嶋田章弘
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 和歌山県有田市 |
生年月日 | 1966年6月27日(58歳) |
身長 体重 |
179 cm 77 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 投手→外野手 |
プロ入り | 1984年 ドラフト1位 |
初出場 | 1985年8月3日 |
最終出場 | 1996年4月13日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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嶋田 章弘(しまだ あきひろ、1966年6月27日 - )は、和歌山県有田市[1]出身の元プロ野球選手(投手・外野手)。
実兄は元プロ野球選手(捕手)で、住友金属でのプレーを経て、章弘と同時(1985年)に阪神タイガースへ入団した嶋田宗彦[1]。宗彦とは、阪神の投手時代に公式戦でバッテリーを組んでいたほか、お互いに現役を引退してから兄弟揃って阪神球団のスコアラーを11年間務めていた(本文を参照)。
来歴・人物
[編集]プロ入り前
[編集]実兄の宗彦に続いて和歌山県立箕島高等学校へ進学すると、2年時(1983年)夏の第65回全国高等学校野球選手権大会3回戦で、津野浩を擁する高知商業を相手に吉井理人(1学年先輩)の後を受けて登板[2]。この時のチームメイトには、山下徳人(吉井と同期の右翼手)もいた。選手権の全国大会には、3年時(1984年)の第66回大会にも「右投左打のエース兼3番打者」[3]として出場。控え投手には同期の杉本正志などがいて、自身は2回戦(初戦)で取手二高の石田文樹などと投げ合ったが、チームは3対5というスコアで敗れた[2]。
左打席からの強打[3]や足の速さも当時から高く評価されていたが、1984年のNPBドラフト会議では、「投手」として阪神と広島東洋カープから1巡目で指名。指名の重複に伴う抽選の結果、阪神が章弘への独占交渉権を獲得した。さらに阪神は、夏のロザンセルスオリンピック・野球競技で日本代表チームのメンバーとして金メダルを獲得していた宗彦を4巡目で指名。いずれも、指名との交渉を経て入団に至った。ちなみに、自身は入団の当初に背番号15を着用。その一方で、章弘の控え投手だった杉本は、広島から1巡目で改めて指名された末に入団している。
現役時代
[編集]登録上は一貫して「右投左打」であったが、実際には、投手として阪神へ在籍していた時期に右打ちへ転向していた。入団の当初に指導を受けていた投手コーチから、「打者として左打席に立つ限り、(投球で使う)右肩に死球を受ける危険性がある」と指摘されたことによる[3]。
1985年には、8月3日の対読売ジャイアンツ戦で、7回表から救援投手として一軍公式戦にデビュー。4点ビハインドからの登板ながら、3イニングを被安打1の無失点に抑えた。8月26日の対ヤクルトスワローズ戦で、一軍の公式戦に初先発。この試合では、「右打者」として臨んだ第1打席で、一軍公式戦における初安打をライト前に放っている[3]。レギュラーシーズン全体では、高卒1年目ながら一軍公式戦10試合に登板。先発での登板は3試合で、9月15日の対中日ドラゴンズ戦(いずれも阪神甲子園球場)では8回まで中日打線をノーヒットノーランに抑えていた[4]が、いずれの登板でも勝敗は付かなかった。
1986年には、4月25日の対中日戦(甲子園)で宗彦との「兄弟バッテリー」が初めて実現。一軍公式戦には前年を上回る13試合に登板したものの、シーズンの途中に右肩を痛めたことを境に、未勝利のまま実戦から遠ざかった。
1988年には、アメリカで右肩の手術を受けた後に、リハビリへ専念する目的でNPBから任意引退選手として公示。後に支配下登録選手へ復帰したものの、1989年には背番号を60に変更している。
1990年に外野手へ転向[1]。これを機に、左打席でのバッティングを本格的に再開した[3]。「外野手」として正式に登録された1991年には、投手時代の1986年以来5年振りに一軍公式戦へ出場すると、27試合の出場で打率.221ながら6打点をマーク。その一方で、亀山努が右翼手として一軍で台頭した1992年には、故障の影響もあって2試合の出場にとどまった。
1993年には、亀山がシーズンの途中から故障で戦線を離脱したことを背景に、主に「2番・右翼手」として44試合にスタメンで出場。しかし、シーズンの終了後に、米崎薫臣との交換トレードで近鉄バファローズへ移籍した[1]。近鉄では背番号35を割り当てられた。
1996年のレギュラーシーズン開幕前(3月)に北村俊介との交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍。日本人の選手としては珍しく、移籍を機に背番号42を着用したが、この年限りで現役を引退した[1]。
現役引退後
[編集]1997年から2003年まで中日で先乗りスコアラーを務めた。
2004年からスコアラーとして阪神へ復帰。
