念 (仏教)
ウィキペディアはオンライン百科事典であって、辞書や字引、用例集ではありません。 |
仏教における念(ねん)は、以下のように多義的な意味で用いられる[1]。
仏教の瞑想法における念
[編集]サンスクリットのスムリティ(smṛti)の訳としての念は、心所(心のはたらき)の名であり、かつて経験したことを明らかに記憶して忘れないことを意味する[2]。五根の一つとしての念根、五力の一つとしての念力に数えられる[2][注釈 1]。また、単に「思い」や「想い」の意味として「念」の語を用いることもある[2]。
パーリ語の「サティ」(sati)に対応する語であり、これらの語は「意識・記憶していること」全般を広く言い表す語である[要出典]。例えば、上座部仏教圏であるスリランカなどでは、師僧が小僧(沙弥)をしつける際などに、「サティ」(気を付けなさい)という言葉を使ったりする [4]。
分類としては、念は、五位七十五法では心所有法の大地法の一つに分類され、五位百法では心所有法の別境の一つである[5]。 初期仏教における三十七道品においては、四念処の他に、五根のうちの念根、五力のうちの念力、七覚支のうちの念覚支、八正道の第7の正念などが説かれる[5]。
安那般那念(アーナパーナ・サティ)は、初期仏教以来の瞑想の導入法として説かれており、自分の呼吸に意識を向ける(あるいは呼吸を数える)という行法である。
十念とは、仏・法・僧・戒・施・天・休息・安般・身・死という10の対象に向かって想をとどめ、他の想をやめて心を動乱させないことをいう[2][6]。
業処とは、仏教の瞑想において観想する対象であり約40に分類されるが、その内の十随念のひとつの対象として仏(釈迦)がある(念仏#憶念)。
時間の長さ
[編集]極めて短い時間を念といい、一刹那、または60刹那、または90刹那などを一念とする[2]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]