山根巌
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名前 | ||||||
カタカナ | ヤマネ イワオ | |||||
ラテン文字 | YAMANE Iwao | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1976年7月31日(48歳) | |||||
出身地 | 広島県広島市 | |||||
身長 | 170cm | |||||
体重 | 70kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1992-1994 | 広島皆実高校 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1995-1998 | サンフレッチェ広島 | 37 | (3) | |||
1998-2002 | 大分トリニータ[注 1] | 121 | (12) | |||
2003-2005 | 川崎フロンターレ | 47 | (1) | |||
2006-2009 | 柏レイソル | 93 | (3) | |||
2010-2011 | ツエーゲン金沢 | 44 | (0) | |||
通算 | 342 | (19) | ||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
山根 巌(やまね いわお、1976年7月31日 - )は、広島県広島市出身の元プロサッカー選手。サッカー選手の山根永遠は実子。
来歴
[編集]幼いころに小児喘息だったため体を鍛えるために小学5年からサッカーを始める[1]
二葉中を経て広島皆実高校を卒業し[注 2] 、1995年にサンフレッチェ広島に入団[注 3]。1997年、エディ・トムソン監督によって攻撃的MFとして評価され主力になる。が、翌1998年、同ポジションにアウレリオ・ヴィドマー、皆本勝弘、山口敏弘、大久保誠が加入。外国人監督とのコミュニケーション不足[2]もあって出場機会が激減。同年11月、当時広島と提携関係にあった旧JFL所属の大分トリニティへ期限付き移籍した[1]。
翌1999年にJリーグ ディビジョン2 (J2)が発足し大分が「大分トリニータ」としてJ2に参入すると、後に「最良の理解者」と呼べる関係となる[2]石崎信弘が監督に就任。大分では石崎の下で連日の猛練習でボール奪取能力が磨かれ選手として成長[2]。1999年・2000年と2年連続してJ1昇格にあと一歩と迫りながらも果たせないシーズンを過ごしたが[注 4]、2001年には大分に完全移籍。2002年シーズンは2001年シーズン途中で解任された石崎の後任として就任した小林伸二のもと、2002年11月2日の第41節・大宮アルディージャ戦(さいたま市大宮公園サッカー場)では自らのヘディングゴールで大分に悲願のJ1昇格をもたらした[1][2]。
だが「石崎さんをJ1に昇格させたい」との思いから、2003年には石崎が監督に就任していた当時J2所属の川崎フロンターレに移籍する[1][2]。結局この年の昇格は実現せず、石崎はシーズン後に川崎を辞任したが、翌2004年シーズンには関塚隆監督の元で、9月26日にJ1昇格、10月2日に優勝を決めた[注 5]。
2005年末に川崎を戦力外になり引退を決意[2]。広島のサッカースクールに就職する予定だったが、この年J2に降格した柏レイソルの監督に就任した石崎に誘われ[2]、周囲の後押しもあって柏へ移籍して現役を続行[3]。2006年、シーズン当初からボランチの不動のレギュラーとして活躍し、48試合中45試合に出場し完全復活[注 6]、チームはJ1に1年で復帰する。この年、かつて川崎でも一緒だったチームメイトの岡山一成とともに「石さんをJ1にあげよう」を合言葉に、3度目の正直で石崎をJ1にあげ、個人の目標も達成した。2008年は開幕直後に脚の肉離れを起こすなど1年を通してケガに泣かされる。同シーズン限りで石崎は辞任しJ2に降格したコンサドーレ札幌へ移ったが、山根は柏に残留した[注 7]。柏では仮面ライダーの主題歌「レッツゴー!! ライダーキック」を元にした応援コールを受けた。
2010年はJFLに昇格したばかりのツエーゲン金沢に移籍[4][注 8]。JFLへの移籍は抵抗感があったというが、広島時代の同期・久保竜彦の存在が決め手となったという[5]。2011年はコーチ兼任となり指導者としても昇格請負人としてJ2への昇格を目指したが、チーム事情もあって指導者としての手腕を満足に発揮出来ず[5]、同シーズン終了後に契約満了による退団が発表された[6]。
2012年2月に現役引退を正式発表[7]。千葉県で明光ネットワークジャパンの運営するサッカースクールの指導者として活動していた[8][9]。
2016年に金沢時代の恩師・上野展裕が監督を務め、同年にJ2に昇格したレノファ山口FCのコーチに就任した[10]。
2017年4月から12月まで柳本啓成が代表を務めるヤナギフィールドにてYF NARA TESOROのU-15の監督に就任。その年の高円宮杯奈良県予選では準優勝に導いた。
所属クラブ
[編集]- 広島市立尾長小学校
- 広島市立二葉中学校
- 広島県立広島皆実高等学校
- 1995年 - 1998年11月 サンフレッチェ広島
- 1998年11月 - 2002年 大分トリニティ/大分トリニータ
- 2001年 - 2002年 大分トリニータ
- 2003年 - 2005年 川崎フロンターレ
- 2006年 - 2009年 柏レイソル
- 2010年 - 2011年 ツエーゲン金沢 (2011年はコーチ兼任)
個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1995 | 広島 | - | J | 6 | 0 | - | 0 | 0 | 6 | 0 | |
1996 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |||
1997 | 21 | 20 | 3 | 0 | 0 | 2 | 0 | 22 | 3 | ||
1998 | 15 | 11 | 0 | 4 | 0 | - | 15 | 0 | |||
1998 | 大分 | 旧JFL | 0 | 0 | - | 3 | 2 | 3 | 2 | ||
1999 | 8 | J2 | 32 | 1 | 4 | 0 | 3 | 0 | 39 | 1 | |