2018年頃からチーフスコアラーを任されている[5][6]。ちなみに、宗彦は1992年で現役を引退してからも、ブルペン捕手やバッテリーコーチとして阪神球団に一貫して在籍。現場を離れた2012年以降[7]は、2023年に一軍のバッテリーコーチとして現場へ復帰するまで、兄弟揃ってスコアラーを務めていた[8]。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1985 | 阪神 | 10 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 107 | 25.2 | 21 | 1 | 11 | 0 | 0 | 7 | 2 | 0 | 10 | 10 | 3.51 | 1.25 |
1986 | 11 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | -- | .000 | 94 | 22.1 | 24 | 3 | 8 | 0 | 1 | 11 | 0 | 0 | 9 | 9 | 3.63 | 1.43 | |
通算:2年 | 21 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | -- | .000 | 201 | 48 | 45 | 4 | 19 | 0 | 1 | 18 | 2 | 0 | 19 | 19 | 3.56 | 1.33 |
年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1985 | 阪神 | 10 | 4 | 4 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .250 | .250 | .250 | .500 |
1986 | 11 | 4 | 4 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | .250 | .250 | .250 | .500 | |
1991 | 27 | 88 | 68 | 8 | 15 | 3 | 0 | 0 | 18 | 6 | 3 | 1 | 5 | 0 | 14 | 0 | 1 | 17 | 1 | .221 | .361 | .265 | .626 | |
1992 | 2 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1993 | 59 | 180 | 158 | 15 | 39 | 4 | 4 | 0 | 51 | 13 | 3 | 2 | 7 | 1 | 14 | 0 | 0 | 32 | 3 | .247 | .306 | .323 | .629 | |
1994 | 近鉄 | 9 | 23 | 19 | 4 | 3 | 1 | 0 | 0 | 4 | 1 | 1 | 0 | 1 | 0 | 3 | 0 | 0 | 4 | 0 | .158 | .273 | .211 | .483 |
1995 | 16 | 17 | 14 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .176 | .000 | .176 | |
1996 | 中日 | 4 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .500 | .000 | .500 |
通算:8年 | 138 | 320 | 270 | 28 | 59 | 8 | 4 | 0 | 75 | 20 | 7 | 4 | 13 | 1 | 35 | 0 | 1 | 62 | 4 | .219 | .309 | .278 | .587 |
背番号
[編集]- 15 (1985年 - 1988年)
- 60 (1989年 - 1993年)
- 35 (1994年 - 1995年)
- 42 (1996年)
脚注
[編集]- ^ a b c d e プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、270ページ
- ^ a b 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
- ^ a b c d e “【内田雅也の追球】阪神・村上「へきれき」の一打に、DH制のないセ・リーグの醍醐味が詰まっている”. スポーツニッポン. (2023年7月29日) 2023年8月2日閲覧。
- ^ 『'92プロ野球選手写真名鑑』日刊スポーツ出版社、1992年、139頁頁。
- ^ 「【虎のソナタ】残酷…裏方さん達必死の努力が…」『サンケイスポーツ』2018年4月9日、2面。2023年8月2日閲覧。
- ^ 「阪神 007シャッフルでライバル“丸裸” セ担当スコアラー全員変更」『スポーツニッポン』2019年1月7日。2023年8月2日閲覧。
- ^ "コーチのフロントへの転任について" (Press release). 阪神タイガース. 2 November 2011. 2023年8月2日閲覧。
- ^ "嶋田バッテリーコーチ、馬場内野守備走塁コーチ、水口打撃コーチ就任会見" (Press release). 阪神タイガース. 22 October 2022. 2023年8月2日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 嶋田章弘 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)