する内角を突くシュートと外角へ逃げるスライダーを武器としている[11]。現役時代はもっぱら左のワンポイントとして登板しており[11]、一軍初登板を果たした2005年以外で投球回数が登板数を上回ったことがない。

現役時代は阿部慎之助(巨人)との対戦で無類の強さを見せたことから「阿部キラー」と呼ばれた[12]。対戦成績は27打数4安打、打率1割4分8厘、0本塁打と圧倒[12]。阿部自身に「顔を見るのも嫌」と言わしめた[12]。なお、阿部と初めて会話したのは現役引退後であり、小林は「現役時代に接点があると、相手に情ができて投げにくくなるかもしれない。逆に自分の性格なども見抜かれるかもしれない。あくまで敵だった」と語り、プロの勝負師として徹底していた[13]。また、金本知憲(阪神)[14]前田智徳(広島)にも滅法強く、特に前田は投手・小林がコールされると自ら交代を申し出るほどであった[15]

人物

[編集]

愛称は「コバ[16]、「コバマサ[17]など。

同僚からの人望が厚く、吉見一起が選手会長を務めた2012~13年には相談役として入閣を求められることもあった[18]

高校時代から同学年の松坂大輔に憧れており、3年時の夏の甲子園では開会式で松坂に頼んで写真撮影をしている。それ以降は一切交流がなかったが、現役引退後の2018年に松坂が中日に移籍が決まると自身はチーム広報として初めて同僚となり、「今、大輔と一緒のチームにいることが、本当に嬉しい」と語っていた[19]

詳細情報

[編集]

年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
2005 中日 4 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 21 4.2 5 1 1 0 1 6 0 0 4 4 7.71 1.29
2006 23 0 0 0 0 1 0 0 3 1.000 56 12.0 10 0 5 0 3 12 0 0 8 7 5.25 1.25
2007 18 0 0 0 0 0 1 0 3 .000 49 11.1 9 1 6 2 1 9 0 0 5 3 2.38 1.32
2008 46 0 0 0 0 0 2 1 10 .000 133 28.2 33 4 12 3 3 21 1 0 18 14 4.40 1.57
2009 32 0 0 0 0 3 1 0 1 .750 82 21.1 15 1 7 0 1 19 1 0 2 2 0.84 1.03
2010 36 0 0 0 0 0 0 0 6 ---- 82 21.0 17 1 2 0 2 16 0 0 5 5 2.14 0.90
2011 58 0 0 0 0 5 0 0 18 1.000 106 31.0 10 0 7 1 2 26 0 0 4 3 0.87 0.55
2012 41 0 0 0 0 2 0 0 14 1.000 89 20.2 16 1 5 1 3 17 0 0 3 3 1.31 1.02
2013 33 0 0 0 0 0 0 0 6 ---- 67 15.1 18 0 3 0 1 7 0 0 7 7 4.11 1.37
2014 2 0 0 0 0 0 0 0 1 ---- 12 1.1 7 0 1 0 0 1 0 0 6 6 40.50 6.00
通算:10年 293 0 0 0 0 11 4 1 62 .733 697 167.1 140 9 49 7 17 134 2 0 62 54 2.90 1.13

記録

[編集]

その他の記録

[編集]

背番号

[編集]
  • 30 (2003年 - 2004年)
  • 69 (2005年 - 2014年)
  • 86(2025年 - )

登録名

[編集]
  • 小林 正人(こばやし まさと)(2003年 - 2011年、2013年 - 2014年)
  • 小林正(こばやしまさ)(2012年)

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、227ページ
  2. ^ ユニーク過ぎる変則左腕・永射保さん悼む声続々 “阿部キラー”小林氏、現役時代にコーチから「参考にしろ」”. zakzak. 2021年2月24日閲覧。
  3. ^ 中日スポーツ 2012年1月16日
  4. ^ 中日小林1回7安打6失点で2軍降格 - プロ野球ニュース”. nikkansports.com. 2023年2月18日閲覧。
  5. ^ 三瀬、小林、鈴木義投手 引退のお知らせ”. 中日ドラゴンズ (2014年9月25日). 2021年1月17日閲覧。
  6. ^ 中日の三瀬、小林、鈴木義が引退登板「本当にいい野球人生だった」」『スポーツニッポン』2014年10月1日。2021年1月17日閲覧。
  7. ^ 中日一筋12年…小林 次は「1軍広報」で仕事人ぶり発揮」『スポーツニッポン』2014年12月20日。2021年1月17日閲覧。
  8. ^ 中日ドラゴンズ公式 [@DragonsOfficial] (2015年1月26日). "はじめまして。中日ドラゴンズ広報の小林正人です。昨年まで担当していた藤野にかわりましてツイッターを担当することになりました。現役時代はたくさんのご声援ありがとうございました。より多くの方にドラゴンズを応援していただけるよう情報を発信していきたいと思いますのでよろしくお願いします。". X(旧Twitter)より2021年1月17日閲覧
  9. ^ 戦力外の野村は打撃投手 中日スタッフ発表」『日刊スポーツ』2017年11月29日。2018年1月4日閲覧。
  10. ^ 『2012プロ野球オール写真選手名鑑』日本スポーツ企画出版社、2012年、97頁。ISBN 978-4-905411-04-8 
  11. ^ a b “阿部キラー”の元中日の小林正人氏、ワンポイント禁止にNO「ワンポイントの存在が僕に生きる道を与えてくれた」 竜の黄金期支えた名リリーバーと一問一答”. スポーツ報知. 2021年2月24日閲覧。
  12. ^ a b c 【中日】元“阿部キラー”で現・球団広報の小林正人氏もG阿部の引退に「大打者がいてくれたから僕の存在価値があった」”. スポーツ報知. 2021年2月24日閲覧。
  13. ^ 中日小林広報「呼び捨てに…」燃えた阿部斬り回顧 - プロ野球番記者コラム - 野球コラム : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2021年2月24日閲覧。
  14. ^ 中日 監督付広報から異例の転身 小林正人氏が育成コーチに就任 現役時代は左のワンポイントとして金本殺しで活躍/デイリースポーツ online”. デイリースポーツ online (2024年10月30日). 2024年10月30日閲覧。
  15. ^ 野村謙二郎「変わるしかなかった」【第10話】2人の“前田”とのエピソード|carp|連載|アスリートマガジンWEB(2/3)”. アスリートマガジンWEB (2023年11月26日). 2023年11月27日閲覧。
  16. ^ 向かって来い!と呼び掛けた中日・与田監督が感じた「チームの変化」と報道で「深く伝えてほしいこと」”. ドラの巻【昇竜復活へ!CBC中日ドラゴンズ情報】. 2023年2月10日閲覧。
  17. ^ 中日小林”はまり役”異例の広報異動 - プロ野球ニュース”. nikkansports.com. 2021年6月26日閲覧。
  18. ^ 中日、一時代の終わり 引退を決めた名リリーバーたちの功績”. Full-Count(フルカウント) ― 野球ニュース・速報・コラム ― (2014年10月1日). 2021年4月7日閲覧。
  19. ^ 田中大貴コラム 『松坂世代』あの夏から21年目の延長戦 「小林正人は本当に野球が大好きで、松坂大輔が大好きな優しい男」 | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE. 2021年4月23日閲覧。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]