本禅寺
本禅寺 | |
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本禅寺山門 | |
所在地 | 京都府京都市上京区寺町通広小路上る北之辺町394 |
位置 | 北緯35度1分35.9秒 東経135度46分5.8秒 / 北緯35.026639度 東経135.768278度座標: 北緯35度1分35.9秒 東経135度46分5.8秒 / 北緯35.026639度 東経135.768278度 |
山号 | 光了山 |
宗派 | 法華宗陣門流 |
寺格 | 本山 |
本尊 | 三宝尊 |
創建年 | 応永13年(1406年) |
開山 | 日陣 |
中興年 | 天文9年(1540年) |
中興 | 日覚 |
正式名 | 光了山本禅寺 |
札所等 | 洛中法華21ヶ寺 |
文化財 | 寛性親王消息飜摺法華経8巻、伏見天皇宸翰消息1幅、後深草天皇宸翰消息1幅(重要文化財) |
法人番号 | 6130005002295 |
本禅寺(ほんぜんじ)は、京都市上京区にある法華宗陣門流の本山の寺院。山号は光了山。本尊は三宝尊。塔頭が三院(円龍院、詮量院、心城院)ある。
歴史
[編集]本禅寺は応永13年(1406年)、法華宗陣門流の門祖日陣によって四条堀川に創建された。日陣はもと本国寺に属したが、法兄の日伝との宗論の後、本国寺を離脱し独立した。天文5年(1536年)の法華一揆(天文法華の乱)の際は他の法華宗寺院とともに焼失し、堺に避難した。その後天文11年(1542年)に後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、堺に避難した寺々も京都に戻ったが、本禅寺はこれを2年ほどさかのぼる天文9年(1540年)に帰洛し、日覚が西陣桜井町に伽藍を再建(現・上京区智恵光院通今出川上る桜井町)[1]、後に後奈良天皇の勅願寺となった。
寺は天正19年(1591年)に豊臣秀吉の命により、現在の地に移転した。江戸時代の宝永5年(1708年)の宝永の大火、及び天明8年(1788年)の天明の大火で寺は焼失したが、その都度再建されている。天保10年(1839年)には有栖川宮の祈願所となった。現存の伽藍は嘉永5年(1852年)に再建されたものである[1]。
現在、境内はほぼ全域が月極駐車場となって貸し出されている。
境内
[編集]- 本堂 - 嘉永5年(1852年)再建。
- 庫裏
- 釈迦堂 - 日蓮の随身仏といわれる金銅釈迦如来立像(立像釈迦牟尼仏)を安置することから立像堂(りゅうぞうどう)ともいう。釈迦像は年2回、万人講(4月上旬)と御会式(おえしき)(10月13日)の時に開帳される。
- 鐘楼 - 梵鐘は豊臣秀頼が鋳造し、生国魂神社に奉納したものであり、徳川家康が大坂の陣で陣鐘として用いたものと伝え、大久保忠教(彦左衛門)の奉納とされる[1]。
- 三十番神堂 - 鎮守社。
- 円龍院 - 塔頭。
- 詮量院 - 塔頭。
- 心城院 - 塔頭。
- 山門
墓所
[編集]墓地奥に江戸時代大名であった石川氏と大久保氏の墓所が並び、正面向かって左に石川氏7名・右に大久保氏9名の墓がある。
- 石川氏(向かって左より)
氏名 | 戒名 | 生年 | 没年(享年 数え年) | 備考(官制名) |
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石川憲之 | 方圓院殿日周尊儀 | 寛永11年4月1日(1634年4月28日) | 宝永4年7月11日(1707年8月8日)(74) | (主殿頭)、石川忠総嫡孫、近江膳所藩主→伊勢亀山藩主→山城淀藩主 |
石川昌能 | 登圓院殿日頂尊霊 | 万治元年(1658年) | 天和2年4月25日(1682年6月1日)(25) | (日向守)、石川憲之長男 |
