扶律顕常
扶律顕常(ふりつけんじょう)とは、仏教、とりわけ天台宗や日蓮宗などの法華一乗の立場から、『涅槃経』を指した語をいう。戒律を扶(たす)け仏性の常住をあらわす、という意味。扶律談常(ふりつだんじょう)あるいは扶律説常(ふりつせつじょう)ともいう。天台大師智顗が判じたことに由来する。
釈迦仏の入滅後の末世において、悪比丘が横行し戒律を破り、「如来は無常なり」などという誤解を生じさせんがために、戒律の必要性を説き仏性の常住を説いたのが『涅槃経』であるという。また方便として隔歴(かくれき)あるいは歴劫(りゃっこう)修行を説いて戒律などを守るように扶け、(『法華経』で既に説いた)仏性の常住不滅を聞いても、自分は仏と同じであるという邪見に堕ちないようにした教えが『涅槃経』である、という。
日蓮は『釈迦一代五時継図』において、次のように述べている。
この涅槃経は一日一夜の説三蔵教通教別教円教を明す、または醍醐味とも名く、釈尊拘尸那城力士生地阿利羅跋提河沙羅雙樹の間に於て二月十五日の晨朝面門より種種の光を放ち給う十二由旬の内十方の大衆を集めて涅槃経を説き給う即ち三十六の涅槃経旧訳の四十の涅槃経なり、像法決疑経を以て結経と為す、また捃拾教と名づけ、また扶律顕常と云う、化儀は漸部化法は四教なり法華の時猶未解の輩有り更に後番五味を以て余残の機を調熟し給う、涅槃の時四教の機同く仏性を見る秋収冬蔵の如し、唯四機有り倶に常住を知る故に法華と合して同醍醐味と為すなり、凡そ一往此くの如く配立すと雖も万差の機縁に随つて時節の長短不同なり或は華厳の時長は涅槃の時に至る。
— 『釈迦一代五時継図』
上記の内容から、日蓮を本仏とする宗派では、『涅槃経』は『法華経』に説く仏性常住の理という命をたすける重宝とする。これを贖命重宝という。
また、これに関連して、最澄撰といわれる(偽撰とも)『末法燈明記』の
末法には、ただ名字(みょうじ)の比丘のみあり。この名字を世の真宝となして、さらに福田なし。末法の中に持戒の者有るも、すでにこれ怪異なり。市に虎有るが如し。これ誰か信ずべきや。
— 『末法燈明記』
がよく引用される。
日蓮を本仏とする宗派では「末法無戒」を説き、末法における僧侶は無戒である、としている。ただしこの文章は、日蓮が「名字即菩提」などと、「名字」の語義に注目し「煩悩則菩提」などと同じく、「名字即(初めて正法を聞いて一切の法はみな仏説であると覚る位)」による転換を指し示したもので、単なる戒律を否定したものではない、あるいは「末法無戒」とは釈尊の法や戒律が末法では通用しないので、本仏である日蓮が明かした金剛宝器戒こそが末法に於ける戒律である、等々さまざまな説を生むきっかけとなった。
したがって、これは『涅槃経』における戒律や仏性常住の記述とも関係があるので、照らしあわせて考察する必要がある。
なお、鎌倉中期に書かれた『沙石集』にもこうある。
夫。戒律ハ釈子ノ威儀。毘尼ハ仏法ノ寿命也。正法ヲ興隆スル軌則。皆律蔵ノ中ヨリ出タリ。諸宗ノ妙解ノ後。妙行ヲ立ニハ。必律儀ニヨル。勝鬘智論ノ意ニヨルニ。毘尼ハ大乗ノ学ト云リ。又涅槃ノ扶律顕常。法花ノ安楽行品、云々。
— 『沙石集』