望月充
基本情報 | |
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出身地 | 日本 静岡県富士市 |
生年月日 | 1948年10月6日 |
没年月日 | 2015年??月??日 |
身長 体重 |
181 cm 82 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1971年 ドラフト3位 |
初出場 | 1972年4月9日 |
最終出場 | 1977年10月9日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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望月 充(もちづき みつる、1948年10月6日 - 2015年[1])は静岡県富士市出身[2]のプロ野球選手(外野手)・コーチ。
経歴
[編集]進学校・静岡高では2年次の1965年、佐藤竹秀投手の控えとして春の選抜に出場。望月の登板機会は無く、準々決勝で岡山東商に敗れた[3]。1年上のチームメートに佐藤の他、小田義人、服部敏和がいた。3年次の1966年には春季中部大会でエースとして決勝に進むが、三重高の水谷孝と投げ合い完封を喫する。同年夏も県予選で敗れ、甲子園には出場できなかった。
高校卒業後の1967年に立教大学へ進学し、外野手に転向。東京六大学野球リーグでは優勝には届かなかったが、2年次の1968年秋季リーグからレギュラーとなる。1年下のエース横山忠夫を擁し、中心打者として活躍。リーグ通算63試合出場、207打数44安打、打率.213、7本塁打、20打点を記録。
大学卒業後は1971年に大昭和製紙へ入社。高校の先輩である小田、阪口正晴とクリーンアップを組んで都市対抗に出場。1回戦で今西和男(日本熱学から補強)がいた電電近畿に敗れる[4]。しかし秋の産業対抗では11打数6安打で首位打者となるなど活躍。エース加藤初の好投もあって、決勝で熊谷組を降し大昭和製紙3度目の優勝を飾り、優秀選手賞を獲得[5]。
同年には社会人ベストナイン(外野手)に選出され、ドラフト3位で阪神タイガースに入団[2]。1年目の1972年にはオープン戦で3本塁打を放つなど[6]活躍し、中村勝広(1番)と共に、ルーキーで3番で開幕スタメンを勝ちとる。その後は6番・左翼手に定着。後半戦は失速したが92試合に出場、打率.207、7本塁打の成績を挙げた。同年にはオールスターにファン投票で選出され、その後も外野手の準レギュラーとして活躍。打率は低いが、パンチ力のある打撃で左投手にも強く、左打者の多い阪神外野陣で重宝された。1976年には江夏豊と共に江本孟紀・長谷川勉・池内豊・島野育夫との交換トレードで、南海ホークスへ移籍。移籍後は故障もあってあまり出場機会が無く、1977年限りで現役を引退。
引退後は南海→ダイエーでスコアラーなどを務め、阪神時代の同僚・田淵幸一監督時代には一軍守備・走塁コーチ(1990年)、二軍守備・走塁コーチ(1991年 - 1992年)を務めた[7]。 コーチ退任後もチームスタッフ・スコアラーを歴任し、2000年にはシドニーオリンピック野球日本代表対策のスコアラーとして派遣される。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1972 | 阪神 | 92 | 255 | 232 | 22 | 48 | 12 | 0 | 7 | 81 | 21 | 1 | 1 | 3 | 2 | 15 | 1 | 3 | 36 | 4 | .207 | .262 | .349 | .611 |
1973 | 95 | 331 | 294 | 27 | 63 | 8 | 2 | 7 | 96 | 25 | 3 | 3 | 7 | 1 | 22 | 1 | 7 | 48 | 5 | .214 | .284 | .327 | .610 | |
1974 | 88 | 273 | 251 | 20 | 58 | 11 | 2 | 9 | 100 | 32 | 0 | 0 | 4 | 0 | 11 | 0 | 7 | 38 | 7 | .231 | .283 | .398 | .681 | |
1975 | 76 | 169 | 154 | 9 | 33 | 6 | 1 | 4 | 53 | 12 | 0 | 1 | 1 | 1 | 10 | 3 | 3 | 31 | 1 | .214 | .274 | .344 | .618 | |
1976 | 南海 | 33 | 80 | 72 | 4 | 12 | 2 | 0 | 3 | 23 | 9 | 1 | 0 | 1 | 0 | 5 | 0 | 2 | 19 | 1 | .167 | .241 | .319 | .560 |
1977 | 14 | 25 | 22 | 1 | 2 | 2 | 0 | 0 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 1 | 8 | 1 | .091 | .200 | .182 | .382 | |
通算:6年 | 398 | 1133 | 1025 | 83 | 216 | 41 | 5 | 30 | 357 | 100 | 5 | 5 | 16 | 4 | 65 | 5 | 23 | 180 | 19 | .211 | .272 | .348 | .620 |
記録
[編集]- 初記録
- 初出場・初先発出場:1972年4月9日、対中日ドラゴンズ1回戦(中日スタヂアム)、3番・左翼手として先発出場
- 初安打:同上、8回表に水谷寿伸から
- 初本塁打・初打点:1972年4月29日、対大洋ホエールズ1回戦(周南市野球場)、8回表に小谷正勝からソロ
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:1回 (1972年)
背番号
[編集]- 29 (1972年 - 1975年)
- 10 (1976年 - 1977年)
- 89 (1990年 - 1992年)
- 101 (1993年 - 1998年)
脚注
[編集]- ^ 平井隆司 阪神タイガース「黒歴史」 講談社+a新書.2016年.P8-9
- ^ a b プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、573ページ
- ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
- ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
- ^ 「日本社会人野球協会会報1971」日本社会人野球協会 1972年
- ^ “阪神は巨人に敗れ3連敗 ドラ1森下がOP戦3号も先発西純が5回5失点”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2023年3月22日) 2023年3月22日閲覧。
- ^ 『ホークス九州20年史―1989-2008 飛翔!若鷹軍団』P99