石川廉勝 | 寂智院殿日俊尊位 | 慶長9年(1604年) | 慶安3年7月8日(1650年8月5日)(47) | (弾正大弼)、石川忠総長男・憲之の父 |
石川忠総 | 本元忠総院殿日観神霊 | 天正10年(1582年) | 慶安3年12月24日(1651年2月14日)(69) | (主殿頭)、大久保忠隣次男・母は石川家成の娘。石川家成養嗣子、美濃大垣藩主→豊後日田藩主→下総佐倉藩主→近江膳所藩主 |
石川忠総室 | 忍母法林院殿僊苑 寿信大姉尊儀 | - | 慶安元年8月8日(1649年9月24日)(-) | 堀尾吉晴の娘 |
石川義孝 | 義孝院殿日意尊位 | 万治2年(1659年) | 宝永7年9月2日(1710年10月23日)(52) | (主殿頭)、石川憲之次男、山城淀藩主→伊勢亀山藩主石川家5代 |
石川勝之 | 宝性院殿空山日住尊霊 | 延宝3年(1675年) | 宝永3年1月27日(1706年3月11日)(32) | (下野守)、石川昌能長男(憲之嫡孫) |
- 大久保家(向かって左より)
氏名 | 戒名 | 生年 | 没年 | 備考(官制名) |
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大久保忠世 | 慈父了源院殿日脱霊位 | 天文元年(1532年) | 文禄3年9月15日(1594年10月28日)(63) | (相模守)、大久保忠員嫡男、相模小田原藩祖 |
大久保忠隣 | 凉池院殿道白霊位 | 天文22年(1553年) | 寛永5年6月27日(1628年7月28日)(76) | (相模守)、大久保忠世嫡男、相模小田原藩主 |
大久保忠常 | 妙法院殿日性高霊 | 天正8年(1580年) | 慶長16年10月10日(1611年11月14日)(32) | (加賀守)、大久保忠隣嫡男・石川忠総の兄、母は石川家成の娘。武蔵騎西藩主 |
大久保忠職 | 本源院殿日禅神儀 | 慶長9年(1604年) | 寛文10年4月19日(1670年6月6日)(67) | (加賀守)、大久保忠常嫡男、武蔵騎西藩主→美濃国加納藩主 →播磨国明石藩主→肥前国唐津藩主 |
大久保忠職室 | 慶光院殿日宗太姉 | - | 元禄5年9月24日(1692年11月2日)(-) | 松平忠明の娘 |
大久保忠倫 | 正眼院殿日映霊位 | - | 寛文2年10月13日(1662年11月23日)(8) | 大久保忠職次男 |
大久保新十郎 | 信了院殿日源霊位 | - | 承応2年1月4日(1653年2月1日)(4) | 大久保忠職長男 |
宇津季之 | 法常院殿日傳霊儀 | - | 万治4年1月4日(1661年2月25日)(26) | (主水)、大久保忠職三男 |
大久保忠教 | 了真院殿日清 | 永禄3年(1560年) | 寛永16年2月30日(1639年4月3日)(80) | (彦左衛門尉)、大久保忠世の弟、大久保彦左衛門 |
法脈
[編集]宗祖日蓮から、日朗(六老僧)、日印(鎌倉殿中問答の勝者)、日静(上杉氏藤原北家出身、後に除歴)、日陣(門祖)と流れる法脈である。
日陣は、京にて法論させた日伝(六条門流)の元弟子で日陣に服した日登を当寺へ置き、本成寺へ戻って布教している。
文化財
[編集]重要文化財
[編集]交通
[編集]京都御苑の清和院御門を出て、寺町通を少し北に進むと道の東側に南から、境内に「紫式部邸宅遺跡」がある廬山寺、「身代り不動」が有名な清浄華院、本禅寺の3寺が並ぶ。
総本山・本山・別院
[編集]総本山
[編集]当山以外の本山
[編集]別院
[編集]旧末寺
[編集]- 塔頭
- 円龍院
- 詮量院
- 心城院
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社、1979