2000 | 35 | 4 | 2 | 0 | 0 | 0 | 37 | 4 | |||
2001 | 28 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 29 | 3 | |||
2002 | 26 | 4 | - | 2 | 0 | 28 | 4 | ||||
2003 | 川崎 | 6 | 39 | 1 | - | 4 | 0 | 43 | 1 | ||
2004 | 5 | 0 | - | 0 | 0 | 5 | 0 | ||||
2005 | J1 | 3 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | ||
2006 | 柏 | 18 | J2 | 45 | 2 | - | 0 | 0 | 45 | 2 | |
2007 | J1 | 21 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 22 | 1 | ||
2008 | 15 | 0 | 3 | 0 | 3 | 0 | 21 | 0 | |||
2009 | 12 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | 14 | 1 | |||
2010 | 金沢 | 8 | JFL | 21 | 0 | - | 2 | 0 | 23 | 0 | |
2011 | 23 | 0 | - | 1 | 1 | 24 | 1 | ||||
通算 | 日本 | J1 | 88 | 4 | 11 | 1 | 6 | 0 | 105 | 5 | |
日本 | J2 | 210 | 15 | 7 | 0 | 9 | 0 | 226 | 15 | ||
日本 | 旧JFL | 0 | 0 | - | 3 | 2 | 3 | 2 | |||
日本 | JFL | 44 | 0 | - | 3 | 1 | 47 | 1 | |||
総通算 | 342 | 19 | 18 | 1 | 21 | 3 | 381 | 23 |
- Jリーグ初出場 1995年4月15日 Jリーグサントリーシリーズ 第9節 対ジュビロ磐田戦 (ヤマハスタジアム)
- Jリーグ初得点 1997年8月20日 Jリーグ2ndステージ 第6節 対ヴェルディ川崎戦 (広島ビッグアーチ)
指導歴
[編集]- 2011年 ツエーゲン金沢 コーチ (選手兼任)
- 2012年 - 2015年 明光ネットワークジャパンサッカースクールコーチ
- 2016年 - 2017年 レノファ山口FC コーチ
- 2018年 YF NARA TESOROU-15 コーチ
- 2019年 - 2023年 カターレ富山
- 2019年 - 2020年 トップチーム ヘッドコーチ
- 2021年 - 2023年 トップチーム コーチ
脚注
[編集]- 注記
- ^ 1998年は大分トリニティ
- ^ 広島皆実高の1年先輩に下田崇、同級生に久保田智子(TBSアナウンサー)、1年後輩に金本圭太、2年後輩に梅田直哉・為末大(2001年・2005年世界陸上400mハードル銅メダリスト)。金本とは広島→大分と一緒にプレーしている。
- ^ 同期は久保竜彦、大木勉、吉村光示、西田吉洋、萩野英明、三浦和俊、水田月満、玉田真人。
- ^ 1999年J2最終節・モンテディオ山形戦(大分市営陸上競技場)では、アディショナルタイムに山形の同点弾となるFKを与えるファールを犯している。
- ^ 1月に行われたイベント「スタートダッシュフェア」で「勝ち点100」をこの年の抱負として発表。この年のリーグ戦を独走し次の目標としてこの「勝ち点100」が残り試合での目標に採用され話題になり、最終的には勝ち点105、得点104をあげた。
- ^ 出場していない3試合はすべて累積警告によるもので、シーズンを通しての負傷欠場はなかった。
- ^ 山根は現役時代に一番悔しかった思い出として、石崎が柏で指揮を執った最後の公式戦である第88回天皇杯で準優勝に終わったことを挙げている[2]。
- ^ 石崎が指揮をとる札幌への移籍話もあったが、札幌が中山雅史の獲得を優先させたため話が流れたという[2]。
- 出典
- ^ a b c d 川崎 2003.
- ^ a b c d e f g h i 高橋 2012, p. 1.
- ^ 『山根 巌選手が移籍加入』(プレスリリース)柏レイソル、2005年12月26日 。2016年5月21日閲覧。
- ^ 『山根巌選手 移籍合意のお知らせ』(プレスリリース)ツエーゲン金沢、2010年1月12日 。2016年5月21日閲覧。
- ^ a b 高橋 2012, p. 2.
- ^ 『契約満了選手のお知らせ』(プレスリリース)ツエーゲン金沢、2011年11月28日 。2016年5月21日閲覧。
- ^ 『山根巌選手 現役引退のお知らせ』(プレスリリース)ツエーゲン金沢、2012年2月24日 。2016年5月21日閲覧。
- ^ 高橋 2012, p. 3.
- ^ “コーチ紹介・や・ら・わ行”. 明光サッカースクール. 2016年1月11日閲覧。
- ^ 『2016シーズン コーチングスタッフについて』(プレスリリース)レノファ山口FC、2016年1月11日 。2016年1月11日閲覧。
- ^ 『山根巌氏 トップチームヘッドコーチ就任のお知らせ』(プレスリリース)カターレ富山、2018年12月10日 。2018年12月10日閲覧。
参考資料
[編集]- 高橋健一 (2012年5月2日). “インタビュー 山根巌 〜縁と運、そして自負〜”. サッカーナビ. 2016年5月21日閲覧。
- “2003 vol.12 MF6/山根 巌 - F-スポット - ピックアッププレイヤー”. 川崎フロンターレ. 2016年5月21日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 山根巌 - Soccerway.com
- 山根巌 - FootballDatabase.eu
- 山根巌 - WorldFootball.net
- 山根巌 - Transfermarkt.comによる選手データ
- 山根巌 - Transfermarkt.comによる指導者データ
- 山根巌 - J.League Data Siteによる選手データ
- イワオの岩風呂 (柏公式ブログ)
- イワオのブログ (金沢公式ブログ)